ご 案 内

各作品の上映後の「トーク」には、その作品の監督やゲストにお話をうかがいます。
「海女のリャンさん」の上映には日本語字幕がつきます。
「交流会」は、ゲストの方々や参加者同士で自由に意見交換ができる場です。会場は乙丸地区公民館劇場。
5月29日(日)の「こびりタイム」(おやつ)には茶菓をご用意しています。(有料)

「モノノケを抱いて村に生きる」
 
総合プロデューサー 中谷健太郎



「映画館のない町に、映画がある」

三十年前、夏の「湯布院(劇)映画祭」を立ち上げた時の惹句だ。

今年、それをもじって言えば、

「役場も議会もない町に、村の暮らしがある」

「村の暮らし」があるならば、それを映像に記録しよう。

ゆふいん文化・記録映画祭の花道だ。

「高うはござりますけれど、花の御礼申し上げまあすッ」

昨年はNHKの「プロジェクトX」を追って、

別府出身の楢本皓青年が

「プロジェクトY・ゆふいんafterX」を完成させた。

町の若いスターたちが雪降るスクリーンの中を走った。

そして今年

「合併を拒否する町長選挙」に惨敗した事件の記録映画が、

今、仕上げの工程に入っている。

山風の中で封切られれば、

追悼の気分が盛り上がるなぁ、と思ったときに、

初日作品の主人公タカダ・ワタルさん急死の報せ。

何ということか。

交流会では町の青年たちが「マイ・ブルーヘブン」を演奏するという。

その後の展開はどうなるのか。

「科学映画の前夜」を離陸したカメラは、

チェルノブイリと済州島を飛翔して、九州・水俣に着地し、

土本典昭監督の腕にしっかりと抱きとめられた。

有明の海の底に深々と鎮もっている厖大なモノノケは、

人間が営み作り出したものだ。

村の内外を結び、支えあって生きてきた自治の仕組みを、

易々と捨て去ってしまった市町村合併よ、

内なるモノノケに向き合うときがきたぞ。

新しい時代が始まる。

 

 


タカダワタル的 

2003年 65分 アルタミラピクチャーズ 監督/タナダユキ

「タカダ・ワタル」(高田渡)が急逝しました。伝説の歌い手だった。「まだ生きていたの?」と言う人もいるほどに、老聖の面魂でしたが、享年は56歳でした。「自衛隊に入ろう」をタカダワタルが歌うと、誰もが「やめとこう」という気分になったという自由・奔放・風来の人でした。それが昨年、突然この映画で甦った。企画は湯布院映画祭ご縁の柄本明さん。監督は北九州出身の「タナダ・ユキ」。一気に駆け抜けるようなカメラの集中力がすばらしい。映画の中で歌われるテーマソングが「マイ・ブルーヘヴン」です。新進のグループが乙丸公民館劇場の交流会で哀悼を込めて、賑やかに演奏します。お愉しみに。
 
科学映画はオモシロイ。「ミクロ」な世界が「マクロ」に見える。「超速く」も「超遅く」もカメラが走る。だから、とてもシュールです。それを手づくりでコツコツとやった時代があった。戦後間もない頃の岩波映画製作所です。そこから俊才鬼才が続々続々、羽仁進、時枝俊江、土本典昭、羽田澄子、松川八洲雄、黒木和雄、東陽一…。
だから、まずは岩波科学映画に「驚きの眼」を。
サイエンスグラフィティ 科学と映像の世界
1983年 26分 岩波映画製作所 監督/掘越 慧
今日映像技術はとてつもなく進化し、人間の見る能力の限界を越えて、驚異の世界を眼前に見せてくれる。そもそも科学と映画は仲良し、共に発達してきた。この映画は、過去の傑作をたっぷり引用しながら、科学映画の発展をたどる。顕微鏡の世界、高速度・微速度撮影、コンピューターとの連動、と科学映画の手の内を一挙に明かして、科学映画を総まくりする。
SNOW CRYSTALS  雪の結晶 戦前編
1939年 13分 東宝文化映画部 指導/中谷宇吉郎
今日映像技術はとてつもなく進化し、人間の見る能力の限界を越えて、驚異の世界を眼前に見せてくれる。そもそも科学と映画は仲良し、共に発達してきた。この映画は、過去の傑作をたっぷり引用しながら、科学映画の発展をたどる。顕微鏡の世界、高速度・微速度撮影、コンピューターとの連動、と科学映画の手の内を一挙に明かして、科学映画を総まくりする。
霜の花
1948年 20分 日本映画社 指導/中谷宇吉郎
北海道大学低温科学研究所が、1948年8月にオスロで開催された国際永雪会議の資料として製作した科学映画。北国の冬は、木々は枯れ、見渡す限り色のあるものは無い、そういうところにも咲く花がある、形も小さく色もない。それが霜の花<Aニメの雪景色で始まり、独立霜と連続霜の違いや、ガラス・雲母・水晶などの板につく霜の違いも楽しい。
凸レンズ
1949年 16分 岩波映画製作所 指導/中谷宇吉郎
1949年、神田神保町の岩波書店裏に木造二階の建物が、中谷宇吉郎の科学映像の研究所となり、岩波映画製作所がスタートした。その記念すべき第一作が、本作である。科学映画の撮影には欠かせない凸レンズの性能や応用を実験的に解明、苦労に苦労を重ねて、大型暗箱で光の通過を写し取り、光線の屈折を描き、レンズのメカニズムをわかりやすく示した。
或日の沼池
1951年 25分 東宝教育映画 監督/下村兼史
或日、一羽のミサゴは、せっかくつかまえた雷魚を落としてしまった。海辺の小高い丘に棲む別名魚とり鷹のミサゴと、森の中の養魚池の雷魚の物語が始る。まるで宮沢賢治の童話のようなお話は、ちょっと残酷な結末を迎える。生物の世界の実相が、ほのぼのとしたナレーションでつづられ、見事に撮影された記録映画の傑作。
猫の散歩
1962年 30分 桜映画社 演出/大橋秀夫
我輩は猫である。空地も川もゴミでいっぱい≠ニ、野良猫の視点で、人間社会と害虫どもが平気で共存する環境衛生を風刺。高度な撮影テクニックと粘り強いスタッフワークによって、昭和30年代の東京の都会生活が活写されて、見応え充分。町内の奥さん方総出でドブ掃除をするモブシーンは、感涙必至の美しさである!
ナージャの村
1997年 118分 ポレポレタイムス社 監督/本橋成一
1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故。それから10年、放射能汚染地帯となったベラルーシ共和国のドゥヂチ村では、300世帯の家族は移住してゆき、8歳の少女のナージャたち6家族が生活をしていた。緑の大地があり、馬車に乗り、キノコを採り、歌を口ずさむユートピアのような世界。放射能汚染さえなければ…。普通に生活する人々の暮らしの四季を描いた。
海女のリャンさん
2004年 90分 桜映画社 監督/原村政樹
88歳になる在日コリアン一世リャン・イーホン(梁義憲)さんと、日本・韓国・北朝鮮に分断された7人の子供たちとの家族の歴史を描く。リャンさんは戦前からずっと済州島出身の出稼ぎ海女として、一家を支えた。その肉体は荒海に抗して屈強だけれど、日韓併合や朝鮮戦争の厳しい歴史が、リャンさんのおおらかな表情に深いシワを刻んでいる。この映画は、在日の記録映画作家であるシン・ギス(辛基秀)さんが、1966年当時のリャンさんを撮影したフイルムを基に製作された。
 
ここで第八回ゆふいん文化・記録映画祭はピークを迎える。さあ、土本監督と一緒に、人間が生み出し続けているモノノケの正体をしっかりと抱きとめよう。流麗なカメラが映し出す風景は、苦界か、浄土か、人か、神か、風が元気に村の中を渡ってゆく。
ある機関助士
1962年 37分 岩波映画製作所 監督/土本典昭
国鉄の安全さのPR映画として受注したが、いつ事故が起きてもおかしくない厳しい現実を意識的に描いた土本典昭監督の第一作。この作品は、今に至るSL映画ベストワン作品で、水戸・上野間を走る急行みちのく≠舞台に、機関士とその助士の共同作業を軸に、力感溢れるカメラワークで、疾走する列車の美しさや狭い機関室内の作業が描かれ、見どころもたっぷり。
海とお月さまたち
1981年 50分 日本記録映画研究所 監督/土本典昭
不知火海につながる八幡瀬戸の小さな漁村が舞台。ここには様々な漁がある。漁夫が狙う魚は、海の潮の動きと関係があり、潮の流れを支配するのは、日々形を変えるお月さま。永年水俣病問題を取材し続けた土本監督が、その中で見い出した海の生き物と人間と天文の強固な関係。これは、子供達の為に、ファンタジックかつユニークなタッチで描いた魚獲り映画。
不知火海
1975年 153分 青林舎 監督/土本典昭
八代海の別名。干満の差が激しい。'65年にTV作品「水俣の子は生きている」で水俣と出会った土本監督は、'71年映画『水俣−患者さんとその世界』を発表。'73年『水俣一揆』、'74年から'75年にかけての「医学としての水俣病三部作」を経て集大成作品『不知火海』が完成。患者多発地帯の海岸を静かに見つめ、まだ手のつけられてない対岸の島へもカメラは足を延ばす。
みなまた日記 甦える魂を訪ねて
2004年 100分 映画同人シネ・アソシエ 監督/土本典昭
1995年水俣病の死者の遺影を集める為に、一年間水俣に滞在した土本典昭は、日記をつけるように、心惹かれるまま、四季の美しさ、人々の祭り・喜び・祈りの姿などをカメラにおさめた。それは水俣病発見から40年目の年であった。1996年の水俣・東京展で一度だけ上映された映像をもとに、深い哲学と再生の光をまとって再編集され、魂の唄となって映画は完成した。
 
主催 ゆふいん文化・記録映画祭実行委員会
協賛 シネクラブOITA / 日本航空 / 鰍iALセールス九州支社大分支店
後援 湯布院町 / 湯布院町教育委員会 / 人材育成ゆふいん財団 / 由布院温泉観光協会 / 由布院温泉旅館組合 / 湯布院映画祭実行委員会 / 文化庁