In Katanita, Do as  Katanitanmon’s  do.
(片仁田とは当地の部落名である。)   

田舎暮し
ああなんと心地よい響きだろう。
何事も中途半端なファーマータナカが
上津江村にのこのことやって来た。
その響きとは裏腹に、どんな暮しが待っているのか。
而してその実態は?

INDEX

1 しきたり さなぼり 広辞苑によれば、『さ』は稲の意で田植えがすんだ祝いと書いてある。
みちつくり 「道を作る」とはこれまたたいそうなと思ったら、道路の草刈であった。
2 自然 せっかく田舎に住んでいるのだから、ほたる狩りのデートと洒落てみよう。
3 農的暮し 爆発 農業は爆発だ。ファーマータナカはファーマータロウ・オカモトと改名しなくてはならない。
大晦日 百姓のあわただしい年末の一風景。


しきたり編

さなぼり 広辞苑によれば、「『さなぼり』は、『さなぶり』と同義で、『さ』は稲の意で田植えがすんだ祝い」と書いてある。
山肌の緑のグラデーションが、少しずつ深みを増していく。
今年も棚田に水が張られた。
水無月の風は青く渡り、蛙の輪唱は一段と声高くなる。

田舎にいると、季節季節に、聞きなれない言葉がいくつか耳に入ってくる。
「さなぼり」もそのひとつだ。

部落の長老に、「どんな字を書いて、どんな意味なんですか?」と当初新規就農者の一人が質問したことがあったが、明確な答えは返ってこなかった。
土着の習わしとして、もう何百年(何千年?)と繰り返されてきた事実が歴然と存在するだけであり、それを何の疑いもなく、これからも綿綿と繰り返していくのだろう。

少し調べてみると、博多弁としてもあるようだし、さなぼり焼酎というものもある。
広辞苑によれば、「『さなぼり』は、『さなぶり』と同義で、『さ』は稲の意で田植えがすんだ祝い」と書いてある。
漢字は「早苗振」「早苗饗」などがあてられているるようだ。
「早苗振」は、水面に稲(早苗)を投げ入れるという意味からきていると言われ、「早苗饗」は、田植えが無事にすんだ喜びと豊作を祝ってのみんなが集まっての小宴という意味のようだ。
また、「さ」は田の神様のことで、田植えの前に田の神様が降りてきて、田植え後、再びお登りになる「さのぼり」が、「さなぶり」「さなぼり」になったという説もある。

ファーマータナカは米は作っていないので、関係ないと言ってしまえばそれまでだが、毎年参加して酒だけはしっかり飲んでいる。
今年は、青嵐に弱々しいながらも立ち向かう苗が、やがて漣み、頭を垂れるまでになるその生きとし生けるものの健気さと力強さに想いを馳せ、生半可な気持でなく酔いどれることにしよう。(2002.06.02 No.12)[INDEX]
みちつくり 「道を作る」とはこれまたたいそうなと思ったら、道路の草刈であった。
田舎にいると、季節季節に、聞きなれない言葉がいくつか耳に入ってくる。
「みちつくり」もそのひとつだ。

僕の前に道はない。
僕の後に道はできない。
ああ、自然よ、父よ。
僕をひとり立ちさせない広大な父よ。
僕から目を離さないでたまには守る事をせよ。
たまには父の気概を僕に充たせよ。
この果てしなく遠い道程のために。
この果てしなく遠い道程のために。
・・・・・・ファーマー・タ(ナ)カムラ・コウタロウ  「道程」より・・・・・・

「道を作る」とはこれまたたいそうなと思ったら、道路の草刈であった。
しかしこの言葉は、確かに哲学的命題を含有している。(全く大袈裟な話だ。)
年に少なくとも2回部落総出で朝から部落内の主要な道路の草を刈るのであった。
おもしろいことに、その「みちつくり」の数日前から、自分の農地や家の前の道は自分で前もって刈っておくのであった。
ファーマータナカも村八分になってはいけないので、
「In Katanita(片仁田・・・当地の部落名デス), Do as  Katanitanmon’s(片仁田んもん)do.」である。
それはともかく、人間は刈払機という文明の利器で得意満面だ。
それやこれやで雑草の征服は結果的に早々と終わってしまい、その後はお定まりの酒盛りとなる。

だが、植物の生命力は目を瞠るものがある。
もとはといえば、けものみちのような「径(みち)」を「路(みち)」から「道(みち)」へと人間がかってにかってかえて(勝手に刈って変えて)きたのだ。
畑だって雑草取りは、百姓と雑草とのイタチゴッコ。
油断大敵、放っておくと、あっという間に元の木阿弥になってしまう。

刈られても刈られても、コンクリートで固めても、モンサント社の除草剤を散布されても、人間が作り出す過酷な条件なんぞ平気の平左、それが自然というものであり、長いスパンでみれば、所詮「道」はできないというところが、ファーマータナカの結論である。(2002.07.18 No.18)[INDEX]


自然編

せっかく田舎に住んでいるのだから、ほたる狩りのデートと洒落てみよう。
いいのか悪いのかトマトの収量が落ちてきた。
忙しい時は、ただ単に貧乏暇なしと文句をいい、少し暇になると、出荷量が減って収入が少なくなると、御託を並べる。
(結局変わらないはのは、貧乏という事実だけだ。)

しかしこれも「すこし気持に余裕を持ちなさい。」という神様の思し召し、せっかく田舎に住んでいるのだから、ほたる狩りのデートと洒落てみよう。

国道387号線を小国方面から北上する。
途中地獄谷温泉という、最近できた露天風呂の湯煙を眺めながら、まずは、ビールを片手に、地鶏の炭火焼きに舌鼓を打ちながら、ほたるの飛行時間までの調整をする。
この辺り、熊本県小国町から大分県九重町にかけては、有名な黒川温泉はもとより山川温泉、岳湯温泉、川底温泉、壁湯温泉等、名湯が目白押しだ。
そのなかに、ほたる祭りでも有名な宝泉寺温泉がある。

実のところ宝泉寺温泉の前は結構通るのだが、中に足を踏み入れるのははじめてだ。
入ってみると、ネオンの明かりが所謂温泉街の佇まいを見せており、ほたるの光とは風情を異にするような気もする。
旅館の前の川でほたるを鑑賞できる宿もあるらしいし、外から見るだけでも、いい雰囲気の宿が点在している。
(こんなところで命の洗濯ができるようになるまで命があればよいのだが・・・)

さてほたるだが、どこにいるのであろう。

子供の頃、近所の小川(生活雑排水を流すような川であったが)には、確かにほたるが乱舞していた。
一生に40匹程食べるという、餌になるカワニナという巻貝がちゃんといたのであろう。
部屋に飛び込んできたり、掌に発光するほたるを包み込んでみたり・・・。
それが、高々数十年の間に、今住んでいる村営住宅の前の林や、農地の片隅や、山道沿いのせせらぎに数匹飛んでいるのを発見して大感激したりするようになってしまった。(身近にほたるがいるだけでも、まだよしとしよう)

ほたるは、町田川の下流から出始めて、時期によってだんだんと上流に上っていくそうだ。
したがって宿の客はマイクロバスに乗って上流に向かうのであった。
後を追いかけると、いたいた、乱舞とまではいかないが、ゲンジボタルが求愛行動である同時発光をしながら、宙を舞っていた。
連れあいとの久しぶりの仕事以外での共有時間。
バックグラウンドのセットは、同じ場所にいた若き女性達の、たぶん湯上りの浴衣と団扇と黄色い声(これは本当はいけませんぞ)・・・。

ひと夏の幻想的な夜の時は、降り出した小雨とともに幕を下ろす。(2002.06.28 No.13)[INDEX]

農的暮し編

爆発 農業は爆発だ。ファーマータナカはファーマータロウ・オカモトと改名しなくてはならない。
爆発だ。
芸術の話ではない。農業は爆発だ。
ファーマータナカはファーマータロウ・オカモトと改名しなくてはならない。

5月2日のトマトの収穫個数は、3,708個、重量は、224,330gであった。
(忙しいくせに、よく数えたり、計ったりする暇があるもんだ。)
去年の平均からすると、実に、4倍くらいの量になる。
以前にも、このコラムで書いたことがあるが、作物の開花や結実や収獲の時期は、最終的には作物自身が牛耳っており、百姓は聾桟敷におかれている。
爆発されたら、為す術はない。全てを受け入れるしかないのである。
(小生はこのことを駄犬「ひめ」から学んだ。忙しくて食事を与え忘れたことを夜中に気づいても、まるで哲学者の風貌で、文句ひとつ言わないではないか。)
もちろん小生も朝食は抜き。(実は、いつも食べさせてもらってません。)
お昼は、パートさんが休憩用にいつも持ってきてくれるおにぎりや、お惣菜や、お漬物や、バナナや餅や饅頭等(これらは実に絢爛豪華、満漢全席)を主食に、ジャンクフードをおかずにと慌ただしい食事となる。
実のところ、うちの職場は、パートさんに福利厚生してもらっている、不思議な職場なのだ。

1日は24時間という不文律があるから、どうにも間に合わないのである。
農協への出荷は午後3時までとなっており、こっぴどく叱られる。
直売所への配送を委託してあるトラック便の集配時間にも間に合わない。
ニューファーマーズファクトリー王国の王妃のイライラもピークに達する。
ニューファーマーズファクトリー王国のマーフィーの法則「全ての悪しき結果は、ファーマータナカの存在自体に起因する。」により、冷たい視線と態度、罵詈雑言の雨嵐は当然私のみに集中砲火となる。
(本当はよくやってくれてます。話をおもしろくするためにだけ書いているので、ハイ王妃。)

おまけに、決定的なのは、市場原理というやつである。

「神の見えざる手」によって、ファーマータナカの販売価格は、「自然」なレベルどころか、超「自然」なレベルにまで下落するのはどういうわけだ。
「労動が疎外」されていないのに、「剰余価値」が生まれないのはどういうわけだ。
「総需要が供給を決定」しないで、「供給」だけが一人歩きするのはどういうわけだ。
そもそも、出荷量と価格は反比例するとは、どこのどいつが決めたんだ。
アダム・スミス出て来い!マルクス出て来い!ケインズ出て来い!(経済音痴ですいません。)

F市場の市況は、2分の1となってしまった。(4分の1にならなかっただけまだかろうじて神は存在するのか?)
箱などの資材はもとより、出荷調製作業にかかわる人件費(自家労賃含む)等の経費は、当然4倍かかるのである。

こうして今年もコールデン・ウィークとやらは、極度の疲労困憊と小生への謂(いわ)れのない憎悪を内包しつつ、暗雲立ち込めるブラック・ウィークとして、情け容赦なく過ぎていくのである。(2002.06.02 No.12)[INDEX]
大晦日 百姓のあわただしい年末の一風景。
あっという間の一年。

上津江村の風景はすっかり冬ざれてしまった。
エルニーニョか、ラニーニャか、どっちが男の子か女の子知らないが、土台季節自体がおかしい。
秋が短いというか、ないのである。
ちょっと前まで野菜たちは暑さで悲鳴をあげていたというのに、今は暖房用の重油が湯水のようになくなっていく。
(重油タンクに穴が開いているか、燃料屋が2000Lといって、2000ccしか給油してないか、加温機の燃費が恐ろしく悪くなったかのいずれかだ。)
それに輪をかけて、あの親子2代のバカブッシュの手前勝手なミエミエ石油戦略のおかげで、仕入価格は鰻登りだ。
農業とは、軍需産業と同じく、アメリカのイラクに対する一挙手一投足が敏感に影響する最先端の産業なのだ。
(ただしファーマータナカが農業を営むようになってからは、今のところ悪影響しか出ていない。)

とここで、愚妻の声。
そろそろお出かけの時間だそうだ。
里帰りといえば格好がいいが、双方の親達が死にそうでないか様子を見にいかねばならない。
今年最後の痛快な時事放談で「終わりよければ、全てよし。」としようと思っていたのに、これでは頓珍漢な愚痴の言い納めにすぎなくなるではないか。
慌しい限りである。
では、又来年。いいお年を。(2002.12.31 No.15)[INDEX]