不思議のメダイの聖母と聖カタリナ・ラブレ

1806年5月2日、カタリナ(フランス式にはカトリーヌ)・ラブレはディジョンの近くの小さな村ファン・レ・ムーティエで父ピエール・ラブレと母マドレーヌ・ルイーズ・ゴンタールの十一人の子どもの九人目、二人目の娘として生まれた。カタリナが生まれたとき、六時の夕べのお告げの鐘が鳴り響いていたという。カタリナは翌日聖十字架発見の祝日に洗礼を受け、教会名簿に載せられた。洗礼を授けたのはムーティエにある有名なベネディクト会修道会のジョルジュ・ママー師だった。フランス革命の後、修道会が圧迫を受けて修道僧たちが追放されたとき、ママー師はムーティエ・サン・ジャン、ファンおよびサン・ジュストなどの村の司牧者としてその地方にとどまったのだった。彼が属していた修道院の土地はは五世紀からの古いものでフランク王国の最初のキリスト教の王クローヴィスが寄進したものだという伝説がある。フランスに、そして世界にマリアの時代を開いたカタリナ・ラブレはこのような伝統ある土地に生まれ、生まれたときにはマリアに対する天使のお告げを知らせる鐘が鳴っていた。カタリナは家族の中で洗礼名では呼ばれずに、ゾエと呼ばれていた。父のピエールは1767年生まれで、最初神学校に入ったが、神の御計画が別のところにあると考えて司祭への道を断念した。母のマドレーヌは1773年地方貴族の裕福で教養のあるゴンタール家に生まれた。ピエールが彼女に会ったとき、彼女は未亡人となった母を助けるために学校の教師をしながら、セネリーの家に住んでいた。彼らは1793年6月4日に結婚した。ピエール26歳、マドレーヌ20歳であった。革命でフランス王は1月に殺されており、10月には王妃もギロチン台に送られた、そういう時代であった。

結婚生活の最初の七年間、夫婦はマドレーヌの母と一緒にセナリーに暮らした。ここで1794年にユベール、95年にマリー・ルイーズ、96年にジャック、97年にアントワーヌが生まれた。母のマドレーヌは全部で17人の子供を産んだが、育ったのは11人だった。その一人、アレクサンドルは一歳でなくなった。マドレーヌの母親が1800年に亡くなり、ラブレ家はファン・レ・ムーティエに移った。ここで第五子シャルルが生まれ、翌年1801年にアレクサンドル、1803年ジョゼフ、1805年にピエールが生まれた。そして1806年にカタリナが生まれた。カタリナは父から鉄の意志と器用な手を、母から優しさと深い信仰心を受け継いだ。両親はその最もよい資質を聖人となるべきカタリナに与えたのだった。その後、1808年10月21日、ゾエが2歳半のとき、妹のマリー・アントワネット、愛称トニーが生まれ、1809年11月には体の弱かった弟オギュストが生まれた。

当時150人ほどの住人しかいなかったファン・レ・ムーティエ村はかつてムーティエ大修道院の土地に属しており、近くからは聖ベルナルドや聖ジャンヌ・フランソワーズ・シャンタルが出た土地であり、健康的で古風な趣きがあり、空気のきれいな村であった。パレ・ル・モニアルもそれほど遠くなく、そこではイエズスの聖心が聖マルガリタ・マリア・アラコックに御自らを現された。ラブレ家は大きな農場と広大な屋敷を持っていた。父のピエールは1811年から1815年まで村長の仕事をした。豊かではあったが贅沢ではなく、父は一日農場で働き、母は家事をこなした。オギュストが生まれた後下男が家事の手助けをした。年齢が近いゾエとトニーはよく一緒に遊んだ。十一歳年上の姉マリー・ルイーズは母の妹である叔母の家庭に子どもがいなかったために、養子として貰われて行った。1811年には長子のユベールが兵役にとられ、まもなく次男のジャックもパリに仕事を求めて家を出た。

ゾエと妹のマリー・アントワネットは母マドレーヌからとても愛された。騒がしい七人の男の子たちに取り囲まれて苦労していた母は二人の娘を愛したが、中でもゾエとマドレーヌは特別な意味で深い結びつきを持っていた。ゾエは神に対する母親の愛、敬神の念をそっくり受け取り、聖性を母から学んだ。後年親戚の従姉妹の証言によっても確認できるが、ゾエは子どもの頃から他の少年少女とは違っていた。彼女はミサのときに祭壇に向かって跪き、手を合わせ、フランスの小さな村で再現されるカルワリオの犠牲に目を凝らして真剣に祈っていた。ゾエは子どもたちのグループでリーダーシップを取るようになるが、それは遊びのリーダーシップではなく、子どもたちの間に喧嘩が起こったときにいつも仲裁役を買って出て、仲直りをさせることにおいてのリーダーシップであった。

ゾエとトニーが学齢に達したときにも、母のマドレーヌは彼女たちを学校に行かせることをいやがった。ファンの家から小学校のあるムーティエ・サン・ジャンまでは歩いても三十分で行ける距離であったから、母がいやがったのは距離の問題ではなかった。おそらくマドレーヌは上の子供たちが次々に家を離れて家族が減って行くこと、そして自分が子どもたちと暮らす時間が残り少ないことを予感していたのかもしれない。以前に学校教師をしていたマドレーヌにしては理解に苦しむ措置である。しかも母親は二人の女の子に家庭でも学校に代わる教育をしなかった。とにかく、ゾエと妹は母親と父親の愛情に囲まれて二人から存分の愛を受けた。ゾエとトニーの生涯の友情はこの時期にしっかりと育まれた。しかし、この幸せは長く続かなかった。1815年10月9日、マドレーヌ・ラブレは亡くなった。結婚して22年目、彼女は42歳、ゾエが9歳の時であった。

セナリーの叔母の家に養子に出ていた姉のマリー・ルイーズが葬儀のあと、帰って来て母親に代わって家政を切り盛りした。上の男兄弟たちは皆家を出た。これまで大家族であったラブレ家に残ったのは父ピエール、姉マリー・ルイーズ、ゾエとトニー、それに末っ子で体の弱いオギュストの五人と下女であった。下の三人の子どもたちのうち、ゾエが母親の死によって最も強いショックを受けた。母に対する愛着が一番深く、また一番感じやすい年齢だったからであろう。ゾエは霊的な糧を母親から一番多く受けていたこともあった。ゾエの心は空っぽになった。それを埋めてくれる母はもういない。この危機のときにゾエはある決定的なことを行ったのである。

両親の寝室の棚に聖母像があった。ゾエは、母親の埋葬が済んでしばらくしたある日、この寝室に一人っきりでいた。彼女は自分が一人っきりであることを確かめた後で、自分の背が届かないので、椅子に乗ってこの聖母像に両手を差し伸べた。椅子から降りないまま、ゾエはしっかりとその像を抱きしめ、厳かに自らを聖母に奉献する儀式を行ったのである。

「祝せられた聖母、今からあなたは私のお母さんです!」それだけ言って、ゾエは聖母像を元の棚に戻し、椅子から降りた。見ている人が誰かいたとすれば、それは他愛ない子どもの仕草に見えたかもしれない。しかし、そうではなかった。ゾエはそうとは知らずに、アヴィラの大聖テレジアがやはり自分の母を亡くしたときに、聖母像の前で、マリアを母とする選択を行ったのとまったく同じことをしたのだ。ゾエは神の御母マリアを自分の母として選ぶ、つまり自分を聖母に奉献したのである。これ以後、ゾエはマリアの子どもとなり、マリアがゾエの真の母となった。ゾエはマリアを一目見たいという望みを持ち、そのために絶えず祈り、その祈りが必ず聞き届けられることを確信していた。この九歳の女の子は将来神の御母を見ることをすでに知っていた。

父ピエールの妹マルグリット・ラブレはサン・レミ村で食用酢醸造をしていたアントワーヌ・ジャンロと結婚して、四人の娘がいたが、ゾエとトニーを引き取って娘たちと一緒に生活させようと申し出た。父は娘たちのためによかれと考えてこの申し出を受け入れた。

ファン村のラブレ家は父、姉のルイーズ、弟のオギュストそれに下女の四人となった。

ゾエとトニーは叔母のマルグリット、叔父アントワーヌ・ジャンロ、四人の年上の従姉妹たちに愛されて、美しい自然に恵まれた彼らの家で暮らした。ゾエがそこで暮らしたのは1816年と1817年である。サン・レミでの生活は快適で楽しかった。しかし、ゾエは聖母にした約束と母から受けた聖性への努力を忘れなかった。おまけにサン・レミには常駐の司祭がおり、教会の行事はファン村よりもたくさん行われた。しかし、ここでの生活は長く続かなかった。姉のマリー・ルイーズが教育を受け、以前から引きつけられていた愛徳姉妹会修道院への召命に応じようと決心したこと、他方でラングルでのアントワーヌ・ジャンロの仕事が忙しくなり、その加勢のため叔母のマルグリットが二人の子どもの面倒を見られなくなったことなどのために、ゾエとトニーはまた父ピエールの元に帰ることになったからである。

12歳になったばかりのゾエにとって、家政を切り盛りすることは大変なことだった。父、トニー、オギュストのほかに休みには寄宿舎からジョゼフとピエールが帰って来て、六人家族の世話をするのだ。特に弟のオギュストには手がかかった。その他に大勢の使用人もいる。昼には田圃で働く使用人たちのために昼食を用意して持って行かなければならない。大人でさえ大変な主婦の仕事がゾエの肩にかかった。もちろん彼女の召使いがいるのだが、彼女自身が召使いであった。

理由はいろいろあるのだろうが、教養のある家庭に生まれ、父母はよい教育を受け、他の兄弟姉妹もそれ相応の教育を受けたのに、不思議なことにゾエだけは例外であった。彼女は初聖体の準備のための簡単な教育を受けただけで、あとは父親の家政を助けるために大部分の時間を割き、そして祈っていた。ゾエは1818年1月25日ムーティエ・サン・ジャン村の教会で待ちに待った初聖体を受けた。その日は聖パウロの回心の祝日であり、ヴィンセンシオ会の神父たちが彼らの会の誕生の日として祝っていた日であった。ゾエはこの初聖体、すなわち生けるキリストとの出会いの日から完全に神秘家となった。彼女は毎日の山のような家事が自分の肩にかかっているにもかかわらず、祈りのために決められた時間を当てた。それはたいていは早朝であり、ミサの聖なる犠牲は彼女にとって一番大切であった。毎日ミサに与り、しばしば聖体を拝領することを望んだ。しかし、ファン村の教会は巡回教会で毎朝のミサはなかった。主日にもミサがない日があった。彼女はムーティエ・サン・ジャンにあるサン・ソヴール病院聖堂で毎朝六時に行われていたミサに与るためにどんな天候の日も朝早く起きて三十分の道を歩いた。半年間はまだ夜が明けず真っ暗な道である。この時代はまだ毎日の聖体拝領が許されていなかった。彼女が毎朝通っていたこのサン・ソヴール病院は聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ自身が1654年に創立したものだった。

ファン村の教会の中のチャペル(付属小礼拝堂)にはラブレ家の名がついていた。ラブレ家がそのチャペルの修理費の一部を負担したために、村人たちがラブレ家の名をそのチャペルに与え、家族の使用を許したのである。そこにはお告げの絵があった。ゾエが生まれたときにお告げの鐘が鳴っていたことを考え合わせても不思議である。彼女はその絵を隅々まで記憶するほどにその前で跪いて祈った。ゾエがまた教会でよく祈ったのは十字架の道行きであった。主の御受難に対するゾエの信心は禁欲に対する彼女の傾きから生まれた。彼女は毎日の激しい家事労働にもかかわらず、週に二日、金曜日と土曜日に断食をした。妹のトニーは姉のことを心配して、父にそのことを告げ、父もゾエに注意するが、彼女は断食をやめることはなかった。このことはゾエが父に対して従順でなかったということではなくて、むしろ神である父に従順であった証拠と考えられる。パリで聖母がカタリナ・ラブレに御出現になるずっと以前に、少女ゾエは救いと聖化のために祈りと償いが必要であることを理解していた。

ゾエはトニーには初聖体のときから、自分の召し出しについて打ち明けていた。しかし、それはすぐにということではなく、トニーがもう少し大きくなって家事の切り盛りができるようになってからであり、それまでにゾエはトニーに主婦の役割を果たせるように訓練するつもりだった。ゾエは毎週主日にはムーティエ・サン・ジャンの病院付属聖堂に行き、ミサに与った。彼女はそこでシスター・カタリナ・スーシアルと親しくなった。シスター・カタリナはゾエに召命のことについて何も語らなかったが、神がしかるべき時に御計画を果たされるだろうと考えていた。

ゾエは1824年十八歳のとき、不思議な夢を見た。その夢の中でゾエはあのラブレ家のチャペルでこれまで一度も見たことのない老司祭の捧げるミサに与り、ミサの奉仕をしていた。司祭は祭壇から「ドミヌス・ヴォービスクム」(主は皆さんと共に)を言うたびに、ゾエの顔を見たが、ゾエは司祭の目を見ることができなかった。ミサが終わって司祭は香部屋に帰ろうとしたが、戻って来て自分について来るように手で合図した。ゾエは非常に怖くなって教会を飛び出して逃げて来た。彼女が走りながら振り返ると、司祭はまだ香部屋の入り口に立っていて、彼女の方を見ていた。ゾエは夢の中で病気の女性を訪問していなかったことを思い出し、彼女の病室を訪ねた。部屋を入ったとたんに、さっき逃げてきたあの老司祭に面と向かって出くわした。ゾエはまたとても怖くなり、逃げ出した。そのとき初めて司祭は彼女に直接こう言った。「わが子よ、よく病人を訪ねてくれたね。あなたは今は私から逃げる。だが、後になって私のところに来ることを喜ぶだろう。神はあなたのために御計画を持っておられる。忘れてはいけない。」この言葉でゾエは目が覚め、これはどういう意味だろうと思った。不思議なことに、もう恐怖心はなく、平和と慰めと大きな幸せを感じた。ゾエにはそのときまだ理解できなかったが、この夢によって神は確実に御自分の計画をゾエにお示しになったのだ。ゾエはこの夢のことをすぐには誰にも言わなかった。一番親しかった妹のトニーにも話さなかった。四年ほど後に、これが何を意味するかを理解し始めたときに、ゾエはこの夢を聴罪司祭に話した。カタリナは後に肖像画によってこの夢の中の老司祭が愛徳修道女会の創立者である聖ヴァンサン・ド・ポル(聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ 1581-1660)であったことを知る。

ゾエは少なくとも三人の村の青年から求婚されているが、もちろん結婚する意志は毛頭なかった。父親も娘を手元に置いておきたかったので、結婚を強いることはなかった。ゾエが二十二歳になったとき、二十歳になったトニーにもう家政を任せることができると考えて、かねての念願の召命に応えるために、父親にそのことを申し出た。父のために十年以上も仕えて来たゾエは父が許してくれるものと思っていたが、父はゾエの希望を叶えることを拒否した。ゾエはがっかりしたが、相変わらず家政を切り盛りした。しかし、父と娘の関係はしっくり行っていなかった。このとき、パリにいるゾエの兄シャルルから手紙が来た。彼は二十八になっていて、パリで労働者のためにレストランを経営していた。妻が急に亡くなって、家政の助けがいるので、ゾエにパリに出てきて貰えないかという内容であった。父のピエールはシャルルを助けることと、ゾエを花のパリへやれば、修道院行きをあきらめるかもしれないと考えて、賛成した。ゾエはいつもそうであったように今度もまた父の望みに従って、パリへ出発した。ゾエに対する神の御計画は徐々に実現に向かっていた。当時のパリではニコロ・パガニーニがコンサートで人気を博し、ヴィクトル・ユーゴーの小説やアルフォンス・ラマルティーヌの詩が争って読まれていた。しかし、世間の人々にとっての魅力であったパリはゾエにとっては、シャルルの経営するレストランが喧噪に満ち、空気も悪いこともあって、息がつまりそうであった。パリにはシャルルの他に、アントワーヌ、ジョゼフ、ピエールがいた。おそらく、彼らはゾエに会ったはずである。シャティヨン・スュール・セーヌに住んでいた兄ユベールも軍務のかたわらしばしばパリに来た。彼はすでに三十五歳、レジオン・ドノール騎士勲章を授かり、シャルル国王の身辺警護隊の一員であった。兄たちは皆父ピエールの鉄の意志をよく知っていたので、ゾエの苦しい立場に同情した。そこで兄たちは父に内緒で一計を案じて、ゾエをユベールと妻の住むシャティヨンに呼ぶことにしたのだ。この話はすでに愛徳姉妹修道会に入会していた姉のマリー・ルイーズにも知らされた。ゾエは自分の召命の希望を彼女に打ち明けた。マリー・ルイーズは修練期が終わってまだ六年にしかならないのに、すでにカステルサラッサン愛徳姉妹修道院の院長をしていた。ゾエが召命の希望を果たしたい修道会はまだ決定的ではなかったが、同じ愛徳姉妹修道会であった。

マリー・ルイーズは手紙の中でゾエがしばらくの間義理の姉の下で暮らし、その間に標準フランス語や数学などを学び、また信心、愛熱そして貧しい人々への愛を深めることを勧めた。

次の段階はゾエの修道院入りについて父親の許可を得ることである。この役目は兄ユベールの妻ジャンヌ・ゴンタール・ラブレが引き受けた。彼女はゾエの母親の従姉妹で、教養があり、機知に富み、聡明であった。彼女はまた善良、親切そして信仰が厚かった。ジャンヌは若い女性のために寄宿学校を経営しており、バロワ県の貴族の家庭が教育のために娘たちをその学校に送っていた。ゾエの父ピエールはそのことを自慢にしていた。この学校は上流階級の子女のために古典、フランス史、天文学、文学、ダンスなどを教えた。

ゾエはこれまでに一度も学校に行ったことがなかった。彼女は二十三歳になって初めて学校に行くのだ。ずっと年下の女の子と共に、一年生となって、アルファベットから始めることは、ゾエにとってつらい経験だった。年下の少女たちの軽蔑や嘲笑を受けながら、ゾエはそれに耐えた。この経験の中でゾエの慰めはジャンヌの庇護といたわりであった。ジャンヌはゾエのために彼女に欠けている基礎的な知識を個人教授をして補った。ゾエにとってもっと大切だったことはジャンヌが信仰と貧しい人々に対する愛に関して大きな影響を与えたことである。ジャンヌはシャティヨンの貧しい人々に対する慈善の行為によって彼らから愛され、尊敬されていた。この仕事を通じてジャンヌはゾエに貧しい人々に対する奉仕の精神の尊さを知らせた。ゾエの愛徳姉妹修道会入会の決心を決定的にしたのは、ジャンヌが関係していたシャティヨンにおける慈善の家、オスピス・ドゥ・ラ・シャリテの活動であった。

シャティヨンに来て数週間して、ゾエは愛徳姉妹修道院の院長に話をするためオスピスに行った。応接室で待っている間に、壁に掛かっている肖像画が四年前に夢の中で会った老司祭であることに驚いた。院長が来るとすぐにゾエは尋ねた。「シスター、この神父様はどなたですか?」「どうしてですか、この方は私たちの会の創立者の聖ヴァンサン・ドゥ・ポルですよ。」ゾエは驚き、どうして尋ねたか、その理由も言わずに、用事を済ますと院長と別れた。彼女はその足で聴罪司祭のヴァンサン・プロスト師のところへ行き、四年前の夢を話した。ゾエの話を聞いて司祭はこう言った。「聖ヴァンサン・ドゥ・ポルがあなたを呼んでいるのです。彼はあなたが愛徳姉妹修道会のシスターになることを望んでいます。」

父ピエールはジャンヌの説得によってゾエの修道院入りをしぶしぶだが認めた。ゾエが家を離れてだんだんピエールもそれに慣れたことと、妹のトニーが家政の切り盛りに有能であることが分かったこともその理由の一つである。ピエールはしかしゾエに持参金を持たせることを拒否した。ゾエは悲しかったが、持参金はユベールとジャンヌが用意してくれた。ゾエは父を恨まなかった。しかし、そのことは神に奉仕するために払わなければならなかった大きな犠牲であった。

七歳から始めていなければならない教育を二十三歳になって始めてもそううまく行かない。 読み書きも十分にできないゾエの入会申し込みに対して、愛徳姉妹修道会院長に就任して一年にしかならないシスター・ジョゼフィーヌ・カニーは受け入れを躊躇した。幸い、修道会にはゾエの最も親しい友人のシスター・フランソワーズ・ヴィクトワール・セジョルがいた。

このシスターは優れた魂の持ち主で、他の霊魂を識別する超自然的賜物を与えられていて、ゾエのすばらしい魂をよく見抜いていた。それでシスターは躊躇している院長にゾエを受け入れるよう説得した。ゾエは聖ヴァンサンが愛するような、純粋で深い信仰心を持っている、自分が祈りとパリの修道院女学校に入るために必要なすべてのことをゾエに教えるから、と保証した。このようにして遂にゾエの長年の希望がやっと叶えられることになった。

愛徳姉妹修道会は1633年聖ヴァンサン・ドゥ・ポルによって創立され、修道院の囲いの中に閉じこもるのではなくて、パリの町中に出て貧しい人々、病んでいる人々に仕える修道会であった。病人に奉仕するために修道女は頑健でなければならなかった。ゾエはこの点で合格だった。

1830年1月22日、カタリナは二十三歳でシャティヨンの愛徳修道女会に志願者として受け入れられた。志願者というのは、もちろん、シスターではなく、修道誓願をする前の修練女ですらない。試験され、適性の有無を吟味される入会志望者である。シスターたちと共に起き、祈り、食事をし、レクリエーションも共にする。ゾエは台所や洗濯場でシスターの手伝いをし、縫い物をする。外出して貧しい人々の家を訪問する。そのようにして適性を見られ、自分でもこの会に向いているかどうかを見る。

ゾエはこの志願者の期間中にすべてのことを全身全霊をこめて、他の修道女に負けない信仰心と熱心さで行った。シスター・セジョルは院長に約束したように、ゾエに読み書きを教えた。ゾエは義姉ジャンヌの学校では示さなかった驚くべき進歩をここシャティヨンの修道院では示した。

三ヶ月後、4月21日、まだひんやりする朝まだき、彼女はパリに向けてシャティヨンを後にした。パリ、リュ・ドゥ・バック140番地にある愛徳姉妹修道会本部へ老齢のために帰るシスター・イノーに連れられての旅だった。ゾエはそこにあるセミナリーあるいは修練院に入った。彼女は「あなたはこれからはシスター・ラブレと呼ばれます」と修練長から言われた。

すでに3月にノートルダム司教座聖堂に安置されていた聖ヴァンサンの遺体が4月25日、日曜日に聖座の公式認可の下にパリ大司教モンシニョール・ケレンによって、シスターたちの本部に移されることになった。この華やかな行列にシスター・ラブレは参列した。

その後もヴィンセンシオ会の神父たちはオープン・ハウスを通してパリ市民に聖ヴァンサンの遺体を公開し、市民や近郊からの信者たちが崇敬のために訪れた。教皇ミサが毎朝捧げられ、午後には毎日ノヴェナの祈りが行われた。フランス国王シャルル十世も参加された。シスター・ラブレは聖ヴァンサンが創立した聖ヴィンセンシオ会と愛徳姉妹修道会のため、フランスのために心をこめて祈った。特に彼女は聖ヴァンサンに自分が何のために祈るべきかを教えてくださるよう祈った。このようにして、聖ヴァンサンはカタリナに自分の心臓を見せるのだ。

午後ノヴェナの祈りが終わると、修練女たちは二人一組になって自分たちの修道院に帰るのだが、そのとき、カタリナは修道院聖堂の中の聖ヴァンサンの右腕の骨が祀られている小さな祭壇の上方に聖ヴァンサンを、あるいは少なくとも彼の心臓を見た。カタリナはそれを夕方3回異なった外観で見た。第一回のときにはその心臓は白っぽい肉の色であった。カタリナはその色が平和、静けさ、純潔を表していると理解した。また、聖ヴァンサンの男女の二つの修道会の一致を示していると考えた。第二回目には心臓は燃えるような赤だった。カタリナはそれが心の中で燃える愛、熱意を新たにする愛徳修道会のシンボルだと理解した。第三回目には聖ヴァンサンの心臓は暗赤色の色調であった。カタリナは悲しさを感じた。それは彼女がこれから受ける試練であると同時に、フランス王の運命を暗示していた。カタリナはこのとき初めて内的な声を聞いた。「聖ヴァンサンの心臓はフランスの上に降りかかる悲しみにいたく苦しんでいます。」

さまざまの色に変化する聖ヴァンサンの心臓の幻視はカタリナがサン・ラザールから帰って来る夕方に八、九回起こった。このようにしてカタリナの幻視者、予言者としての使命が始まった。数ヶ月のうちに歴史は彼女の政変についての予言が的中したことを知る。

カタリナはまた九ヶ月の修練期間の間ずっと、御聖体のうちにわが主の可視的な現存を持つという恵みを得ていた。彼女が疑ったときにだけはこの主の現存を見ることができなかった。

1830年6月30日三位一体の主日にカタリナは御聖体におけるイエズスの現存、王としてのキリストの特別の幻視を与えられた。この日、ミサの福音の間に、主は胸に十字架を持ち、王の装束でカタリナに御出現になった。突然、キリストの王の装束が、そして十字架さえ、彼から引き剥がされ、足下で踏みにじられた。彼女はこの幻視の中に、すでに前に知っていた政変の印を、しかし、今回はもっと具体的に王が巻き込まれる政変を予知した。シャルル十世が、今見たキリストのように、王権を剥奪されるであろう。カタリナの幻視はフランス王シャルル十世の没落を予告した。

カタリナはこれらの幻視、つまり聖ヴァンサンの心臓の幻視と王たるキリストの幻視をすべて聴罪司祭のアラデル師に話したが、師がそれを無意味なこととして心から追い払うように命じた。カタリナの使命である最後の使命が迫っている。彼女がそのために選ばれ、そのために生きた聖母マリアからの使命が彼女を待っている。彼女が聖人となったのは、聖母を見たからではなく、聖母の命令を実行したからである。

1830年7月18日、聖ヴァンサン・ド・ポルの祝日の前晩、カタリナは今晩聖母マリアに会うことができるという不思議な確信に満たされて床についた。約二時間ほど眠った夜中の十一時半頃、建物の中に突然光が閃き、カタリナは子どもの声によって起こされた。その声は三度間をおいてカタリナの名を呼んだ。「シスター・ラブレ!シスター・ラブレ!シスター・ラブレ!」夢から覚めて、彼女は光の方を見た。光の方向からカタリナに呼びかける声が聞こえた。「聖堂へ来てください。聖母が待っておられます。」カタリナは全然驚かなかった。その子どもは聖母のところへ彼女を連れて行くために来たのだ。カタリナが長い間待ち、そのために祈ってきた時が来たのだと思った。誰か他の人に見つかるのではないかということだけが心配だった。しかし、子どもの声はカタリナを安心させた。「心配しなくても大丈夫です。もう十一時半です。皆眠っています。来なさい。あなたを待っていますから。」カタリナはベッドから飛び降り、修練女の着る服を落ち着いて着た。四、五歳くらいのとても美しい男の子が真っ白の服を着て、ろうそくを持って待っていた。子どもは廊下を通って広間へカタリナを連れて行った。広間があかあかと照明されていたのでカタリナはびっくりした。狭い階段を下りて、聖堂がある一階へ下りた。何処にも明かりがついていたが、彼らは誰にも会わなかった。彼女はその子どもの後について聖堂に向かった。鍵がかかっているはずの聖堂の扉は子どもが軽く手を触れただけで開き、中はこうこうと明かりがついていた。シャンデリアも祭壇にも全部明かりがともっていた。カタリナは真夜中のミサのときのようだと思った。子どもは内陣の方へ進んだ。カタリナもその後について進んだ。子どもは祭壇の階段の側に置かれた椅子のところで止まった。カタリナはそこで跪いた。

聖母はまだ椅子のところにはおられなかった。子どもはそこで静かに立って待っていた。しばらく、沈黙が支配した。突然、子どもが言った。「聖母が来られます。」同時にカタリナはきぬずれの音を聞いて、祭壇の階段を降りて来られる聖母を見た。聖母は椅子に坐られた。聖母の手にはめられた指輪の宝石からは光線が発していた。白い服の子どもはカタリナの守護の天使であった。守護の天使はカタリナにこの方が聖母だともう一度確証したが、その声はもう子どもの声ではなく、大人の声だった。カタリナは聖母の前に跪き、聖母の膝に両手を置いた。カタリナは頭をあげて聖母の目を見た。

聖母はカタリナにこう言われた。「わが子よ、神はあなたに一つの使命を与えることを望んでおられます。あなたは、あなたの指導を委ねられた方にこのことを話すまで、苦しみを受けるでしょう。あなたは反対されるでしょう。でも恐れてはいけません。恵みをいただくでしょう。信頼してあなたの内部に起こるすべてのことを話しなさい。率直に話しなさい。信頼を持ちなさい。恐れてはいけません。」

「あなたはあるものを見るでしょう。あなたが見聞きしたことを司祭に説明しなさい。祈りの中であなたは霊感を受けるでしょう。私があなたに告げること、あなたが祈りの中で理解することについて彼に説明しなさい。」

聖母は来るべき恐ろしい出来事について警告された。「今は非常に悪い時代です。フランスの上に悲しみが降りかかります。王座が覆されるでしょう。全世界があらゆる種類の悲惨によってひっくり返されるでしょう。」聖母がこう言われたとき、その顔に苦痛の色を浮かべられた。しかしながら、癒しになる言葉も仰った。「祭壇の基に来なさい。そこで、恵みを願うすべての人々に、偉大な人にも、小さな人にも、恵みが注がれるでしょう。恵みを願い求める人々に特別に恵みが注がれるでしょう。」

それから聖母は男子ヴィンセンシオ修道会と愛徳姉妹修道会について話された。「わが子よ、私はあなたたちの共同体の上に恵みを注ぐことを特に好ましく思っています。私はこの共同体をとても愛しています。修道者のうちに、会則が守られない、男女双方の共同体の中に大きな弛みがあるというような、大きな悪弊があることが私を苦しめます。あなたの上長ではないけれども、あなたの聴罪司祭にそのことを話しなさい。彼はある特別な仕方で共同体の責任を委ねられるでしょう。彼は会則をもう一度活気あるものに回復するために彼に出来ることをすべてしなければなりません。無益な読書、時間の空費、訪問から身を守るよう私のために彼に告げなさい。」聖母はまた「聖ヴィンセンシオの共同体が大きな平和を享受するでしょう、それは大きくなるでしょう」と言われた。

それから聖母はフランスと全世界に降りかかる悲惨について話し始められた。「多くの悲しみがあるでしょう。そして危険は大きいでしょう。しかし、恐れてはいけません。人々に恐れないように言いなさい。神の御保護はある特別な仕方でいつも現前するでしょう。--そして聖ヴァンサンはあなたを守るでしょう。私自身もあなたと共にいます。私はいつもあなたに目を注いでいます。多くの恵みをあなたに与えます。」

「危険が巨大になる瞬間が来るでしょう。すべてが失われたと思われるでしょう。私はあなたと共にいます。信頼を持ちなさい。あなたは私の来ることを認めるでしょう。あなたは共同体に対する神の保護、二つの共同体に対する聖ヴァンサンの保護を見るでしょう。信頼しなさい。勇気を失ってはいけません。私はあなたと共にいます。」聖母はカタリナに繰り返し、信頼、勇気、希望について話され、恐れないようにと言われた。神と聖母と聖ヴァンサンがいつも共にいてくださると約束された。

聖母は目に涙を浮かべながら、カタリナにこれから起こる悲しみと危険について語られた。「他の共同体では、聖ヴァンサンの共同体とは違って、犠牲があるでしょう....パリの聖職者の中に犠牲が出るでしょう。パリ大司教ドゥ・モンシンヨール.....」聖母は泣きながら後を続けることがおできにならなかった。「わが子よ、十字架が軽蔑され、地に投げ捨てられるでしょう。血が流れるでしょう。彼らは私たちの主の脇腹をもう一度開くでしょう。通りは血の流れができるでしょう。大司教閣下はその衣をはがれるでしょう....」聖母はそれ以上先を続けることできず、ただ次のように言われた。「わが子よ、全世界が悲しみに包まれるでしょう。」カタリナはこのことがいつ起こるのかと考えたが、直ぐに理解した。それは四十年後だ、と。四十年後の1870年にフランスで起こる政治的、社会的混乱を聖母は預言されたのだ。聖母の姿は静かに消え去った。このようにして第一回目の御出現は終わった。不思議な光で輝いている守護の天使がまたカタリナを寄宿舎まで案内した。カタリナはベッドに入ったが、その夜は眠れなかった。

聖母のこの夜の預言は、四十年後どころか、その一部が早くも一週間後に実現した。1830年7月27日、いわゆる七月革命が勃発し、パリの街路にはバリケードが築かれ、マスケット小銃隊の銃声がこだました。死者が放置され、死臭が真夏のパリの空気の中で人々をむかつかせた。ブルボン王朝のシャルル十世は王位を追われ、イギリスに逃れた。多くの司教や司祭たち、修道者たちが投獄され、殺された。教会は神聖さを汚され、御像が引き倒され、十字架が踏みつけられた。

カタリナはアラデル神父に聖母の御出現と聖母が言われたことを詳しく説明した。それは信じがたいことであった。しかし、カタリナが語ったことが実際に起こった。彼はこの若い修練女が実際に聖母の幻視者であるかどうかを判断しなければならなかった。彼はカタリナが真実を語っていることを疑うことはできなかった。しかし、どうすればよいのか?一方、カタリナにとって恐るべき日々の出来事は自分の正しさを立証するものとなった。彼女が幻想の犠牲者ではなくて、彼女の幻視の預言が実現していたからである。彼女はむしろ聖母がカタリナにこれからお与えになる使命の方が気になっていた。聖母は今度はいつ御出現になり、どんな使命を与えられるのであろうか?

第二回目の御出現は四ヶ月後の1830年11月27日土曜日、夕方五時半頃であった。聖ヨゼフの御絵がかかっている場所近くの司教席から最初のときにも聞いた絹の衣のすれる音がした後に、天の元后マリアが真っ白の衣服で御出現になった。マリアは小さな金の十字架が頂上に立てられた金の球を手に持っておられた。マリアの両手の指には三つの指輪がはめられ、それからまぶしい光線が発していた。聖母は白い地球の上に立っておられ、足下には黄色い斑点を持った緑色の蛇がいた。聖母はカタリナの方をごらんになった。聖母の唇は動いていなかったが、カタリナは一つの声を聞いた。「あなたが見ているこの球は全世界、特にフランスを、そしてまた一人ひとりの人間を表しています。」さらに声が続けて聞こえた。「これらの光線は求めている人々に私が注ぐ恵みを象徴しています。光線が発していない宝石は霊魂が求めていることを忘れている恵みです。」この瞬間にカタリナは自分が何処にいるのか、生きているのか、死んでいるのかも分からなくなるくらいの喜びに我を忘れた。聖母マリアの手にあった金の球が消え、聖母の両手が母の思いやりの仕草で大きく広げられた。聖母が指にはめておられた指輪の宝石から足下の白い地球の上に光線が流れた。そして卵の形をした枠が聖母の周りを取り囲んだ。その枠の内側に「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼むわれらのために祈り給え」という金の文字が書かれていた。カタリナの使命を明らかにする声が聞こえた。「この型に従ってメダイを刻印させなさい。そのメダイを身につける人は皆大きな恵みを受けるでしょう。メダイは首にかけなければなりません。信頼をもってメダイを身につける人には恵みがたくさんあるでしょう。」その声が消えると、その絵が反転して裏側が現れた。大きなM字の上に横棒がありその上に十字架が立っている。Mの下には二つの心臓、イエズスの聖心とマリアの御心があった。イエズスの聖心には棘の冠がかむらせられ、マリアの御心は剣で刺し貫かれていた。十二の星が全体を取り巻いていた。それで幻視は終わった。

カタリナは若い聴罪司祭のアラデル師に聖母の御出現とメダイの刻印について話をしたが、彼は懐疑的で、カタリナの想像力のなせる業だと考えた。カタリナはそのことを聖母に告げたが、聖母は忍耐して待つように言われた。「時が来れば、彼は私が望んでいる通りにするでしょう。彼は私のしもべですから、私を悲しませるようなことはしないでしょう。」

カタリナの忍耐が実を結び、アラデル師はついには同僚のエティエンヌ神父を介してパリの大司教モンシニョール・ドゥ・ケレンにメダイ刻印の許可を得るために動いた。大司教は御出現の中で刻印を求められたメダイに関して教会の信仰や信者の信心との食い違いはないと判断した。大司教は刻印を許可し、彼自身メダイ第一号を自分にほしいと要求した。大司教は聖母の無原罪のおん宿りに対するその特別の信心でよく知られていたので、彼がすぐに無原罪のおん宿りのメダイ刻印を許可したことは驚くに当たらない。

1832年6月30日に「無原罪の御宿りのメダイ」の最初の二千個が刻印された。カタリナは、アラデル師からこのメダイを受け取ったとき、こう言った。「今度はこれを広めなければなりません。」彼女はこの最初に刻印されたメダイのいくつかを保存していた。そのうちの十個はパリの愛徳姉妹修道会の保管庫に今も残されているという。メダイの普及は急速に成果を収め、そのこと自体が奇跡的であった。わずか4年後の1836年までに二百万個のメダイが作られた。教皇グレゴリオ十六世はメダイを自分の机の上の十字架の下に置いておられた。このメダイが果たした奇跡的な働きについてアラデル師が語ったところでは、このメダイによってあらゆる病気の癒し、さまざまの人々の回心、戦争、事故などからの守護が起こった。このことによってこのメダイはすでに初期の頃から正式の名称である「無原罪のおん宿りのメダイ」と呼ばれずに、「不思議のメダイ」と呼ばれていた。メダイの普及の速さが不思議であったが、それ以上にメダイが起こした奇跡の数々が不思議であった。このメダイはロザリオの威力に匹敵する威力を発揮する準秘蹟としてカトリック世界に大きなインパクトを与えた。

メダイが有名になり、世界中に広まって行ったのに、カタリナ・ラブレは聴罪司祭だけがメダイとの関係を知っているという、まったく隠れた生活を以後46年間愛徳姉妹修道会で黙々と送る。それはカタリナがアラデル師に不思議の聖母の御出現について話したまさにそのときに、アラデル師に絶対に自分の名を明かさないと約束させた結果である。彼女は教会の正式調査の際に、御出現の詳細について証言するように要請されたが、記憶喪失を理由に証言しなかった。彼女の深い謙遜と無名のままにとどまりたいというあつい望みは叶えられた。しかし、彼女の修道生活が無事平穏なものであったということはできない。その中でもカタリナにとって辛い経験は11歳年上の姉マリー・ルイーズが愛徳姉妹修道会を去ったことである。父ピエールが66歳で亡くなった年1833年にマリー・ルイーズは人間関係がもとで修道会を去って、パリで学校教師を始めた。カタリナは文通を通して姉に修道会に戻るように訴えたが、姉は聞き入れなかった。マリー・ルイーズが修道院を出たのは38歳の時であり、それから10年以上過ぎて1844年あるいは1845年に姉は修道院に戻った。姉にとってと同じくカタリナにとっても大きな試練だった。

カタリナは1835年5月1日に初誓願を立てた。翌1836年カタリナ30歳のとき、パリ郊外アンギャンのホスピスの責任を任された。農場が付属しており、鶏や乳牛の世話もできる男子老人のための施設であった。彼女はここで老人たちのために食事の準備をし、着物を繕い、レクリエーションをさせ、看病し、死に水を取った。彼女は1876年12月31日に亡くなるまで、ここで40年間心をこめて老人たちの世話をした。

彼女の死から57年後の1933年、ピオ十一世教皇のときに列福の前に遺体の発掘が行われた際、医学検査によってカタリナの眼がまだ青い色を保っていて、腐敗していなかったことが確認された。普通、眼は死後急速に暗黒色に変化し、陥没し腐敗する。カタリナの遺体はガラスの棺に納められてしばらくの間チャペルに安置された。現在は聖母が御出現になった場所に作られた祭壇の下に安置され、毎日数千人の人々が巡礼に訪れている。

カタリナは1947年に教皇ピオ十二世によって聖人の位に上げられた。

不思議のメダイによる回心の奇跡の中で最も有名なものの一つであるユダヤ人ラティスボンの例を見てみよう。

アルフォンス・トビー・ラティスボンヌはストラスブールの古い裕福なユダヤ人家庭の息子で、法律家、銀行マンであった。彼は28歳、ハンサムでユーモアにあふれた魅力的な青年でプロテスタントを含む多くの友人に恵まれていた。彼は兄のテオドールがカトリックに改宗したことを非常に憎んでいた。ラティスボンヌは1841年、ユダヤ貴族の17歳の女性と婚約した。結婚するまでの最後の独身時代の冬の休暇を過ごすためにマルタ島に行くことに決めた。彼は11月7日にストラスブールを発ち、ゆっくり旅行しながら、12月にナポリに着いた。そこで彼はユダヤ人たち、特にロスチャイルド家の人々に暖かく迎えられた。ラティスボンヌがマルタ島に行くために乗ることにしていたモンジベッロ号が予定通り出帆しなかったために、予定を変更してパレルモ経由で行くことに変更した。彼は切符の売り場を間違って、ローマ行きの切符売り場に並んでしまった。彼は気まぐれでローマ行きの切符を買い、ナポリの友人には1月20日にはナポリに戻ってくると連絡した。

ラティスボンヌは1842年1月6日ローマに着いた。ホテル・ドゥ・ロンドルに投宿し、古くからの友人ギュスターヴ・ビュッシエールに偶然に会った。ラティスボンヌはギュスターヴの兄ビュッシエール男爵にも会った。ラティスボンヌの運命を変える人物で、彼は最近カトリックへ回心したばかりだった。

ラティスボンヌはローマに来る旅行者と同じように、聖ペトロ大聖堂、コロッセウム、フォロ・ロマーノなどを見物したが退屈し、教会に対してますます嫌悪感を持った。彼は1月17日のナポリ行きの切符を予約した。

ラティスボンヌは非常に几帳面な人間だったので、ナポリに行く前にビュッシエール家を訪問し、挨拶のカードを置いて帰ろうと思った。ビュッシエール男爵の家で門番の下男がラティスボンヌの意図を誤解して主人に取り次いだ。男爵はラティスボンヌがもうすぐナポリに発つと聞いて、カトリックの話をしたが、ラティスボンヌはローマにおけるユダヤ人ゲットーの措置などを挙げてカトリック教会を非難した。議論の中で、男爵はラティスボンヌに不思議のメダイのことを話した。それはラティスボンヌがローマの迷信として毒づいていたものの一つだ。ビュッシエールは「メダイをつけ、聖母への祈りをしてみないか、もし迷信に過ぎないならば、それは君に害を与えることはできないから」と言った。ラティスボンヌは事柄の滑稽な成り行きに驚いて、おとなしく従い、あまつさえ、ビュッシエールの小さな娘がリボンにつけたメダイを首にかけることを許した。ビュッシエールはさらに聖母への祈りを書き写して返して欲しいとラティスボンヌに頼んだ。ラティスボンヌは自分の手でそれを書き写した。

ところで、ビュッシエールはパラッツォ・ボルゲーゼでの晩餐会で古くからの友人であるドゥ・ラ・フェロネー伯爵にあった。そしてラティスボンヌにメダイと祈りとを渡したことを話した。伯爵はブルボン王朝のときの外交官であったが、今は引退してローマに住んでいた。彼はラティスボンヌのために祈ることを約束し、その通りサンタ・マリア・マッジョーレのバジリカで妻と共に、聖母への祈り(メモラーレ)を20回以上唱えた。ドゥ・ラ・フェロネー伯爵は帰宅してまもなく心臓発作で亡くなった。

1月19日の夜から20日の朝にかけてラティスボンヌは平らな裸の十字架の幻視を経験し、心が落ち着かなかった。その午後彼は自分を苦しめるその幻視を振り払おうとして、最後のお別れにビュッシエール家に行こうとホテルを出た。途中でドゥ・ラ・フェローネ伯爵の葬儀の打ち合わせをするためにサン・アンドレア・デッレ・フラッテ教会に行くビュッシエール男爵に出会った。ビュッシエールがラティスボンヌに伯爵が彼のために祈ってくれたと話したので、ラティスボンヌは一緒に教会に行くことに同意した。正午過ぎに教会に着いたとき、ビュッシエールはラティスボンヌに馬車の中で待ってくれるように頼んだが、ラティスボンヌは教会の中に入って見物していると言った。教会の中で建物を見ているとき、どこからともなく一匹の大きな黒い犬が彼の歩みを阻んで威嚇するように跳び回った。一瞬の後にその犬は消え去った。教会の身廊の左側にあった守護の天使の礼拝堂から流れ出る大きな光線にラティスボンヌの目は引きつけられた。聖母マリアがメダイに表されているとおりの姿で両手を拡げた姿で御出現になり、ラティスボンヌを静かな、説得するような眼でごらんになった。彼は一瞬だけ聖母の顔を見、後はそこから恵みが流れ出ている聖母の両手しか見なかった。聖母は何もおっしゃらなかったが、ラティスボンヌは神の憐れみのすべてを理解した。それはほんの一瞬の出来事であった。タルソのサウロがダマスコの路上でキリストの光に打たれて回心したように、ラティスボンヌは不思議のメダイの聖母の光に打たれて跪き、一瞬にして回心した。ビュッシエールは香部屋から出て来て、ラティスボンヌが跪いているのを見た。ラティスボンヌは立ち上がるとき、ビュッシエールに囁いた。「ドゥ・ラ・フェローネ伯爵は私のために何という祈りをしてくれたことでしょう!」

ホテルに帰って、ラティスボンヌは司祭を呼びに行かせ、起こったすべてのことを話し、すぐに洗礼を授けてほしいと願った。その夜彼はサン・アンドレア・デッラ・フラッテ教会でドゥ・ラ・フェロネー伯爵の遺体の側で徹夜した。葬儀の後すぐ、ラティスボンヌはイエズス会士たちと共に十日間の黙想会に入り、ドゥ・ヴィッレフォルト神父から信仰における教授を受けた。

ラティスボンヌのジェズ教会での教会受け入れは国際的な重要性をもつ儀式であった。ローマにいた人々は誰も皆参列した。ローマの教皇代理パトリッチ枢機卿はラティスボンヌの誤謬放棄を受け取り、彼に洗礼、堅振、初聖体を授けた。

「ラティスボンヌのマドンナ」と彼の奇跡的な回心のニュースはローマを熱狂させ、全ヨーロッパ中を、特にラティスボンヌ、ビュッシエール、ドゥ・ラ・フェロネーが広く知られていた外交と財政の世界では急速に広まった。特に関心が集中したのは、この時まではただパリの大司教の公式認可しかなかったメダイであった。ローマの聖座はただちにラティスボンヌの回心の事情の公式調査を開始した。パトリッチ枢機卿が調査の責任者となった。1842年2月17日から6月3日までの間に25回の会合が開かれた。調査委員会の結論は「マリー・アルフォンス・ラティスボンヌの自発的かつ完全な回心における祝せられたおとめマリアの執り成しを通じて神によってなされた奇蹟を完全に認めた。」それは不思議のメダイの主要な勝利であった。

ラティスボンヌはイエズス会の神父たちと共に司祭職のための勉強に入った。そしてイエズス会で10年間を過ごした。しかしながら、中国に宣教に行きたいという彼の要求を上長が繰り返し拒んだとき、彼はイエズス会を去った。なぜなら、彼の真の使命は使徒であることであって、「中等学校第6学年の教師」であることではないと考えたからである。彼はユダヤ人の福音宣教のためのシオンの聖母修道会を創設した兄のテオドールに参加して、自分の民族への宣教師として聖地で30年以上過ごした。

ラティスボンヌは1830年に不思議のメダイを聖母から与えられた無名のシスターと話を交わそうと何度も試みたが、アラデル神父までしか行き着けなかった。アラデル神父はラティスボンヌにそのシスターが残念ながら無名のままにとどまることを強く主張したからだと告げた。教皇グレゴリオ自身非常に興味を示して、そのシスターと話したいと望んだが、カタリナの態度は変わらなかった。教皇もそれ以上強い要求をせずに、カタリナの沈黙と無名のままでいたいという望みを尊重した。

終わり

99/07/21 三上 茂

トップページ

みこころネット

作成日:99/07/21

最終更新日:99/07/25

E-メール:mikami@po.d-b.ne.jp