ファチマの聖母マリア

第三の秘密

The Fatima Crusader Issue 26, Autumn / Winter 1988より

ジョン・コロラフィ

「大勢の反キリストが現われました」(1ヨハ 2:18)

第1部:ファチマの第三の秘密、終わりの時と教会における危機

「私の使命は、もし私たちが罪のうちに頑固にとどまるならば、永遠にわたった私たちの霊魂を失う差し迫った危険の中に私たちがいるということをすべての人に示すことです。」

ファチマのシスター・ルシア

1917年7月13日、ファチマでの第3回目の御出現の間に、聖母は三人の幻視者たちに大きな秘密を打ち明けられました。秘密の存在は最初から知られていましたが、しかし秘密のその部分が公式に明らかにされたのはシスター・ルシアが第三の手記を書いた1941年7月か8月になってです。

「その秘密は三つの異なった問題から成っています。そしてそのうちの二つを明らかにします。」と彼女は書いています。私たちが見るように、最初の部分は地獄の幻視と、私たち可哀想な罪人の救いのために神によって提供された至高の救済策としてのマリアの汚れなき御心の明示です。「あなたたちは地獄を見ました。そこへは可哀想な罪人たちの霊魂が行くのです。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心への信心を確立することを望んでおられます。」*

秘密の第二の部分はソビエト・ロシアの興隆に関係しています。ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤りを世界中に広めるでしょう。「さまざまの民族が全滅させられるでしょう」と聖母は警告されました。しかし、聖母は大きな救済策をお与えになりました。すなわち、教会位階に聖母がお求めになった彼女の汚れなき御心へのロシアの奉献、すべてのキリスト教徒にお求めになった償いのための5回の土曜日です。私たちは最後に、教皇が決定の言葉を述べられ、ロシアが奉献され、そして汚れなき御心が世界において勝利するであろうということを知っています。フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテがそのいつもの洞察でもってそれを表現したように、「グーラーグ[強制収容所]かそれともキリスト教か!」です。なぜなら、その間には何も存在しないからです....

「第三の秘密」

一般に「ファチマ第三の秘密」と呼ばれているものは、1917年7月13日に聖母が三人の子どもたちにお与えになった預言的秘密の最後の部分です。私たちは「第三の秘密」よりもむしろ「秘密の第三の部分」とそれを呼ぶことの方を選びます。というのは、正確に言えば、三つの異なった部分に分けられるただ一つの秘密だけが存在するからです。秘密の最初の二つの部分はすでに長い間公共の知識となっていました。

フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテによって報告された余り知られていない事実は、1944年1月2日に聖母御自身が司教の公式的な命令に従うようにシスター・ルシアに再び御出現になったということです。聖母はシスター・ルシアが今や秘密を書き下ろすことは実際真に神の御意志であるということを説明なさいました。聖母はまたシスター・ルシアに、ダ・シルヴァ司教は教皇ピオ十二世がそうできたのと同じようにそれを直ちに読むことができるとも告げられました。祝せられたおとめはまたファチマの秘密のこの第三の部分は1960年に信徒たちに明らかにされるべきであるということをも指示なさいました。

ダ・シルヴァ司教が秘密の入っている封筒を開けることを望んでいないということを確認して、シスター・ルシアは、カノン・ガランバの言葉によれば、「彼女の死か、あるいは1960年になるか、そのいずれかのことが最初に起こる場合には、第三の秘密は開けられ、読まれるということを司教に約束させた」のです。もしダ・シルヴァ司教が最初に死んだならば、秘密はリスボンの大司教である枢機卿に打ち明けられるということが同意されました。第三の部分は公式に決して明らかにされてきませんでした。

ラッツィンガー枢機卿の証言

1960年以来ずっと、途方もない推測が秘密の内容をめぐって集中しました。その主題に関して公表されたもののほんのわずかのものだけが十分に信頼し得るものです。一般にそこには両極端があります。第一の極端は秘密をあらゆる種類の地殻の大変動や惨事と同一視する傾向のある途方もない推測です。この要素はさまざまな悪ふざけをする人々や無節操なジャーナリストたちが真のファチマのテキストとして前面へと押し出した「典拠の疑わしい」あるいは偽の秘密において特に傑出しています。もう一つの極端は「それがまだ公表されていないので、私たちは秘密については何も知らない」という言うことです。これは1917年においては真であったかもしれません。しかし、それは今日もはや真ではありません。

私たちは今、秘密の真のテキストについてかなり多くのことを知っています。ヨアキム・アロンゾ神父、フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテのようなさまざなのファチマ学者たちの仕事はこの文書に対する貴重な洞察を私たちに与えました。論証し得るものして、最も価値あるそして啓発的な証言はラッツィンガー枢機卿の証言です。というのは、彼は秘密を実際に読んだからです。1984年11月に公表された有名なインタビューの中で、イタリアのジャーナリスト、ヴィットリオ・メッソーリは枢機卿にこう尋ねました。「ラッツィンガー枢機卿、あなたは、シスター・ルシアがヨハネ教皇に送り、教皇が明きらかにすることを望まず、史料保管所に仕舞うことを命じたファチマ第三の秘密と呼ばれるものを読みましたか?」

「ええ、私はそれを読みました。」

「なぜそれは明らかにされてこなかったのですか?」

「教皇たちの判断によれば、それはキリスト者が啓示から知るべきものに何もつけ加えないからです。それは、回心への根本的な呼びかけ、歴史の絶対的な重大さ、キリスト者の、そしてそれゆえに世界の信仰と生活を脅かす危険です。そしてまた終わりの時の重要性です。」それから、枢機卿は意味ありげにつけ加えられました。

「もしそれが公表されないとすれば -- 少なくと当分の間は -- それは宗教的な預言を人騒がせなやり方と混同することを避けるためです。しかし、第三の秘密に含まれている事柄は聖書において告知されてきたことであり、他の多くのマリアの御出現によって 確証されてきたことに合致しています....」*

「回心への根本的な呼びかけ」

もちろん、ラッツィンガー枢機卿は教皇御自身がそれが明らかにされ得ると決断されないかぎり、秘密の明白な内容を明らかにすることを許されていません。しかし、みごとな遠回しの言い方を使うことによって、彼は私たちに秘密の尋常でない重大さを見ることを許しています。秘密が、教皇たちの判断において、他のマリア御出現から私たちが知っていることに、それらの知られた内容において、合致するということは重要なことです。これは第三の秘密の理解にとってその鍵の一つです。

「他のマリア御出現によって確証されている」

その書物において、枢機卿は世界至る所でのマリア御出現の報告が急激に増加していると私たちに告げておられます。これらの事例のあるものは教会の権威によって確証されました。なお他のものは見せかけのものとして退けられました。多くのものはまだ決定が出ていません。

これらのマリア御出現において繰り返されている一つの要素は、もし人類が悔い改めないならば、人類の大部分の上に落ちかかる恐るべき懲罰についての警告です。ここでは、もう一度、メッセージは楽しいものからはほど遠いものです。しかし、それは私たちがすでに福音書から知っていることを確証するものです。「あなたがたも悔い改めないと、皆同じように滅びる」(ルカ 13:3)。神は平均的な人間から異常な苦行をお求めになっているのではありません。神は比較的小さな犠牲を求めておられます。イエズスが要求なさっている主要な犠牲は神の律法に対する従順です。

秋田における恐るべき警告

ラッツィンガー枢機卿が言及しておられるマリア御出現の一つは日本、秋田の聖母です。私たちはそれが地方の司教、伊藤司教によって是認されてきたので、このメッセージを選びます。懲罰は誤り得ない言葉で予告されています。

「もし人々が悔い改めず、その生活を変えないならば、御父は人類全体の上に恐るべき懲罰を加えようとなさっています。それは大洪水よりもはるかに大きな懲罰でしょう....天から火が落ちかかり、人類の大部分を絶滅させるでしょう....」

第三の秘密は懲罰をほのめかしているのでしょうか?私たちは真正のテキストが公表されないかぎり、それが確かであると言うことはできません。しかしすでに明かされた秘密の部分は、聖母の警告が聞かれないならば、「さまざまの民族が絶滅させられるでしょう」と警告しています。ラッツィンガー枢機卿の言葉によれば、「厳しい警告が支配的な浅薄さに対して発せられた。生活の、そして歴史の重大性に対する呼びかけ、人類を脅かしている危険に関する警告が出されている。」*

しかしながら、懲罰は、もし司教たちや司祭たちが悔い改めの力強いメッセージを説教し、信徒たちがその呼びかけに注意を払うならば、避けることができます。ヒステリーあるいは行き過ぎた警鐘の必要はありませんが、しかし、また自己満足にも理由はありません。

「キリスト者たちの....そしてそれゆえに世界の信仰と生活に対する危険」

「第三の秘密」の最初の行は聖母が三人の幻視者たちになさった慰めの約束で始まっています。「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう。」* 「聖マリアの土地」であるポルトガルにおいて信仰の教義が常に保たれると考えることは人を感動させるものです。しかし、このことは多くの他の国々が、おそらく全大陸でさえ、信仰の真の危機を経験するという真の可能性を高めます。1976年にすでにファチマの公文書保管人であるアロンゾ神父はファチマに関するさまざまの問題についてシスター・ルシアに質問した後に、その可能性を真剣に取り上げました。

「その節(すなわち、秘密の最初の行)は最も明白に、ポルトガルがその信仰を保つ一方で、他の国々が被るであろう信仰の危機的な状態、すなわち、信仰の危機を含意しています。」* 数ページ後に学識あるこの公文書保管人はこう続けています。

「もしポルトガルにおいて信仰の教義が常に保たれるならば、このことから、教会の他の部分においてはこれらの教義が曖昧になる、あるいはまったく失われるようになるということが明白に推定され得ます。メッセージが....カトリック信者たちの間での内部的な戦いと司祭や修道者たちの諸欠陥に具体的に言及しているということはまったくありそうなことです....それは教会位階の高位の段階の間でさえの諸欠陥を意味するでしょう。」*

「終わりの時の重要性」

これは秘密に関するラッツィンガー枢機卿の短い陳述の中の最も目新しい要素です。秘密は「聖書のうちに告知されたものに合致する」、そして特に、聖書が「終わりの時」について言っていることに合致します。もちろん、それは世の終わりが近いということを意味しません。それは論外です。というのは、私たちはロシアの回心をまだ見てしまったのではないからです。いいえ、枢機卿は、聖書が教会の聖人たちや博士たちと並んで、「終わりの時」のために告知している、教会と世界にとっての一つの危機的な時期に言及しておられるのです。そしてラッツィンガー枢機卿によれば、この教義の全体は「重要」です。それは重大です。それは研究に値します。

「第三の秘密」について質問されたとき、シスター・ルシアが「それは福音書の中に、そして黙示録の中にあります。それらを読んでください!」と言ったとフレール・サント・ミッシェルは報告しています。それから彼女は第8章−第13章を指示したとフレール・サント・ミッシェルは述べています。シスター・ルシアが問題を避けていたと私たちが考えないために、彼女の全生涯が完全な従順、教会当局が彼女に許可を与えないかぎり、彼女に秘密をあかすことを禁じる従順によって特徴づけられてきたということを思い出さなければなりません。ところで、彼女の確実なしるし、シスター・ルシアと今日の教会における多くの誤った神秘家たちの間の境界設定の明確な線であるのはまさにこの従順です。イエズス御自身と同じように、彼女は自分自身の栄光を求めずに、うるさく要求したり、扇動したりせずに、決定の言葉を話すように忍耐強く当局を待ちながら、「御父の意志だけ」を求めています。

シスター・ルシアのこのコメントは他の重要な点を述べています。教会の内外両方のある人々はこう尋ねるでしょう。「<秘密> や封印された手紙についてのこのすべての神秘主義はなぜなのですか?」秘密は「福音書のうちに、そして黙示録のうちにある」ということを私たちに告げることによって、シスター・ルシアは私たちに一つの重要な真理を思い起こさせます。すなわち、秘密はすでに公的啓示の中に含まれている、それは聖書が教えていることに合致するという真理です。聖母は新しい教義を教えるために来られたのではありません。また彼女はそうできませんでした。彼女は公的啓示、福音書、そして教会の教えの中にすでに見出されるものを確証するために来られたのです。特にわれわれの時代に言及している黙示録のあれらの部分を明らかにすることによって、聖母はこの混乱の時代に私たちの信仰を保つように私たちを助けることを予定されている一つの特別の助けを提供しておられたのです。このように、「第三の秘密」は単にキリストと使徒たちの教えであるカトリック教会の教えを確証していますから、私たちが今検討しなければならないのは、教えのこの部分です。

「背教が最初に来る」(1テサ 2,3)

私たちの主はその説教の一つにおいて、終わりの時になると、そしてより特殊的に言えば再臨 -- キリストの第二の来臨 -- の前に、危機の時が教会に来るであろうと予告されました。「人の子が来るとき、地上に信仰が見出されるであろうか。」(ルカ 18,8)それは、控え目に言って、一つの非常に挑発的な問い、使徒たちが確かに決して忘れない問いです。なぜなら、彼ら自身の書簡の中に、主のこの教えはそのしるしを残したからです。

その第二の手紙において、聖ペトロはこう書きました。「終わりの時、欲望のままに生活するあざける人たちが現われて、言うでしょう。主の来臨の約束はどうなったのか。父たちは眠りについたが、すべては創造の時からずっと何も変わっていない。」(2ペト 3,3-4)。

聖ユードはまさに同じことを言っています。「時の終わりにあざける人たちが来て、その不敬虔な欲望に従って歩むであろう。」(ユード v.17)

聖パウロ自身他の使徒たちの教えを確証しています。「終わりの日」には、困難な時が来る。このことを悟りなさい。そのとき、人々は自分だけを愛し、金銭をむさぼり、大言壮語し、高ぶり、ののしり、親に逆らい、恩を知らず、神を汚すものとなるでしょう。また、非人情で、人と和解せず、中傷し、節度がなく、狂暴で善を好まないもととなり、人を裏切り、無謀で、おごり高ぶり、神よりも快楽を愛し、うわべは宗教に熱心に見えるが、実際は宗教の力を否定するものとなるでしょう。」(2テモ 3,1-5)。

聖パウロはテサロニケ人への第二の手紙の中で他の重要な細部をつけ加えています。最初に彼は彼らにキリストの切迫した再臨あるいは第二の来臨を期待してはならないと警告しています。大きな危機あるいは逸脱が最初に来ます。もともとのギリシャ語のテキストはそれを「背教」と呼んでいます。

「だれにも、また、どんな手段によっても、だまされてはいけません。なぜなら、まず初めに、神への反逆が起こり、神のおきてに逆らう人、いわゆる<滅びの子>が現われ出なければならないからです。彼は、神と名の付くもの、あるいは、礼拝の対象となるものすべてに敵対して傲然と立ち、ついには自分自身を神であるとして神の聖所に座を占めるまでになります。」(2テサ 2,3-4)。

「次ぎに滅びの子が現われるでしょう」(2テサ 2,3)

聖パウロのこのテキストは預言の正しい評価と相互関係のために非常に重要なものです。最初に大背教が現われなければならない、と彼は私たちに告げます。そして次ぎに、おそらく、不正と無神論があらゆる限度を超えて多くなったとき、罪の人、滅びの子が現われるでしょう。この神秘的な個人は誰でしょうか?教会の教父たちや博士たち、そしてすべての神学者たちの著作においては、彼は一つの名を与えられています。彼は....反キリストと呼ばれています。

私たちの古い読者たちの多く、特に司祭や司教たちは少なくとも反キリストに関する教義のある種の最小のものを教えられたことを思い出すでしょう。聖ヨハネ・ダマスケーヌスがこう言っているように:

神の御子の受肉を否定するすべての者、そしてイエズス・キリストが真の神であり完全な人間であるということを否定するすべての者、そのような人間は反キリストです。しかし、もっと特殊的なそして主要な仕方では反キリストは世の終わりころに来るでしょう。*

反キリストは教父たちに従えば、滅びの子、「獣」(黙示録 13)、666(黙示録 13,18)であり、ペテン、暴力そして偽の驚嘆すべき行為を通じて全世界を支配しに来るでしょう。

「この獣には、すべての種族、民族、言語の異なる人々と国民とを支配する権力が与えられた」(黙示録 13,7)。

反キリストは冒涜の者でしょう。彼は聖あるいは神的と考えられているすべてのもの嘲笑うでしょう。彼は自分自身神であると主張するでしょう。そしてすべての人々によって礼拝されることを望むでしょう。彼は黙示録に従えば、3年半の間支配するでしょう。

「この獣には大言と冒涜の言葉を吐くことが許され、四十二か月の間活躍する権力が与えられた。そこで、獣は口を開いて神に対して冒涜の言葉を吐き、神の名と、その幕屋、また天に住む者たちを冒涜した。この獣は聖なる人々に戦いをいどんで、これに勝つ力を与えられ....」(黙示録 13,5-7)。

「多くの反キリストが現われた」(2ヨハ 7)

次ぎに、これは「滅びの子」の短いスケッチです。彼は教父たちに従えば、すべての不正の一種の集計(recapitulatio universae iniquitatis)である不幸な個人です。それはちょうど私たちの主がすべての善の充溢を含んでいるのと同じです。彼は、私たちの主イエズス・キリストが御父の御意志を行われるのと同じように、サタンの意志をいつも行うでしょう。彼はキリストの正反対のものでしょう。ですから、その名は反キリストなのです。

すべての教父たちや神学者たちは一人の個人を反キリストとして記述することにおいて一致していますけれども、この名前が一人の個人に限定されない別の意味があります。私たちはこのことを神の啓示からはっきりと知っています。

「愛する子どもたち、今は終わりの時です。そして反キリストが来ているとあなたたちが聞いたように、今は多くの反キリストが起こっています。そのことから私たちは今は終わりの時であるということが分かります。」

「父と子を否定する人は反キリストです。そしてイエズスを分けるすべての霊は神からのものではなく、反キリストです。彼についてあなたたちは彼が来ているということを聞きました。そして今はすでに世にいます。」

「イエズスを肉において来られているキリストとして告白しない多くの欺く人々が世に来ました。これは欺く人であり、反キリストです。」(2ヨハ 7)。

聖ヨハネのこの教えの光に照らして見れば、非常に多くの神学者や聖職者たちが今日キリストの神性を明白に受け入れていないというラッツィンガー枢機卿の報告を聞くことはいよいよ憂慮すべきことです。枢機卿自身の言葉によれば、私たちは「まさに基礎そのものに関わる危機...三一神への信仰....イエズスの人間性が一面的に強調され....神的なものが曖昧にされる....創造主たる神の観念もまた曖昧にされる」危機を持っています。ラッツィンガー枢機卿の書物、ラッツィンガー報告はそれが現れたとき大変なセンセーションを引き起こしました。それは決定的に論争の的になるものでした。しかしながら、もし私たちが彼の証言(多くの神学者がキリストの神性と神の真の父性を否定している)を聖ヨハネの証言そして聖書の証言(御父と御子を否定する人は反キリストである)と比較するならば、その結果は呆然とさせるものです....比較によって、枢機卿の言葉を過小評価の見本のようなものにする結果です。

* フレール・サント・ミッシェル、第1巻および第2巻の至る所に

第2部:ファチマ第三の秘密と教会における異端

私たちはファチマの秘密の最も苦痛な局面の一つに入って行っています。なぜなら、もし秘密が真に聖職者のある者たちによる裏切りを予告しているならば、もしそれが奉献された霊魂たち(すなわち、司祭や司教たち)の多くが誘惑に陥り、教皇に対する彼らの従順を拒否し、彼らの神学的な異議を通じて敵に仕え、教会の一致を弱め、その信仰を掘り崩しているということを予告しているならば、そして印象的な数のファチマ学者たちによって共有されている意見である、アロンゾ神父の意見によれば、秘密はまさに、なぜ諸教皇がそのようなメッセージを明かすことを嫌がったかは理解され得るものなのです。

しかしながら、もし私たちがメッセージのこの局面について論争を避けるということを口実にして、沈黙を守るべきであるとするならば、私たちは教皇、ローマの教皇と完全に一致している私たちの合法的な司牧者たち、司祭たち、司教たちに重大な害を与えることになるでしょう。聖トマス・アクィナスは彼自身の時代に、反キリストの世界的な支配に対する主要な障碍は教皇の強い霊的な権威、ローマの首位性であると指摘しました。* この霊的権威が司祭の独身制、あるいは宗教的な従順と清貧のような教会の長い間かかって確立されてきた規律に対する反逆によってか、あるいは教義的な秩序の諸真理に対する異議によってか、非常に多くの神学校や大学で教えられている反三位一体神学やアリウス派的キリスト論によってか、認可されていない典礼刷新を通じての恩寵の源泉を毒することによってか、そのいずれかで弱められるとすれば、サタンの王国の拡大に対する巨大な障碍が取り除かれてしまうでしょう。

黙示録の偽の子羊と淫婦

第三の秘密のその優れた研究において、フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテは一つのショッキングな問いを提出しています。すなわち、近代主義と「キリスト教的マルキシズム」の偽預言者たちは黙示録において非難されているか?という問いです。なぜなら、黙示録を通してずっと、私たちの神である主は「子羊」として言及されているからです。というのは、彼は私たちの真の救い主であり、大祭司そしてあらゆる秘蹟の不可視的な奉仕者であるからです。復活祭のための序誦が言っているように、「彼は真の子羊であって、世の罪を取り除き、死ぬことによって私たちの死を破壊し、復活することによって私たちの生命を回復された」のです。ところで、反キリストがキリストの反定立であるように、また黙示録は「偽預言者」(黙示録 19,20)、真の子羊たるキリストの地獄的戯画を記述しています。聖ヨハネが言っているように、それは子羊の角のような2本の角を持っていました。しかし、それは「竜のように」話しました(黙示録 13,11)。換言すれば、それは子羊、救世主になりすましますが、しかし実際にはサタンの働きをします。ところで、私たちがカトリックの聖職者たちがある場所で、姦淫は悪ではない、手淫は悪ではない、避妊は重大なことではないと説教しているのを見るとき、彼らは外面的にはキリストの使徒たちのように見えているが、実際には敵に仕えているこの「偽の子羊」に似ていないでしょうか?フレール・サント・ミッシェルは、「偽預言者」は教会内部の「キリスト教的マルクス主義者」や他の偽預言者たちを表すための集合的な用語であると考えています。黙示録の他のショッキングな像は女、聖なる著者が言っていますが、「聖なる人々の血とイエズスの証人たちの血に酔いしれている」(黙示録 17,6)バビロンの大淫婦です。私たちがミサの間に、聖体拝領の直後にさえ、神を汚す歌を許す司祭たちを見るとき、私たちが、聖なる典礼の間に、他の多くの人たちが教会において見てきたように、私たち自身の目で道化師の服装をした少女たちや司祭たちを見るとき、恐ろしいことに、彼らは「酔いしれて」、狂気になり、「聖なる人々の血とイエズスの証人たちの血に酔いしれている」のではないでしょうか?なぜなら、まさに忌むべきことがイエズス・キリストの聖人たちや殉教者たちの冒涜された聖遺物の上、聖所において犯されているからです。

教会における異議と反逆の危機はますます先鋭になっています。背教はペトロの岩にさえ近づいています。教皇自身の国務省長官、カザロリ枢機卿でさえ、教皇のいないところで、近代主義者で偽預言者であるテイヤール・ド・シャルダンを敢えて称賛しました。クッランやボッフのような他の偽預言者たちは司教団の中に彼らの擁護者をもっています。さらに他の人々は彼ら自身の目で、ミルウォーキーの大司教がその大司教区の中で姦淫と猥褻を公然と教えることをどのように許したかを報告しています。証拠が聖座へ送られました。そして証拠のうちのあるものはミルウォーキーの公共テレビで見られました。そのことを公然と明らかに言うべき時が来ました。異議申し立てをする者たちと異端者たちは教皇および教皇に一致した司教たちに反対して、一つの新しい教会、教義、あるいは道徳あるいは恩寵のない教会、を建てたいと望みました。

この新しい教会は生ける反キリスト、バビロンの淫婦、絶えることのないスキャンダルの教会です。しかし、黙示録において言っているように、最後には火が天から降りかかり、淫婦を破滅させるでしょう。

危機についてのシスター・ルシアの見解

シスター・ルシアは、教皇御自身が都合のよい時と考えるまでは聖母の最後の秘密を明かすことを許されていません。他方において、何ものも原理的には、宗教的従順の範囲内で、個人として危機に関する彼女の意見を述べることを妨げません。シスター・ルシアはこのことを1969年から1971年の間に書いた一連の手紙の中でしました。その手紙はファチマの司教の印刷出版許可つきで2年後に公表されました。フレール・サント・ミッシェルは秘密に関する彼の書物の中でこれらの手紙の背景を述べています。ある神学者たちはよく知られた反対を繰り返しながら、ロザリオ反対のキャンペーンを張りました。いわく、「ロザリオは十分に典礼的ではない。ロザリオは第二ヴァチカン公会議の後には時代遅れである。ロザリオは単調すぎる。」

彼女の手紙の中で、シスター・ルシアはこれらすべての偽のテーゼに精力的に反対しました。それは彼女がこれまでの用いた最も強い言葉でした。彼女はロザリオ反対のキャンペーンを「悪魔的」と呼ぶことを躊躇しませんでした。彼女には司祭である三人の甥がいます。彼女はそのうちの一人に、1969年12月29日こう書きました。「....見当識をなくしてしまったある人々がロザリオに反対して言っていることは誤りです。太陽の光はロザリオを唱えることよりは古いです。しかし、彼らはそれでもなおその光から利益を得たいと望んでいます....詩編もまたより古いものです。(しかし、それは今もなお)聖なる典礼の一部です。」

「めでたし、天にまします、栄光唱は私たちを神のところにまで引き上げ、ちょうどパンをよく噛むことが私たちのうちの自然的生命を支えるように、私たちに神の生命への参加を与えながら、私たちを神に結びつける鎖ですから、誰もそれを時代遅れだと呼びません!」

「この方向を逸らすことは悪魔的です!欺かれてはいけません。」

彼女のもう一人別の甥に、ロザリオについて話しながら、彼女はこう書きました。

「神が私たちに教えてくださり、私たちにそのように暖かく推奨してくださった祈りがなぜ時代遅れなのですか?ここに、彼らに祈りを無視させることによって霊魂を神から離れるように導きたいと望んでいる悪魔とその弟子どもの計略を見ることは容易です....だまされてはいけません。あなたに委ねられた霊魂たちに対する一つの光でありなさい。そして彼らと共に毎日ロザリオを唱えなさい。」

「教会で、通りでロザリオを祈りなさい....もしできるならば、人々と共にロザリオを祈り、歌いながら通りを歩きなさい。そして教会で聖体降福式をもって終わりなさい。これは教会のために平和を求めるために祈りと痛悔の精神において為されるべきです....」

彼女は甥たちのうちの別の者にこう書きました。

「非常に多くの人々が世界中に押し寄せている悪魔的な波によって自らを支配させているのは悲しいことです!そして彼らは誤りを見ることができないところまで見えなくさせられています!彼らの主たる過ちは彼らが祈りを放棄したということです....」

1970年4月4日に彼女はこう書きました。

方向を逸れてしまった者の教義によって邪道に導かれないことが必要です....(ロザリオ反対の)キャンペーンは悪魔的です。私たちはそれに恐れずに立ち向かわなければなりません....私たちは霊魂たちに対して、今、これまで以上に、私たちに賛成する人々と私たちに反対する人々のために祈らなければならないと言わなければなりません!私たちは毎日ロザリオを唱えなければなりません。これは、悪魔的なキャンペーンが続けられている現在を予見して私たちに警告なさるかのように、私たちの主が最も推奨なさった祈りです!....御聖体を顕示し、そのみ前でロザリオを唱えることを恐れてはいけません。」

「これが典礼的でないと言うことは誤りです。というのは、ロザリオの祈りは聖なる典礼のすべての部分だからです。そしてもしロザリオの祈りが、私たちが聖なる犠牲[ミサ]を祝うように、ロザリオを唱えるとき神を不快にさせるものでないならば、同じように私たちが、主の現存において[御聖体の顕示の前で]、主が私たちの礼拝のために顕示されておられるとき、ロザリオを唱えるとき、その祈りは主を不快にさせるものではありません。反対に、これは神を最も喜ばせる祈りです。というのはそれは私たちがそれによって神を最もよく称賛する祈りだからです。」

シスター・ルシアは通常は決してそのような強烈な言葉を使いませんでした。彼女はほとんど、あたかも祝せられたおとめが秘密において、1917年に現在世界に押し寄せているこの「悪魔的な波」を明らかにされたかのように、話しています。最も悲しい部分は、シスター・ルシアによれば、そのように多くの奉献された霊魂たち、司祭、修道者、司教たちが混乱のうちに押し流されているということです。

「そのように大きな方向逸脱、そして責任ある地位を占めているそのように多くの人々のうちに、それを見ることは悲しいことです!....悪魔は善を装って悪の中に連れ込むことに成功しました。そして、主がその福音の中で私たちに告げておられるように、目の見えない人々が他の人々を導き始めています....」

私たちが、シスター・ルシアによれば、秘密は<福音のうちに>含まれているということを考えるとき、彼女がこの文脈において福音を引用する仕方は意味深長です....そして明白に不吉な輪を帯び始めます。第三の秘密に関する600ページの書物の著者であるフレール・サント・ミッシェルは彼の研究の諸発見を私たちに分かちます。

おとめマリアの腹心の友にとって、悪は単に私たちの世界のうちに退廃においてあるばかりでなく、不道徳と高慢の誤りの暗闇の中へと突入しています。悪はまた教会そのものの中にもあります。そこでは悪魔が彼の「追随者たち」と彼の「別働隊」を持っています。彼らは常に「大胆不敵さをもって前進しています」。彼らに直面して、反撃する勇気を持たない非常に多くの「臆病な人々」がいます。そしてシスター・ルシアは多くの司教たちが彼らの数の中にいると述べることを恐れていません。さらに、それは単に生ぬるさ、あるいは司牧的な怠慢の問題だけではありません。シスター・ルシアは攻撃されているのは信仰それ自身であるということをはっきり理解させます。彼女は「誤った教義」について、「悪魔的な混乱」について、「目の見えないこと」について話しています。そしてこれは教会において「大きな責任を持っている」まさにそれらの人々の間でのことです。彼女はそのように多くの司牧者たちが「世界に侵入している悪魔的な波によって自らを支配されるに委せている」という事実を遺憾に思っています。サタンがその主君である世界に自らを開いた教会の危機をもっとよく記述できる者がいるでしょうか?

しかし、シスター・ルシアはこう主張しています。「聖母はこれらの悪魔的な方向逸脱の時代が来るべきことをご存じでした。」幻視者のこれらすべての言葉と私たちが引用することができる他の多くの言葉は1917年7月13日に、彼女の第三の秘密において、もし聖母が、もし彼女の要求が従われなかったならば、教会を突然襲うであろうこの悪魔的方向逸脱を予告なさったならば、完全に説明され、大きな顕著さを帯びます。

最後の戦い:太陽をまとった女対黙示録の竜

シスター・ルシアは明らかに、その手紙の中で彼女が明らかにすることができたよりもはるかに多くのことを知ることができました。しかしながら、本質的なことに関して私たちは十分に知っています。明らかに、悪魔の戦略は教会を誤り導くこと、もちろん、そのようなことがもし可能ならば教会を破壊することです。それは奉献された霊魂である司祭、修道者、兄弟たち、そして実際教会の司牧者たち自身を誤り導き、方向逸脱させることによってではありません。もう一度、私たちは度外れにショックを受けるべきではありません。ここには新しいことは何もありません。これは常に敵の戦略でした。1517年にキリスト教世界の3分の1が大部分は堕落した司祭たちであった改革者たちによって教会から引き離されました。同じことはアリウス派の異端についても真です。それはそれが行ったあらゆるところで腐敗させる伝染性の病原菌のように、数世紀の長きにわたって教会を苦しませました。ですから、悪魔のこの戦略には新しいものは何もありません。それは福音....そして黙示録と同じように古いものです。

大きなしるし

黙示録の第12章において、福音書の著者である聖ヨハネは天に大きなしるしが現われたと私たちに告げています。「一人の女が太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いていた。」(黙示録 12,1)。その女は、もちろん、祝せられたおとめマリアです。フレール・サント・ミッシェルが私たちに告げているように、最良の解釈学者たちは常にこの事実を認めてきました。尊者アグレダのマリアはそれを祝せられたおとめの生涯についての彼女の幻視において確証しています。そして教会自身この女を、被昇天のミサおよび日課祈祷において聖母だと認めています。その女は竜、サタン、悪魔、古い蛇との死闘の中に閉じこめられています。大きな赤い竜はその尾で天の星の3分の1を地に打ち落としました。しかし、彼らは何を求めて戦っているのでしょうか?空にある生命のない小惑星を求めてでしょうか?いいえ、それは人間たちの霊魂、そして特に神の民の奉献された指導者たちの霊魂:すなわち、司祭、司教そして修道者たちの霊魂です。なぜなら、他の人間たちの霊魂のための戦いは大幅にこの第一の戦いにかかっているからです。なぜなら、シスター・ルシアが言っているように、「司牧者が正しい道において彼らをどのように導くかを知っているとき、羊は一般に従うからです。」

そこで、これは私たちが教会のまさに核心で目撃している大きな戦いです。それは宗教的生活において神に奉献したすべての人々の霊魂のためです。私たちは今、司祭たちと教皇のために祈る小さなジャシンタの没頭を理解し始めています。今また私たちはシスター・ルシアがなぜ次のように書いたかを理解し始めています。「私は喜んで、神の教会における平和のために、司祭たちのためにそしてすべての奉献された霊魂のために、私自身を犠牲にし、神に私の生命を捧げます....」

秋田の聖母は、意味深長にも10月13日に与えられたその最後のメッセージの中で言っておられます。

「教皇、司教たち、司祭たちのために毎日ロザリオを祈りなさい。悪魔の働きが教会の中へさえ侵入するでしょう....教会の中には妥協を受け入れる多くの人がいるようになるでしょう。悪魔は主への奉仕を離れるように多くの司祭たちと奉献された霊魂たちを圧迫するでしょう。悪魔は特に神に奉献された霊魂たちに対して怒り狂うでしょう。人間の霊魂の喪失を考えると私は気が狂いそうになります...」

「論争の的となる」秘密

際限のない論争を必ず引き起こす秘密についての最後の問いがあります。すなわち、それは公に明らかにされるべきか、それともされるべきでないか?という問いです。それを別の仕方で提出するならば、こうです。もしシスター・ルシアが祝せられたおとめの望みに従って、秘密は1960年には明らかにされるべきであったと指摘したとするならば、なぜ教皇たちはそうしなかったのでしょうか?私たちはそれについて間違いをしてはなりません。ファチマの秘密を明らかにすることは教会にとってより苦い薬となるでしょう。しかし、それは必要な薬です。それが苦いほど健康にはよいものです。それは楽しいことではないでしょう。しかし、それは28年間神秘的な身体を苦しめている傷を焼き、恐るべき熱を癒すことへ向けての第一歩となるでしょう。旧約聖書における預言者の声、「来て、主に立ち戻ろう、なぜなら、主は私たちを引き受けられたからである。そして主は私たちを癒してくださるであろう。主は打ち、私たちを癒してくださるであろう。主は二日後に私たちを生き返らせてくださるであろう。三日目に主は私たちを復活させ、そして私たちは主のみ前で生きるであろう」(ホセア 6:1-2)という声に耳を傾けるように、教会の子どもたち全てがそれに耳を傾けるものであればよいが。

* Huchede, History of Antichrist, TAN Books を見よ。

98/06/19 三上 茂訳

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作成日:98/06/21
最終更新日:2005/03/19

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