近代主義の教会の中への潜入

以下の講演は1982年にカナダ・モントリオールにおいてマルセル・ルフェーブル大司教によってなされたものである。それは個人的な経験によってまさに教皇ピオ11世の時からの近代主義の悲劇的な堕落を論証している。大司教は新しいミサの構想におけるモンシニョル・アンニバル・ブニーニの異常な影響、そしてどのように彼のこれまでになかった向こう見ずさがこのプロテスタント化された典礼の「承認」をもたらしたかを説明している。われわれは教会と信仰のための大司教の戦いのより個人的な見地に読者が参加するのを許すためにそれを読者に提供する。

簡単な歴史

世界のいたるところで、カトリック世界のいたるところで、勇敢な人々がカトリック信仰とカトリック教会に忠実である司祭たちの周りに、信仰の防波堤である伝統を守るために、一緒に集まっているのを見て嬉しく思います。もしこのような一般的な運動があるならば、それは教会における状況が真に重大であるからです。

もしカトリック信者や善良な司祭たち--彼らのある者は彼らの小教区の人々が大いに満足するほどに30年間も小教区において奉仕しました--が不従順な反抗者や反対者として取り扱われるという侮辱をしのぐことができたならば、それはただカトリック信仰を守るためにのみそうだったのです。彼らは殉教者たちの精神に従って、承知の上でそうしているのです。

人が自分自身の兄弟たちによって迫害されるのであれ、あるいは教会の敵どもによって迫害されるのであれ、それが信仰を守るためであるであるとすれば、なお殉教を忍ばなければならないのです。これらの司祭や信者はカトリック信仰の証人です。彼らは自分たちの信仰を失うよりもむしろ反抗者や反対者と考えられることの方を選ぶのです。

全世界を通じて私たちは悲劇的なこれまでに聞いたことのない状況に直面しています。そのような状況は教会の歴史の中で以前には決して起こったことがないと思われます。私たちは少なくともこの異常な現象を説明しようと努めなければなりません。善良な信者や司祭たちがカトリック世界--それはまったく分裂の過程にありますが--の中でカトリック信仰を守るために戦わなければならないというようなことはどのようにして起こったのでしょうか?

教会内部の自己破壊について語られたのは教皇パウロ六世御自身です。そのことが教会が自分自身によって、そしてそれゆえに自分自身の成員たちによって、自分自身を破壊しているということでないならば、この自己破壊という言葉は何を意味するでしょう。このことはすでに、教皇ピオ十世がその最初の回勅において言われたことです。「それゆえに、教会の敵はもはや教会の外にいるのではない。敵は今や内部にいるのである。」そして教皇は敵が見出される場所を明示するのを躊躇されませんでした。「敵は神学校の中に見出される。」従って聖なる教皇聖ピオ十世はすでに今世紀の始めに神学校における教会の敵どもの存在を非難されたのです。

明らかに、近代主義、シヨニズムそして進歩主義に染められた当時の神学生たちは後に司祭となりました。彼らのうちのある人々は司教になり、そして彼らのうちの何人かは枢機卿にさえなりました。私たちは今世紀の始めに神学生であった人々、そして今は亡くなっていますが、その精神が明らかに近代主義的であり、進歩主義的である人々の名前を示すことができるでしょう。

このようにすでに教皇ピオ十世は教会におけるこの分裂--教会内部の、そして聖職者内部の非常に現実的な分裂の始まりであった分裂--を非難されました。

私はもう若くはありません。神学生、司祭、そして司教として、私の全生涯の間、私はこの分裂を見て来ました。私は、神の聖寵によって私がそこで勉強することができたローマにあるフランス神学校ですでにそれを見ました。私はローマで勉強をするためにはそれほど頭の切れる人間ではなかったことを認めなければなりません。私は個人的にはリールの私の教区の神学生たちと一緒に勉強し、助祭になり、最後に小さな田舎の小教区の司祭になることの方を選んだでしょう。

私はただ小教区において信仰を守ることを望みました。私は、自分がカトリック信仰と道徳を教えるためにそのもとに送られるはずの住民たちの霊的父としていくぶん自分自身を見ていました。しかし違ったふうにことが起こりました。第一次世界大戦の後、私の兄はすでにローマにいました。なぜなら、彼は北フランスにおける戦争の事情によって家族から離されていたからです。その結果、私の両親は私が彼と一緒にいるべきだと強く要求しました。「おまえの兄がすでにローマのフランス神学校にいるのだから、彼と一緒におまえの勉学を続けるように行って彼に加わりなさい。」このようにして私はローマに向けて出発しました。私は1923年から1930年までグレゴリアン大学で勉強しました。1929年に叙階され、1年間神学校に司祭としてとどまりました。

近代主義の最初の犠牲者たち

私の神学校時代の間に悲劇的な諸事件が起こりました。それは今私に、公会議の間に私が経験したことを思い起こさせます。私は今、当時の私たちの神学校校長と実際的にはまったく同じ状況にいます。ル・フロック神父(Fr. Le Froch)。私がそこにいたとき、彼はすでに30年間ローマのフランス神学校の校長でした。ブルターニュ出身であった彼は非常に傑出した人であり、信仰においてブルターニュの花崗岩のように強くて堅固でした。彼は私たちに諸々の教皇回勅、聖ピオ十世によって断罪された近代主義の正確な本性、レオ十三世によって断罪された近代の諸誤謬そしてピオ九世によって断罪された自由主義を教えました。私たちは私たちのル・ロック神父をたいそう好きでした。私たちは彼をたいそう慕っていました。

しかし彼の教説と伝統における断固とした点は明らかに進歩派の人々を不快にさせました。進歩的カトリック者があの当時すでに存在していました。諸教皇は彼らを断罪なさらなければなりませんでした。

ル・ロック神父は単に進歩派を不快にさせただけではありません。彼はまたフランス政府をも不快にさせました。フランス政府はル・ロック神父の媒介によって、そしてローマにあるフランス神学校で神学生たちに与えられる教育によって、伝統的な司教たちがフランスに来てフランスにある教会に伝統的なそして明らかに反自由主義的な方向を与えるようになることを恐れたのです。

なぜなら、フランス政府はフリーメーソン的であり、そしてその結果大いに自由主義的であり、自由主義的でない司教たちが最も重要なポストを引き継ぐだろうという考えに恐れをなしたからです。その結果ル・ロック神父を排除するように教皇に圧力がかけられました。この実施の責任を任されたのはM.R.P.の未来の指導者となるフランシスク・ゲイ(Francisque Gay)でした。彼はル・ロック神父が「アクション・フラネーズ」(Action Franaise)のメンバーであり、そして彼の神学生たちに彼らもまた「アクション・フラネーズ」のメンバーになるように教えている政治家であると非難しながら、教皇ピオ十一世に圧力をかけるためにローマにやって来ました。

これはまったくの嘘でした。三年間私はその霊的講話にいてル・ロック神父の話を聞きました。彼が「アクション・フラネーズ」について私たちに語ったことは一度もありませんでした。同じように今の人々は私に言います。「あなたはかつてアクション・フラネーズのメンバーだったのですね」と。私はこれまで一度も「アクション・フラネーズ」のメンバーだったことはありません。

明らかに私たちは「アクション・フラネーズ」のメンバーであるということで非難されました。ナチスとファシストが他のすべての軽蔑的なラベルでした。なぜなら、私たちは反革命的であり反リベラルだったからです。

このようにして一つの審問が行われました。ミラノの枢機卿大司教(シュスター枢機卿)が神学校に送られました。彼は枢機卿たちのうちの最小の人ではありませんでした。彼は事実最も聖性と知性を具えたベネディクト会士でした。彼は、フランシスク・ゲイの非難が本当かどうかを決定するためにフランス神学校での審問をするようピオ十一世によって任命されたのです。審問が行われました。その結果はこうです:フランス神学校はル・ロック神父の指導の下に完全にうまく機能している。私たちは神学校校長を非難する点を何一つ絶対に持っていなかったのです。

三ヶ月後に一つの新しい審問が始まりました。今回はル・ロック神父を排除するようにという命令つきでした。新しい審問はローマ聖省(Roman Congregation)の一メンバーによって行われました。彼は事実上ル・ロック神父が「アクション・フラネーズ」の友人であり、神学校にとって危険である、そして辞職を求められるべきである、と結論しました。これがまさに起こったことです。

1926年に聖座はル・ロック神父にフランス神学校の校長としての地位をどうか放棄してほしいと要求しました。彼は悲しみに圧倒されました。ル・ロック神父は政治家であったことは一度もありませんでした。彼は教会と諸教皇の教説に忠実な伝統的な人でした。その上彼は聖ピオ十世教皇の偉大な友人でした。教皇は彼に大きな信頼を寄せていました。彼が進歩派の人々の敵であったのはまさに彼が聖ピオ十世の友人であったからでした。

またビヨ(Billot)枢機卿が攻撃されたのは、私がフランス神学校にいたのと同じ時期でした。彼は当時の第一級の神学者でした。そして今日でもよく知られ、私たちの神学校では研究されています。聖なる教会の枢機卿であるモンシニョール・ビヨは退位させられました。枢機卿職位は彼から取り上げられました。そして彼はアルバノにごく近いカステルガンドルフォへ償いするために送られました。アルバノにはイエズス会士たちが一軒の家を持っていました。彼は「アクション・フラネーズ」との関連を持つという口実の下に外出することを禁じられました。

実際はビヨ枢機卿は一度も「アクション・フラネーズ」に属したことはありませんでした。しかしながら、彼はモーラス(Maurras)を大いに尊敬していました。そして自分の神学の書物の中で彼を引用していました。例えば、教会に関する第二巻(De Ecclesia)においてビヨ枢機卿は、注の形で、モーラスからのいくつかの引用をした自由主義の優れた研究を完成しました。これは大罪でした!これが、彼らがビヨ枢機卿を退位させることができたすべてでした。それはより小さな悲劇ではありません。なぜなら、彼はその時代の偉大な神学者たちのうちの一人でしたし、にもかかわらず枢機卿として退位させられ、そして一人の単純な司祭の地位に引き下げられたからです。というのは、彼は司教ではなかったからです。(当時はなお何人かの枢機卿助祭がいました。)それはすでに迫害でした。

教皇ピオ十一世は進歩派の影響を受けられた

教皇ピオ十一世自身すでにローマにいた進歩派の人々の影響の下にありました。なぜなら私たちは彼以前と以後の諸教皇から一つのはっきりした区別を見て取るからです。しかしそれにもかかわらず教皇ピオ十一世は同時にいくつかの優れた回勅を書きました。彼は自由主義者ではありませんでした。共産主義に反対する彼の回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」は優れたものでした。それゆえにまた彼の王たるキリストに関する回勅もすぐれたものでした。その回勅は王たるキリストの祝日を定め、われらの主イエズス・キリストの社会的な王権を宣言しました。キリスト教教育に関する彼の回勅はまったく賞讃に値するものであり、今日もなおカトリック学校を擁護する人々にとっての一つの基本的な文書です。

教説の面において教皇ピオ十一世は賞讃に値する人間であったとすれば、実践的行為の秩序においては弱かったのです。彼は影響を受けやすい人でした。そのようにして、彼はメキシコ市民戦争の時に非常に強い影響を受けて、カトリック宗教を擁護し、王たるキリストのために戦う過程にあったクリステロス(キリスト教徒たち)に、政府に信頼するように、そして彼らの武器を棄てるように命じました。彼らは、自分たちの武器を棄てたとたんに虐殺されました。この恐るべき大虐殺は今日でもなお記憶されています。教皇ピオ十一世は彼を欺いた政府に信頼を置きました。後になって彼は目に見えて非常に動転しました。彼は自分たちの信仰を守る人々を尊敬をもって取り扱うと約束した政府がどのようにしてその後彼らを大虐殺することへと進むことができるのか、想像することができませんでした。このようにして数千人のメキシコ人が彼らの信仰のために殺されました。

今世紀の始めにすでに私たちは教会における分裂を告知するいくつかの状況を見ています。私たちは徐々にそれに達しました。しかし、分裂は公会議のちょうど前に非常にはっきりしたものでした。

教皇ピオ十二世はその著作と彼の教会を統治するやり方において偉大な教皇でした。ピオ十二世の治世の間に信仰はしっかりと守られました。当然、自由主義者たちは彼を好みませんでした。なぜなら彼は神学の基本的諸原理と真理を精神に呼び戻したからです。

しかし次にヨハネ二十三世がやって来られました。彼はピオ十二世とは完全に異なった気質を持っておられました。ヨハネ二十三世は非常に単純で寛大な人でした。彼はどこにも問題を見られませんでした。

彼が教会会議をローマで開催することを決定されたとき、彼らは彼に言いました。「しかし教皇様、教会会議は準備しなければなりません。少なくとも一年は必要です。そしておそらく、数々の実りが得られ、諸改革が真に研究され、次に適用されて、その結果ローマのあなたの司教区がそれから利益を引き出せるように、そのような会議を準備するためには二年は必要です。これらすべてのことは二週間の会議に引き続く二、三ヶ月の時間でまっすぐになされ、それで万事がうまく行くことはできません。それは不可能です。」

「おお、もちろん、私は知っていますよ。しかしそれは小さな教会会議なのだよ。われわれはそれを数ヶ月内に準備することができ、そして全てはきっとうまく行くよ。」

このようにして教会会議が急いで準備されました:ローマでのいくつかの委員会、すべての人が非常に忙しく、そしてそれから二週間の会議、そしてそれで全てが終わりました。教皇ヨハネ二十三世は彼の小さな教会会議が開催されたことで非常に幸せでした。しかしその結果は何もありませんでした。ローマ司教区では何一つ変わりませんでした。状況はまさに以前と全く同じでした。

公会議と共に漂流が始まった

公会議についてもそれはまったく同じでした。「私は公会議を開催する意向を持っています。」すでに教皇ピオ十二世は何人かの枢機卿から公会議を開催するように求められていました。しかし彼はそれは不可能であると信じて拒否しました。私たちは現代に2500人の司教たちで一つの公会議を開催することはできません。マスメディアによって行使された圧力は一つの公会議を敢えて開催するにはあまりにも危険です。私たちはとかく深さから出てしまいがちです。そして事実公会議は開かれませんでした。

しかし教皇ヨハネ二十三世は言われました:「しかしそれはすばらしい。われわれは悲観的である必要はない。あなたたちは事柄を信頼をもって見なければならない。われわれは全世界のすべての司教と共に三ヶ月間集まろう。われわれは10月13日に始めるであろう。それからあらゆることは12月8日と1月25日の間に終わるであろう。みんなが帰宅し、そして公会議は終わり、果たされるであろう。」

そしてそのようにして教皇は公会議を開催されました!それにもかかわらず、それは準備されなければならなかったのです。一つの公会議は一つの教会会議のようにただちに開催されることはできないのです。それは実際先立つ二年間で準備されました。私は個人的にダカールの大司教および西アフリカ司教会議議長として中央準備委員会の一メンバーに指名されました。ですから私は中央準備委員会の会合において準備するために二年間に少なくとも十回はローマに来ました。

それは非常に重要でした。なぜなら第二次会議のすべての文書は研究され、公会議に送られるように、会議を通り抜けなければならなかったからです。この会議には70人の枢機卿とおよそ20人の大司教および司教そして専門家たちがいました。これらの専門家たちは会議のメンバーではなく、ただ時に委員たちから相談を受けることができるように出席しているだけでした。

分裂の出現

これらの二年間に会合が次々に続き、そして出席しているすべての委員たちにとって教会それ自体の内部での深い分裂があることが非常に明瞭になりました。この深い分裂は偶然的あるいは表面的ではなくて、大司教や司教たちの間でよりも枢機卿たちの間でより深いものでした。投票で決する機会には保守的な枢機卿たちはある仕方で、そして進歩的な枢機卿たちは別の仕方で投票するのを見ることができました。明らかに枢機卿たちの間には本当の分裂が存在していました。

私は次のような出来事を私の書物の中の一冊『一司教は語る』において描いています。私はそれについてしばしば言及します。なぜならそれは中央委員会の終わりと公会議の始まりを本当に特徴づけているからです。それは最後の会合の間のことでした。そして私たちは同じ主題について10の文書をあらかじめ受け取りました。ベア枢機卿が一つのテキスト、"De Libertate Religiosa" 「宗教的自由について」を準備しました。オッタヴィアーニ枢機卿は別のテキスト"De Tolerantia Religiosa" 「宗教的寛容について」を準備しました。

単純な事実は同じ主題に関する二つの異なった表題が二つの異なった考え方を表しているということです。ベア枢機卿はすべての宗教に対する自由について、そしてオッタヴィアーニ枢機卿は誤謬と偽りの諸宗教の寛容に加えてカトリック宗教の自由について語りました。そのような相違がどのようにして委員会によって決定され得るでしょうか?

最初からオッタヴィアーニ枢機卿はベア枢機卿を指さしてこう言われました。「閣下、あなたはこの文書を提出する権利がない」と。

ベア枢機卿は答えられました。「失礼ですが、一致のための委員会議長として私は文書を提出する権利を完全に持っている。従って私は承知の上でこの文書を提出している。さらに、私はあなたの見解にはまったく反対である。」

このように最も高名な枢機卿の二人、聖省長官オッタヴィアーニ枢機卿と教皇ピオ12世の前告解聴聞司祭ベア枢機卿、すべての枢機卿に対して大きな影響力を持っているイエズス会士、聖書研究所においてよく知られ、高等聖書研究に責任を持っている枢機卿は教会における基礎的な主題に関して対立しておられました。すべての宗教のための一致は一つの事柄であり、それはすなわち、自由と誤謬が同じ地平に置かれるということなのです。しかし、誤謬の寛容に加えてのカトリック宗教の自由はまったく異なったあるものです。伝統的には教会は常にオッタヴィアーニ枢機卿の見解に与して来たのであり、そして完全にリベラルであるベア枢機卿の見解には与して来ませんでした。

パレルモから来たルフィニ枢機卿は立ち上がり言われました。「われわれは今教会において非常に重要である一つの問題について相互に対立している二人の同僚の前にいる。従ってわれわれはより高い権威に言及せざるを得ない。」

教皇は非常にしばしば私たちの会合の座長を務めるためにやって来られました。しかし教皇はこの最後の会合のためには居合わせられませんでした。従って枢機卿たちは投票することを要求されました。「われわれは行って教皇に会うために待つことはできない。投票することにしよう。」私たちは投票しました。枢機卿たちの半数がベア枢機卿の意見に賛成投票をし、後の半数がオッタヴィアーニ枢機卿に賛成投票しました。ベア枢機卿の意見に賛成投票したのは皆オランダ、ドイツ、フランスそしてオーストリアの枢機卿たちであり、そして彼らは皆一般的にヨーロッパと北アメリカからの枢機卿でした。伝統的な枢機卿たちはローマ・クリア、南アメリカ、そして一般的にスペイン語圏の枢機卿たちでした。

それは教会における真の決裂でした。この瞬間から私は公会議が重大な点に関してそのように対立を抱えながらどのようにして進んで行くことができるのか、と自問しました。誰が勝利するのでしょうか?スペイン語あるいはロマンス諸言語圏の枢機卿たちと共にオッタヴィアーニ枢機卿なのでしょうか、それともヨーロッパと北アメリカの枢機卿たちなのでしょうか?

実際、戦闘は公会議のまさに初日から直ちに始まりました。オッタヴィアーニ枢機卿は、各人に対してその人が望んだ人々を選ぶ完全な自由を残しながら、準備委員会に属していたメンバーたちのリストを提出されました。私たちがすべてのメンバーを一人一人知ることができないことは明らかでした。なぜなら各人は彼自身の司教区のためにやって来たのですから。人はどのようにして世界の2500人の司教たちを知ることができるでしょうか?私たちは公会議の諸々の委員会の委員選出のために投票を求められました。しかし誰が選ぶことができるでしょうか?私たちは南アメリカからの司教も、南アフリカからの司教もインドからの司教も知りませんでした...。

オッタヴィアーニ枢機卿は準備委員会のためのローマの選択は公会議の教父たちのための一つの指示として役立ち得るだろうと考えられました。事実これらのことを提案することはまったく正常なことでした。

リエナール枢機卿が立って言われました。「われわれは事柄をこのように進めるやり方を受け入れない。われわれは異なった諸々の委員会を成立させることができる人々をわれわれがもっとよく知ることができるように、熟慮するための48時間を要求する。これは教父たちの判断に圧力を加えることだ。われわれはそれを受け入れない。」

公会議はたった二日前に始まったばかりでした。そしてすでに枢機卿たちの間には猛烈な対立がありました。何が起こったのでしょうか?

これら48時間の間にリベラルな枢機卿たちは世界のすべての国々から作成されたリストをすでに準備していました。彼らはこれらのリストをすべての公会議教父たちのメールボックスの中に配りました。私たちはそれゆえにすべての者がしかじかかくかくの委員会の委員たち、すなわち、異なった国々からのかくかくの司教と他の司教等々、を提案している一通のリストを受け取ったのです。多くの人々は言いました。「結局のところ、これでいいではないか。私は彼らを知らないのだ。リストがすでにできあがっているのだから、われわれは単純にそれを利用するだけだ。」48時間後、全面に出ていたのはリベラル派のリストであった。しかしそれは公会議の規則によって要求されていた投票数の3分の2を得ていなかったのです。

それでは教皇は何をされたのでしょうか?教皇ヨハネ二十三世は公会議の規則に一つの例外を作られるのでしょうか、それともその規則を適用されるのでしょうか?明らかにリベラルな枢機卿たちは教皇が公会議の規則を適用することを恐れていました。それで彼らは教皇のところへ走り、教皇にこう言いました。「聴いてください、私たちは投票総数の半分以上、60% 近くを獲得しています。あなたはそれを拒否することはできません。私たちはこのように歩み続けて、別の選挙をすることはできません。私たちはそれを決してさせないでしょう。これは明らかに公会議の大多数の意志です。そして私たちは単純にそれを受け入れなければなりません。」そして教皇ヨハネ二十三世は受け入れらました。この始めから公会議の諸々の委員会のすべての委員はリベラル派から選ばれました。このことが公会議に対していかに巨大な影響を及ぼしたかを想像することは容易いことです。

私は教皇ヨハネ二十三世が、二、三ヶ月の終りにはすべてのことが為されたと考えられたけれども、公会議で見たもののために早死にされたと確信しています。それは三ヶ月の公会議であるべきでした。それから皆はさようならを言い、ローマでお互いに会えたこと、すばらしい小さな会合を持ったことを幸せに思って家に帰ったことでしょう。

教皇は公会議が一つの世界それ自体、絶えざる衝突の世界であることということを悟られました。公会議の第一会期からはテキストは何も出ませんでした。教皇ヨハネ二十三世はこのことによって圧倒されました。そして私はこのことが彼の死を早めたと確信しています。死の床で教皇は「公会議を止めろ、公会議を止めろ」と叫ばれたとさえ言われて来ました。

教皇パウロ六世リベラル派に支持を与えられる

教皇パウロ六世が登場されました。教皇がリベラル派に支持を与えられとことは明らかです。なぜそうだったのでしょうか?

その教皇職のそもそもの初めから、公会議の第二会期の間に、教皇は直接4人の教会総会議長(Moderator)を指名されました。4人の教会総会議長は第一会期の間議長を務めた10人の代わりに公会議を指導しなければなりませんでした。これらの議長--彼らのうちの一人が一つの会合の議長を務め、そして次に第二の会合、そして次に第三の会合の議長を務めました--は他の人々よりも一段高いテーブルに座りました。しかし彼らは名誉議長となるべきでした。4人の教会総会議長が公会議の真の議長となりました。

これらの教会総会議長は誰だったのでしょうか?ミュンヘンのドップフナー枢機卿はその一人でした。彼は実際非常に進歩的でまた非常にエキュメニカルでした。スーネンス枢機卿--彼はそのカリスマ性と共に全世界が知っており、司祭たちの結婚のために会議を開いたのです--がもう一人の議長でした。親共産主義のために知られており、彼の Vicar General が共産党の委員に登録されたレルカロ枢機卿が三人目でした。最後にアガジアニアン枢機卿がいました。彼はもし私がそう言うことができるならば、いくぶん伝統派を代表した人でした。

アガジアニアン枢機卿は非常に慎重で控えめな人でした。その結果彼は公会議には何も本当の影響を与えませんでした。しかし他の三人は鳴り響くドラムをもって彼らの仕事を達成しました。彼らは絶えずリベラルな枢機卿たちをまとめました。そのことは公会議のリベラル派にかなりの権威を与えました。

明らかに伝統的な枢機卿と司教たちはまさにこの瞬間から脇へ押しやられ、軽蔑されました。

盲目であった可哀想なオッタヴィアーニ枢機卿が話し始められたとき、彼が割り当てられた十分間の最後にまだ話を終えていなかったときに、若い司教たちの間に反対のブーという声を聞くことができました。このようにして彼らは彼に、彼らが十分に彼の話に耳を傾けたのだということを理解させたのです。彼は話を止めなければなりませんでした。それは恐るべきことでした。この尊敬すべき枢機卿、ローマ中で尊敬され、聖なる教会に巨大な影響を与え、聖省長官--それは小さな職務ではありません--であった人は話を止めざるを得なかったのです。伝統主義者たちがどのように扱われたかを見ることは恥ずべことでした。

非常にエネルギッシュであるモンセイニュール・スタッファ(彼はその後枢機卿に指名されました)は公会議の総会議長たちによって沈黙させられました。これらのことは信じ難いことでした。

教会の革命

これが公会議で起こったことです。すべての公会議文書とテキストがリベラルな枢機卿たちと委員会によって影響を受けたということは明らかです。私たちがそのように多くの変化を、そして教会における真の革命をさえ支持するそのように曖昧なテキストを持っているということはほとんど驚くに足りません。

私たち司教たちと枢機卿たちの伝統的一翼を代表する私たちは何かをすることができたでしょうか?率直に言って、私たちはほとんど何もすることができませんでした。伝統の維持を支持し、教会におけるそのような主要な変化に対して、誤った刷新、誤ったエキュメニズム、誤った司教団のあり方( collegiality )として反対した私たちは250人でした。私たちはこれらすべてのことに反対しました。これら250人の司教たちは明らかにいくらかの影響力を行使し、そしてある場合にはテキストを修正するように圧力をかけました。このようにして悪はいくぶん制限されました。

しかし私たちはいくつかの誤った意見が採用される、特に宗教的自由に関する概要--そのテキストは5回も変更されました--における意見が採用されるのを阻止することに成功することができませんでした。5回も同じ意見が押し出されました。私たちはいずれの機会にもそれに反対しました。反対投票はいつも250票でした。その結果、教皇パウロ六世は、このテキストには教会の伝統的な教えに反することは何もない、そして教会は常にキリストの真の、唯一の教会であり続けると言われながら、二つの小さな文章がそのテキストに付け加えられるように求められました。

次にスペインの司教たちが特に発言しました:「教皇がこの陳述をされたので、もはや何の問題もない。伝統に反するものは何もない」と。もしこれらの事柄が矛盾するならば、そのときこの小さな章句はテキストにあるすべてのことに矛盾します。それは一つの矛盾対立した概要です。私たちはそれを受け入れることはできませんでした。最後に、私がよく覚えているとするならば、ただ74人の司教だけが反対者として残りました。それはそのような反対に遭遇した唯一の概要です。しかし、2500票のうちの74票というのは実際小さなものです。

このようにして公会議は終わりました。私たちはそれ以来導入されてきた諸改革に驚くべきではないでしょう。それ以来、あらゆることは自由主義の歴史です。リベラル派は公会議内部で勝利しました。なぜなら、彼らはパウロ六世が彼らをローマ聖省(Roman Congregation)内部に置くことを要求したからです。そして事実諸々の重要な地位は進歩的な聖職者に与えられました。一人の枢機卿が死ぬとすぐに、あるいはある機会が生ずるやいなや、教皇パウロ六世は伝統的な枢機卿たちを脇へ押しやられ、直ちにリベラルな枢機卿を彼らに取って代わらせられました。

このようにしてローマはリベラル派によって占領されたということです。これは一つの事実です。そのことは否定され得ません。また公会議の諸改革がエキュメニズムの精神を呼吸し、まったく単純にプロテスタントであって以上でも以下でもない改革であるということも否定することはできません。

典礼上の改革

諸々の結果の中で最も重大なのは典礼上の改革でした。それは、誰もが知っているように、長い間先んじてそれを準備していた一人の著名な司祭ブニーニ(Bugnini)によって成し遂げられました。すでに1955年にブニーニ神父はイタリア軍隊の従軍司祭の長であったモンシニョール:ピントネッロ--彼は占領の間ドイツで長い間過ごしました--にプロテスタントの典礼のテキストを翻訳するように頼みました。なぜなら、ブニーニ神父はドイツ語を知らなかったからです。

その当時典礼委員会の取るに足りない委員に過ぎなかったブニーニ神父のためにプロテスタントの典礼書を翻訳したのは自分であったと私に告げたのはモンシニョール:ピントネッロ自身でした。彼は何物でもなかったのです。後に彼はラテランで典礼の教授となりました。教皇ヨハネ二十三世は彼の近代主義と彼の進歩主義のゆえに彼に休暇を取らせておられました。ですから、驚き、驚きです。そして彼は典礼改革のための委員会の長として再び見出されるのです。まったく同じことですが、これは信じ難いことです。

私は自分自身でブニーニ神父がどのような影響力を持っていたかを見る機会を持ちました。人はどうしてこのようなことがローマで起こることができたか、驚きます。公会議直後であったその時、私は聖霊の司祭修道会総長(Superior General of the Congregation of the Fathers of the Holy Ghost)でした。そして私たちはローマで総長会議を開きました。私たちはブニーニ神父に彼の新しいミサが何であるかを説明するように頼みました。なぜならこれはまったく一つの小さな出来事ではなかったからです。公会議直後に規範的ミサ、新しいミサ、ノーヴス・オルド(Novus Ordo)について聞かされました。これらすべては何を意味したのでしょうか?

それは公会議では話されたことはありませんでした。何が起こったのでしょうか?そしてそれゆえに私たちはブニーニ神父に来て彼自身で、一緒にまとまっている84人の修道会総長たち--したがってその中に私はいたのですが--に説明してくれるように頼んだのです。

ブニーニ神父は大きな確信をもって規範的なミサがどんなものとなるかを説明しました。これは変えられるでしょう。それは変えられるでしょう。そして私たちは別の奉献文をそこに挿入するでしょう。私たちは聖体拝領の祈りを縮めることができるでしょう。私たちはミサの深まりのためのいくつかの異なった定式を持つことができるでしょう。私たちは自国語でミサを捧げることができるでしょう。私たちはお互いに顔を見合わせ、言い合いました:「しかし、それは不可能なことです!」と。

彼は、あたかも彼以前には教会の中にはミサがなかったかのように、専制的に話をしました。彼は自分の規範的ミサについて一つの発明として話しました。

私は一般的には私が同意していない人々に反対する問題であるときには自由に話すのですけれども、個人的に私はあまりにも茫然として黙ったままでした。私は一語も発することができませんでした。私の前にいるこの男がカトリック典礼の全改革、ミサの聖なる犠牲の全改革、諸々の秘蹟、聖務日祷そしてすべての私たちの祈りの全改革を任されるということがどうして可能であり得たのでしょうか?教会はどこに行くのでしょうか?

二人の総長は話し出す勇気を持っていました。彼らのうちの一人がブニーニ神父に尋ねました。「これは能動的な参加、つまり一つの身体的な参加、つまり声に出してする祈りでもって言うことですか、それともそれは一つの霊的な参加なのですか?いずれにしても、あなたは信徒の参加についてたいそう話されたので、あなたは信徒がいなくて捧げられるミサをもはや正当化することができないと思われます。あなたのミサ全体は信徒の参加の周りに作り上げられてきました。私たちベネディクト会士たちは私たちのミサを信徒の助けなしに捧げます。このことは私たちの私的なミサ(私唱ミサ)を停止しなければならないということを意味するのですか?なぜなら、私たちはミサに参加する信徒を持たないからです。」

私はブニーニ神父が言ったことを正確にあなたたちに繰り返します。私は、それが私に大きな衝撃を与えたので、それを今でも私の耳の中に持っています。「信頼をもって言いますと、私たちはそのことについては考えませんでした」と彼は言ったのです。

その後、別の総長が立って言いました。「神父様、あなたは、私たちはこれを抑えます、そしてあれを抑えます、私たちはこのことをあのことと置き換えます、そして常により短い祈りによって置き換えます、と言われました。私は、あなたの新しいミサは10分か12分で、あるいは長くても15分で捧げることができるだろうという印象を持ちました。これは分別のあることではありません。これは教会のそのような行為に対して敬意を表することではありません。」ところで、以下が彼の答えたことです:「私たちは常に何かあるものを付け加えることができます。」これは本当のことでしょうか?私はそれを私自身聞きました。たとえ誰かが私に、おそらく私ならそれを疑ったであろうその話を告げたとしても、私は私自身新たにそれを聞いた[と言うでしょう。]

後になって、この規範的なミサが実践に移され始めた時に、私は非常に嫌悪を感じましたので、私たちはある小さな会合において何人かの司祭や神学者たちと会いました。その会合から「短い批判的な研究」が生まれました。それはオッタヴィアーニ枢機卿に渡されました。私がその小さな会合の議長を務めました。私たちはお互いに言い合いました。「私たちは行って枢機卿たちを見つけなければならない。私たちは何の反応もしないままにこことが起こるのを許すことはできない」と。

それで私自身国務省長官、チコニャーニ枢機卿を見つけに行きました。そして彼にこう言いました。「閣下、あなたはこのことが通ることを許すおつもりはないでしょうね、どうですか?それは不可能です。この新しいミサというのは何ですか?それは教会における一つの革命、典礼における一つの革命です」と。

教皇パウロ六世の国務省長官であったチコニャーニ枢機卿は両手で頭をかかえて私に言われました:「おお、モンシニョール、私はよく分かっています。私はまったくあなたに同意します。しかし、私に何ができますか?ブニーニ神父は教皇様の執務室に行き、彼が望むことを教皇様に署名させます。」このことを私に告げたのは国務省長官だったのです!ですから、教会において教皇自身に続く第二位の人物である国務省長官がブニーニ神父に関してはより劣る地位に置かれていたのです。ブニーニ神父は望む時に教皇執務室に入って行くことができ、そして望むことを教皇に署名させることができたのです。

このことは教皇パウロ六世が読まれたことがないテキストになぜ署名されたのかを説明できます。教皇はジュルネ(Journet)枢機卿に、自分がこのことをしたのだと告げられました。ジュルネ枢機卿はスイスのフリブール大学教授で洞察力のある思想家であり、また偉大な神学者でした。ジュルネ枢機卿は、ノーヴス・オルドに先行するミサの定義を説明書の中に見たときこう言われました:「ミサのこの定義は受け入れられないものです。私はローマに行って教皇に会わなければならない」と。彼は行って、そしてこう言われました:「教皇様、あなたはこの定義を許すことはできません。それは異端的です。あなたはこのような文書にあなたの署名を残すことはできません」と。教皇は彼にこう答えられました。(ジュルネ枢機卿は彼自身私に告げられたのはありません。しかし彼はそれを私に繰り返してくれたある人に告げられました):「そうですね。信頼をもって言えば、私はそれを読まなかったのです。私はそれを読まずに署名しました」と。明らかに、もしブニーニ神父が教皇に対してそのような影響力を持っていたとすれば、それはまったく可能です。彼は教皇にこう言ったに違いありません。「あなたはそれに署名することができます。」「しかしあなたはそれを注意深く見ました。」「そうです、あなたは前に進み、それに署名します。」そして教皇は署名されました。

しかしこの文書は聖省を通過しませんでした。私はこのことを知っています。というのはセペ(Sepe)枢機卿自身が私に、ノーヴス・オルドが編集されたとき不在だったこと、そしてそれは聖省によって通らなかったことを告げられたからです。ですから、実際教皇の署名を得たのは、そしておそらく教皇に署名するように強要したのはブニーニ神父なのです。私たちは知りません。しかし彼は疑いもなく教皇に対して普通ではない影響力を持っていたのです。

ブニーニ神父に関して私自身がその証人である第三の事実はまた驚くべきものです。手による聖体拝領(Communion in the hand)(なんと恐るべきことでしょう!)に対して許可が与えられたとき、私は何も言わずに坐していることはできないと自分自身に言いました。私は行ってグート(Gut)枢機卿--彼は礼拝聖省長官でした--に会わなければならない、と。それゆえ、私はローマに行きました。ローマでグート枢機卿は非常に友好的なやり方で私を迎えてくれました。そしてすぐに私に言われました:「私は私の副責任者を作ろうと思います。アントニーニ大司教が来て、彼もまたあなたが言わなければならないことを聞くことになるでしょう。」

私たちが話したときに私は言いました:「聴いてください。礼拝聖省に対して責任を持っておられるあなた、あなたは手による聖体拝領を認めるこの布告を認められるつもりですか?全教会を通じて広まろうとしている聖体に対する尊敬の欠如について考えてみてください。あなたはおそらくそのようなことが起こることを許すことはできないでしょう。すでに司祭たちはこのやり方でご聖体を授けることを始めています。それはすぐに止められなければなりません。そしてこの新しいミサと共に彼らは常に最も短いカノン--すなわち非常に短い第2カノンを使います。」

このことについて、グート枢機卿はアントニーニ大司教に言われました:「ごらん、私はこのことが起こるだろう、そして司祭たちがミサがもっと早く行われ、もっと早く終わるように最も短いカノンを使うだろうと、あなたに告げたでしょう」と。

後でグート枢機卿は私に言われました:「モンセイニュール、もしある人が私の意見を訊ねたとすれば(彼が「ある人」と言ったとき、彼は教皇のことを言っておられたのです。なぜなら、教皇以外に彼より上の人は誰もいなかったからです)、しかしそれが私に訊ねられるかどうか確信はありません(彼が礼拝聖省長官であり、礼拝と典礼に関係したすべての事柄に対して責任を負っていたということを忘れないでください!)、しかしもし教皇様がそのことについて訊ねられたならば、私は、モンセイニュール、教皇の前に跪いて、彼にこう言うでしょう、『教皇様、このことをしないでください。この布告に署名しないでください』と。モンセイニュール、私は跪くでしょう。しかし、私が訊ねられるかどうか知りません。なぜなら、ここで命令しているのは私ではないからです。」

このことは私が自分自身の耳で聴いたことです。彼は礼拝聖省において第三番目の地位にいたブニーニのことを暗示していました。すべての人の中で第一位はグート枢機卿、次にアントニーニ大司教、そして次に典礼委員会の委員長ブニーニ神父でした。あなたたちはそのことを聴いておくべきだったのです!ああ悲しいかな、あなたたちは、私がお前は反体制派だ、そして不従順な反抗者だと言われたときに私の態度を今や理解することができるのです。

教会を破壊するための教会への潜入

そうです、私は一人の反抗者です。そうです、私は一人の反体制派です。そうです、私はブニーニのような人々に対して不従順です。なぜなら、彼らは教会を破壊するために教会の中へと潜入したからです。他の説明はありません。

そのとき私たちは教会の破壊に貢献しようとするのでしょうか?私たちは「しかり、しかり、アーメン」と言うのでしょうか?それが、まさに教皇のところに潜入し、教皇に自分が望んでいることをサインさせることができる敵であるとしても?彼がいかなる圧力の下でそうしたか私たちは実際知りません。明らかに私たちの注意から漏れる隠された事柄があります。ある人々はそれはフリーメーソンであると言います。あり得ることです。私は知りません。いずれにせよ、そこには一つの説明できないことがあります。

枢機卿ではない、司教でさえない、当時はまだ非常に若かった、そして教皇ヨハネ二十三世の意志(教皇は彼をラテラン大学から追い出されたのです)に反して抜擢された一人の司祭がどのように国務省の枢機卿、また礼拝聖省長官の枢機卿を何ら考慮することなく、非常に高い地位に昇ることができるのでしょうか?彼はどのようにして直接教皇のところへ行き、そして自分が望んでいることに教皇の署名をさせることができるのでしょうか?そのようなことはこれまでに聖なる教会において一度も見たことはないことです。あらゆることは諸々の権威を通過するべきでした。だからこそ諸々の委員会が存在しているのです。いろいろの書類が検討されています。しかしこの男はまったく強力でした!

私たちのミサを変えるためにプロテスタントの牧師たちを導き入れたのは彼でした。それはグート枢機卿ではありませんでした。それは国務省の枢機卿ではありませんでした。それはおそらく教皇でさえなかったでしょう。それは彼でした。この男ブニーニとは誰なのでしょうか?ある日、壁の外の聖パウロの元修道院長、ブニーニ神父の前に典礼委員会の長であったベネディクト会士は私に言いました:「モンセイニュール、ブニーニ神父について私に話さないでください。私は彼についてあまりにも知りすぎています。彼について私に訊ねないでください。」私は答えました:「しかし、私に言ってください。私はそれを知らなければならないのです。真理は明らかにされなければならないのです。」ラテラン大学から彼を追い出すようにヨハネ二十三世に頼んだのはおそらく彼です。

これらすべての事柄は、すでに聖ピオ十世がすでに言われたように、敵がまさに教会内部に潜入したということを私たちに示しています。ラ・サレットの聖母が告知なさったように、そしてファチマの第三の秘密が疑いもなく私たちに告げているように、彼は最高の地位にいます。

よろしい、もし敵が本当に教会内部にいるならば、私たちは彼に従わなければならないのでしょうか?「そうです、なぜなら、彼は教皇を代表しているからです」というのが、しばしば繰り返される一つの答えです。まず第一に私たちはこのことを全然知りません。なぜなら、私たちは教皇が何を考えておられるのか、正確には知らないからです。

それでも、私は教皇パウロ六世がヴィヨ枢機卿によって大きな影響を受けられたといういくつかの個人的証拠を持っています。ヴィヨ枢機卿はフリーメーソンであったと言われてきました。私は知りません。いくつかの奇妙な事実があります。ヴィヨ枢機卿に宛てたフリーメーソンの数通の手紙が写真複写されてきました。私はその証拠を持っていません。いずれにせよ、ヴィヨ枢機卿は教皇に対してかなりの影響力を持っていました。彼はローマにおける全権力を彼の手中に集中させました。彼は教皇以上に主人公となりました。私はあらゆることが彼を通過しなければならなかったことを知っています。

ある日私はカナダ・カテキズムに関してライト(Wright)枢機卿に会いに行きました。私は彼に言いました:「このカテキズムを見てください。"Purture"という表題をつけられたこれらの小さな書物に気がついておられますか?子どもたちが離脱するように教えられるということは嫌悪を催すことです。彼らは家族から、社会から、伝統から離脱しなければならないのです。これがモンセイニュール・クーデルク(Couderc)の出版許可承認印をもってカナダの子どもたちに教えられているカテキズムです。全世界におけるカテキズムに対して責任を負っておられるのはあなたです。あなたはこのカテキズムに同意なさいますか?」「いいえ、いいえ、」と彼は私に言われました:「このカテキズムはカトリック的ではない。」--「それはカトリック的ではない!。ではすぐにカナダの司教会議に告げなさい。彼らにこのカテキズムを止め、火の中に投げ入れ、そして真のカテキズムを取り入れるように告げなさい。」彼の答えはこうでした:「どのように私自身司教会議に反対することができるでしょうか?」

それで私は言いました:「それは終わったのです。教会にはもはや権威はありません。それは終わったのです。たとえそれが子どもたちの信仰を破壊する過程にあるとしても、もしローマが一つの司教会議にもはや何も言うことができないならば、そのときそれは教会の終りです。」

これが今私たちがいる地点です。ローマは司教会議を恐れています。これらの会議は嫌悪を引き起こすようなものです。フランスにおいては司教会議は避妊に賛成するキャンペーンに巻き込まれてしまいました。テレビで「中絶を避けるためにピルを飲みなさい」というスローガンを絶えず宣伝している社会主義政府が彼らを巻き込んだと、私は思います。彼らはピルに賛成する途方もないプロパガンダを推進することよりもよいことを何一つしませんでした。ピルの費用は、中絶を避けるために、ほんの十二歳にすぎない少女たちのために使われるのです!そして司教たちは承認するのです!私の前の司教区であるチュッレ(Tulle)司教区ブレティンの中には避妊に賛成する公式の文書が見出されます。そしてそのブレティンを私は受け取り続けています。これはスルピス会の前総長ブリュノー(Bruneau)司教から来ました。彼はフランスの最善の司教の一人だと考えられています。事態はかくの通りなのです!

なぜ私は誤謬に従わないのか?

私は何をなすべきなのでしょうか?私はこう言われます:「あなたは従わなければならない。あなたは不従順である。あなたはあなたがしていることをし続ける権利を持っていない。なぜなら、あなたは教会を分裂させているからだ。」

法とは何でしょうか?裁定とは何でしょうか?何が従順を強いるのでしょうか?レオ十三世は言っておられます、法とは共通善への理性の秩序づけであるが、共通悪に対する秩序づけではない、と。このことは非常に明白なことなので、もしある規則がある悪へ向かって命令されるならば、そのときそれはもはや法ではないのです。レオ十三世はその回勅「自由」"Libertas" の中でこのことをはっきりと言われました。共通善のためではない法は法ではない。従って人はそれに従うことを義務づけられることはないのです。

ローマの多くの教会法の法律家たちはブニーニのミサは法ではないと言っています。新しいミサのための法はなかったのです。それは単に一つの認可、あるいは一つの許可にすぎません。議論のために、共通悪への理性の秩序づけではなく、共通善への理性の秩序づけであるローマから来た一つの法があったということを受け入れましょう。しかし新しいミサは教会を破壊し、信仰を破壊する過程にあります。それは明白です。モントリオールの大司教、グルゴワール(Grgoire)大司教は公表された一通の手紙の中で非常に勇気がありました。彼はモントリオールの教会が蒙っている諸悪を非難した手紙を敢えて書かれた稀な司教たちのうちの一人です。「私たちは大多数の信徒によって見捨てられた諸々の小教区を見て非常に悲しんでいる。私たちはこのことの原因が、大部分、典礼改革にあると考える。」彼はそれを言う勇気を持っておられました。

私たちは、全世界を通じてトレントのラテン語ミサに関する有名な調査を行ったノックス(Knox)枢機卿のような、枢機卿たち自身の側での教会内部での真の企てに直面しています。「伝統を望む人がそのうように少数の人しかいないのならば、それはそれ自体消え失せるでしょう。彼の調査は何の価値もなかったのです」と言われたという教皇ヨハネ・パウロ二世に影響を及ぼすための、それは明白で明らかな一つの嘘でした。それでも教皇は、1978年11月に彼が謁見において私に会ってくださった時点では、司祭たちが彼らの選ぶミサを捧げることができる同意に署名なさる準備がありました。教皇はそれに署名する用意あったのです。

しかしローマには伝統に強く反対する枢機卿たちの一つのグループがあります。宗教省長官枢機卿のカザロリ(Casaroli)枢機卿、そして司教たちを指名するという非常に重要な責任を持っている司教省長官のバッジオ(Baggio)枢機卿などが彼らの中にいます。次に礼拝省の第二位の地位にあり、おそらくブニーニよりも悪くさえある悪名高いヴィルジリオ・ノエ(Virgilio Noe)がいます。そして次に聖省の第二位の地位にいるベルギーの大司教、アメル(Hamer)枢機卿--彼はループスン(Loopsn)地方から来ており、ルーヴァンのあらゆる現代的な考え方で染められています--がいます。彼らは伝統に激しく反対していました。彼らは伝統について話す私たちの話を聴くことを望みませんでした。私が彼らがもしできることなら私を絞め殺していただろうと思います。

少なくとも私たちに自由を残しなさい

彼らは私が教皇から伝統に対する自由を得ようと努力をしていることを知るとすぐに私に反対して団結します。ただ私たちを平和のうちにとどまらせなさい。ただ私たちを、カトリック教徒が数十世紀の間祈ってきたように、祈らせなさい。ただ私たちが神学校で学んだことを続けさせなさい。あなたたちが若かったときにあなたたち自身学んだこと、すなわち、私たち自身を聖化する最善のやり方を私たちに続けさせなさい。

これが私たちが神学校で教えられたことです。私は司祭であったときこのことを教えました。私が司教になったとき、私自身このことを私の司祭たち、私のすべての司祭たちそして私の神学生たちに言いました。このことは聖人になるためにあなたたちがする必要のあることです。教会によって私たちに与えられているミサの聖なる犠牲を愛しなさい。教会の諸々の秘蹟、そして教会のカテキズムに献身しなさい。そして特に何一つ変えてはいけません。伝統を守りなさい。二十世紀にわたって続いてきた伝統から離れてはいけません。それは私たちを聖化するものです。それは聖人たちを聖化したものです。しかし今すべてが変化しました。こうであることはできません。ただ私たちに少なくとも自由を残しなさい!

明らかに、彼らがこのことを聴くとき、彼らは直ちに教皇のところへ行きそして彼に言います:「ルフェーブル大司教には何も認めてはいけません。伝統に対しては何も聞き入れてはいけません。特に議論での敗北を認めてはいけません。」

これらの人々は国務省のカザロリ枢機卿のような最も重要な枢機卿たちですので、教皇は敢えて何かをしようとはされません。ラッツィンガー枢機卿のように、むしろもっと一つの同意に賛成しようとする数人の枢機卿たちがいます。1981年クリスマスに亡くなったセペル(Seper)枢機卿に取って代わったのは彼です。ラッツィンガー枢機卿はそれにもかかわらず公会議の時には非常にリベラルでした。彼はラーナー(Rahner)、ハンス・キュング(Hans Kung)、シレベークス(Schellebeeckx)の友人です。しかしミュンヘン司教区の大司教としての彼の指名は彼の目を幾分開かせたと思われます。彼は今は確かに諸改革の危険についてはるかに意識するようになっておられますし、列聖聖省を預かっているパラッツィーニ(Palazzini)枢機卿、聖職者聖省を預かっているオッディ(Oddi)枢機卿と共に、伝統的な諸規則に戻ることをより望んでおられます。これら三人の枢機卿は私たちに自由を許すことに賛成しようとしておられるようです。しかし他の枢機卿たちは教皇に対して大きな影響力をまだ持っています。

私は、教皇によって[聖ピオ十世]会および私自身との関係のための個人的な仲介者としてセペル枢機卿に取って代わるよう指名されたラッツィンガー枢機卿に会うために5週間前にローマに居ました。セペル枢機卿は教皇ヨハネ・パウロ二世が私に許された謁見の機会に指名されました。教皇はセペル枢機卿を来させそして彼に言われました。「閣下、あなたはルフェーブル大司教と私自身との間の関係を維持する役割を持つことになるでしょう。あなたは私の仲介者となるでしょう。」今彼はラッツィンガー枢機卿を指名されました。

私は彼に会いに行き、1時間45分の間彼と話しました。確かにラッツィンガー枢機卿はよい解決に達するためにより積極的、より意欲的であるように思われます。唯一の困難--それはやや骨の折れるものですが--はミサです。最終的にはそれは常にそもそもの初めから、ミサの問題でした。

なぜなら、彼らは私が公会議に反対ではないということを非常によく知っておられるからです。私が公会議において受け入れることができないいくつかの事柄があります。私は宗教的自由に関するシェマには署名しませんでした。私は現代世界における教会に関するシェマに署名しませんでした。しかし、私が公会議に反対であると言うことはできません。これらは、伝統に反対のものであるがゆえに受け入れることができない事柄です。このことは彼らをあまりにも多く狼狽させるものであってはなりません。なぜなら、教皇自身こう言われたからです。「公会議は伝統の光において見られなければならない」と。もし公会議が伝統の光において受け入れられるべきであるならば、私はまったく心を乱されません。

私は喜んでこれに署名します。なぜなら、伝統に反するあらゆることは明らかに退けられるべきだからです。教皇が私に許された謁見の間に(編集者注:1978年11月18日に)教皇は私に訊ねられました:「この打開策に署名する用意ができていますか?」私は答えました:「あなたご自身がそれを用いられました。そして私はそれに署名する準備ができています。」それから教皇は言われました:「さてどんな諸問題が残っていますか?あなたは教皇を受け入れますか?」--「もちろん、私たちは教皇を認めています。そして私たちの神学校では教皇のために祈っています。私たちは教皇を非常に尊敬しています。教皇が私に来るように求められるときにはいつも来ました。しかし典礼に関して一つの困難があります。」私は教皇に言いました。「それは本当に非常に重要です。新しい典礼は教会と神学校を破壊する過程にあります。これは非常に重要な問題です。」--「しかし全然そうではない。これは単に規律に関連する(disciplinary)問題です。それは全然重大なことではありません。もしこれが唯一の問題ならば、それは取り決めることができると私は思います。」

そして教皇はセペル枢機卿を呼ばれました。彼はすぐに来ました。もし彼が来なかったならば、私は教皇が同意に署名される用意があったと私は思います。セペル枢機卿が来ました。そして教皇は彼に言われました。「ルフェーブル大司教と同意をすることはそれほど難しいことではないと私は思う。われわれは同意に達することができると私は思う。ただ少しやっかいな典礼の問題があるだけです。」--「しかし、ルフェーブル大司教に対して何も認めてはいけません」と枢機卿は大声を上げました。「彼らはトレントミサを旗にしています。」--「旗?」私は言いました。「しかしもちろん聖なるミサは私たちの信仰の旗、信仰の神秘 mysterium fideiです。それは私たちの信仰の偉大な神秘です。それが私たちの旗であるということは明らかです。なぜなら、それは私たちの信仰の表現だからです。」

このことは教皇に対して一つの深い印象を与えました。教皇はほとんどすぐに変わられた思われました。私の意見ではこれは教皇が強い人間ではないということを示しました。もし教皇が強い人間であられたならば、こう言われことでしょう。「この問題を決めようとしているのは私である。われわれは事柄を決着しようとしているのだ」と。しかしそうではありませんでした。教皇はすぐに、あたかも恐れてでもいるかのようになられました。教皇は恐れるようになられました。そして執務室を離れられたとき、セペル枢機卿に言われました。「あなたは今一緒に話すことができます。あなたはルフェーブル大司教と一緒に解決を図るよう努力することができます。あなたはここにとどまることができます。しかし私は行ってバッジオ(Baggio)枢機卿と会わなければなりません。彼は司教たちに関して私に示すべき非常に多くのファイルを持っています。私は行かなければなりません。」教皇は去られるとき私に言われました。「止めなさい、モンセイニュール、止めなさい。」教皇は変わられました。数分の間に教皇は完全に変わられました。

私が一人のポーランドの司教から受け取った手紙を教皇に示したのはこの謁見の間でした。かれは、私がエコンに設立した神学校、そして私が養成している司祭たちについてにお祝いの言葉を言うために一年前に私に書いて来ました。彼は私がその伝統と共に古いミサを守ることを望んでいました。彼は自分が唯一の人間ではないとつけ加えていました。われわれはあなたに敬服し、あなたの神学校に敬服し、あなたが司祭たちに与えている養成そしてあなたが教会内部で守っている伝統に敬服している数人の司教たちです。なぜなら、私たちは新しい典礼--それはわれわれの信徒に信仰を失わせている--を使うことを強いられているからです、と。

それがそのポーランドの司教が言ったことです。私は自分自身に次のように言いながら、教皇に会いに行くときにこの手紙を一緒に持って行きました。「教皇は確かにポーランドについて私に話されるだろう」と。私は間違っていませんでした。教皇は私に言われました。「しかし、知っているでしょう。ポーランドではすべてが非常にうまく行っています。なぜあなたは改革を受け入れないのですか?ポーランドでは何の問題もありません。人々はラテン語を失ったことをただ悲しんでいるだけです。私たちはラテン語に非常に愛着がありました。なぜならそれは私たちをローマに結びつけていましたし、私たちはまさにローマ的なのだからです。それは残念なことです。しかし私は何をすることができるでしょうか?神学校にも、聖務日祷書にも、ミサにももはやラテン語はありません。それはまったく un facunate です。しかしそれはまさにその通りなのです。私たちの神学校は満員です。そして私たちの教会は満員です。」

私は教皇に言いました:「私がポーランドから受け取った一通の手紙をあなたに見せることをお許しください。」私はそれを教皇に見せました。教皇は、司教の名前を見たときこう言われました。「おお、この人は共産主義者たちの敵のうちの最も著名な人です。」--「それはよい人物証明です」と私は言いました。教皇はその手紙を注意深く読まれました。私はその手紙の中で二度繰り返されたそれらの言葉に教皇がどのように反応されるかを見るためにその顔に注目しました。教皇の言葉はこうです。「私たちは新しい典礼--それはわれわれの信徒に信仰を失わせている--を使うことを強いられている」と。明らかに教皇はこれを受け入れることはできませんでした。最後に教皇は私に言われました。「あなたはこのような手紙を受け取ったのですか?」--「そうです。これはあなたに持って来た写真複写です。」--「それは捏造に違いない」と教皇は答えられました。

私は何を言うことができたでしょうか?私はもはや何も言うことができませんでした。教皇は私に言われました。「ご存じだろうが、共産主義者たちは司教たちの間に分裂を引き起こすためのその努力において非常に狡猾です。」それゆえ、教皇によればこれは共産主義者たちによってでっち上げられ、そして次に私に送られた手紙だったのです。私はこのことについて非常に疑っています。この手紙はオーストリアで投函されました。なぜなら、私はそれを書いた人が共産主義者がそれを途中で奪い、そしてそれが届かないことを恐れたと思います。それが彼がオーストリアでそれを投函した理由です。私はその司教に返事を出しましたが彼からはそれ以上何も聴きませんでした。

このすべてのことは、私がポーランドにおいてさえ重大な分裂があると考えると言うことです。さらに、平和司祭たちと伝統を堅く守ることを望む人々との間に常に分裂が存在してきたのです。これが鉄のカーテンの背後での悲劇であったのです。

ローマに対する共産主義の影響

あなたたちはイエズス会士、レピディ(Lepidi)神父による『モスクワとヴァチカン』という書物を読むべきです。それは並はずれています。それは共産主義者たちがローマにおいて持っていた影響力を示しています。そして彼らが司教たちの任命、そして二人の枢機卿:レカイ(Lekai)枢機卿とトマセック(Tomaseck)枢機卿の任命すらにどのように責任を持っていたかを示しています。レカイ枢機卿はミンゼンティ(Mindszenty)枢機卿の後継者であり、トマセック枢機卿はベラン(Beran)枢機卿の後継者でした。ミンゼンティ枢機卿とベラン枢機卿は二人共信仰のための英雄そして殉教者でした。彼らは、まず何よりも、司祭たちを迫害した共産主義政府との了解に達することを決心した平和司祭たちによって取って代わられました。これらの伝統的な司祭たちは地方で洗礼を授け、カトリック教会における司牧者としての彼らの働きを続けることができるよう内密に公教要理を教えるために内密で出かけました。そしてそれにもかかわらず、彼らは彼らの司教たちから迫害されました。司教たちは彼らに言いました。「あなたたちは共産主義政府の諸規則を尊敬しない権利を持っていません。あなたたちは共産主義政府の法律に反して行動することによって私たちにひどい仕打ちをしているのです。」

しかしこれらの司祭たちは、子どもたちの信仰を守るように、家族における信仰を守るように、そして秘蹟を必要としていた人々に秘蹟を授けるように彼らの生命を捧げる用意ができていました。明らかにこれらの国々においては、もし聖体の秘蹟を病院へ運ぶ、あるいは何であれ何かをしたいと思ったならば、常に許可を求めなければなりませんでした。彼らが聖具保管室を出るやいなや、これらの司祭たちはあれこれのことをすることが彼らに許可されたかどうかを共産党に訊ねる義務を負わされていました。このようなことは不可能なことでした。人々は秘蹟を授からずに死にました。子どもたちはもはやキリスト教的なやり方では教育されませんでした。ですから司祭たちはこれらのことを内密にしなければなりませんでした。もし彼らが逮捕されたならば、それはしばしば司教たち自身が彼らを迫害したからです。それは恐るべきことです。

ウィシンスキー(Wyszynski)枢機卿もスリピ(Slipyi)枢機卿もミンゼンティ枢機卿もベラン枢機卿もこのようなことはしませんでした。彼らはその反対に彼らに次のように言いながら善い司祭たちを励ましました。「どうぞ、やりなさい。もしあなたたちが牢屋に入れられるならば、あなたたちは司祭としての義務を果たしたことになるのです。もしあなたたちが殉教死をしなければならないならば、そのときあなたたちは殉教者となるのです。」

このことは彼ら共産主義者たちがどのように大きな影響力をローマに対して持っていたかを示しています。私たちがそのことを想像するのは非常に困難です。私たちはそのことを信じることさえできません。

私はこれまで一度も教皇に反対したことはありません。私は教皇は教皇でないと言ったことは決してありません。私はまったく教皇、ペトロの後継者の側に立っています。私はローマから分離することを欲しません。しかし私は近代主義、進歩主義そしてプロテスタンティズムが諸改革を通じて及ぼしたすべての悪しき破壊的な影響には反対です。私は私たちを毒し、そして信徒の生活を毒するすべての改革に反対です。

このように私は言われました:「あなたは教皇に反対している」と。「いいえ、私は教皇に反対ではありません。その反対に、私は教皇を助けに来ています。なぜなら、教皇は近代主義者であることはできず、進歩主義者であることはできないからです。たとえ彼が引き回されることを自分に許すとしても、それは弱さによってです。このことは起こり得ます。聖ペトロもまたユダヤ人に関しては弱かったのです。そして聖パウロは厳しく彼を叱責しました。「あなたは福音に従って歩んでいない」と彼は聖ペトロに言いました。聖ペトロは教皇でした。そして聖パウロは彼を叱責したのです。そして彼は強力にそのことをしました。「私は教会の頭を非難しました。なぜなら、彼は福音の法に従って歩んでいなかったからです。」このことを教皇に言うことは重大なことです。

シエナの聖カタリナもまた数人の教皇たちを激しく非難しました。私たちは同じ態度を持たなければなりません。私たちは言います。「教皇様、あなたはご自分の義務を果たしておられません。あなたは近代主義者であるすべての枢機卿や司教たちによって迫害されている伝統に立ち帰らなければなりません。あなたは教会の荒廃を引き起こそうとしておられるのです。」

私は、教皇が心の中で大いに心配しておられ、教会を刷新する手段を探しておられると確信しています。私は、私たちの祈りと犠牲、そして聖なる教会を愛し、教皇を愛する人々の祈りによって私たちが成功することを希望しています。

このことは特に祝せられたおとめマリアへの信心によって[可能]でしょう。もし私たちが聖母に祈るならば、自分の御子を見捨てることがおできにならない聖母、御子が建てられた教会--その御子の神秘的花嫁--を見捨てることがおできにならない聖母は私たちにお答えになるでしょう。それは困難であり、一つの奇跡でしょう。しかし、私たちは成功するでしょう。

私自身としては、私は人々が新しいミサはよい、しかしそれはただトレントのミサよりはよくないだけだと私に言わせることを望みません。私はそう言うことはできません。私はこれらの近代的な秘蹟はよいと言うことはできません。それらはプロテスタントたちによって作られたものです。それらはブニーニによって作られたのです。そしてブニーニ自身、1965年3月19日に以下のように言いました。それは今でも「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」および「ドキュマンタシオン・カトリック」--この雑誌はブニーニの講演の翻訳を公表しました--において読むことができます。

「われわれはわれわれのカトリックの祈りとカトリック典礼からわれわれの分離された兄弟たちのため、すなわちプロテスタントたちのためにつまずきの石の影となり得るすべてのものを剥ぎ取らなければならない。」

これは1965年3月19日、すべての改革の直前のことです。私たちはプロテスタントたちのところへ行き、ミサの聖なる犠牲に関して、私たちのカテキズムに関して彼らに訊ねることができるのでしょうか?あなたたちはどの点に同意しないのですか?あなたはこれを好みませんか、それともあれを好みませんか?...よろしい、私たちはそれを抑えましょう。このようなことは不可能なことです。そうすることはおそらく異端的なことではないでしょう。しかし、カトリック信仰は傷つけられるでしょう。このようにしてそれは、人々がもはや古聖所、煉獄そして地獄を信じないということなのです。原罪はもはや信じられず、天使たちも信じられていません。聖寵は信じられていません。人々はもはや超自然的であるものについては話しません。私たちの信仰は滅ぼされつつあります。

ですから、私たちは私たちの信仰を堅く守り、いとも聖なるおとめマリアに祈らなければなりません。私たちは一つの巨大な任務を引き受けたいと望んでいます。そしてよき主の助けなしには、私たちはそれを達成することは決してできないでしょう。私は私の弱さと私の孤立を確実に意識しています。教皇あるいは枢機卿たちと比べて、私は自分自身で何ができるでしょうか?私は知りません。私は一人の巡礼者として、私の巡礼仲間たちと共に進みます。私は「信仰を守りなさい」と言おうとしています。信仰を守りなさい。あなたの信仰を棄てるよりは殉教者でありなさい。あなたは秘蹟を守り、ミサの聖なる犠牲を守らなければなりません。

あなたはこう言うことはできません。「しかし、今はすべてが異なっているのです。それは結局のところそれほど悪くはありません。私に関するかぎりでは、私は堅固な信仰を持っており、そして私は信仰を失いそうではないです」と。なぜなら、習慣的に新しいミサと新しい秘蹟に預かっている人々がものの考え方の徐々の変化を経験することは明らかだからです。数年の後には、この新しいエキュメニカルなミサに定期的に行っている誰かある人に質問すると、彼がそのエキュメニカルな精神を身につけたということが明らかとなるでしょう。このことは、彼がすべての諸宗教を同じ地盤の上に[同等なものとして]置くことで終わるということを意味します。もし彼が、人はプロテスタンティズムを通じて、仏教を通じて救われるのか、それともイスラム教を通じて救われるのかと訊ねられるならば、こう答えるでしょう。「もちろん。すべての宗教はよいものです。」ご覧の通りです。彼はリベラルそしてプロテスタントとなりました。そしてもはやカトリックではありません。

ただ唯一の宗教だけが存在します。宗教は二つはありません。もしわれらの主が神であり、一つの宗教、カトリック宗教を建てられたのであるならば、他のいかなる宗教もありません。それは不可能なことです。他の諸宗教は偽りです。それがオッタヴィアーニ枢機卿が「宗教的寛容について」という表題を用いられた理由です。

諸々の誤謬はそれらが阻止され得ないときには許容されることはできます。しかし諸々の誤謬を真理と同じ地盤の上に同等なものとして置くことはできません。そのとき、宣教の精神は存在し得ないでしょう。宣教の精神はそのとき可能ではないでしょう。もしすべての偽りの宗教が霊魂を救うならば、そのときなぜ宣教に出かけるのですか?人はそこへ何をしに行くのですか?私たちはただ彼らを彼らの宗教のうちに置いたままにしなければならず、そして彼らは皆自分たち自身を救うことになるのです。これは不可能なことです。それでは、教会は二十世紀の間何をしてきたのですか?すべての殉教者たちはなぜなのですか?なぜ彼らは皆宣教において虐殺されたのですか?宣教師たちは彼らの時間を無駄に使ったのですか?殉教者たちは彼らの血と彼らの生命を無駄に使ったのですか?私たちはそのようなことを受け入れることはできません。

私たちはカトリックにとどまらなければなりません。エキュメニズムへと滑り落ちることは非常に危険です。人は容易に、もはやカトリック宗教ではない一つの宗教に落ち込みます。

たとえ私たちが新聞において、小教区において、そして教会において軽蔑され、侮辱されなければならないとしても、すべての人がわれらの主の証人、カトリック教会の証人、信仰の証人そしてカトリシズムの証人であることができるように、私は心から望んでいます。それがどうしたと言うのでしょうか?私たちはカトリック教会の証人なのです。私たちはカトリック教会の真の子どもであり、祝せられたおとめマリアの真の子どもなのです。

マルセル・ルフェーブル大司教

(1992年1月--2月Fideliterから翻訳されたもの。そしてAngelusのさまざまの号の各箇所で公表されたものである。)

2004/01/19 三上 茂 試訳

作成日:2004/01/19
最終更新日:2006/07/13

The Infiltration of Modernism in the Church

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