ファチマ・クルーセイダー



われわれの生命であるマリアは
われわれのために忍耐を得させてくだる

聖アルフォンソ・リグオリ 『マリアの栄光』より

The Fatima Crusader Issue 86, Summer 2007

最終的な忍耐は神の非常に大きな賜物であるので(トレントの聖なる公会議によって宣言されたように)それは神の側でまったく無償のものであり、そしてわれわれがそれを受けるに値する者であることはできない。にもかかわらず、われわれは聖アウグスティヌスによって、それを捜し求める者はすべてそれを神から得ると告げられている。そしてスアレス神父に従えば、彼らがもしその生涯の最後に至るまでそれを求めることに熱心であるならば、それを不可謬的に得るのである。なぜなら、ベラルミンがうまく指摘しているように、「日々必要とされるものは毎日求められなければならない」からである。ところで、今一般に受け取られている意見に従えば、神が人々にお与えになるすべての恩寵はマリアの御手を通じて来るということがもし真であるならば(そして私はそれは確実なことであると主張する)- そしてそのことを私はこの著作(マリアの栄光の第4章)において証明するつもりである - われわれがすべての恩寵のうちでも最大のもの - 忍耐 - を希望することができるのはただマリアを通じてだけであるということも等しく真であろう。そしてわれわれは、マリアを通じて信頼をもってそれを常に求めるならば、最も確実にそれを得るであろう。マリア御自身は、マリアに生涯の間忠実に仕えるすべての人々にこの恵みを、シラの書の次の言葉において約束なさっている。そしてそれらの言葉はマリアの汚れなき御宿りの祝日に教会によってマリアに適用されている:「私によって働く彼らは罪を犯さないであろう。私を説明する彼らは永遠の生命を得るであろう。」

霊的な剛毅

われわれは、恩寵の生活のうちに保たれるために、われわれの救いの多くの敵どもに抵抗するための霊的な剛毅を必要としている。ところでこの剛毅はただマリアという手段によってのみ獲得され得るものである。そしてわれわれは格言の書においてそのことに確信を持つことができる。なぜなら、教会はこの節をこのいとも祝せられたおとめに適用しているからである。「強さは私のものである。私によって王たちは統治する。」その意味はこうである。「強さは私のものである」という言葉によって、神はこの貴重な賜物を、マリアがそれを彼女の忠実な依頼人に分け与えるために、マリアにお与えになったということである。そして「私によって王たちは統治する」という言葉によって、彼女は彼女の手段によって彼女の召使いたちが彼らの諸々の感覚と情念に君臨しかつ命令する、そしてこのようにして天国において永遠に支配するに相応しい者となるということを意味している。おお、この偉大な婦人の召使いたちは、地獄のあらゆる攻撃を克服するために、何という力を所有していることか!マリアは聖なる雅歌において話されているあの塔である:「あなたの首はダヴィドの塔のようである。それは土塁で建てられている。千の丸盾がその上に懸かっている。勇敢な人々のすべての鎧が。」彼女は彼女の愛する人々を護るためによく防御された城塞であり、それらの人々は彼らの戦争において彼女に依り頼む。彼女の依頼人たちは彼女のうちに地獄に対して自分たち自身を護るためにすべての盾と武具とを見出す。

神の御母の保護

すべてのキリスト教徒を保護するためにその御腕を挙げられて祈っておられる神の御母

マリアは彼女に避難するすべての人々を護られる

そして同じ理由でいとも祝せられたおとめはシラ書の言葉の中でプラタナスと呼ばれている:道の側の水路のほとりのプラタナスのように私は高くされた。フーゴー枢機卿はそれを説明し、マリアがどのように彼女に避難所を求めるすべての人々を護られるかを示すために「プラタナスは盾のような葉を持っている」と言っている。福者アメデウスは別の説明を与え、この聖なるおとめがプラタナスと呼ばれるのは、プラタナスがその枝の下の旅行者たちを太陽の熱や雨から護るように、人々がマリアのマントの下に彼らの情念の灼熱や誘惑の猛威からの避難所を見出すからである、と言っている。マリアに対する彼らの信心を止め、そしてもはや危険の時に彼女に自己を委ねないことにおいてこの防御を放棄する霊魂たちは真に憐れむべきである。聖ベルナルドは、もし太陽が昇ることを止めたならば、世界はどのように暗黒と恐怖の混沌となり得るだろうか、と言っている。そしてこの問いをマリアに適用しながら、彼はこう繰り返している:

「太陽を取り去ってごらんなさい。そうすれば日はどこにあるでしょうか?マリアを取り去ってごらんなさい。そうすれば暗黒の夜以外に何があるでしょうか?」

霊魂がマリアへの信心を失うとき、それは直ちに暗黒のうちに包まれる。そして聖霊が詩編において語っておられるその暗黒のうちに包まれる:「汝は暗闇を指定された。そしてそれは夜である。その中で森のすべての動物たちはうろつく。」天の光が霊魂の中で輝くことをやめるとき、すべては暗闇の中である。そしてそれは悪魔たちとあらゆる罪のたまり場となる。聖アンセルムスは「もしある人がマリアによって無視され有罪を宣言されるならば、彼は必ず滅びる」と言っている。そしてそれゆえにわれわれは正当な理由をもってこう声を大にして言ってもよいであろう。「この太陽に反対する者に禍いあれ!」と。その光を軽蔑する者に禍いあれ!それはすなわち、マリアの信心を軽蔑するすべての者のことである。

忍耐はマリアに対する信心に依存している

聖フランシス・ボルジアは祝せられたおとめに対する特別の信心を彼が見出すことのなかった人々の忍耐を常に疑っていた。ある機会に彼は何人かの修練者たちに彼らが特別な信心を持っている聖人たちに関して質問した。そしてマリアに対して特別の信心を持っていないある者たちを認めて、その修練者たちの師に直ちに警告した。そしてこれらの不幸な若者たちをもっと注意して見守るように彼に望んだ。これらの若者たちは皆、彼が恐れたように、彼の召命を失い、宗教的な身分を断念したのであった。

そこで、聖ジェルマヌスはいとも祝せられたおとめをキリスト教徒の呼吸と呼んだことは理由のないことではなかったのである。なぜなら、身体が呼吸することなしに生きることができないのと同じように、霊魂はマリアに依り頼み、マリアに自己を委ねることなしには生きることができないからである。マリアによってわれわれは確実にわれわれの霊魂の内部に神の恩寵の生命を得、そして保つのである。しかし私は聖人自身の言葉を引用することにしよう:「呼吸することが単に生命のしるしであるだけではなくて、生命の原因でさえあるのと同じように、神に仕える人々の唇に絶えず見出されるマリアのみ名は、彼らが真に生きており、そして同時に彼らが彼らの生命の原因となりそして保っているということ、そして彼らにあらゆる援助を与えているということの両方を証明しているのである。」

福者アランはある日一つの強烈な誘惑によって攻撃され、そして屈しそうになった。なぜなら彼は、いとも祝せられたおとめが彼に御出現になったときにマリアに自らを委ねなかったからである。そして他の時に彼が彼女の助けを呼び求めることを思い出すことができるように、彼女は次のように言いながら、彼に一つの強い打撃をお与えになった:「もしあなたが私に自らを委ねていたならば、あなたはそのような危険に陥らなかったでしょう。」

他方において、マリアは格言の書において、教会によって彼女に適用されている次の言葉においてこう言っておられる:

「私の言葉を聞く人、そして日々私の門を注意する人、私の扉の所で待つ人は祝せられている。」

- それはあたかも彼女がこう言っておられるかのようである:私の声を聞き私の慈悲の扉の所で利用しようと絶えず注意し、光と援助を私から求める人は祝福される、と。このことをする依頼人たちのためにマリアは彼女の役割を果たされ、罪を放棄し徳の道において歩むために彼らが必要とする光と強さとを彼らに得させられるのである。この理由でインノセント三世は彼女を美しく「夜の月、夜明けのときの日の出、日中の太陽」と呼んでいる。彼女は罪の夜の中を盲目的にさまよう人々を照らす月であり、彼らが陥っている破滅の悲惨な状態を彼らに見させ理解させる。彼女は、彼女がすでに照らし、彼らに罪を放棄させ、正義の真の太陽である神に立ち戻らせた人々にとって夜明け(すなわち、太陽の先駆け)である。最後に、彼女は恩寵の状態にある人々にとって太陽であり、彼らをふたたび罪の危機へと落ち込ませることを妨げる方である。

マリアは悪徳へと迷い込むことから霊魂たちを引き留められる

学者たちは次のシラ書の言葉をマリアに適用している:彼女の帯は健康によい束縛である。聖ローレンス・ジュスティニアンは「彼女が彼女に仕える人々を縛り、そしてこのようにして彼らを悪徳の道へと迷い込むことから妨げるのでなければなぜ帯なのか?」と問うている。そして真にこれはマリアが彼女に仕える人々をそのために縛る理由である。聖ボナヴェントゥーラもまた、私の住まいは聖人たちの会衆で一杯であるというシラ書の言葉に関する彼の注解において、マリアは単に聖人たちの会衆で一杯になった彼女の住まいを持っておられるだけではなく、また彼らが堕落することから護り、彼らの徳が倒れることがないように絶えず見護り、悪霊たちが彼らを害することを抑制しておられると言っている。彼女は単に聖人たちの会衆で一杯になった彼女の住まいを持っておられるだけではなく、聖人たちを、彼らがそれらを失わないように彼らの功績を保つことによって、悪魔たちが彼らを害することから抑制することによって、そして罪人たちの上に落ちかかることから御子の腕を抑えることによって、その彼女の住まいに留めておられるのである。

格言の書においてわれわれはマリアのすべての依頼人たちが二重の衣服でもって纏われていると告げられている。なぜなら彼女のすべての家族は二重の衣服でもって纏われているからである。コルネリウス・ア・ラピッドはこの二重の衣服が何を意味するかを説明している。彼はそれは「彼女に忠実に仕える人々を彼女の御子の諸徳そして彼女自身の諸徳でもって彼女が飾っていることに存している」と言う。そしてこのように衣服を着せられて彼らは徳のうちに忍耐するのである。

それゆえに聖フィリッポ・ネリは彼の告解者たちに対するその忠告の中で常にこう言うことにしていた:「わが子らよ、もしあなたたちが忍耐を望むならば、われらの祝せられたおとめに信心深い者でありなさい。」イエズス会の尊者ジョン・ベルクマンスはこう言うのを常としていた:

「マリアを愛する者は誰でも忍耐を持つであろう。」

ルーペルト修道院長の放蕩息子のたとえに関する彼の注解におけるこの主題に関する省察は真に美しい。彼はこう言っている:「もしこの堕落した若者が生きている母親を持っていたならば、彼は決して父親の家を見捨てなかったであろう、あるいは少なくとも彼がそうしたよりはもっと早く戻ったであろう。」そのことによって意味されていることは、マリアの子どもは神を決して見捨てないか、それとももし彼がこの不幸を持つならば、マリアの助けによって彼はすぐに立ち戻るということである。

おお、この最も慈悲深く愛すべき婦人を愛するすべての人間は、もし彼らが彼らの誘惑において常にそして遅滞なくマリアに依り頼んでいたならば、誰が堕落したであろうか?誰が滅びたであろうか?マリアに依り頼まない者は堕落し滅びる。聖ローレンス・ジュスティニアンは私は海の波の上を歩いたというシラ書の言葉をマリアに適用している。そして彼女にこう言わせている。「私は私に仕えている人々と共に、罪に落ちることから彼らを助けそして守るために、彼らが絶えず曝されている誘惑のまっただ中を歩む。」

「めでたしマリア」は最も小さいものを救う

ベルナルディン・ドゥ・ブスティスはある小鳥が「めでたしマリア!」を言うように教えられたと述べている。一羽の鷹がその小鳥をまさに捕らえようとしたとき、その小鳥は「めでたしマリア!」と叫び声をあげた。その瞬間にその鷹は死んで落ちた。神はそのことによってもし非理性的な被造物でさえマリアに呼びかけることによって護られるならば、悪魔たちによって攻撃されたときマリアに急いで呼びかける人々はどれほどもっと多く悪魔たちから解放されるか、ということを示そうと意図なさったのである。ヴィッラノーヴァの聖トマスはこう言っている、われわれは悪魔によって誘惑されたとき、ただ小さなひよこを模倣することだけが必要である。ひよこは餌食にする鳥の接近を知覚するやいなや護ってくれる彼らの母鳥の翼の下に走り込むのである。このことはわれわれが誘惑によって攻撃されるときにはいつでもなすべきことである。われわれはそのことについて理屈を述べることにとどまっているべきではなくて、直ちに飛んで行ってマリアのマントの下に我が身を置くべきである。しかしながら、私はマリアに宛てて言われた聖人自身の言葉を引用しよう。「ひよこたちが上空を舞っているトビを見るとき走って行って雌鳥の翼の下にその避難所を見つけるように、われわれはあなたの翼の影の下で護られる。」彼はこう続けている。「そしてわれらの婦人であり母であるあなたはわれわれを護らなければならない。なぜなら、神の次にわれわれはあなたよりほかのいかなる避難所をも持たないからである。あなたはわれわれの唯一の希望であり、われわれの保護者である。われわれは信頼をもってわれわれの目をあなたに向ける。」

それでは聖ベルナルドの言葉で結論することにしよう。「おお、人間よ、おまえが誰であろうと、この世においてはおまえは堅い大地の上を歩いているというよりはむしろ、激しい大嵐の海の上に放り出されているということを理解せよ。もしおまえが溺れることを避けたいのならば、おまえの目をこの星の輝きから決して逸らしてはならないのであって、それにしっかりと目を注ぎ、そしてマリアに呼びかけよ。」

「危険において、難局において、疑いにおいてはマリアを思い起こし、マリアに嘆願せよ。」

そうだ、罪を犯す危険にあるとき、誘惑によって苦しめられるとき、あなたがどのように行為すべきかに関して確かでないとき、マリアがあなたを助けることがおできになることを思い起こしなさい。そして彼女に呼びかけなさい。そうすれば彼女は直ちにあなたを援助なさるであろう。「彼女の名前をあなたの唇から去らせないようにしなさい、彼女の名前がいつもあなたの心の中にあるようにしなさい。」

よき勧めの御母

2007/08/30 三上 茂 試訳

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作成日:2007/08/30

最終更新日:2007/09/23

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