ファチマ・クルーセイダー



貧弱な言い訳と「心中留保」に対する一つの答

ニコラス・グルーナー神父、B. Comm.; S.T.B., S.T.L., S.T.D.(Cand.)

The Fatima Crusader Issue 86, Summer 2007

南米のある司教がかつてわれわれにこう尋ねた:「ヴァチカンは第三の秘密が完全に公表されたと言った。あなたたちはそれが公表されなかったと言っている。このことはヴァチカンが嘘をついているということを意味するのか?」

ポール・クレイマー神父は秘密が完全に公表されたと言っている人々は心的留保[訳者注:陳述などで重要な事を隠しておくこと]によってそうしているのだと答えた。教皇ヨハネ・パウロ二世は1982年5月13日のファチマでの彼の説教の中で、ラッツィンガー枢機卿は1984年の「イエズス」誌のインタビューの中で、なお公表されなければならない秘密のあの部分のうちに含まれていることのあるものについて遠回しの仕方でわれわれに語った。教皇ヨハネ・パウロ二世は2000年5月13日にもっと多くのことをわれわれに語った。おそらく教皇そして他の人々は他の諸々の談話において遠回しの仕方でそれのある部分を発言したであろう。それゆえ、ある話し方において、彼らはヴァチカンが秘密全体を公表したのだと言われ得ると感じている。

しかし秘密を公表するこの遠回しの手段は十分によくはないし、また採用された心的留保も正当化し得るものではない。ファチマの秘密は「われわれのカトリック信仰への諸々の危険に関わっている。」それは「われわれの生命に対する諸々の危険」に関わっている(われわれのカトリック洗礼のゆえに)。それは、1984年11月11日に当時のラッツィンガー枢機卿がわれわれに語ったように、まさに「世界の生命」そのものに関わっている。それはこのようにして一つの最も重大なメッセージ、一つの最も重大な預言である。

聖霊が聖パウロに「霊を消すことなかれ、預言を軽んずることなかれ」(1テサ5:19-20)と書くように霊感を与えたのであるから、われわれはこの預言を尊敬をもって扱わなければならないのである。われわれはそれに耳を傾け、それに心を配り、それに従わなければならないのである。

しかし、もしそれが鍵をかけられたままであり、埋もれさせられ、禁じられているならば、どのようにしてわれわれはそれに耳を勝つ向けることができのか?もっと悪いことには、われわれはそれが全部公表されたと告げられているのである。しかしこの陳述は用いられている心的留保をもって言われているのである。そしてこの心的留保は秘密のうちに含まれている聖母の正確な言葉を聴く権利を持っている人々が誤り導かれることを引き起こしているのである。

第三の秘密に関するヴァチカンによる心的留保:それは正当化されるか?

心的留保はいつ用いられることができるか?心的留保は何らかの状況において用いられることができるか?

道徳学者たちは心的留保はすべての状況において用いられることはできないとわれわれに告げている。もし人々が明白な真理を知る権利を持っているとするならば、心的留保の使用は誤りである。もし保留される真理が重大な真理であり、そしてもしそれを告げる義務がまた重大な義務でもあるならば、それは大罪でさえあり得る。

それゆえ、第三の秘密においてはわれわれは私の救い、私の永遠の救いを脅かす事柄について話しているのである。それは私が天国へ行くかそれとも地獄へ行くかに関わる意味を持っている。それゆえ、確かにその問題は重大なものである。

そしてそれをわれわれに告げる教皇の義務もまた重大である。というのは、教皇はわれわれの霊魂を救うためにわれわれが知る必要のあることをわれわれに告げる厳格な義務を持っているからである。ある人々が耳を傾けるかどうかということは重要なことではない。ある人々が徹底的にそれに反対するかどうかということは問題ではない。ある人々が好戦的になるかどうかということは重要なことではない。真理を告げる義務は残るのである。

聖アルフォンソは真理を明確に告げる義務を確証している

聖アルフォンソ・リグオリは教会の偉大な道徳の博士、道徳神学の保護聖人である。教会は彼の道徳的な教えに従うことにおいてわれわれは安全であるとわれわれに告げている。そして聖アルフォンソはわれわれが上に述べたことを確証している。

聖アルフォンソは次の問を出している:「われわれは、われわれが言っていることを受け入れないということを道徳的に確信している誰かある人に否定できない真実を常につげなければならないか?」聖アルフォンソはことなった状況のための三つの異なった規則を区別している:

第一:その人がしていることが善意をもってなされているならば - すなわち、彼がしていることを本当に知らないならば。(しかしわれわれは、その人間が知らないとしても、しかし彼の無知に対して彼は罪があるということに気をつけなければならない、と聖トマス・アクィナスは言う。- すなわち、もし彼が容易に知ることができるが、しかし好むままにするよう「自由」であり続けようとして無知であることに留まることを意図的に選んでいるならば、 - そのとき彼の無知は彼の罪をより罪あるものとしているのであって、それ以下ではない。)

聖アルフォンソはこのようにしてこう教えている:もし人がその無知において真に善意のうちにあるならば、そしてもしわれわれが彼は矯正を拒否するであろうと判断するならば、そのときわれわれは彼に告げる必要はない、ただしそれは、彼が彼の客観的な罪によって傷つける唯一の人間が彼自身であるという条件においてのみである。しかし...

第二:誰かある人に彼は悪くないと告げるこの決定は(たとえ彼が自分自身を傷着けているだけだとしても)もしそれをしている人間がこの問題に関してあなたの忠告を直接あなたに求めているならば、正しくない。

聖アルフォンソは、ある人間(おそらくあなたが彼に告げるとしてもそれを受け入れさえしないであろう)から、その人間がその特定の問題に関するあなたの知識を求めたときは、あなたは冷厳な真実を控えることはできないというこの第二の点を明らかにしている。それは神が常に彼に彼が知るべき何かあることがあるということを意識させたからであり、そして彼が真実を求める彼の義務を果たしているからである。彼があなたに求めた後にそれを拒否するとしても、あなたは彼に真実を与えることを拒否することによって彼の罪を共にすることはできない。

このことをわれわれの現在の事例に適用するならば、われわれは、たとえわれわれが教皇の意見においてはその真実を拒否するとしても完全な第三の秘密を求めているのである。教皇はそれにもかかわらずそれをわれわれに与えなければならない。

第三:無知な罪人は次のような場合には矯正され(そしてもし必要ならば忠告され)なければならない。

(i)無知な罪人がしていることが信徒たちの間で純粋で単純な恥ずべきことを引き起こす(純粋で単純な恥ずべきことについての説明はp.58を見てください)ならば、あるいは彼がしていることが第三者に影響を与えるならば、そして不正行為が第三者から何かあること、例えば財産、結びつき、名声 - 第三者がそれに対する権利を持っている何かよいもの - を奪うならば、[彼は矯正され、忠告されなければならない]。この場合にはあなたはその罪人が矯正を受け入れようとしなとしても彼を矯正しなければならない。もし第三者が蒙るものが一つの重大な問題を構成する喪失であるならば、無知な罪人を矯正しないことは重大な罪である。この場合には無知な罪人を矯正することを拒否することは、罪人に忠告しない人間を他の人々に属するものを取るあるいは保持する人の大罪にくみする者とする。もしそれが日雇い労働者に対する一日の賃金に相当するとしたならば、そのときそのことは重大な問題を構成し損害賠償を要求されるであろう。

(ii)この第三の事例のための他のもう一つの条件は忠告しなければならない人間が罪人への関係においてあの責任を持っている人 - 彼の告解聴聞司祭、あるいは彼の霊的指導者、あるいは彼の司牧者のような - であるということである。彼の司牧者は三人の人物のうちの一人である。

司教、小教区司祭そして教皇は無知な人を教えなければならない

完全な正義において、あらゆるカトリック教徒は彼の霊魂についての配慮の責任を負っている彼自身の小教区司祭を持っている - カトリック教徒はもし彼が間違っているならば彼の司牧者から叱責を聴くための正義における厳格な権利を持っている。

あらゆるカトリック教徒は彼の霊魂の司牧者である司教を持っており、あらゆる司教区の司教は彼の教区民が彼らの永遠の救いに属する事柄において忠告されるということを保証するために彼のできるあらゆることをしなければならない。もちろんすべての一人ひとりのカトリック教徒は、キリストの御計画によって、われわれすべての霊魂たちの共通の司牧者、諸々の羊飼いたちの羊飼い、司牧者たちの司牧者、教皇御自身によって司牧されなければならない。

それゆえに、教皇がカトリック信徒のある者あるいはすべてが罪を犯しているということを知るとき、 - そして彼ら(あるいは少なくとも彼らのうちのある者)が彼の忠告や矯正を受け入れないだろうということを知りさえするとき - 彼はそれにもかかわらず彼の義務を彼らに対して果たすために忠告を与える義務がある。彼は聖パウロを模倣しなければならない。そして「あなたがたの益になることは余すところなく宣べ伝えなさい」(使徒行録20:20)。

上述のことからわれわれは教皇が司牧者としての地位の欠如を理由にして大目に見られることはできないということは明らかであるということを見ることができる。教皇はわれわれ一人ひとりの司牧者である。厳格な正義において、われわれはいつわれわれが誤るのかを明確に知る必要があり、そして教皇はそれをわれわれに告げなければならないのである。

聖母の実際の言葉は公表されなければならない

第三の秘密は、それが申し立てによると人々の上に一つのより重大な責任を産み出すであろうがゆえに公表されるべきではないと示唆することは一つの貧弱な言い訳である。その秘密が公表されることを望んでおられるのは神の御母である。そして聖母は何がわれわれにとって最善であるかを御存知である。

われわれが第三の秘密を知る必要があるのはそれが、われわれが理解する言語において、そして神の御母の権威をもって、われわれが犯している明白な罪のために - われわれの時代に - われわれを矯正するように計画されているからである。

不幸にして教皇たちの道徳的な声は、われわれが、枢機卿たち、司教たちそして司祭たちすら教皇の正当な命令や忠告に従っていないあるいはそれらに注意を払っていないということを見る程度にまでわれわれの世代の大部分に対して失われてしまった。

われわれはまた第二ヴァチカン公会議以来過去45年間に教皇たちが折りにふれてカトリック信仰によって彼らに禁じられているある仕方で伝統と関係を絶つのを見られてきたということを知っている。それゆえに神の御母の実際の言葉を持つことはカトリック人口の大部分が持っている偏見を何であれ克服する助けとなるであろう。教会法が教会において見越しているような「共通の誤り」というものが存在したとするならば、その時は今である。誤りは必ず矯正されなければならない。特にそれは背教へと導くものだから。

無知は背教の言い訳にはならない

背教の非常に重大な罪が今や広範囲に及んでいることは今や明らかである!教皇ヨハネ・パウロ二世そして教皇ベネディクト十六世はお二人とも背教がヨーロッパや他の箇所で広範囲に及んでいることについて最近語られた。背教は無知に基づく言い訳を許さない。われわれはこのことを第一ヴァチカン公会議の荘厳な教えから知っている。それはこう述べている:

「しかし『信仰がなければ、神に喜ばれることはできない』(ヘブライ11:6)がゆえに、そして神の御子の仲間の中に入ることができないゆえに、信仰がなければ誰も義とされることができず、そして誰も『彼が信仰において最後まで堪え忍ぶ』(マタイ10:22;24:13)のでないかぎり永遠の生命には到達しないであろう。」(Dz/ 1793)

カノン6:「もし人がカトリック教徒は(信仰について)彼らの同意を保留し、彼らがすでに受け入れていた彼らの信仰に異議を唱えるための十分な理由を持つことができると言うならば...その者は破門されよ。」(Dz. 1815)

この無知は矯正されなければならない

ある種の罪がすべての人間の心に明白に書き込まれているので彼らがある種の罪に対する善意の無知を主張することができないということは聖書からさらに明瞭である。聖パウロはそれらの罪のあるものを次のように枚挙している:

「彼らは、神を深く知ることに価値を認めていなかったので、神は彼らを価値のない考えのままに委せられました。」

「彼らは、あらゆるよこしまなことと悪と貪欲と悪意に満ち、ねたみと殺意と争いと欺きと敵意にあふれ、陰口を言い、そしり、、神を憎み、人を侮り、たかぶり、自慢し、悪事を編み出し、親不孝で、わきまえがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲です。」

「こういう者たちは死に値するという神の定めを、彼らはよく知りながら、みずから行なうばかりでなく、そのようなことを行なう人たちに賛同しています。」(ローマ1:28-32)

明らかに、聖書が不可謬的に教え、そしてカトリック道徳が指摘しているように、人間の心に書かれた自然法に反する殺人、中絶、男色、姦淫、避妊等の行為のようなある種の罪がある。これらの戒律は非常に明瞭に創造主によって彼らの心の中に直接的に書き込まれて存在するので、諸々の個人は最後の審判の日に善意をもって無知を主張することはできないのである。そのような人間は彼らが自分たちの罪を効果的に悔い改めない限り、死んだら永遠にわたって地獄へ行くであろう。

神は見張り人を指名なさった

教会の司祭たちと司教たちは見張り人に指名された。見張り人の義務は敵が近づいているとき叫び声を挙げることである。

神がエゼキエルに説明なさっていることを言い換えると、見張り人としての彼の義務である。神はエゼキエルにこう告げられる:

「私はあなたを見張り人に指名した。ところでもしあなたが夜遅く都市に近づいて来る敵を見て、しかも警告の声を挙げないならば、神である私はあなた、エゼキエルを、あなたの仲間の市民たちの誰かの死 - もし彼らは近づいて来る敵によって殺されるならば - に対して有罪だとするであろう。」

それゆえエゼキエルは、たとえ彼の仲間の市民たちが目覚めなかったとしても、たとえ彼が賢明にも彼らが目覚めないということを予期していたとしても、叫び声を挙げる義務を持っていたのである。

他方において、エゼキエル書をさらに言い換えるならばこうである:

「神はエゼキエルに、もし敵が夜遅く都市に近づき、そしてエゼキエルが敵を見、市民たちと防衛の兵士たちに目覚めるように叫び声を挙げたなら - そして彼らが起きず、目覚めず、自分たちを防衛しなかったならば - そのとき神は敵によって殺されたすべての人々の死に対してあれらの眠っている兵士たちに責任があるとされたであろう。しかし神はエゼキエルが警告を発する彼の義務を果たしたがゆえに彼を罪のない者とされるであろう。」

もちろん、見張り人によって守られる城壁に囲まれた都市は敵が近づく時に警告を発するその見張り人たちに依存しているカトリック教会のイメージである。

「司教」という言葉はギリシャ語から来ており[訳者注:επισκοποσ=watcher, guardian: 動詞はεπισκοπεω= to watch over]、それは見張り人を意味する。教皇は神の都市、カトリック教会の市民たちに、彼らが教会に侵入する彼らの死に物狂いの敵ども - ある者は聖職者たちの中へ、ある者はヴァチカンの中へさえ侵入している敵ども - から自分たちを防衛することができるように、警告の声を挙げなければならない。

一人の見張り人が他の見張り人たちにに訴える

この論攷と(p.18の)請願の公表によって私は見張り人としての私の義務を果たした。「私はいかなる人の滅びについても、その責めを負いません」(使徒行録20:26)。私はこの論攷を読むようにすべての司祭たちに呼びかける。そしてもし彼らが実質的な誤謬 - (印刷ミスではなくて)神学的な、あるいは論理的な誤謬、あるいは事実の誤謬を見つけることができるならば、それが訂正され得るように私に注意してほしい。

他方において、もしこの論攷が実質的に正しいならば、あるいはより小さな訂正をもって、司牧者たち、告解聴聞者たち、霊的指導者たち、司教たち、枢機卿たち、そして教皇さえに対する一つの正確な忠告となされ得るならば、そのとき訓練、諸事実の提示そして神の恩寵を得ることによって、司祭たちそして司教たちは第三の秘密の完全なテキストの公表をもたらすために彼らができることをしなければならない。

平信徒たちにとってこの論攷そして(p.18から始まる)請願は真実を明らかにするために十分に明らかであり十分によく考えられているように思われる。あなたの司祭たちに彼らが実質的な誤謬を見出すことができるかどうかを尋ねてください。そしてもし彼らが誤謬を見出すことができないならば、そのときそれを上位の位階に持って上がるように彼らに求めてください。

平信徒の人々は祈ってあなたたちの霊魂の見張り人たちを助ける

これらの事柄を読み、あなたを照らしてくださるように聖霊の助けを求めなさい。特にロザリオの聖母とよき助言の御母に嘆願しなさい。もしそれがあなたに良いと思われるならば、この論攷をあなたの小教区司祭、あなたの告解聴聞司祭、あなたの霊的指導者、あなたの地方司教、あなたの司教区の司教、教皇に渡してください。

それを読むように、それが真実であるかどうかを見るように、彼らに求めなさい。どこでそれが間違っているかを正確に指摘するか、それともそれは実質的に正しいとあなたに告げる、そのどちらかをしてくれるように彼らに求めなさい。 - もし後者の場合であるならば - それを彼らの司教たち、彼らの枢機卿たち、彼らの教皇にまで段階を上がって手渡してくれるように彼らに求めなさい - それができるだけ早く実行されるように - 。

なぜなら、もしこれが正しいならば、そのときベネディクト十六世の霊魂は危険に瀕していないとわれわれはどのように言わないことができようか?同じことはわれわれの枢機卿たち、司教たち、司祭たちそしてわれわれ自身にも当てはまる。なぜなら、今までわれわれは「聖霊を消し、預言を見下す」罪を集団的に犯してきたからである。

われわれは、もし真理を愛さないならばわれわれの間に現在の背教を早めているのである(2テサロニケ2:1-12)。われわれは真理を愛さなければならない。われわれは沈黙していてはならないし、そしてわれわれの沈黙によって真理を抑圧してはならない。

もしわれわれの訴えが教皇によって、彼の助言者たちによって、聴き入れられないならば、われわれは少なくとも、警告の声を挙げなかったという非難からは自由となるであろう。それはあなたの霊魂であり、あなたの生命である。あなたの役割を果たすことはあなたにかかっている。「私はいかなる人の滅びについても、その責めを負わない。」

2007/08/13 三上 茂 試訳

ファチマ・クルーセイダー、2007年夏(第86)号目次 へ

An Answer to Poor Excuses and "Mental Reservations" へ

トップページ へ 

作成日:2007/08/13

最終更新日:2007/08/13

E-メール:mikami@po.d-b.ne.jp