ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

ファチマの聖母は聖書の預言の実現である

ローマ、聖テレサ教皇庁立学部、神学教授、Father Joseph de Saint-Marie 著

ファチマの諸々の出来事を通じての人間の歴史への神の介入は聖書において予告されていた。そして多くの国家や人々の、イエズス・キリストの啓示と支配からの叛逆に対する神の決定的な回答である。神に対する叛逆は、それがすでに働いていると言いながら聖パウロがそれについて話している「邪悪さの神秘」である。

神に対する叛逆は使徒の時代にはグノーシス説の形で自らを現し、中世期にはアルビ派のグノーシス的二元論として再び現れ、そして最後に16世紀の啓蒙の神なき哲学として近代の初めに爆発した。

神なき、そして暴力的に反宗教的な啓蒙イデオロギーはキリスト教文明に対する近代の攻撃の基礎であり、そしてそれはそれに従ってマルクスが無神論的共産主義の邪悪な教説を作り上げた理想化された基礎である。

神に対する叛逆はロシアの共産主義革命において頂点に達した。そして神がファチマの諸々の出来事によって歴史の中に介入されたのは人間の歴史のこの最高潮の時期である。

すべての恵みの仲介者マリア

中心的な真理は何であろうか?それはマリアがすべての恵みの仲介者であるということである。神が救いの歴史におけるマリアの役割を認めるように全世界にお求めになる時が来た。それはファチマの中心であり、そして聖母の他の多くの介入の中心であるが、しかし特にファチマの介入の中心である。

私はこのことを二つの相補的な仕方で論証することに努めるであろう:すなわち、歴史を通して、そして次に神学を通して:後者は最も解明的であるが、しかしまた最も困難なものである。

マリアの仲介というこの真理がどのように二十世紀の歴史において、西欧において現れているかを検討してみよう。なぜなら、世界の歴史はキリストの時代から二十世紀に至るまで西欧によって支配されてきたからである。十六世紀から叛逆のドラマが現れた。神はマリアの仲介の手段によってそれに勝利しようと望んでおられる。このことを論証するために、ある歴史的な研究が必要とされる。一方において近代世界における無神論の上げ潮、他方においてこの罪を抑制するために神によって教会に与えられた諸々の預言的な声の多様性、という並行的な発展を研究することが必要である。この歴史的研究の過程においてわれわれが発見することは黙示録の第12章のうちに与えられている幻視である。ファチマは太陽を纏った女である:1917年10月13日の奇跡。共産主義は神の否定の赤い龍:モスクワの赤い星。二十世紀が一方において黙示録の女と、他方において東の共産主義的無神論の赤い龍および西の実践的無神論との間のこの闘争の物語であるということは明らかではないか?なぜなら、これらは兄弟である敵どもであるが、しかしまた手を取り合った兄弟である。東と西とはこの共通の神の否定において結び合わされている。われわれがたどり直さなければならないのはこの歴史である。

十六世紀の意義

私は単純にあなたたちに私のテキストの提示を幾分修正するいくつかの日付を提示する。なぜなら、私が十七世紀から始めたようにではなく、歴史や文学等々の教科書において近代の始まりと見なされている十六世紀から始めることが必要だからである。十六世紀はヒューマニズムの時代であり、またルターのドラマ、プロテスタント叛逆の時代である。ヒューマニズムは一般が認めているように、一つの文化的な運動である。しかしそれはまた文化の色合いの下での異教主義への立ち帰りでもあった。ルターに関して言えば、彼はキリスト教的ヨーロッパの分裂のまさに始まりにいた。彼は偉大な分裂者であった:"Gott ist im Himmel, du bist auf Erden".(神は天にましまし、汝は地上にいる」。天と地との間にルターは一つの超えることのできない深淵を建てる。彼はすべての仲介を拒否する。最後に、キリストについてそのように多く話しているルターはキリストの人性の仲介を否定する。その結果として彼はキリストの御母、キリストの共同救済者の仲介を否定する。

この点に十六世紀の本質的な意義が存する:すなわち、人間の肯定、彼ら:すなわち、キリスト、マリアそしてまず第一に教会を結びつける諸々の仲介の否定による天と地との間の決裂の肯定がそれである。

この攻撃に直面して教会は位階を通じて -- トレント公会議を通じて -- そして諸聖人:聖イグナチオ、聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、アルカンタラの聖ペトロ、等々のきら星によって -- 答えた。預言的なカリスマが認められ、そして豊かに実行されたのは彼らを通じてであった。

十七世紀

十七世紀の間、悪は広まり続けた。十六世紀がシャルル五世およびスペインの偉大な栄光の黄金の世紀であったのに対して十七世紀はフランスの偉大な世紀であった。悪はプロテスタンティズムの叛逆をもってドイツにおいて始まった。それからそれはフランスに広まった。そこではそれはジャンセニズムの形式の下に教会内部に根を下ろした。それはプロテスタンティズム、特にカルヴィニズムのある種のカトリック的焼き直しであって、まさにキリストの聖心を凍らせる結果を持った。そして近代の最初の預言が起こったのはそのときであった:すなわち、1675年の聖マルガリタ・マリア・アラコックへの聖心の啓示である。その啓示はパレ・ル・モニアルで起こった。そしてそれは教会史における一つの出来事、同時に古くも新しくもあった出来事を表していた。古いというのは、預言が常に一つの要因であったからであり、そして新しいというのは、それが取った形式のためである。キリストはご自分の愛の否定に答えて、もう一度われわれにその聖心を開くために御自身で来られたのである。そしてキリストは(一人の若い修道女への)御出現によって、また(彼女に伝えられた)預言的メッセージを通じてそうなさった。そしてちょうど十七世紀にわれわれがキリストの聖心に集中された諸々の預言の出現を持ったのと同じように、二十世紀にはファチマがパレ・ル・モニアルの継続なのである。なぜなら、それはキリストの聖心と一致するマリアの御心の啓示だからである。そして神はその御憐れみにおいてこの賜物を御自分の教会にお与えになった。なぜなら教会はキリストの訴えに適切に答えなかったからであり、そしてその結果として叛逆が大損害を引き起こし続けたからである。

十八世紀

十八世紀は神に対する組織化された政治的反乱の最初の大きな行為であるフランス革命においてその頂点に達した反乱のさらなる拡大を見た。それは十六世紀の否定と断絶の結果、十七世紀の信仰の冷却の結果、十八世紀の理性の高揚の結果、そして1717年に設立されたフリーメーソンの力によるこの叛逆の宣伝の結果であった。

年代を考えて見よ:1517年:ルターの叛逆;1717年:フリーメーソンの創設;1917年:ボルシェヴィズムの誕生とマリアの汚れなき御心を通じての神の応答(ファチマでまた1917年)。

この驚くべき一連の年代を示すために私は少しばかり先手を打った。(もちろんそれらには他の多くの出来事を付け加えることができるであろう。)しかし十八世紀に戻るならば、われわれはフランス革命をその世紀の初めに存在するようになったフリーメーソンの働きとして、そして理性の高揚として見るのである。換言すれば、われわれは自分自身の主人となりそして全く自己充足的となるために、神を拒否する人間を見るのである。

十九世紀

革命によるキリスト教的ヨーロッパのこの分裂 -- それは実際われわれが話しているヨーロッパである。それは、諸王国を滅ぼし、キリスト教世界を破壊しながらヨーロッパ中に叛逆を蒔いたナポレオンのたとえ栄光あるものだとしても恐ろしい英雄的行為を通じて達成された。そして十九世紀の始まりはまた教会にとって、そして信仰にとって一つの破局であった。しかしながら、一連の預言が始まったのはそのときであった:1830年、リュ・デュ・バックで不思議のメダイと「原罪なくして宿り給いし聖マリア、おん身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え」という祈りと共に。

このようにその始まりからこれらの預言は汚れなきおん宿りのしるしの下にあった。そしてその世紀の半ば、1854年にこの教義の決定があった;そして四年後、1858年3月25日に聖母御自身が若いベルナデットに「私は汚れなきおん宿りです」と宣言することによって、その御子の代理者[である教皇]の行為を確証するためにルルドに来られたのである。1830年、1854年、1858年:このように十九世紀は教会と世界の中に汚れなきマリアの時代を先触れしたのであった。

二十世紀

そうしなければならないように、急いで二十世紀に移れば、われわれは1917年の大きな転換点、私の研究において発展させるであろうなおもう一つの点 -- 同時に、単に革命のこの全体的経過ばかりでなく、またこの預言的啓示の全体の結果であり、そしてそのための新しい出発点である転換点 -- を持つのである。1899年のレオ十三世による聖心への人類の奉献、そしてそれに引き続く人間たちによるその非協力の後に、神はもはや大目に見ることがおできにならなかった。神は人間の諸々の罪を懲罰なしに放任することをもはや許すことがおできにならなかった。にもかかわらず、神はまた純粋な憐れみを通してわれわれを助けようとすることをやめることもおできにならなかった。そして人々が神の御子の訴えに対して答えることを拒否したとき、あるいは不十分な答を与えたとき、神は彼らに御自分の御母を送られた。キリストの御心は何らかの仕方でマリアの御心の背後に退かれた。そのようなことが1917年の大きな転換点であった。そして次のことに注意しよう。ボルシェヴィキの勝利の結果として赤い龍がヨーロッパの一つの先端、レニングラード--当時はまだペトログラードであった--に出現したまさにその時に、ヨーロッパのもう一つの先端、われわれが今そこにいるファチマに「太陽を纏った女」、マリアの汚れなき御心、が御出現になったのである。そのようなものが1917年10月13日の奇跡、太陽の奇跡、それ自身まるまる一冊の書物を必要とする奇跡であった...しかし、親愛なる友人たちよ、この太陽はキリストの象徴である。そしてあなたたちが知っているように、--私は昨日司祭たちとロザリオを黙想している間にそのことを思い起こした--太陽のこの奇跡はピオ十二世のために、彼が被昇天の教義、すなわち、天へと上げられたマリア、キリストによって受け容れられたマリアの教義、女の教義を決定した1950年にバチカンで四度も更新された。

ファチマと被昇天

それゆえにあなたたちはファチマと被昇天の教義との間の関係を見ることができる。だからこそ、ファチマと共に、そしてまた二十世紀のまさに半ばであり、分離することができないこれら二つの年代をもった被昇天の教義の決定の年代であるこの1950年という年代と共に、十九世紀における汚れなき御心の時代の拡張として、被昇天の時代、太陽を纏った女の時代が始まったのである。そのようなものがそのときそのすべての栄光ある輝きにおける、そのすべての救いの力におけるファチマのメッセージなのである。

ああ、悲しいかな!われわれは今1981年の時点にいる。そして今なお世界は太陽のうちに確立されたこの栄光ある女王に答えていない。キリスト、この太陽がマリアの汚れなき御心を通して以外には御自分の生命を与え、勝利を与える光線をわれわれに与えようと望まれないということさえまだ理解されていないのである。

だからこそ、人類はますます深く罪の中へと沈み込み、破局へ向かって真っ逆様に突進しているのである。それはキリストがただマリアを通してのみ支配することを望んでおられるということがまだ理解されていないからである。

私の結論は次の通りである。メッセージは与えられた。シスター・ルチアは1917年以来ある種の殉教を苦しんできた。なぜなら、聖母の要求に対するどんな有効な応答もなかったからである。それゆえにわれわれはメッセージを黙想し、われわれの注意をマリアの御心と彼女の訴えとに集中しなければならない。マリアの訴えは一つの抽象的な訴えではなくて、われらの御母の御心の訴えである。われわれは彼女の方を見、彼女に耳を傾け、われわれすべてに対して彼女が言われること:すなわち、私の心に来なさい、なぜならそうすることによってのみあなたは回心し、あなたを待っている戦闘において十分に堅固な者となり、そしてあなたが耐えなければならない諸々の十字架を担うことができるからです、という言葉を聴かなければならない。そのようなものがわれわれすべてに対する彼女の訴えである。そしてこの訴えは使徒職に呼ばれているあらゆるキリスト教徒に対するものであると同様に、神学者たちそして責任ある地位にいる人々のためである。(聖母はこう言われる)「私に耳を傾けなさい。しかしまた私の訴えが聴かれるようにしなさい。」

司教たちによるロシアの共同的奉献

そして私は(このことが)特に位階、教皇そしてすべての司教たちに対する訴えについて(真である)と思う:すなわち、その訴えとは「私にロシアを奉献しなさい。そうすればあなたたちは平和を手にするでしょう;なぜなら、平和の君であるキリストは私独りを通じてのみ平和をあなたたちに与えようと望んでおられ、そして私の心を通じてキリストは御自身をあなたたちに与えられるでしょうから。」ということである。

最後に実践的忠告の一言。なぜなら、人々はしばしば、教皇と司教たちがこの訴えに答える前に何を待っているのかを不思議に思うからである。親愛なる友人たちよ、彼らが待っているものはわれわれ一人ひとりが個人的に聖母に従うべきだということである。なぜなら、第一にそしてとりわけ教皇が、しかしまた司教たちがこの行為--前代未聞の、そして今日の諸状況の中では考えられない行為--を遂行するために必要としている啓発と強さの恵み、これらの恵みはただ祈りを通じてわれわれによってのみ獲得され得るからである--と私はたいそうよく理解する。このように人間的には考えられないものが神の恵みを通じて、位階をして聖母に従うことを許すであろう途方もない恵みを通じて、可能となるであろう。これらの恵みはすべてのキリスト者の側、全教会の側での努力、祈りそして犠牲の全体によってそれに値するものとされるであろう。

結論

それゆえに、私の結論は非常に実践的なものである。日付に関して、あるいは懲罰の予期に関して病的興奮がないようにしよう。日付は未知である。懲罰は確実である。われわれにとっての実践的結論はわれらの御母の御心に向くことである。そしてわれわれは、ついでになされた何事か、あるいはわれわれが旅の途上にある間に一瞬を占める一つの敬虔な行為ではない、一つの出発点であろうこの巡礼と共に直ちにし始めようとしている。それは聖母の訴えをあなたが聴くことからのような一つの出発点であろう。そして私の喜びはこのことに対して貢献をしたことから出てくるであろう。それは、聖母の訴えを聴いて、あなたが各々の次の日の応答をますます効果的なものとすることを学ぶことにおいて、一つの出発点であろう。私の話はそれをマリアに答えることを学ぶための一つの出発点とするようあなたを助けるために、他の多くの事柄もあるけれども、あなたに提供される。

この解放する奉献をなすことを教皇および使徒たちの後継者たちに許すために必要な動きと恵みが来るのは全教会の努力から、われわれ一人ひとりの祈りと犠牲からである。

マリアの御心が勝利するのはそのときである。平和がロシアに与えられ、そしてロシアに始まって、全世界に与えられるのはそのときである。マリアがすべての恵みの仲介者と宣言されるのはそのときである。偽りの、そして欺くために計算された刷新ではなく、刷新、真の刷新が来るのはそのときである。全教会のうちに、そして全世界を通じて、キリストとマリアの御心のより大いなる栄光、父なる神、子なる神そして聖霊なる神のより大いなる栄光のために、神によって約束された真の刷新が来るのはそのときである。アーメン。

目次へ

2004/11/12 三上 茂 試訳

作成日:2004/11/12

最終更新日:2004/11/12

World Enslavement or Peace...It's Up to the Pope: Section I; Chapter 2 へ

マリア様のページへ

トップページへ

E-メール:mikami@po.d-b.ne.jp