ファチマの聖母マリア

世界の奴隷化か、それとも平和か...
それは教皇にかかっている

第 XV 部

ニコラス・グルーナー神父と他のファチマ専門家たち

1982年5月13日に教皇ヨハネ・パウロ二世のファチマでの奉献の行為に関する省察

ジョゼフ・ド・サント・マリー、O.C.D.著

序論

正確に1年間の間隔で教会は例外的な重要性を持つ二つの出来事を経験したばかりである。1981年5月13日に犯罪的、冒涜的な手がキリストの代理者の生命に対する襲撃を行った。そして翌年の5月13日に彼[教皇]はあの致命的な危険から彼を救われたことに対して感謝するためにファチマの聖母の聖堂へ巡礼に行かれた。標的であったのは至高の司牧者の人格における全教会であった。そしてあのドラマを演じたのはその全体における教会であった。それ以上であった:社会における通信手段のおかげで全世界はショックを感じた。そうであるとすれば、われわれは、そのような出来事を、あたかもそれらが、毎日の「ニュース」が公衆の慰みのために急いで提供されるやすばやく忘却されて消えてしまうという単純な事実以上のものではなかったかのように、取り扱うことはできないのである。またわれわれは、それらの出来事のうちに通俗的な敬虔の滋養に -- 多かれ少なかれ疑わしい仕方で、とわれわれはつけ加えてもよい -- 適した事件を見ることに満足することもできない。何か最も重大なことが起こった、これらの出来事はある意味を持っている、そして教会が、ここで今、それらの出来事を通して神が発せられたアッピールに教会が応答することができるように、その意味を把握することは教会にとって第一に重要なことである、ということに気づくためにはただ時の省察のみが必要である。その意味を引き出すこと、アッピールを理解しそれに答えることは全教会の仕事である、とわれわれは主張する。誰もが彼の地位と彼の恵みに従ってそれに取り組むべきである:司祭は彼の識別のカリスマと彼に属する権威をもって;キリスト教徒の人々は彼らの信仰、かれらに特別のものである信仰の感覚 sensus fidelium と彼らの寛大さとをもって;そして神学者は教義に関する光である、彼に求められている奉仕を与えることによって。

ここに提供されている省察が位置しているのはその優れて教会的な展望のうちにである。それらの省察はわれわれがたった今思い起こした二つの出来事と、それらが含まれている全歴史的な背景を提示する。5月13日の奉献の行為はわれわれに鍵を与えている。だからこそ、ここに一つの巨大な主題に関する総合的な省察を提示する前に、われわれはその行為をわれわれの分析の中心に据えたのである。われわれは[奉献の]テキスト全体を再現し、そしてその構造と主要な諸要素を明らかにするであろう短い分析をもってそれに続くことから始める。その後に、ファチマの事実がわれわれには教皇の意思表示の根源にあると思われるので、われわれは二つの基本的な問いに答えなければならない。第一の問いは歴史の秩序において:1982年5月13日の行為はどの程度ファチマの預言的メッセージに答えているか?第二の問いは神学的な秩序において:どんな仕方でメッセージと[奉献の]行為とは神の救いの秩序に一致するのか?われわれの省察の主たる対象は第二の問いである。しかしそれに与えられるべき答えは歴史と預言の最近の諸事実を含むので、われわれはそれらの事実を思い起こすことから始めなければならない。われわれが見るであろうように、それらは今日働いている救いの歴史の諸事実である。

I . 奉献の行為

まず初めに、ここにファチマの聖母の大聖堂の前の広場において1982年5月13日に教皇によって[為された]奉献の行為のテキストがある。注1)

分析をより容易にするために、われわれはパラグラフ毎に文字を与えた(アラビア数字はオリジナル[のテキスト]につけてある。そしてそれらはわれわれが見るように、三つの主要部分のよい指標である。)

1. a) 「おお、聖なる神の御母よ、われわれはあなたの保護へと逃れます。」("Sub tuum praesidium confugimus, Sancta Dei Genitrix"). キリストの教会が数世紀にわたって祈ってきた交誦の言葉を発音するとき、私はあなたによって選ばれてここ、この場所におり、おお、御母よ、あなたによって特に愛されて、ここにいます。

b) 私は、キリストの意志によって、使徒たちがペトロと結びつけられたのと同じ仕方で一つの団体、一つの集まりにわれわれを構成する特別の絆によって教会のすべての司牧者たちとここに一致しています。

c) その中に私がもう一度今日の世界における教会の希望と苦痛とを集めたいと望んでいる現在の奉献の言葉を私が宣言するのはその一致の絆の内部においてです。

d) 40年前、そして再び10年後に、あなたのしもべ教皇ピオ十二世は人類家族の悲しみに満ちた経験を目の前にして、あなたの汚れなき御心に全世界を、そして特にある特別な仕方であなたの愛とあなたの配慮の対象であった人々を、委ね、そして奉献されました。

e) それによってペトロの座における私の先任者がそれ:すなわち、その終りへと近づきつつある第二千年紀の世界、現代世界、われわれの現在の世界を委ね、奉献されたその行為を更新したいと私が望んでいるこの時に、人々と諸民族の世界を私もまた今日、私の目の前にしています。

f) われらの主の言葉:「ゆえに汝ら行きて万民に教えよ、....さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり」(マテオ 28:19-20)を思い起こしながら、教会は第二バチカン公会議において、この世界におけるその使命の意識を新たにしました。

g) ですから、おお、人々と諸民族の御母よ、彼らの苦しみと彼らの希望のすべてを知り給うあなた、一人の母親として現代世界を揺り動かしている善と悪との間、光と闇との間のすべての闘争を感じておられるあなたよ、われわれが聖霊によって動かされてあなたの御心に直接に訴えているこの訴えを受け入れてください。、そして御母およびはしためとしてのあなたの愛を持って、われわれがあなたに献げ、あなたに奉献する、人々と諸民族の地上的および永遠の運命に対する不安に満ちたわれわれの人間世界を抱きしめてください。

h) われわれは、彼らがあなたに委ねられ、奉献されるこの行為の特別の必要を持っている人々と諸民族とをある特別な仕方であなたに委ね、あなたに奉献します。

i) 「おお、聖なる神の御母よ、われわれはあなたの保護へと逃れます。」われわれが試練の下にあるときにわれわれの祈りを退けないでください。それらを軽蔑しないでください。われわれの謙遜な信頼とそれによってわれわれがあなたにわれわれ自身を委ねる行為とを受け入れてください。

2. a) 「神のこの世を愛し給えることは御ひとり子を賜うほどにして、これすべて、これを信仰する人の滅びずして永遠の生命を得んためなり。」(ヨハネ 3:16)。

b) 神の御子をしてすべての人々のために御自身を聖とさせた[奉献させた]のはまさにその愛です(ヨハネ 17:19)。「かつ彼らをも真理のうちに聖ならしめんとして彼らのために、(われは)おのれを聖ならしむ。」

c) その奉献のためにあらゆる時代の使徒たちは、世界の救いのために自分たち自身を献げ、教会であるキリストの体のためにキリストの苦しみに何かをつけ加えるために召されているのです。(コリント後 12:15; コロサイ 1:23 参照))

d) キリストの御母よ、あなたの前で、あなたの汚れなき御心の前で、私は今日全教会と共に、世界と人々とのためのキリストの奉献においてわれらの救世主と私自身を一致させたいと望みます。なぜなら、教会が赦しを得、償いをする力を持つのはただキリストの神的な御心においてのみだからです。

e) その奉献の力はあらゆる時代へと拡がり、すべての人々、諸民族そして諸国家を包含します。それは暗黒の霊が人間の心と彼の歴史の中に引き起こすことができる、そして実際、われわれの時代に引き起こしたすべての悪を凌駕します。

f) われらの救世主のその奉献に、教会、キリストの神秘体は聖ペトロの後継者の行為において自らを一致させます。

g) キリスト御自身の一致において人類のため、そして世界のため、われわれの現代世界のための奉献の必要性をわれわれはどのように深く感じていることでしょう。キリストの救世の働きは実際教会の仲介を通じて世界によって分けも持たれるべきです。

h) そうであるとすれば、聖性と奉献に反する、教会における、そしてわれわれ各人における何ものかによってわれわれはどのように悲しませられることでしょう!そして悔い改め、回心、祈りへの招きが受けるべきであった歓迎を見出さなかったということは何と悲しいことでしょう!

i) 多くの人々がキリストの救世の働きにそのように冷淡に関わるという事実によってどのようにわれわれは悲しいことでしょう!そして「キリストの苦しみの欠けたるところ」(コロサイ 1:24)がわれわれの肉においてそのように不適切に作り上げられているということは!

j) そこで、永遠の愛の呼びかけに従うすべての霊魂は幸いである。おお、御母よ、あなたのイエズスが言われたこと(ヨハネ 2:5 参照)を行い、福音によって霊感を受けた生活の澄んだ証言を教会と世界に与えるために、日々、尽きることのない寛大さをもってあなたの招きを受け入れる人々は幸せである!

k) とりわけ、あなた、この神の訴えに完全な仕方で従順な主のはしため、あなたは幸いな方です!

l) あなた、あなたの御子の救世の奉献に完全にあなた御自身を結びつけられたあなたに讃美あれ!

m) 教会の御母よ、神の民に信仰、希望、愛への道を教えてください!現代世界における全人類家族のために、キリストの奉献のすべての真理をもって生きるようにわれわれを助けてください。

3. a) おお、御母よ、すべての人々とすべての民族とをあなたに委ねながら、われわれはまた世界のために奉献それ自身をもあなたに委ね、そしてあなたの母としての御心のうちにそれを置きます。

b) おお、汚れなき御心よ!今日人々の心の中にそのように容易にその根を降ろし、そしてその果てしない諸結果をもってわれわれの時代に重くのしかかり、未来への道を閉ざすように見える悪の脅威を克服するためにわれわれを助けてください!

c) 飢餓と戦争からわれわれを救い出してください!核戦争から、数え切れない自己破壊から、あらゆる種類の戦争から、われわれを救い出してください!彼の最初の瞬間からの人間の生命に対する罪からわれわれを救い出してください!憎しみと神の子らの尊厳の下落からわれわれを救い出してください!国内のそして国際的な社会生活におけるあらゆる種類の不正からわれわれを救い出してください!神の十戒を容易に踏みにじることからわれわれを救い出してください!神のまさに真理を人間の心の中で窒息させる試みからわれわれを救い出してください!聖霊に反する罪からわれわれを救い出してください!

d) おお、キリストの御母よ、すべての人々の苦しみを背負い、諸々の社会全体の苦しみを担ったこの叫びを聴いてください!

e) 世界の歴史においてもう一度慈悲深い愛の無限の力が明らかにされますように!それが悪を阻止しますように!それが良心を作り直しますように!あなたの汚れなき御心がすべての人のために希望の光を示しますように!

私がそのように感情を込められたテキストの分析を企てるのはある不安をもってである。私はある種の恐れ -- それは全教会に与えられたのであるけれども、一つの秘密を冒涜する恐れ -- を感じている。しかしそれらの言葉を超えて、いくつかのテキストはそれらの秘密を保っている。そしてこの歴史的行為を含んでいるテキストは特に抵抗を示すものである。私が、私の最初のひるむ動きを抑え、しかしここでわれわれの前に普遍的な父の心をわれわれに打ち明けておられる一人の人に対する深い尊敬の念を保ちながら、分析を企てなければならないのはまさにその理由のためである。彼の意向が理解されればされるだけ、それだけ彼の呼びかけに答えるということになりさえすれば、分析はなされなければならない。

最初から行為全体を照らす四つの光が現れる。第一の光は憐れみの光である。なぜなら、Sub tuum -- 「あなたの保護の下に」、あるいは原語のギリシャ語に従ってもっと正確には、「あなたの憐れみの下に」(eusplanchia) -- という祈りによって人が頼るのは憐れみにであるからである。第二の光はその憐れみは祝せられたおとめによってわれわれに与えられなければならないということである。密接に結びつけられた二つの考えは暗々裏に、あるいは明白に定式化されて、第1部の終り(1, i)と行為そのものの終り(3,e)に現れる。それゆえに行為そのものはそれら二つの光の中に入っている。

第三と第四の光線もまた結びつけられているが、しかし対照という仕方によってである -- その対照は一つの連続のうちに終わってはいないけれども --。一面において、祝せられたおとめに対する最古の祈りであるsub tuum の使用は現在の行為を伝統の連続性のうちに置き、一方、他面において、マリアによる「選ばれた場所」の言及はそれを現代の預言的な事実:すなわち、ファチマが議論の余地無く二十世紀の主要な預言であるという事実、への一つの解答として提示している。ファチマの預言は二十世紀をその全体において含みそして照明している -- それはわれわれがこれから論証しなければならない点の一つである。われわれは「あなたによって選ばれたこの場所において」という教皇によって用いられた表現のうちに含まれているコヴァ・ダ・イリアの事実の真正性の一つの新しい公式の承認をついでに注目するであろう。

続くパラグラフにおいて、教皇は二つの関心によって霊感を受けておられる:すなわち、彼の行為を初期あるいは後期の、それに先行するものとの連続性において提示し、そしてファチマでの祝せられたおとめによって明確に述べられた要求に沿いたいという彼の望みを明らかにすることである。彼は彼の行為に、聖母が要求なさったように、一つの共同的次元(1, b-c)を与えようと望んでおられる。そしてそうすることにおいて、彼は彼の先任者ピオ十二世が1942年と1952年に為されたものを更新するという彼の望みを主張しておられる(1, d-e)。加えて、彼自身現在の世界の最も緊急の要求を取り上げながら、彼は第二バチカン公会議の意向と完全に一致する身振りをされている(1, f)。

これらの予備段階の後に、そして善と悪との間の現在の闘争の劇的性格を強調された後に、教皇は奉献固有の行為へと進まれる(1, g)。彼がマリアに「委ね、奉献なさる」のはその全体性における「われわれの人間世界」である。しかし、それはロシアのある特別の言及を伴ったものであり、それはピオ十二世の行為への関連と聖母によってこの「選ばれた場所」において「人々と諸民族の御母」によって表明された要求に沿いたいという彼の望みとをすべての人の目に明らかにするものである。(1 h; Cf. 1, a, d.)

奉献の行為の第二部はそれの福音への基礎づけをその最初の目的として思い起こさせることを持っている:すなわち、世界が彼の御父へと奉献されるためにキリストが犠牲において彼御自身を捧げることによって彼御自身について為された奉献(2, a-b; ヨハネ 3:16; 17,19 の引用)。しかし、それは一つの新しいそして多面的な奉献に終わる。キリストが十字架上で彼の犠牲によって彼御自身でなさった奉献は一つの永遠のそして普遍的な価値を持っている:それはそれ自身のうちにすべての悪に対して勝利する力を持っている(2, e)。そのとき、そのうちに、あらゆるキリスト教的奉献の基礎が見出される。弟子たちと全教会は自らをそれと結びつけるように呼ばれている(2, c. f )。

そのことはヨハネ・パウロ二世御自身が為さったことである。すなわち、マリアのおられるところで、彼は彼自身を「世界のためそしてすべての人々のために彼自身の奉献において」救世主に結びつけておられる。そして彼は教会を彼の個人的行為のうちに含ませておられる(2, d; Cf. 2, f )。その中には奉献の第二の行為(そして第三の行為さえ)がある、ということにわれわれは注目すべきである。それは疑いもなく、前の一つによって要求された行為であるが、しかしそれとは異なる行為である。第一はマリアへの世界の奉献である。第二は、犠牲的な奉献、すなわち、キリストの奉献の犠牲との一致における神への教皇の奉献である。

しかし、教皇がこのように彼自身を献げ、奉献するのは「全教会と共に」である。彼はそれを彼の個人的奉献のうちに含ませることを望んでおられる( 2, d )。彼は同じ考えを少し後で、僅かに異なった句において、再び取り上げようとしておられる。そしてその中では教会自身の奉献の献げが見られ得る。

教皇の祈りは現在の世界における悪の悲しみに満ちた再現で続く。彼はこのようにして上に引用された聖ヨハネからの節において用いられているように「奉献」という語の二つの意味:すなわち、犠牲と聖化、を示しておられる。悪の圧倒的な力は実際、現在の世界が聖化されるためにあの救世の犠牲の必要性をどれほど必要としているかを示している( 2, g )。そして教会への鋭い見方は同時に、教会が犠牲へのその呼びかけ -- それは救世の働きへの参加の呼びかけにほかならない -- にどのようにわずかしか、そしてどのように不適切にしか答えなかったかを示している(2, h-i; コロサイ 1:24 引用)。今日そのようにしてわれわれに呼びかけておられるのは祝せられたおとめ御自身である。そして教皇は聖母に答えた人々に対する祝福をもって続けておられる(2, j )。そのやり方で彼はわれわれに教会の御母の預言的諸要求の深い意味を明らかにしておられる。その祈りと償いへの呼びかけにおいて、聖母はわれわれ自身を十字架上のキリストの犠牲と奉献とに一致させるようにわれわれを招いておられる。聖母はこのようにわれわれ自身をキリストと共にそしてキリストにおいて奉献するようにわれわれに呼びかけておられる。そして聖母御自身と共に、また[そうするように呼びかけておられる]。なぜなら、教会の他のどの成員より以上に、聖母は「その御子の救世の奉献にまったく一致して」おられるからである(2, l)。

それゆえに、この第二部が、キリストの奉献から、そしてマリアの奉献から出発しながら、果たしている、あるいは果たされることを求めているのは、三つの奉献である。すなわち、教皇の奉献、その全体における教会の奉献そして信徒の奉献である。第一の奉献は、少なくとも一つの献げ物として、教皇の言葉によって構成されたまさにその行為によって為された。第二の奉献は第一の奉献に含まれているものとして考えられるべきである。しかしながら、その意味は、人が教会と同時に世界を押し潰している脅威について考えるまでは十分ではない。前もって教皇は、すなわち至高の司祭は(彼の代理者としてのまた管理者としての行為によって)世界の救いのために彼の頭[キリスト]の全燔祭の供え物と一致して教会のそれを捧げておられる。最後に、彼の祈りの残りにおいて、教皇は信徒の一人ひとりにあの奉献と救世の犠牲に自らを個人的に一致させるようにと呼びかけておられる。見られ得るように、それは唯一の犠牲、唯一の奉献の問題である。しかしそれは、キリストとマリアの後には、三つの次元において、すなわち、教会の可視的な頭において、全体としての教会そのものにおいて、そして教会の成員たちの一人ひとりにおいて、理解されなければならない。

キリストの犠牲への言及が最初に来る(2, a-b )。そして第一に祝せられたおとめ御自身(2, l )に適用される。「その御子の救世の奉献」との聖母の一致は世界の(1, g )そして教会の(2, m )聖母への奉献の直接的な基礎である。その結果への直接的な陳述はない。しかし第一部において為されたマリアへの奉献と第二部の最後のパラグラフにおける祈願が見出される(2, m )のは、確かにその一致の上にである。それに加えて、その一致は奉献の第三部と最後の部分を満たす祈願の連祷の基礎である。

教皇は、彼自身、教会そしてその成員の各々の奉献を聖母の母としての御心のうちに置くことによって(3, a )、そして「悪の脅威を克服することにおける」聖母の助けを嘆願することによって(3, b )マリアに委ねておられる。そしてわれわれは、真理のうちにわれわれの奉献を生きることによって、すなわち、世界の救いのための祈りと犠牲への聖母の嘆願に答えることによって、同じことをするであろう。次に、第一の奉献、すなわち、マリアへの世界の奉献に戻りながら、教皇は聖母に再び御自身で直接的な行動を取られるように願われる。聖母はキリストの救世の犠牲とのその一致のゆえにその力を持っておられる(2, l)。それゆえ、ファチマで明らかにされた神の意志に一致して、ヨハネ・パウロ二世が解放への訴えを向けられるのは救世の独特の犠牲へのあの従属において、聖母に対してである:「飢餓から、戦争から、核戦争(....)からわれらを解放し給え、われらを解放し給え。」それゆえ、教皇が求めておられるのは(3, c )、祝せられたおとめ御自身の[による]救いである。なぜなら、われわれの希望の唯一のそして最後の源である神の憐れみが今日広まり、世界において勝利することを望まれるのはマリアの汚れなき御心の行動によってであるからである(3, e)。

ファチマのメッセージの中心にあるその真理は確かにあの奉献の行為においてそれらの言葉では定式化されていないが、しかし、それは、実際それで奉献が終わっている訴えの基礎であり、そしてそこにおいてそれは完全な明瞭さをもって自らを示しているのである。われわれが上に強調したように、あの最後の訴えは、それによってあの行為が開かれ、第一部の終りに(1, a, i )繰り返されたものを再び取り上げている。それゆえに、それのうちに、そしてそれが含んでいる真理のうちに、祈り全体の主要な思想、ファチマの預言的メッセージと神の救いの秩序の両方に完全に結びつけられている思想 -- それはわれわれが少し前に確立しようと努めていたものである -- が見出されるはずである。

次に続くのは「南大西洋」平和のための特別の祈りである。われわれはここでそれを分析する必要はない。なぜなら、それは奉献の行為においていかなる役割も持っていないからである。

その深さとその複雑さの両方のゆえにあの祈りの詳細な分析をする必要があると思われる。その指導的な線は、そしてまたそれらを一緒にまとめそしてそれらを作り上げている時に微妙な特定の局面やつながりも、自由にされなければならない。しかしながら、思想の一般的な動きは明白であり、そして調べられるべき問題を明らかにしている。歴史的な観点から注目されるべき第一の事実は世界の上にのしかかっている悪と危険の公然の非難と手を取り合っているファチマの諸々の預言の公的荘厳な認識である。二重の立場、歴史の立場と祝せられたおとめのメッセージの正確な内容とがその側で問題を提出するということをわれわれはまた検討しなければならない。

神学的な秩序においては他の問い、すなわち使徒の位階制度と教会の神的支配における預言的カリスマの問題をもそれは問う。それについて一言、言わなければならない。なぜなら私の意見ではそれはまだ十分に解明されてこなかったからである。しかしあの行為によって提出された主要な神学的問題は奉献に関する諸問題である。われわれはその言葉が取り得る異なった諸局面、そしてあの行為が含み得るより多くの異なった局面をさえ見てきた。奉献についての全神学はそれらを考慮に入れて為されなければならないであろう。しかしそれはもはや発明される必要はない。諸々の要素はしばしば神学者たちによって、そして教導権そのものによって提示されてきた。まだ欠けているのは綜合である。他にもいろいろあるが、それはマリアへの奉献についての反対論に立ち向かうことを可能とするであろう。そしてそれは、とりわけ、あの奉献がどれほど話題のものであるか、そしてそれが救いの神の秩序にどのように一致しているか、を示すであろう。これらすべての問いに適切な答を与えるためには簡単な一つの論考にはその紙数がない。しかし、それらを明瞭に定式化することができることはすでに評価できないほど貴重なことである。少なくともわれわれはその明確化にはどの線を辿るべきだとわれわれが考えているかを指摘することができる。

II. 現代の歴史における預言

それらがどれだけ微妙なものであろうと、われわれは、ここに含まれている、第一に歴史に触れている問題、神学的諸問題に取り組まなければならない。神学は教会に奉仕する。そしてそれについて神学が沈黙していることができない諸事実がここにある。この場合その第一の仕事は歴史的である:すなわち、最大限の正確さをもって諸事実を確立するという仕事である。

まず第一に、それは1982年5月13日の奉献の行為におけるファチマにおける祝せられたおとめの御出現の公的認識の重要性を示さなければならない。ピオ十二世、ヨハネ二十三世そしてパウロ六世はすでにその公式の承認を与えられた。注2)

しかしヨハネ・パウロ二世は、それを更新されたとき、非常に重要な行為を遂行された。なぜなら、彼を通じて、位階的権威は最高水準において、そして最も公式的なやり方で新たに関わったからである。ファチマをマリアによって「選ばれた場所」(1, a )と宣言することは実際聖母がそこに来られたということを承認することである。そしてテキストのすべての残りは、聖母の望みに答えようとするその努力において、非常に明瞭に聖母のメッセージの真正性そしてその緊急性をすら宣言している。

奉献のテキストそれ自身の他に、その中で教皇がファチマ・メッセージの真正性、そしてまたその非常な緊急性をも認める多様な宣言をなさった、それに関連する他のすべてのことがある。最も明白なものの一つは、5月12日の夕方、この「選ばれた場所」への彼の到着の時に彼が為された訓辞である。彼は二つの日付の一致 -- 1981年5月13日の彼の生命に対する襲撃と1917年の聖母の最初の御出現の記念日 -- に言及され、そして自分はそのうちに(「神の摂理の計画には単純な偶然の一致は存在しない」)「65年前にここから来たメッセージにわれわれの注意を呼びかけること、そしておそらく再度の呼びかけ」を見ると言われた。彼は、自分は「(日付の一致のうちに)ここに来るようにという一つの特別の召喚を認めた」と言いながら、13日の説教において、同じ考えを追求された。

引用を増やすことは可能であろうが、しかし不必要であると思われる。それらがするであろうことはファチマへの教皇の旅行そのものによって構成された公式承認の第一のそして主たる表明を確証することである。

その事実が確立されたからには、今や説明されなければならないことは使徒的権威が彼の態度を正当化するやり方である。いかなる理由がこの場所における神の介入を彼に認識させたのか?それらは、介入の二つの局面に応じて、二つの秩序を持つものである。すなわち、われわれはメッセージおよびその内容をそのメッセージが教会に与えられた御出現の出来事から区別しなければならない。第一の局面に相応するのは教義的な秩序における諸理由である。第二の局面に相応するのはカリスマ的な秩序の、と呼ばれ得る諸理由である。13日の説教は、それに従って「教会が唯一の公的啓示、(....)福音書それ自体の真理と呼びかけ、へのそれらの一致の基準によって預言的な諸々の啓示を評価し、判断する」という原理を明白に思い起こさせるものと共に、第一の局面に長々と関わるものであった。

メッセージの内容に関してはここまでとしよう。御出現の事実の真正性に関して言えば、それらのメッセージの、福音書のメッセージとの一致は他にもいろいろある基準のうちの一つの基準にしかすぎない -- それは疑いもなく第一の基準であり、そしておそらく、もっと正確に言えば不可欠の予備的条件であるけれども -- 。諸事実を承認した本当の理由は別の秩序に属するもので、「霊の識別」との類比によって、カリスマの識別とでも呼ばれるであろうものである。ヨハネ・パウロ二世が、「二十世紀の敷居で(....)、聖母がメッセージについてある特別の鋭敏さをもってそれらを読まれていると思われる」と述べられるところまで行かれて、「時代のしるし」を認識するようにわれわれを招かれるのはこの意味においてである。(13日の説教、第6)。これらの「時代のしるし」が預言的カリスマのこの識別における主要な基準のうちの一つであることは明らかである。ここで教皇によって呼び出されたあの秩序のたった二つの理由は上に挙げられた[二つの]日付の一致と世界に重くのしかかっている諸悪の重さ、特に戦闘的無神論とのファチマ・メッセージの一致である(奉献の行為、3, c; 第七の嘆願)。それゆえ、あの無神論の最初の犠牲であり、最もぞっとさせる道具であるロシアの特別の奉献の要求[が出されたのである]。セント・ペテルブルグ(現在レニングラード)でのボルシェビキ革命の勝利を見たのと、ファチマでの太陽の奇跡における祝せられたおとめの勝利を見たのが、同じ月、1917年の10月であった -- もう一つの「一致」-- ということが想起されるであろう。それらの理由は発展させられなかった。しかしヨハネ・パウロ二世は、彼が聖書から、特に創世記3:15 と黙示録 12 から受け取った光において「善と悪と」との間の闘争への多くの引喩をされた(彼はまた、同じ意味でユディト書を引用された。そのメッセージが同じようにそのことを示している「13日の説教、第4」)。そしてそれらは識別の働きにおいて取る線をわれわれに示すに十分である。

われわれは、さらに(前に指摘したように)ピオ十二世が聖心に関する偉大な回勅 Haurietis Aquas において、その信心の教義的な真理 -- それはわれらの主の憐れみに満ちた愛に特に向けられている -- を示すことによって始められ、そして後になって初めてその確立とその展開におけるパレ・ル・モニアルのカリスマの決定的な重要性を詳細に説明されているということに注目すべきである。レオ十三世自身、十九世紀の終わりに人類を聖心に奉献されたとき、彼の行為の教義的な基礎を思い出された後に、最終的に彼の行動を促した、奇跡的ではないとしても、少なくとも「摂理的な」特別の助けに言及することを躊躇されなかった。彼はその生命を危険に曝した重大な病気に襲われた。そして予期しなかったある仕方で癒された。そして、病気と治癒の摂理的な意味を彼に明らかにしたのは、後にパウロ六世によって列聖された一人の修道女、聖心のシスター・マリー、ドロステ・ツー・ヴィッシェリングのカリスマであった。これらの事実は今日知られ認められている。それらは、ヨハネ・パウロ二世の方向と行動が、一つの絶対的な新奇さからはほど遠く、反対にすでに堅固に確立された伝統の一部であるということを示している。われわれは位階的な使徒職と預言との間の関係を論じるときに簡潔にそのことに戻るであろう。

われわれはなお、教皇の行為と世界の上に重くのしかかっている危険の彼の公然の非難との間にある密接な関係に注目しなければならない。われわれは上に、教皇が諸々の危険のうちに時のしるしを見るように招いておられる、そしてファチマからのアッピールとの、それらの一致がそのアッピールの真正性を推薦する最も強い理由の一つである、と言った。それゆえに、われわれがしばらくの間立ち止まって、教皇がこのしるしを解釈するようにどのようにわれわれを招いておられるかを見るとしても、それは余分なことではないであろう。そこでは再び引用が増やされ得るであろう。そしてそこにはテキストの印象的な集積があるであろう。そしてそこで、なお再び、ヨハネ・パウロ二世は「ピオ[十二世]、ヨハネ[二十三世]、そしてパウロ[六世]の仕事の継続者」として自らを提示することができる -- 彼はそれを奉献の行為のついでにされた -- (13日の説教、第11)。われわれは特に1967年5月13日にパウロ六世によって述べられた:「世界は危険の中にある」という荘厳な警告のことを思い起こす。ヨハネ・パウロ二世は今度は彼の奉献の行為の中で冷静な、しかし劇的な言葉でその危険についてわれわれに思い起こさせておられる(1, g; 3, c )。しかし同時に彼はその真の原因である悪:すなわち、罪を指摘しておられる。彼はそのことを特に5月13日の彼の説教の中でそうしておられる。その中で彼は「罪における増大する頑固さ、そして、最終的に神の否定。人間的思考の世界からの神の計画された抹消。(....)人間による神の拒絶」、「神による人間の拒絶へと論理的に導く」拒絶を公然と非難しておられる(マテオ 7:23; 10:33、「地獄落ちへ」第7)。このようにして、彼は続けられる:「道徳の堕落は社会の堕落へと導く」(同)。これらの悪はそのように重大であるがゆえに、「キリストの代理者」は「諸民族と人類の上にのしかかかっているいわば黙示論的な危険の証人」として前面に出て来られる。「世界中に広まり、人間、諸民族、人類を脅かしている諸悪を知って、ペトロの後継者[教皇]は世界の救いへの、あらゆる悪よりも常に力強く、常により強力である救いをもたらす愛へのより大きな信仰をもってここに来ている」(第11)。その脅威に直面して、憐れみ[そのものなる神]への信仰と希望はすでにヨハネ・パウロ二世自身および彼の先任者たちによって遂行された行為の更新において堅固な形式を取るであろう。彼は「御母の御心に世界を奉献し、そしてそれを特別に必要としている人々をより特殊的に聖母に奉献する」であろう。(同)

これらの「準黙示論的」脅威を人類の上に引き降ろしているのは、簡潔に言えば、罪である。-- なぜなら、それはあらゆる道徳の破壊、そして神による人間の拒絶へと導くからである -- 。注3)

そして人類は、その御母の御心によって人類に御自身を与えることを望んでおられる救世主の救いの慈悲において以外にはいかなる救いも持たないのである。われわれはここでファチマのメッセージの中心にいるのである。

1.ファチマ:歴史とメッセージ

それでは、ファチマ・メッセージとは何であるか?そして第一に、われわれはどのようにしてそれを知るようになるのか:その歴史は何か?今日、第一の問いに答えることは可能である。しかし第二の問いは解明することがより困難である。そしてそれはいくつかの理由でそうである。第一の理由は、すべての文書がまだ利用可能ではないということである。第二の理由はメッセージそのものがただ段階的にのみ明らかにされたということである。第三の理由は一群の歴史家たちや神学者たちがその摂理的な事柄を理解することができず、このようにして実際祝せられたおとめによってシスター・ルチアに正式に委ねられた使命を否定し、研究の作業をより複雑なものにさえしているという事実から起こっている。最後にメッセージの政治的な面に由来する困難 それは諸理由のうちの最小のものではない -- が存在する。分別はどこまでそれについて語ることを人に許すか?これらすべての理由で、ファチマの完全な歴史を書くことはまだ可能ではない。しかしながら、ファチマ・メッセージの本質的なものを引き出すことをわれわれに可能にするかなりの数の目印が確実に設定され得る。

出来事のこの歴史的な展開の問題において新しい事実はメッセージが、例えば、すべてのことが1858年2月11日と6月16日との間に起こったルルドでのように、たった一つの機会に、あるいは狭い時間の限界以内で与えられたのではないということであった。ここでは、その反対に、預言の開示は多くの年月を要した。それはまだ終わっていないと言わなければならない。その結果、1917年以来、それが一つの超自然的な光で照らしている二十世紀全体を覆っているのである。しかしその照明がどのように漸進的に与えられてきたかを理解するためには、われわれは証人への諸々の神的伝達そのものの歴史をそれらの伝達の内容についての承認による教会への開示の歴史から区別しなければならない。なぜなら、それら二つの歴史はそれらの日付において一致しないからである。第一のものの日付と第二の物の日付との間にはしばしば、時には重要な、ギャップがある。そしてそれは神御自身の意志によってなのである。

第一の歴史 -- それは主要なものであり、われわれがここで主として考察するであろうものである -- に関しては、それを構成する預言的諸事実は三つの時期:すなわち、1917年以前、1917年、1917年以後、に分けることができる。

-- 1917年以前:準備の時期

1915年と1916年にはヨーロッパは戦争の時であった。6回の機会に天使が子どもたちに出現した。最初の3回は覆われたやり方で、次の3回は一人の非常に若い男の姿で出現した。これら最後の3回の出現の間に天使はまず第一に彼らを祈るように(第一の出現)、罪の償いをし、罪人たちを救うために平和を願い求めるよう、彼ら自身を犠牲にするように(第二の出現)招いた。それから天使は祈りとキリストの救世の犠牲と共に、聖体を通じて、彼らを一致の中へ入らせることによって、彼らの将来の使命のために彼らの準備を終えた(第三の出現)。天使のこれら三回の最後の「訪問」の簡潔さは驚くべきものであり、そして最も重要なことには、それはファチマの全神秘への鍵を一挙にわれわれに与える。すなわち、神の御憐れみによる罪に満ちた世界に提供された救いとキリストおよび祝せられたおとめの御心によるその御憐れみの賜物である。「キリストとマリアとの御心はあなたたちに対する御憐れみの意向を持っておられる。」その宣言は非常に重要である。なぜなら、それはわれわれを、最初から、唯一の仲介者[キリスト]の御心との聖母の一致の神秘においてのみ、ファチマのメッセージの中心であるマリアの汚れなき御心を考察するように、招いているからである。しかしこれらの事実がずっと後になるまで知られないだろうということを、われわれは忘れるべきではない。

-- 1917年:決定的な年

1917年は5月13日から10月13日まで、祝せられたおとめの6回の御出現の決定的な年である。ヨーロッパはたとえ諸々の出来事がまだそれが知られることを許していないとしても、平和へ向かって動いている。その平和は祝せられたおとめによって予告される。しかしそれが続いているように葛藤の中心にヨーロッパに対してだけでなく、人類全体に対して一つの新しい脅威が起こる -- 共産主義革命の脅威である。1917年10月はその勝利の、そしてその征服の出発を見た。注4)

「太陽よりも輝かしい女」のメッセージがその完全な価値を持つのは、この新しい事実の観点からだけである。われわれはしばらくの間その内容を要約するであろう。しかしそれらをもっと実践的に把握するためには、われわれはここで、それらが歴史的に明らかにされた順序に従ってそれらの主要な局面のいくつかを注目すべきである。

第一の御出現においては二つの事柄が注目されなければならない:第一に、マリアの御出現はまったく霊魂たちの救いと神の栄光-- 特に償いの要求における -- とに向けられているということ、次に、聖母のメッセージは単に言葉においてだけでなく、またそして等しく象徴的な身振りにおいて与えられているということ。それは、聖母が子どもたちに「神の恵みがあなたたちを強めるでしょう」と言われた後に、聖母の両手から発して子どもたちの心の中へと入って行く光をわれわれがどのように理解しなければならないか、ということである。それらの言葉と行為とをもって、祝せられたおとめは神の恵みを与えるのは彼女であるということを意味しておられる。聖母は同じ身振りを6月にもなさるであろう。

第二の御出現についても同じように想起すべき二つの事柄がある。すなわち、世界の中にマリアの汚れなき御心に対する「信心」を確立なさろうとする神の意志、そしてその「信心」の確立のために働かなければならないルチアの使命、である:「イエズスは私[聖母]を知らせ、愛させるためにあなたを用いることを望んでおられます。イエズスは世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。」その神の御意志は恵みの賜物、すなわち、神の救いの秩序におけるマリアの役割と一致するであろう。ここでルチアに与えられた使命は1917年以後に聖母によって教会に伝えられるであろうものの預言的価値の基礎である。

第三の7月における御出現は偉大な預言的御出現である。それは先行の御出現において言われてきたことを再び確証し、子どもたちに三つ[に分けられた一つ]の秘密を与える。その秘密の最初の二つの部分はすでに知られている:すなわち、永遠に失われることから霊魂たちを救うという祝せられたおとめの一つの目的を思い起こさせる地獄の幻視と1939年から1945年までの第二次世界大戦の予告である。しかしながら、その告知は条件的であった。なぜなら、戦争は全教会の祈りと償いとによって、そしてまたマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献によって、回避され得るであろうし、回避されるべきであるからである。求められている悔い改めと償いの働きおよび最初の御出現の中には、月の初土曜日の償いの聖体拝領がある。「それを妨げるために私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために私は[後に]戻って来るでしょう。もし私の要求が果たされるならば、ロシアは回心し、そして平和がやって来るでしょう。もしそうでなければ、ロシアは、諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その諸々の誤謬を世界中に広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しみ、いくつかの民族は絶滅させられるでしょう。最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。」

われわれは今日知っている。しかしわれわれはそれに、これらの預言がどの点まで実現されたのか、祝せられたおとめの要求に耳を貸すことの拒絶の悲劇的な諸結果、に十分にわれわれの心を注いでいない。しかしわれわれはまた、それらの要求が、それらが含んでいる約束と最終的な勝利の保証と共に、われわれに宛てられたままになっていることをも知っている。キリストの救世の力における勝利は、神がそれが聖母のものとして現れることを望んでおられるからして、汚れなきおとめの勝利であろう。われわれはまた、祝せられたおとめが再び戻って来て要求を為さるとルチアにされた約束のうちに、小さな幻視者[ルチア]のそれ以上の預言的使命の新しい肯定を注目すべきである:すなわち、マリアがその御望みを教会に知らせるのは彼女[ルチア]によってである。

普通「第三の秘密」と呼ばれている第三の部分に関して言えば、それはまだ明らかにされていない。しかし、それが以前になされ、そしてそれゆえに、それらを活気づける弁証法的な罪- 罰- 救いの歴史的救済論理の一部でなければならないということはまったく明らかである。その論理とその弁証法は正義と憐れみとの間の神秘的関係の論理と弁証法である -- 憐れみは正義の諸要求を決して抑圧しないのであって、それ自身の最終的な勝利のために正義の諸要求を憐れみに奉仕させるのである。

第四と第五の御出現は祝せられたおとめのメッセージを信じることを人間が拒絶したためにはるかに人目につかないものである。すなわち、8月には市の当局者は子どもたちを監獄に入れることによって彼らが聖母に会いに行くことを妨げた。

最後に、10月13日に、祝せられたおとめは御自分の名を明らかにされた:「私はロザリオの聖母です。」そして聖母は「全世界が信じるようになるために」子どもたちによって要求された約束された奇跡を働かれた。それは、その無尽蔵の象徴的意味をもって、7万人の群衆を跪かせざるを得なかった太陽の奇跡であった。ここでわれわれは次の三つの局面に言及してよいだろう:1)太陽は、人類の上に落ちかかって来て、一瞬のうちに破滅させることができる神の力の象徴である:それは正義が要求するであろうものである。2)しかしその同じ力は世界を罪から洗い清めて世界を再び創造することもできる:それは憐れみの働きである。3)その力は征服者キリスト、Christus Victor の力であるということ、そして再び、その奇跡が達成されるのは、組んだその両手を再び開かれる聖母の身振りによってであるという事実は、キリストが世界の上にその勝利の実を配り、広められるのはただ御自分の御母そして御自分の「提携者」の仲介によってのみであるということを意味している。また3人の子どもたちのために取って置かれた三つの幻視について言及されなければならない。彼らが太陽のうちに見たものは、まず第一に、ヨゼフと幼子としてのイエズスと共なる聖家族の肖像、次に悲しみの聖母の幻視、そして最後にカルメル山の聖母。それらは汚れなきマリアの仲介による憐れみそのもの[である神]の最後の勝利という称号のすべての預言的象徴を伴った幻視である。われわれはそこにそれがロザリオの「諸玄義」の三つのシリーズ:すなわち、喜びの玄義、悲しみの玄義、そして栄えの玄義、の間に分けられているものとして、キリストのすべての救世の神秘の再現を持っているのである。

われわれはこれらの偉大な預言的行為の説明そしてその黙想をいつまでも続けることができるであろう。われわれは一瞬のうちにその本質的なものを要約することにしよう。しかし最初にわれわれは第三期の主要な出来事に言及することによってわれわれの歴史的なスケッチを終えなければならない。なぜなら、もし本質的なものが効果的に言われたならば、そのときそれは展開され、そして特に教会に明らかにされなければならないからである。

-- 1917年以後:メッセージの開示と達成の時期

ここではとりわけ、われわれは、われわれの注意を、特にシスター・ルチアへの超自然的な伝達の内容に、そして神の御望みに対する人間たちによって為された応答に固定しながら、いくつかの主要な目印に限定しなければならない。ファチマの歴史のこの第三の時期は今度は三つの明白に異なった段階に分けられ得る:すなわち、a) 1917年7月の聖母の約束の直接的な延長において為された偉大な啓示の段階:それらはその実現である。そしてそれらは1925年と1929年の間に起こった;b) 聖母のメッセージが聴かれるためのシスター・ルチアの諸々の努力の段階、しばしばの内的伝達を伴い、それで支えられた努力 -- それらはルチア自身の言葉によれば、すべてが同じ価値を持つのではない -- の段階。その時期はある意味において今なおわれわれと共にある。しかし、別の観点から言えば、それは1942年にピオ十二世によって為された世界の奉献と共に一つの転換点に達した;c) 1942年から現在までシスター・ルチアはファチマの偉大な預言的しるしに「全教会」の注意を引くために、特に1981年5月13日に、神が直接介入されて、彼女の努力を維持した。なぜなら、教会におけるすべての者が応答しないとしても、呼びかけられているのは確かに「全教会」だからである。われわれはこれらの段階の各々を簡単に眺めることができる。

a) 1917以後の諸々の大きな啓示

第一のものは1925年12月10日と1926年2月15日の間に起こった。そしてそれはスペインのポンテヴェドラで起こった。キリストと祝せられたおとめがシスター・ルチアに御出現になった。そして償いの初土曜日の信心をお求めになった。「娘よ、恩知らずの人々があらゆる瞬間に彼らの冒涜と忘恩とで突き刺す棘に囲まれた私の心臓をご覧なさい。少なくとも、あなたは私が慰められることを大切にしています。そして、5ヶ月の間初土曜日に、告解に行き、聖体拝領をし、ロザリオを唱え、償いをするためにロザリオの15の玄義を15分間黙想して私に同伴するすべての人が、彼らの死の時に私の援助と彼らの霊魂の救いのために必要なすべての恵みを得られるでしょうと、言いなさい。」(1925年12月10日)。ルチアは直ちにその信心を普及させるために働き始めた。そのことは第二次世界大戦を避けるために満たされるべき諸条件のうちの一つであった(1917年7月13日)。しかし、9月13日に、位階がレイリアの司教の人格においてその要求に答え、そしてその償いの信心を公式に承認したのはただ戦争が勃発した後にしか過ぎなかった。

第二の大きな啓示は1929年6月12日から13日にかけての夜の間にスペインのトゥイで起こった。祝せられた三位一体が壮大な幻視においてルチアに御自らを現された。三位一体がその救済の行為において御出現になった。それは十字架上のキリストの像を見降ろされる御父と聖霊、そして御聖体によって、そしてマリアの仲介によって世界の上にその御血をわれらの主がどのように散布されているかを示している(優れて神学的であるその詳細はシスター・ルチアの記述の中にある)。この機会に祝せられたおとめはコヴァ・ダ・イリアで為さった約束を守られる。聖母はロシアの奉献を求めるために来られる。そして聖母は正確な条件を与えられる:「これは、神が教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をお求めになる時です。神はロシアをその手段によって救うと約束なさっています。」それは戦争を避けるために満たされるべき第三の条件である。第二の条件は1925年から1926年にかけての啓示において繰り返され、そして第一の条件は全キリスト教徒の人々の祈りと犠牲のうちに存している。

b) 1929年から先のシスター・ルチアの諸々の努力:新しい伝達

1925年の終りからそれに続く数年に、ルチアは神からの要求の[教会による]聴聞を得ようとする行動を増やしたが当局者たちに対しては成功しなかった。しかしながら、レイリア(ファチマが所属している司教区)の司教、モンシニョール・コレイラ・ダ・シルヴァの1930年10月13日の司牧書簡は、コヴァ・ダ・イリアでの御出現は「信ずるに値する」ものであると宣言し、「ファチマの聖母の信心」を公式に認可した。その長い書簡は確かに諸々の御出現の歴史における一つの重要な転換点をしるしづけた。翌年の5月13日にはポルトガルの司教たちは彼らの国をマリアの汚れなき御心に奉献した(その文書はそれ以来ファチマの「マグナ・カルタ」として知られてきた)。1936年には彼らは、もし祝せられたおとめがポルトガルを、スペインから直接的にポルトガルに圧力をかけていた共産主義の脅威から守られるならば、ファチマに巡礼に行くという誓いを立てた。彼らは1938年5月12日および13日に、その誓いを果たした。そしてその機会に1931年の奉献を更新した。

しかし、1917年以後シスター・ルチアによって受け取られたもっと重要な親密な会話の一つの年、1936年に戻ろう。彼女はそれについての説明を5月18日付けの、彼女の霊的指導者への手紙の中で次の言葉で与えている(彼女の表現様式はわれわれにその会話がその月になされたと考えることを許している)。「私は、内的に、われらの主に、あの問題(ロシアの奉献)についてお話しました。そして最近、私は主に、なぜ主は教皇様がその奉献をすることなしにロシアを奉献なさらなかったのですか、と尋ねました。」「それは、私の全教会がその奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認め、そしてその結果その信心を広め、あの汚れなき御心への信心を私の聖心に対する信心の側に置くようになることを、私が望んでいるからである。」「おお、わが神よ、しかし、教皇様は、あなた御自身が特別の霊感でもって彼を促されない限り、私を信じられないでしょう。」なかんずくここで強調されるべきことは、そしてそれはテキストの最も重要な部分であるとわれわれに思われるが、世界の中に汚れなき御心への「信心」を聖心への「信心」を補完するものとして確立することである。われわれはこのようにして、1917年6月に明らかにされた意志、そして1915年あるいは1916年の早くに天使たちの言葉において子どもたちに告知された「キリストとマリアの御心」の「憐れみに満ちた計画」とを再び見出すのである。

それが、ファチマでの祝せられたおとめに固有の要求がなぜロシアの奉献であって、世界の奉献ではないのかの理由である。われわれがさっき言ったことはその望みの第一の重要性を示している。それゆえにそれは明らかにされなければならない。なぜなら、その間に他の預言的諸事実が現れて、その望みは今日すべての人々によって明白には知られていないからである。

世界の奉献とロシアの奉献

またマリアの汚れなき御心への世界の奉献のための諸々の取り組みが聖座に対して為され始めたのも、われわれが見たように決定的な年、1936年の間であった。ファチマ専門家たちによってそれほどよく知られていない歴史におけるその点は特別な研究を必要とする問いを提出し答を要求する。なぜなら、これまでに、われわれが読んだ祝せられたおとめの要求はただロシアの奉献だけに関係していたからである。それでは、1942年に為されるであろう世界の奉献の起源は何であるのか?そしてその奉献はファチマで明らかにされた摂理的な計画とどのように関係しているのか?われわれは、多くの人々にとって一つの啓示であるであろうその歴史における主要な出来事を想起するであろう。それはわれわれにわれわれの解答を与えるであろう出来事である。

われわれは上に、1938年5月にポルトガルの司教たちが一緒にファチマにいたということを見た。同じ年の6月に、ピニョ神父、S. J. によって促されて、彼らはピオ十一世に、マリアの汚れなき御心に世界を奉献するように求める手紙を書いた。ピニョ神父の名前がその処置を説明している:すなわち、彼は数年間、マリアの御心への世界の奉献をさせることにおいて決定的な役割を演じたポルトガル北部のバルサルに住んでいる並はずれた神秘家、アレキサンドリナ・マリア・ダ・コスタの霊的指導者であった。われらの主が、御自分の聖心への世界の奉献にそれを関係づけられながら、最初に彼女にこの問題における御自分の意志を示されたのは1935年7月30日のことであった。しかし、ピニョ神父がピオ十一世に手紙を書く -- 彼はそれを仲介者としての国務省長官、パチェッリ枢機卿[訳者注=後のピオ十二世教皇]を通じてやった -- ことを決心したのは、1年後の、1936年9月11日のことであった。1937年に、国務省長官がさらなる情報を求めたので、ピニョ神父はブラガの大司教に手紙を書き、大司教は照会を行った。彼らは大部分が肯定的であった。そしてポルトガルの司教たちは、ピニョ神父によって彼らに為された黙想のためにファチマに集まり、彼の提案に同意し、教皇にわれわれが先に言及した手紙を送った。

1940年10月に、彼らはシスター・ルチアの証言とアレキサンドリナの証言とを結びつけようと努めた。そして彼らは、彼女自身、祝せられたおとめの御心に世界を奉献されるように願う手紙を教皇に書くように彼女に命令した。しかし、ルチアはそのときまで、神からただロシアの奉献にのみ関係する要求を受けていて、世界の奉献に関係する要求は受けていなかった。彼女の司教からその命令を受けたとき、彼女はどうすべきかに関して光を願って、12月22日に、祈りに訴えた。彼女は次の答を、聖母からではなく、われらの主から受け取った(当時、戦争が荒れ狂っていたことを思い出しなさい):「苦難は増大するであろう。私は戦争、飢饉、私の教会の迫害、地上で私の代理者である者に特に落ちかかるであろう迫害でもって諸民族を彼らの罪のために罰するであろう。教皇がもし私の望みを叶え、ロシアを特別に言及して全世界をマリアの汚れなき御心に奉献する行為をするならば、彼はこれらの苦難の日々の短縮を手にするであろう。」それゆえ、シスター・ルチアがピオ十二世への彼女の手紙の中でそれとなく言っているのはその親密な会話のことである。注5)われわれは、彼女が用いている用語が、1917年7月、1929年6月および1936年5月の会話の正確さと保証を欠いているということに注意すべきである。それらの会話の中で、語られているのはロシアの回心、そして世界のための平和の時期であった。ここではそれはただ現在の「苦難」の終りである。それゆえ、異なっているのは単に手段だけではなく、また目指されている目的もそうである。われわれはルチアが手紙を2度書かなければならなかったことを知っている。最初の手紙では彼女は世界の奉献について、ただ教皇だけによって為されるべきものとして語っている。第二の手紙では彼女は世界の司教たちが教皇と共に奉献をすべきであると付け加えている。

これらの所見は1940年10月22日の超自然的なコミュニケーションの真正性に疑いを投げかけることを意図しているのではなくて、単に、まず第一に、その内容がファチマとトゥイのメッセージの内容とは異なっているということを明らかにするためであり、そして第二に、シスター・ルチアが二つのメッセージを一致させようと骨折っていたということを示すためである。そのことは、教皇の行為への司教たちの参加についての、教皇宛ての彼女の手紙の第二のバージョンにおける附加を説明する。そのことはまた、われわれに預言的なコミュニケーションそのものの内部で、そしてそれゆえに恩寵の自然との出会いの結果として、なぜ、世界の奉献への要求と並んで、ロシアの特別の言及が存在するのかを理解することを可能にする。そして就中、それは1942年10月31日のピオ十二世によって為された行為 -- シスター・ルチア自身によって伝達された要求を満たした行為 -- の後に、なぜ彼女は、それ以来ずっと繰り返すことを止めなかったのに、祝せられたおとめの要求に対する完全な答は無かったと言うことができたのか、を説明する。注6)

実際、1942年12月のコミュニケーションにおいて話されたのはキリストであって、祝せられたおとめではなかった。さらに、キリストは御自分の意志をではなく、一つの「欲求」を伝えられた。そのことはファチマの観点から完全に説明される。なぜなら、単純にわれらの主をその御母に対立させるという問題は存在しないからである:すなわち、われわれはここで、一つの独特のそして広い預言的運動の二つの明白に異なった時間の前にいるということを理解すべきである。それはすべてファチマから出発し、そしてそれはすべてそこで終わる。しかし、その視界の内部に、バラサルの神的幕間と呼ばれ得るものがある。それゆえ、ルチアに委ねられた独特のそして本質的な使命への関連において、1940年のコミュニケーションは、彼女を、時の要求に従ってアレキサンドリナの異なった使命であったもの -- 世界の罪の罰、すなわち第二次世界大戦、の終結を早めるためのマリアの汚れなき御心への世界の奉献 -- との対立に置かないという目的をもった、またそれに彼女を同意させさえするという目的をもったわれらの主からの謙虚さの行為として現れるのである。しかし、ひとたびその憐れみの働きが達成されると、最初のメッセージ、ファチマのメッセージは残った。なおいっそう、戦後の諸々の出来事、特にソビエト・ロシアのけた外れの拡張はそれがいかに緊急であるかを示すのに役立った。われわれが今日生き延びている諸々の出来事は「時代のしるし」を読むことができる誰に対しても、それが今かつてよりももっと緊急であるということを示している。だからこそ、ルチアは祝せられたおとめの要求は果たされていないと言うことを止めなかったのである。

そのことは、バラサルの預言的使命とファチマのそれとの間に建てられた関係を説明する。教会の頭[教皇]が、1942年10月31日の彼の行為によって、答えられたのは前者[バラサルの預言的使命]に対してであって、後者[ファチマの預言的使命]に対してではなかった。シスター・ルチアの手紙が彼に、彼が同時に二つの要求に答えたという印象を与える性質のものであったということは確かである。なぜなら、神はちょっとの間それらを一点に集められ、そして次々に確証なさったからである。たった今われわれが指摘したように、1945年以後に起こったことは彼に、真理は幾分異なっているということ、そして1940年/1942年には二つのメッセージの実際の集中があったけれども、それらはそれらに特別であったものにおいて実質的に異なったものであるということを理解させた。ピオ十二世は、彼が1936年に、ピオ十一世の国務省長官として、学び知った要求 -- それは本質的に世界の奉献を求めたものであり、それは戦争の終結をもたらした -- に答えた。彼にとって、ロシアの奉献を求めている第二の要求に答えることが残っていた。それについては彼はただ漸次にしか学び知ることができなかった。そしてこのようにして、その国[ロシア]の回心とともに、その戦闘的無神論とその必然的に拡張主義的な発展過程が、その罪を増大することによって自らの上にあの懲罰を引きつけていた世界に重荷を負わせた黙示録的な戦争の脅威を取り除くことができるのである。

c) 第三の段階:1942年の奉献以後

1952年7月7日にピオ十二世がマリアの汚れなき御心にロシアを奉献されたのはそのことを念頭に置かれてであった。しかし、聖母がそのことを求められたけれども、彼は彼の行為を全世界の司教たちと関係させることができなかった。教皇の行為は孤立化されたままにとどまった。それは要求された共同的な性格を獲得することができなかった。注7)

1952年以後と1982年3月13日以前、すなわち、30年の間、実際に沈黙が存在した。その沈黙は世界の段階的変化と教会の政策とによって説明される:すなわち、それは「デタント」の時代である。その沈黙は1964年と1967年にパウロ六世の行為によってしばらくの間破られた。1964年11月21日にパウロ六世はマリアを「教会の御母」と宣言され、ピオ十二世によって為されたマリアの汚れなき御心への世界の奉献を思い起こされた。そして次の言葉と共に、ファチマの聖母聖堂へ「黄金のバラ」を送られた:「それによって、私はまた人間家族を神の御母の配慮に委ねることを望みます。」そして1967年5月13日に、多くの人々の反対をものともせずに、彼は彼の行為を更新するために御自身でファチマに行かれた。そのような困難な諸状況におけるそのような一歩はパウロ六世がファチマのメッセージに結びつけられた重要性を雄弁に物語っている。

彼の後に、ヨハネ・パウロ二世は今度は「全人間家族を祝せられたおとめの母としての保護に委ねられた」。彼は彼の先任者たちの行為を再現するという見地からそうされた。すなわち、その保護を「最も望んでいる」人々、そして平和の要求への言及....しかしそれは "affidamento" [信託]の行為であった。教皇はその行為を1981年7月7日、彼の生命に対する襲撃の後一ヶ月にならない、聖霊降臨の祝日に遂行された。その行為はファチマに近い一つの新しい動きの暗示を持っている。彼はそれを同じ年の12月8日、無原罪のおん宿りの祝日に更新された。

ルチアが1942年にピオ十二世に世界の奉献を求めたということを認めているのは真である。しかし彼女は同時に、彼女がそれをしたのは、ただ「彼女の聴罪司祭の教示に基づいて」であったと宣言している。ドン・パスクアーレは、ヨハネ・パウロ二世のファチマへの巡礼の前の晩、1982年5月12日のオッセルヴァトーレ・ロマーノにおいてその手紙の内容を公表した。彼の証言は、彼がアレキサンドリナ・マリア・ダ・コスタの霊的指導者であった時、1938年以後ファチマのシスター・ルチアとの密接で連続的な関係を持っていたという点で、より価値のあるものである。注8)

その上、昨年5月13日に教皇によって為された奉献についてのわれわれの分析はわれわれに、われわれがここで取った見地からは、単に、状況はその行為によって変化しなかっただけではなく、またそれを準備するために教皇を助けた歴史家たちがバラサルの要求とファチマの要求の間の一致と不一致両者の関係をまだ把握していなかったということをも、示した。彼らの弁解は必要な文書による証拠への接近の困難性にある。これらの問題が公開され、主たる証人、あるいは文書保持者が、もし望むならば、公衆に、そして何よりもまず位階に、彼らの仕事の結果を公表すべき時である。しかしながら、彼らがこれまでに公表してきたことはわれわれがたった今出した結論を確立するために十分である。それらは多くの人にとって、特にバラサルの預言的カリスマをまだ知らないすべての人々にとって新しいものであろう。しかし、ひとたび諸々の事実が知られると、それらは抗しがたいものである。そしてそれらはその問題における二人の最も有能な専門家J. M. アロンソ神父とドン・パスクアーレによって到達された結論によって確証される。

これらの異なった要求、特にファチマの要求が教会に伝達された仕方、そして教会がそれらに応答した仕方を歴史的に述べる仕事がまだ残っている。それはある特別の、別個の研究を必要とするであろう。その諸結果は必然的に部分的なものであろう。そしてファチマが無視され、拒絶さえされているということ、そしてパウロ六世やヨハネ・パウロ二世の行為のような行為を持つことが、沈黙からその名前を引き出すために、必要であるということを、一般的な仕方で確立するための特別な照会の必要はないのである。

2.ファチマのメッセージ:内容と綜合

われわれは、それによってこのメッセージが、それを教会へ伝えるように委任された彼女に伝えられた主要な諸事実を思い起こした。今われわれはその内容を要約しなければならない。そのことは、次に四つの点を巡ってそれの綜合を作ることによって為され得る。すなわち、それは一つの警告と一つの訴え、一つの基本的真理と一つの最終的な約束を含んでいる。注9)

始め、中間、そして終りに、この預言の全体を照らしている偉大な光は神の御憐れみの道具、マリアの汚れなき御心の光である。

訴えは最初に現れるもの(天使と祝せられたおとめの言葉において)である。しかし、それは警告の対象である状況によって引き起こされている。それゆえ、メッセージ全体の出発点であるのは警告である。そしてそれは二つの言葉:すなわち、罪と戦争に要約され得る。罪は世界の中に増大している。そしてだからこそ戦争が荒れ狂っている(1915年 -- 1917年)。もし人々が回心しないならば、戦争もまた続くであろう。あるいは戦争は再び始まるであろう(1917年7月13日)。それゆえ、警告の主たる対象は罪、そのすべての形式における罪である。しかし特にそれが神御自身の拒絶(ロシアの戦闘的無神論)であるとき、それが聖体を侮辱するとき(天使の最後の出現の際、天使によって教えられた祈り)、そしてそれがマリアの汚れなき御心において神に背くとき(それらの罪の償いのための祈りと聖体拝領)。

それゆえ、回心、償いと共贖の祈りと犠牲を促す訴え[である]。なぜなら、ファチマのメッセージはとりわけ祈りと犠牲への訴えだからである(天使の2回の正式の出現で始まる)。それはまたマリアの汚れなき御心に対して犯される罪の償いのための初土曜日の聖体拝領の要求 -- そしてそれの献げ物 -- である(1917年7月13日;1925年12月10日)。最後に、それは教皇によって、そして彼と一緒にすべての司教たちによって達成される共同的行為におけるロシアの奉献の要求である(1917年7月13日;1929年6月13日)。われわれは第三部において、これら三つの基本的な要求の教会の補足性と神学的な深さを見るであろう。

警告と訴えは、次のように要約しておられる聖母の最後の言葉のうちに見られ得るように、非常に重大である:「人はわれらの主なる神にそれ以上背いてはなりません。なぜなら、主はすでにひどく背かれておられるからです。」注10)しかしファチマのメッセージは聖母のあの無条件の約束:「最後には私の汚れなき御心は勝利するでしょう」(1917年7月13日;1936年5月)のおかげで、それを基本的に希望のメッセージとする一つの調子で終わっている。

その断言は、それがわれわれにこの預言的神秘全体の中心的真理を提示しているというこの点において、すでに検討された二つの局面:すなわち、汚れなき御心と救いの働きにおけるその決定的な役割、と結びついている。祝せられたおとめはわれわれのところに来られるに際してただ一つの目的 -- 霊魂たちを救うことと神に栄光を帰すること -- しか持っておられないので、そしてその意志は端的にわれらの主御自身の意志であるので、神はその意志をわれわれに明らかにするためにその御母を送られる際に、同時にもう一つの目的:すなわち、われわれの救いの仕事を達成するために主が御自身と関係させられた聖母の栄光を世界において称えること、をも追求されているのである。それが「マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償い」の全体の意味である。それはまた、その同じ御心へのロシアの奉献の意味である。そしてそれは最後に、最終的勝利:すなわち、「私の汚れなき御心は勝利するでしょう」を聖母に帰することの意味である。

ここに明らかにされた神の御計画は1917年6月13日の言葉(そしてそれは1936年5月の言葉によって確証されている)において明らかにされたものである:すなわち、「イエズスは世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。」それは、「信心」が宗教の徳の一部として理解されない限りその意味のあるものを捕らえそこなう言葉である。

ファチマ・メッセージ全体の、そしてその延長の第一の基礎であるその真理に、諸聖人の通交の真理がつけ加えられなければならない。なぜなら、祝せられたおとめは救いの神的および人間的働きに協力された第一の方であるけれども、彼女はそうすることにおいて独りではない。すべての「諸聖人」がその仕事へと呼ばれている(コロサイ 1:24 参照)。そのことは特に、1917年8月の重要な言葉において想起されていることである:すなわち、「彼らのために自分自身を犠牲にする人が誰もいないがゆえに地獄に行く多くの人々がいます。」

その時からずっとわれわれはコヴァ・ダ・イリアの預言的メッセージの単に緊急性だけではなくて、またその巨大さと教義的な首尾一貫性をもかいま見ている。われわれは特別の重要性を持つその諸々の局面のいくつかを手短に検討することにしよう。しかし、最初にそれを全体として、また最初の啓示 -- 教会にそれを伝える責任を負わされた目撃者たちになされた啓示 -- のその歴史において、提示することが必要であった。その提示の終りに、最も際だったこと、そしてわれわれにとって強調することが重要であると思われることはそのメッセージにおける同時に全体的でグローバルで最終的な性格である:全体的であるというのは、それが教会全体、司牧者たちと信徒に宛てられているがゆえである。グローバルであるというのは、キリスト教的神秘全体がその中に含まれているという意味においてである。最終的というのは、ソロヴィエフが言うであろうように、本質的に神人一体 theandry (キリストにおける神的なものと人間的なものとの一致)の神秘であるその神秘において、光の中にもたらされるものはそれによってそれが実現される最初の人間的要素:すなわち、汚れなき方の御心、であるからである。それゆえ、その下でこのメッセージが最終的であるもう一つの局面:すなわち、それによって救世的な受肉が達成された最初の創造された要素は同時に人類に、その救いのために提供された最後の好機である。

しかし、われわれが強調しようとするのはとりわけ全体性の局面である。なぜなら、この研究の出発点であると見出されてきた、そしてまたその最後の部分の主要な対象であろう行為は奉献の行為であるので、それはただファチマの訴えの構成諸要素のうちの一つにしかすぎないということを確信することは非常に重要だからである。他の二つは、すでに見たように、祈りおよびキリストの救世の犠牲への参加から構成される回心と5回の初土曜日の -- 本質的に聖体およびマリアの -- 「償いの信心」である。後でわれわれは、これら三つの要求がどのように関連しているかを見るであろう。しかしわれわれは、一方でそれらのうちのどの一つも他の二つなしでは十分であり得ないということ、そして、他方で、あるものは専ら位階にだけ宛てられているが、それに対して他のものは区別無く洗礼を受けたすべての者の関心事であるということを見ることができる。それゆえ、最初から全教会の努力が世界に救いを提供するためにはこのメッセージを必要としているということが明らかである。そのことはその真正性の最も確実なしるしの一つである。しかしそれはまたその正しい解釈のための最も重要な基準の一つでもある。特に、考察は人があらゆることを奉献から期待すること -- それはファチマに帰依するある人々の誘惑であろう -- あるいはあらゆることを信徒の祈りと痛悔に委ねること --これは位階の誘惑であり得よう -- を許さないということを見ることができる。両方は必要である。両方はマリアの汚れなき御心によって媒介される。なぜそうなのか、われわれはそれを示すように努めなければならない。

III.神的な救いの秩序におけるおとめマリア

われわれが必要であると言った歴史的秩序における解明は為された。そしてわれわれは今や、われわれに啓示された救いの預言的計画がそのうちにその場所とその正当化を持っている神学的な観点を論じなければならない。われわれは以下の四つの問題を検討するであろう:1)救いの秩序の現時点における預言の位置;2)救世の業における正義と憐れみとの間の関係。キリスト者の回心、償いの聖体拝領およびマリアへの奉献の間の関連はそれに基づいている;3)奉献の性格と救済的な意味;4)救いの働きにおける祝せられたおとめの役割。四つの問題は密接に連関している。特に最初の三つはそうである。そしてそれらは、われわれが見るであろうように、ファチマの神秘への鍵である第四の問題において頂点に達する。

1.預言と位階

われわれが見たように:レオ十三世、ピオ十二世、パウロ六世そしてヨハネ・パウロ二世が、ただ彼らだけを引き合いに出すだけでも、預言的な方法によって彼らのところへやって来た指示に対して普遍的教会の範囲でもって行為されているということは一つの事実である。人はその態度をどのように正当化するのか?新しい契約の秩序において、すなわち、位階による教会の支配においてその場所を示している預言の神学によってである。そのことはまだ不十分にしか解明されていない一つの問題であるということは告白しなければならない。一般には、われわれは一つの「公的な啓示」、福音の啓示と「神秘家たち」に為されたすべての超自然的なコミュニケーションを第二のカテゴリーに一纏めにする多くの「私的啓示」との間の区別に満足している。そしてわれわれは通常は、ただ最初のものだけが義務に属するものであり、第二のものはせいぜい受け入れることを許されている、そして純粋に人間的な信仰をもって真として主張される、とつけ加える。

二つの非常に単純な考察がその見解は誤りであるということを示す。第一の考察は、こうである:すなわち、現在、ある人に与えられる超自然的なコミュニケーションのうちで、われわれはその直接の目的が彼らの霊魂の善と霊魂の管理である超自然的なコミュニケーションと、彼らによって教会に伝達されるために彼らに為された超自然的なコミュニケーションとを区別しなければならない。それ[後者]は、ファチマ、ルルド、そしてすべての現代の偉大なマリアの御出現での場合である。第二の考察は、もし信仰の行為の性格が、その行為がそれにかかっている動機によって決定されているということが真であるならば、われわれは人間的信仰が人間の証言に依存している、そして逆に、神的起源の超自然的証言が現れるところでは、要求される信仰の行為はまた超自然的性格でもって特徴づけられると結論すべきである。定義によって、教会によって提示された福音の啓示によってのみ要求され、基礎づけられ得るものは神学的信仰ではないであろう。しかしそれはまた各人の自由選択に委ねられた純粋に人間的な信仰でもないであろう。それを単純な言葉で言えば、神が御自身で、あるいはメッセージを伝える人によってわれわれに語られているということが確立される瞬間から、神の言葉はある種の仕方で超自然的な秩序に属する信仰の行為を正当化する。神の言葉はそれの基礎であり、そしてそれを要求する。そこには信じる義務があり、そしてそれゆえに従う義務がある。

何年にもわたってかなりの数の神学者たちはその方向へ動く義務があると感じてきた。それは確かに、それを禁じる教導権のテキストが存在しないので、合法的である。それゆえ、モンシニョール・R. グレイバーは預言的な道筋によってこのように啓示された神の言葉を誰にも信じるか、あるいは信じないかを許す「ぞっとさせる最小限妥協主義」を公然と非難している。同様に、バリック神父は、祝せられたおとめの御出現に対する神学的信仰を要求するとき余りにも遠くに行きすぎているけれども、そして他の人々はそれらに従っている。おそらくわれわれは、それを神学信仰に従属するものあるいはそれに付随するものと見ながら、「預言的信仰」について語ることができるであろう。

なぜなら、ここでの問題は預言についての問題だからである。ところで、預言に固有の機能は、新しい契約においては、古い契約においてと同様に、それが宛てられている人 -- 王、司祭、神の民 -- をその契約の諸義務を果たすように連れ戻すことである。それは、そのときまでそのうちに隠されていた意味を明らかにするときでさえ、契約の位置を占めるのではない。預言は契約のうちに根づいており、そして完全に契約に奉仕するものである。他方において、預言者は司祭における弱さを埋め合わせなければならないということがあり得るであろう。しかし、彼は、新しい契約においては、使徒の権威を持ち続けており、そして公式的に契約に責任を負う者である。だからこそ、行為する彼の決断の基本的動機は、われわれが引用した諸教皇のために見たように、常に契約の言葉、福音の言葉である。しかし、司牧者を行為し、またあの基本的な動機へと連れ戻すように促す直接的な動機は彼に宛てられた預言的メッセージであり得よう。二つの動機はお互いに補強し合い、大祭司の精神と彼の決断において一つに融合する。

その秩序が古い契約に対してと同様新しい契約に対して妥当するということは聖パウロによる非常に力強い言葉において明白に述べられている。以下の二つの箇所をわれわれは思い起こす:「教会は使徒と預言者との土台の上に建てられている」(エフェゾ 2:20)。その意味するところは、疑いの影を超えて文脈の中に示されている新約聖書の預言者たちである。そしてもう一箇所は:「霊を消すことなかれ、預言を軽んずることなかれ、何ごとをもためして良きものを守れ」(テサロニケ前 5:19-20)。「守れ」:聖パウロはここで一つの命令を与えているのである。

だからこそ、聖トマス・アクィナス自身、こう言うところまで進むのである:「預言は民の支配のために必要である。そして(彼は強調的な仕方でつけ加える)主としてそれに対して自然が適切ではない神の礼拝に関することにおいては、恩寵が必要である。」聖アウグスティヌスに従いながら、彼はまた、「信仰の新しい教義を提案するためではなくて、その行動において人間を方向づけるために預言の霊を所有している人々に欠けることはこれまで決してなかった。-- そのことが選ばれた者の救いのために必要であった限りで-- 」その必要性は、もしそれが預言を信じる義務を含まなかったならば、いかなる意味も持たないであろう。

カリスマを尊重するようにという第二バチカン公会議の繰り返された招きは今日の人々の心を預言的カリスマのあの神学へ、そして教会の支配における神の秩序におけるその本質的な機能へと開くべきである。それゆえ、諸教皇が、預言的な道筋によって彼らに為された要求でキリストの聖心あるいはマリアの御心に世界を奉献されるとき、そして彼らの行為が完全に新しい契約の諸要求に適合しているということ -- 彼らに提出されたカリスマの識別が適切に行使されて -- に満足された後には、彼らが取られる処置は単に合法的であるだけでなく、義務的である超自然的な秩序の義務に対する応答である。

そうであるとすれば、われわれはファチマの預言的啓示によって教会の注意へと連れ戻された福音の啓示のそれらの局面を今探すことができるのである。

2.ファチマと福音:正義と憐れみ

二つの言葉はそれが祝せられたおとめによって教会に思い起こさせられているように救世の神秘を要約している:すなわち、それは正義と憐れみである。しかし、それらはそれらの側で他の二つのもの:すなわち、罪と聖性を前提している。契約の目的は神の人間たちとの交流である。:「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(エレミア 31:33)。しかしその交流の条件は民が契約を守るということである。「それゆえに、もしおまえたちが私の声を聞き、私の契約を守るならば、おまえたちは私の民となる」(出エジプト 19:5)。換言すれば、民は神が聖なるものであるように、そして神が聖なるものであるがゆえに、聖なるものでなければならない。「....おまえたちは、聖なるものであれ、主なる神、私が聖なるものだからである」。「おまえたちは、私の聖なるものであれ。私は聖なるものだからである...」(レビ 19:2, 20:26)。このように、聖性と罪とは、契約の究極目的の実現あるいは非実現がそれにかかっている二つの対立的な用語として現れている。選ばれた民は、もしそれが聖であるならば、神によって祝福され、神との交流を許されるが、もし罪によってその神から自らを分離するならば、反対に神によって懲罰を受け、戒められるのである。祝福と呪詛とは契約の締結の唯一可能な二つの結論である(申命記 28:1-14; 15-46):それは神の聖性と正義によって要求される。

これらの要求は廃止されるどころか、反対に新しい契約によってそれらの最大限度まで広げられている:「汝らの天父の完全にましますごとく汝らもまた完全なれ」(マテオ 5:48)。「そは書きしるして、『われは聖なるにより、汝らも聖となるべし』とあればなり」(ペトロ前 1:16)。そして罪は常にそれを犯す人々の上に「神の怒り」を呼び降ろし、もし彼らが回心しないならば、彼らを永遠の呪詛へと導く:「呪われたる者よ、われを離れよ」(マテオ 25:41)。確かに、それはそれ自身聖であるけれども、「怒りを来す律法」(ロマ 4:15; 7:12-13 参照)である、すなわち、罪に対する正義によって要求された懲罰なのである。そして「イエズスは来る怒りよりわれらを救い給う...」(テサロニケ前 1:10 )のである。しかし人は自由である。そしてキリストの恵みにもかかわらず罪を犯すことにおいて、彼は正義と聖性とによって彼が「破壊した」もの:すなわち「律法」(ガラチア 2:18)を、そしてそれと共に神の懲罰と怒りを「再び建てる」のである。

それゆえに、神の怒りのテーマはただ古い契約にのみ属すると考えることは根本的な誤りである。それは人間の自由と神の正義とを同時に否定することであろう。憐れみがキリストによって為された救世の業において完成されたということは真である。しかしそれは御父の「愛子なる」(マテオ 3:17)キリストが、「われらのために呪われたる者となる」(ガラチア 3:13)点まで、われらの罪のゆえに罰を御自らの上に引き受けられた(イザヤ 53:5-12)というこのことにおいて明らかにされたのである。だからこそ、その時から、「キリスト・イエズスにある人においては、もはや罪に処せらるべきところなし」(ロマ 8:1)なのである。そしてわれわれは信仰、希望、愛において「キリストにある」のである。しかし、「キリストに」ない人々、あるいはもはやそうでない人々、罪を犯す人々にとっては、その懲罰を伴った呪詛は彼らを待っている運命である。彼らのためには「来るべき怒り」(マテオ 3:7; 黙示録14:8f)がある。事実は神の憐れみについての誤った考えがあるということであり、そしてそれらの真理を沈黙させることは人間に対する重大な不正である。その警告と地獄の幻視とをもってそれらのことについてわれわれに思い起こさせられるのは祝せられたおとめ御自身である。聖母はそのことをその御母としての愛の義務として為さる。疑いもなく、罰の奴隷的な恐れは「完全な愛」(ヨハネ一 4:18)ではない。しかしそれは、トレント公会議がルターの諸々の誤謬に対する解答において思い起こさせたように、回心と救いの始めであり得るであろう。

それらの真理が確立されたのであるから、ファチマの訴えの光はそのすべての力とそのすべての福音的な現実性をもって現れる。われわれはルチアによって報告された聖母の言葉を聞いた:「人々に、これ以上神に背かせてはなりません!」その内容が7月13日に明らかにされた脅威で重い言葉:現在の時においては、戦争、飢饉、また責められるべき教会に対する迫害、そしてあの世では「永遠の火」(マテオ 25:41)。なぜなら、それらは正義によって要求される罪の罰だからである。それは厳密に言えば脅威よりもむしろ不正に本来備わっている脅威のヒントである。愛と憐れみは、ただ人類を救うためにのみ為されたあのヒント、われわれが見たように、三つの訴え -- 回心(祈りと犠牲)への、償いの聖体拝領への、ロシアの奉献への -- に付随した一つのヒント、の唯一の動機である。もし人々がそれらの訴えに応答するならば、彼らはキリストの救世の業によって獲得された赦しと憐れみの恵みを彼ら自身の上に呼び降ろすであろう。もし彼らが応答することを拒否するならば、あるいは答えることに遅れるならば、正義が要求するものに自らを引き渡す。すなわち、諸々の罰が罪から彼らを清めるために彼らの上に下らなければならない。彼らに提供された二者択一はそのまったき姿においてそこにある。ルチアはそれを彼女の手紙の中でみごとに表現した:「もしそれによって平和が私たちに与えられるその行為(ロシアの奉献)が為されないならば、殉教者たちによって流される血が神の正義を満足させるために十分となるときに戦争は終わるでしょう。」さらに、われわれは、その場合にさえ、憐れみなしには何もなされないであろうということに注意すべきである。なぜなら、正義あるいは憐れみの間の選択において憐れみが常に現前しているように、殉教者たちの犠牲が神の正義を満足させることができるのは、キリストの犠牲とのそれらの一致によってのみだからである。

ルチアがまたまったく確信していたものは、憐れみ[の神]に頼るためにわれわれに提供された三つの道:すなわち、祈りと犠牲、償いの聖体拝領、マリアへの奉献、の間の関係であった。[憐れみの神]のうちに見出されるのはそれら二つの神の属性[愛と憐れみ]の神秘的な秩序である。1940年8月18日に、彼女はゴンサルヴェス神父にこう書いた:「現在の世界の状態において神がお望みになっているものは、神に結ばれて、自らを犠牲にし、祈る霊魂たちです(....) 今、これまで以上に、神に全面的に自らを委ねる霊魂たちが必要です。そしてそれらの霊魂たちは何と少ないことでしょう!」それは第一の道であり、そこでは正義が支配している。それは人類にとって緩やかで犠牲の大きいものである。それゆえ、他の二つの道に頼る必要がある。ルチアはこう続けている。疑いもなく、神は「一つの奇跡によって」最初から人々をそれら[二つの道]の方へ転じさせることがおできになるでしょう。「しかし神はそのように多くの罪に対してご自分の正義に従って世界を罰し、御自身へのより完全な立ち帰りを準備するためのその時間から利益を得られます。」そのとき、それは憐れみの計画において、その中で正義が支配しそしてその権利を要求するこの時間のための基礎である。「今は世界に対する神の正義の時間ですから、私たちは祈り続けなければなりません」、すなわち、「犠牲を伴った祈り、とりわけ罪を避けるために必要な犠牲を伴った祈り」を神に献げなければならない。

しかし世界の罪は非常に多いので、その道は十分ではあり得ないであろう。そして神がわれわれに対して感じておられる憐れみは非常に大きいので、神はわれわれをそこに果てしなく留めておくことに我慢することがお出来にならない。それゆえ、神はわれわれに、祝せられたおとめが1917年7月13日に明らかにされ、1925年と1929年に提供し、求めるために来られた他の二つの道を提供なさるのである。超自然的に照らされて、ルチアは常にその点に関して肯定的であった。償いの聖体拝領はそれ自身多くを達成するであろう。しかしそれだけでは、それはせいぜい死刑執行の猶予を得ることができるだけであろう。それは主として聖体の秘蹟の功績に負う神の憐れみによったものであろう。そしてそれは多くの苦しみから世界を救ったであろう。しかし「恵みと憐れみ」はそれらの十全さにおいて世界の上に広まらないであろう。そしてマリアの汚れなき御心への同じロシアの奉献を通じて以外には、ロシアの回心と神へのすべての者の完全な立ち帰りと共に、約束された平和の時を世界のために獲得しないであろう。

これらすべてのテキストはここで働いている正義と憐れみの神的秩序をみごとに表現している。それはこのように要約され得る:第一の道においては、ほとんどすべての努力が人間から求められる。そしてそれは世界の罪の莫大な量のように莫大なものである。その場合でさえ、われわれが言ったように、神の憐れみなしには何一つ達成されないであろう。なぜなら、人々の犠牲が神の正義の要求を満足させることに貢献できるのは、ただそれらにおいて続けられているキリストの犠牲によってのみだからである。それでもやはり、その道においては、それらの要求は支配的であり、そして人間から償いにおける最大限の犠牲を要求する。他の二つの道においては、逆に、人間は直接的に神の憐れみに訴え、そしてその頼みの綱によって、人間は彼の上に課せられた罰を、それに対応して、減らすのである。なぜなら、キリストの救世の働きへの信仰による頼みの綱を持つことによって、人間は彼自身の上にキリストの救世の働きの赦しと和解の実を呼び降ろすからである。

だからこそ、われわれは第二部において、ファチマの預言的メッセージは、救いの全キリスト教的神秘、正義と憐れみの神秘の効力を発揮させる、またそれは全教会からの答を要求すると言ったのである。[神の]憐れみはそれを照らす偉大な光である。しかしその光は同時に正義の光へと自らを開く心によってのみ受け取られ得るのである。それは祝せられたおとめによってわれわれに与えられた偉大な教訓である。司祭たちは彼らの群に対して、次のように彼らに告げることになる説教をすることはできない:あなたたちの祈りとあなたたちの犠牲で十分である、と。-- それらは決して十分ではないであろう。また信徒も司祭たちにこう告げることはできない:あなたの奉献の行為はすべてのことをするでしょう、と。-- すべての者の祈りと犠牲は神への人間たちの「完全な立ち帰り」を準備するために必要である。

償いの聖体拝領と奉献が、われわれの罪に満ちた世界が必要としている神の憐れみのけた外れの流出を得るであろう方法に関しては、贖宥(免償)の方法と比較することができる。それらの手続きは言ってみれば、世界次元の贖宥を得るために満たされるべき条件、預言的な道によって世界に知らされるが、しかしそれらの効果を産み出すためにには使徒的権威による裁可を必要とする条件である。初土曜日の信心にとって聖体拝領が、罪による罰の減免のために教会によって指示された諸々の贖宥のうちの古典的手段の一つであるということは容易に理解される。奉献の神学はわれわれに、同じことが、世界に神の憐れみによって提供されたこの救いの究極的な手段についても真である。

3.奉献、契約の更新

奉献とは何か?現代の霊的伝統とレオ十三世からヨハネ・パウロ二世までの教会の教導権はそれをしばしば説明してきた。直ちに本質的なものに達するために、われわれは契約に戻らなければならない。実際、神が御自分の民を奉献されたのは、そして民が自らを奉献して神に奉献されたものとなったのは、契約によってである。「それゆえ、もしおまえたちが私の声を聞き、私の契約を守るならば、おまえたちは私にとって一つの司祭的な王国そして聖なる民となる。」と神はモーゼの仲介によって、神が彼らと律法の契約を結ばれたその時にヘブライ人たちに言われた(出エジプト 19:5-6 )。そしてキリストは、新しい契約の犠牲においてまさに御自身を犠牲にしようとされたとき、弟子たちのいる前でこう宣言された(それは1982年5月13日に教皇とその行為によって引用されたテキストである):「私は、彼らもまた真理において聖なるものとされるために、彼らのために自らを聖なるものとします」(ヨハネ 17:19)。

ヘブライ語のQDSh とギリシャ語の agios は同時に神聖な、聖なる、奉献された、を意味する。Agiazo (ヨハネ 17:19)は奉献する、を意味し得るが、しかしまた犠牲、聖なるものとする、をも意味し得る。そのことは奉献の中心的な現実の形を与える。契約の結果、それはわれわれを神の所有とし、神の聖性に参与する。神の側では、それは神がわれわれを引き受けられること、そして神の聖性を伝達なさることである。人間の側では、それは自らを神に捧げることであり、聖性への神の要求を満たすことにおいて神に奉仕しようとすることである。古い契約は、この神の賜物を完全に伝達しなかったために、人間にその企てを達成することを許さなかった。新しい契約は、人間に聖なるもの、そして聖とする霊を与えるがゆえに、人間を効果的にその忠誠が可能なものとする。それと共に、奉献はその完成に達する。

それはすべて、見られ得るように、契約から、そしてその奉献し、聖化する犠牲から出発する。しかし、救世の業は「一回限り」為されたのであるけれども、そしてその犠牲は、それゆえに、再び新たに犠牲として捧げられるてはならないけれども(ヘブレオ 7:27; 9:25-28)、それはただ徐々にのみ、その効果を教会において、また教会によって産み出す。それゆえ、教会において奉献と世界の聖化の主要な源泉であるキリストの唯一の犠牲を永続化し、絶えず再び活性化する必要があるのである。聖体の秘蹟はその目的のために制定された。そしてその制定を声に出して言う言葉の伴われたその中心的行為が奉献と呼ばれるということはまったく適切なことである。ヨハネ福音書17:19 の言葉はその表現を正当化し、それにその完全な意味を与えるに十分である。そのとき、それは教会が毎日達成し、そしてその増加を教会が奨励する第一の奉献である。それは本性において秘蹟的であり、そして何物も価値においてそれに匹敵することはできない。なぜなら、それにおいて「われわれの救世の業は為し遂げられる」からである。完全さのために、われわれはキリストの、すなわち、受肉において起こったキリストの人間性の奉献(ヨハネ 10:36)とキリストが御自身でその犠牲において為された奉献(ヨハネ 17:19)という二つの基本的な奉献を区別すべきである。第一の奉献は長く延ばされ、洗礼の秘蹟においてキリスト者において為し遂げられる。第二の奉献は聖体の奉献によって為し遂げられる。

それにもかかわらず、キリストの仲介の一性(ティモテオ前 2:5)が依存的、従属的な他の諸々の仲介を排除しないで、それらを見出し、それらを呼び出すのと同じように、そして洗礼の秘蹟的奉献が宗教的な奉献を無用のものとせず、そのうちにそれ自身をより完全に達成する手段を見出すのと同じように、聖体の犠牲のあらゆる挙行によって遂行される人類および世界の奉献は他の諸々の奉献を排除しないのである。そして聖体の奉献と同様に、それらがその意味とその価値とを得るのは、十字架上でのキリストの犠牲によって為し遂げられた奉献へのそれらの関係によってである。秘蹟的な諸々の奉献と対照して、そして宗教の奉献との類比によって、その言葉がそのすべての本来の力を持つならば、「信心の奉献」と呼ばれ得るであろう。宗教はわれわれに、神に対して栄誉を与えさせる諸々の行為の総体であり、神に当然払われるべき礼拝あるいは「奉仕」、そして愛である。そして奉献はそれらの霊魂であり、その神の礼拝と「奉仕」によって要求されるすべての事柄に素早くそして全体的に自らを与える堅固で断固たる意志から成っている。われわれがここで奉献について語っているのはその深い意味においてである。そしてそのことは言葉の第二の意味、特定の信心の実践を排除するのではなくて、それがどのように理解されるべきかを示すのである。第一の意味は「マリアの汚れなき御心への信心を世界の中に確立する」神の意志に当てはまる奉献であり、第二の意味は初土曜日の償いの聖体拝領の実践に当てはまる。

それはまた、他の仕方においてではあるけれども、祝せられたおとめへのロシアの奉献であるあの特定の実践にも当てはまる。われわれは、それを契約と救世の業との展望において見るとき、教会が贖宥を与えるためにこの、あるいはあの特別の条件を設定する仕方のうちに、神がその御憐れみを世界の上に広げるようにとどのようにそれを要求することがおできになるかを理解する。司牧者たちにとって為すべきことであるその処置によって、彼らは彼らに委ねられた群が神に、キリストにそしてマリアに属するということを再び肯定する。彼らはそれを再び救世的な憐れみの活動へと開く。そして彼らはそれを「宗教」と聖化の道へと導くことを企てる。人類を、あるいはある特定の民を神に奉献することはそれを神に委ねることである。しかしそれは何かそれ以上のあることを企てることである -- それは同時にその人類を聖化し、そしてそれを直ちに回心と聖化の道において出発するように企てることである。

その基礎の上に、われわれはまた汚れなき御心への世界の奉献に対して為された諸々の反対に、そして最初に奉献の考えそのものに対する反対にどのように答えるか、をも見ることができる。あちこちで、奉献は、全世界がすでに、創造と救世によって神に属しているように、神に奉献されているがゆえに、意味をなさないということが今なお言われている。他の人々にとっては、逆に、そのような奉献は福音に反する。それは危険でさえある。なぜなら、それはキリスト教徒を世界の建設への関わりから背けさせるからである。これらの詭弁に答えることは難しくはない。なぜなら、一方において、世界全体が神に属しているということ、そしてその事実が世界にある種の聖なる性格を与えているということは真である。しかし、神が特定の人々あるいは実在を所有するために選び、それらを特別の仕方で聖化することがお出来になるということも同様に真である。それは契約の基礎にある選びの神秘全体、選びにおいて達成される奉献の神秘、そして救いの神秘である(出エジプト 19:5; 申命記 7:6; 等。ルカ 9:35 参照)。さらに、被造物全体は人間に委ねられた(創世記 1:28)。そして人間の罪によって頽廃へと引きずり込まれた(ロマ書 8:20)。それゆえに、それは人間と共に救われるべきである(v. 19)。神の国の現在の状態においては、人間は、一方において、その洗礼の奉献によって、そしてキリスト者としての彼のすべての宗教生活によってその方向へと向かう彼の栄光の終末論的状態と、他方において、彼が神の国の聖性との一致において地上の都市を建設することに費やさなければならない努力との間で分割されているということは真である。教会は彼を栄光の方へと引っ張り、世界は彼の諸々の欲求によって彼を引き戻す。二つのものが一つになるのはただ、教会と世界が天国の完全な状態において完成されるパルーシアにおいてだけである。

しかしわれわれは、世界もまた救われたのであり、そしてその事実によって栄光へと呼ばれているということを知るとき、同時に教会におけるキリスト教徒たちの奉献が人々を世界から退けるさせるどころか、彼らを世界において単に自らを聖化させるように義務づけるばかりでなく、また世界それ自身を聖化するよう義務づけるということを見るのである。世界のその聖化は実際自らを聖化するというキリスト教徒の努力の本質的構成要素の一つである。しかしすべての聖化は最初の奉献から生ずる。キリストの救世の業による栄光のために奉献されて、世界はまた教会とキリスト教徒たちの活動によっても奉献されるべきである。このようにしてそれは、それらの活動の初めには奉献の荘厳な行為がまったく合法的であるということである。それらは聖体の秘蹟を捧げる際に為される世界の日々の奉献に関係することにおいて必要でさえある。そしてそれらは非常に望ましい。そしてえある時には、「信心の奉献」として必要であるとさえ思われ得る。そのような行為は世界を聖霊の聖化する力に引き渡す。そして人々が彼らのうちにそれを取り戻し、それを神に捧げるために費やす活動を豊かなものにする。世紀の罪が世界を神から引き離そうと試みているので、われわれは、なぜこれらの奉献が今日これまで以上に必要であるか、そしてその結果、神が預言的な仕方を通じて御自分の憐れみを注ぐために必要なものとしてそれらを提示することによってそれら[の奉献]を要求することができるということ、を見ることができるのである。最後に、われわれは、神否定の過程の最も活動的な道具であり、そして同時にその最も苦しんでいる犠牲者である人々がなぜ、ある特定の奉献の対象であり得るか、また対象でなければならないかを見ることができる。

しかしなぜ祝せられたおとめに対する奉献なのか?そしてそのような奉献は可能なのか?それは、われわれが出会う第二の反対によって否定されていることである。それに対して為されるべき答は、確実でなくはないけれども、より慎重に定式化される必要がある。そしてわれわれがここですることができるすべては、それをどこに求めるべきかを指示することである。提出された議論はこうである:神のみが聖であり、絶対的に聖なる方、すべての聖性の始めであり終わりであるから、人間はただ神にのみ彼自身を奉献することができ、また何かあるものを奉献することができる。その通りである。しかしわれわれは再び、一方においてキリストの「主たる」仲介の一性と、他方において、それによってわれわれがキリストとの、そして「キリストにおいて」神との分有された仲介の多様性との間ですでに指摘された関係に立ち戻る。契約が結ばれるのは、そして次に神がわれわれを聖別なさり、そしてわれわれが神に自らを奉献するのは、あの唯一の仲介者によってである。それがキリストの聖心への奉献を正当化するものである。それにおいてわれわれは、彼が神であるということにおいて彼に自らを奉献する。しかしまた、そしてとりわけ、彼が、その方によって、そしてその方においてわれわれが神に結びつけられる仲介者であるということにおいて[彼に自らを奉献する]のである。しかし、受肉したみ言葉が仲介者であり、仲介者の役割を果たされるのは彼の人間性においてである。そして彼の御心の肉体的および象徴的実在によって示されているのはその人間性である。それゆえに、われわれが自分自身を彼の聖心に奉献するとき、われわれが自分自身を奉献するのは彼の人間性において彼に対してである。その行為は人間性と御言葉の神的ペルソナとの間にある関係によって、その実体的結合によって妥当なのであるが、しかしまた、その人間性におけるペルソナによって達成された働き、救世の働きによっても妥当なのである。

一つの背景としてのそれと共に、われわれはマリアへの奉献を正当化し、可能とする資格を見ることができる。祝せられたおとめは「神の母であること」の存在論的紐帯によって一つの独特の仕方において御言葉と「結合されて」おられる。そして彼女は同様に例外的な仕方で救世の業に「仲間として加えられて」おられる。それゆえ、われわれが聖母の汚れなき御心にわれわれ自身を奉献するときに、われわれがわれわれ自身を奉献しているのは、常にただ神にのみそうしているのである。しかしわれわれがそうするのは、単に唯一の仲介者、キリストを通じてのみではなく、またキリストの仲介の業においてキリストが御自身の仲間とされた彼女、御自分の御母にして教会の御母を通じてでもある。

われわれがなお答えなければならない最後の反論は神に他の人々を奉献するある人の権利を否定する反論である。その反論の理由は簡単である:奉献は自由な同意を含んでいる。そして自分自身を神に奉献することができる唯一人の人はその同意をする人である。にもかかわらず、子どもたちの洗礼における奉献は言うに及ばず、世界、ある民族、ある共同体を奉献する実践は教会においては許されている。それらは次にように正当化されている:第一に、奉献はまず第一に信奉の承認である。その意味において、ある人あるいはあるものを神に奉献することはその人物あるいは事物に対する神の至高の支配権を承認し、その人物あるいは事物を神の憐れみに委ねて-- それはすでに神に栄光を帰すことである -- そのものを神の所有物として神に捧げることである。第二に、奉献の行為において為された約束はその信奉に基づいている。それゆえに、それは神に負うている。他の、人物あるいは共同体の奉献の場合には、その信奉は彼あるいは奉献された人々の名において、そしてその善のために為される。そしてそれは彼らの永遠の救いに対して責任を負っている人々、すなわち、使徒たちの後継者たちと彼らの協力者たちによって為される。実際それは彼らの機能であり、そしてそれは人々を神に奉献し、それから彼らを聖性の道で指導することによってその奉献に従って行動するように見届けることは彼らの義務である。彼らが人々を神に奉献するとき、彼らはただ彼らの職務の第一の義務を遂行しているだけである。そして彼らは、彼らがそれらの人々のために、そしてその名においてしている信奉の現実を作ることに関わっているのである。同様に、彼らはキリストが「彼らのために私は自らを奉献する」すなわち、「私は彼らのために私自身を犠牲にする」(ヨハネ 17:19)と言われた特別な仕方で、その目的に向かって自らを奉献する。それが1982年5月13日の彼の奉献の行為におけるヨハネ・パウロ二世のあのテキストの引用の基礎となっている理由である。牧者は彼らの救いのために自らを犠牲にすることによって以外には彼に委ねられた羊あるいは群を神に奉献することはできない。

同時にわれわれは、なぜロシアの奉献が全カトリック司教団によって為されなければならないか、そしてまたなぜそれが、ロシアの人々に直接責任を負っている人々、すなわち、正教会の司教たちなしに、彼らの意志に反してさえ、為され得るか、とう理由を理解する。実際、もしそれらの司教たちが実際使徒たちの後継者たちであるならば、彼らは完全にペトロに、あるいは全司教共同体に結合されていないのである。しかし、「司教としての奉献」によって課された「聖化し、教え、支配する仕事」は「ただその共同体の頭およびその成員たちとの位階的な交流においてのみ行使され得る」(第二バチカン公会議、ルーメン・ジェンティウム、21)。われわれは「位階的交流」という句が一つの法的な実在を指し示している、しかし、また、そしてそれ以上にさえ、秘蹟的、霊的な実在を -- 一言で言えば、神秘的あるいは神秘に関係した実在を指し示しているということを注意深く指摘しなければならない。だからこそ、ロシア正教会の司教たちの不在も、また反対さえも決定的ではあり得ないのである。彼らに先んじて、そして彼らより以上に、ロシアの人々の救いに責任を負っているのは、ペトロの後継者 --彼はそれゆえに彼自身でその民を奉献することができる(第一バチカン公会議、Pastor Aeternus, cap. 3) -- と教会と全世界に共同的に責任を負っているカトリック司教たちの全体(第二バチカン公会議、Lumen Gentium, 23 )である。

その結果、ファチマのメッセージはそこに再びその根源的に教会的な本性において現れる。1929年の祝せられたおとめの要求は司教の機能の共同的性格についての第二バチカン公会議の回復を予期している。もしマリアの要求に答えることにおいてカトリック司教団全体が教皇に加わるべきであるとすれば、それは、すべての者がまず第一に、奉献それ自体である礼拝と宗教のこの優れた行為において一致し、そしてそれから彼らが、すべての人々をキリストのところへ連れて行き、彼らを聖化への道において祝せられたおとめの御心によって導くためにそこで為されるであろう企てを守る努力において一致させられるべきであるということである。

この奉献とこの聖化が来なければならないのはマリアの汚れなき御心を通じてである。なぜか、それを見るように努めよう。

4.汚れなき御心における憐れみの栄光

神のすべての働きの始めに憐れみがある。その結果、それらの働きの終りにほとばしり出なければならないのは憐れみである。それらの完成においてそれ自身を現すべきであるのは憐れみである。なぜなら、神が栄光を受けることを望んでおられるのは他のなにものにもまして憐れみにおいてだからである。それが示され、最も強烈に実現される救いの歴史の瞬間はキリストの受難の瞬間である。実際、全能なる御方が御自分の壊滅の、御自分の無(ケノーシス)の極みまで進まれる(フィリッピ 2:6-8)のは、そしてわれわれに、「われわれを愛されたその大きな愛」(エフェゾ 2:4 )を告げられるのは、そこ、十字架の「愚かさ」(コリント前 1:23 )においてである。義人が罪人たちのために死ぬ(ロマ 5:8 )のはそこで、である。それは実際純粋な憐れみの事実である。なぜなら、罪人たちの側では、反対に、そのような賜物に値するものは何もなかったからである。

しかし、それはキリストの死において、そしてその死の結実である栄光化において頂点に達する(フィリッピ 2:9-11 )けれども、救世の憐れみの業は受肉と共に始まる。受肉は御言葉の「ケノーシス」(無化)の出発点である(v, 7 )。そして救世の前に、創造それ自体がすでに、何物もまだ存在していなかった被造物によるのではなかった、そして神がそれから彼を存在させた後に、単に生存のために必要なもの以上のものを常にかれに与えておられるというこの二重の意味において憐れみの業である。

人間精神にとってそのように当惑させるものである、とりわけわれわれの時代の周囲の無神論によって産み出された人間中心主義的な雰囲気において、われわれが聖パウロの断言を熟考しなければならないのはその光においてである。私が念頭に置いているのは、特にガラチア人への手紙とローマ人への手紙の偉大なテキストである:「律法は違反のゆえに建てられた...」(ガラチア 3:19 )。「....律法が入って来て罪が増した....」(ロマ 5:20 )。すなわち、「罪が過度に罪深いものとなった....」(ロマ 7:13 )。「聖書は万物を罪のもとに閉じ込めた、それは約束がイエズス・キリストの信仰によって信じる人々に与えられるためである」(ガラチア 3:22 )。聖アウグスティヌスは言った。一言で言えば、神は受肉と十字架の「愚かさ」まで行く憐れみの愛というより大きな善を考慮して以外には、悪、罪の悪をお許しにならなかった。それが神の「智慧」(コリント前 1:25)の計画であるから、神は、善がまたそのすべての次元において達成されるべく、そのすべての可能性を効果的に活動させるために悪をお許しになった。それがキリストの受難の意味である。しかしまた教会の意味でもある。そしてそれは時が経過するにつれて強さにおいて増大する。そして「神秘」(エフェゾ 1:9 )はその最終的な完成に到達する。

なぜなら、人間は、その憐れみの対象であるうように、またある仕方でその主体でもあるからである。彼は自由な存在である。そして神の恵みは彼が信仰によって歓迎し、忠実にそれで生きる程度においてのみ彼において完成される。もし「正義」が彼に無償で、そしてまったくの憐れみによってさえ与えられ、彼がそれを自由に受け、そして神の力によってそれが彼に伝達するならば、彼は彼の「救い」にあって働かなければならない(ロマ 3:28; 8:24f; 13:11f )。彼は自分自身を聖化するために働かなければならない。そしてそうすることによって神の名を聖としなければならない。もし神の前で栄光を帰せられるあらゆる権利と称号が人間に否定される(3: 27 )ならば、そこで意味されているすべては彼が自分自身について持ち得るであろう栄光である。しかしその奴隷状態は栄光化の見地からは無限により高い。それは神御自身が御自分の被造物において働くことを望んでおられるものである。

なぜなら、神の栄光はまさに神の存在そのものであり、そして神の特別の讃美は分有によるその存在の伝達である。それは神がすでに創造においてなさっていることである:神の業における神の栄光はそれらを存在せしめることである。それらが存在することが多ければ多いほど、それだけ神の存在へのそれらの参与は高められる。神がそれらにおいて栄光を帰されることが多ければ多いほど、それだけそれらは神においてより多くの栄光を受ける。それは一つの新しい創造である救世の業において創り出されていることである。-- もう一つの創造ではなくて、再び獲得された、請け戻された、そして御言葉において挙げられた古い創造、被造物そして肉とされた創造主である。「もし誰かがキリストのうちにいるならば、それは新しい被造物である」(Kaine ktisis: コリント後 5:17 )。その新しい被造物にわれわれは最初それを受けることによって、すなわち、われわれの最初の信仰の行為においてわれわれのうちに神がそれを働かれることを許すことによって、そして次にわれわれの働きによってそれをその完成へともたらすことによって、すなわち、各々の瞬間に聖霊がわれわれに伝えられる動きにわれわれが応じ、協力することによって(ガラチア 5:25 )参加する。「なぜなら、われわれは神に創造されたもの( poiema )であり、われわれがそれらのうちに歩むべく神が準備なさった善き業のために( epi ergois agathois )、キリスト・イエズスにおいて創造されたからである」(エフェゾ 2:10 )。われわれが、神の憐れみの対象である、また神の臣下でもあるのは、その意味において、すなわち、それがわれわれのうちに働くものへのわれわれの参加によって、である。われわれは「神に創造されたもの」(作品=workmanship)である。しかしその仕事( work )はただ、われわれにおける神の働きによってそしてその働きへのわれわれの応答によって、われわれが自らを開き、このようにしてその仕事の完成に参加する時にのみ、完成される。そのことによってのみ、[神の]憐れみはそれ自身の仕事、「新しい創造」において完全に達成され、栄光を受ける。

そして請け戻された人間における神の憐れみの業へのその人間の参与は二重の次元において遂行される。すなわち、その二重の次元とは彼自身の救いの次元 -- それはキリストの子として彼を愛することによって神へと登り帰らせる-- と各人がそこにおいて協力するように呼ばれている彼の兄弟たちの救いの次元とである(コロサイ 1:24 )。われわれが神の憐れみの偉大な業のうちにわれわれの最大限の分け前を持つのはその協力においてである。そしてそれが達成されわれわれにおいて栄光を受けることを望むのはその点においてである。リジューの聖テレーズは例外的な仕方でそのことを知っていた。罪人たちの救いのために憐れみに満ちた神の愛への全燔祭の犠牲として彼女自身を捧げることによって、彼女はこの神秘を二十世紀に宣言するために二十世紀の出発点に立った偉大な預言者である。

同様に、ファチマのメッセージがわれわれに対して思い起こさせるのもこの神秘である。それはその始めに見出される:「イエズスとマリアの御心はあなたたちのために憐れみの目的を持っておられます」(天使の第二の出現)。そして、その最後に見られる:「恵みと憐れみ」(1929年6月13日、トゥイでの偉大な啓示の最後に伴った言葉であり、三位一体、十字架の上のキリスト、そしてキリストの側に立つ祝せられたおとめの幻視を述べるものである)。ヨハネ・パウロ二世は、彼が1982年5月13日の彼の奉献の行為の終りのところで「憐れみに満ちた愛の無限の力」に祈願されたとき、その力を祝せられたおとめの「汚れなき御心」に関係づけながら、その神秘を浮き彫りにされたのである。

なぜなら -- そしてこれはわれわれの省察の決定的な点である -- それは単に人類への神の憐れみの注ぎ出しの問題だけではなく、彼らの自由な協力のおかげで神の救いの業の人間たちにおける完成の問題であるからである。ところで、協力はその始まりをマリアの御心のうちに、そしてその頂点とその最初の源をキリストの御心のうちに持っており、そしてそれは教会の身体において完成されるということである。すべてのものはキリストから来る。なぜなら、キリストは御自分の憐れみを広められる神だからである。しかしまたキリストは人間、新しい人間、「最後のアダム」(コリント前 15:45 )であるがゆえである。彼において、そして彼によって憐れみの業、人類の救世はその原理においてのように完成される。彼のすべての神秘は人間知性によっては永遠に理解し得ないものとしてそこにある。その神秘において行為なさるのは神のペルソナである。なぜなら、行為はそれを為す主体に帰し得るものだからである。しかしこの創造されざるペルソナは、もし彼が人間として行為する神であるならば、キリストもまた神「として」行為する人間であるというような仕方で、彼が御自身に結びつけられた人間性においてのみ行為なさる。だからこそ、彼は確かに、その中で人間本性が、神の力がそのうちに働くものと協力する最初の方である。そして、それゆえに、彼は、その方からすべての恵みがその最初の有効な原理からのように発出する方なのである。

しかし、マリアのフィアット[なれかし]、彼女における神の憐れみの業との完全な一致、はキリストのフィアットに時間において先行している。それ[マリアのフィアット]は同時に、それがその結実であるように、それ[キリストのフィアット]に先行している。その意味において、すなわち、彼女の同意と彼女の協力が時間において最初であるから、マリアは人類における神の憐れみの業の始めにおられる。彼女は同時に最初の結実であり、そして最初の種子である。なぜなら、彼女、汚れなき御宿りのうちに、その頭であるキリストを含む新しい創造全体がその創造された原理においてのように、含まれているからである。彼女の御子そして救世主は彼の神的ペルソナによってその創造されざる原理である。彼はまた、御言葉に結合された彼の人間性において最初の有効な創造された原理である。「彼はその体である教会の頭である:彼は始め(Arche )である....それは万物において彼が首位を保つためである。なぜなら、彼のうちにすべての完全さが宿ることは御父を喜ばせたからである」(コロサイ 1:18f )。しかし、神の完全さと贖われた被造物の完全さが出会い、宿る肉は肉から、そして「女」の心から御言葉によって形作られた(ガラチア 4:4 )。だからこそ、御父と聖霊とともに、全永遠から、彼は彼女の汚れなき[御心]を心に宿されたのである。そしてこの新しい「宿り」が創造されたものの秩序において新しい創造の第一原理であるのは、そして次に「彼女において肉となった御言葉」の業との彼女の独自の協力によって救世の最初の効果的な創造された共同原理となるのは、このようにしてなのである。

独自のそして二重のその第一原理から出発しながら、そしてそれにおいて、教会は今度は神の憐れみの働きそして究極の主体である。神の憐れみは、新しい創造の達成における教会の協力のおかげで教会において、そして教会によって、完成されるのである。

IV.結論

この神秘は無限であるから、他の仕方でそれに光を当てること、そして特にそれについてもっと深く考えることは可能であろう。しかし、われわれは、その中に明らかにされている救いの神的秩序の諸局面を十分に指摘したと考えたい。なぜなら、それら、ファチマの偉大な預言的しるしの神学的な基礎が見出されるのはそこでだからである。それらは結論として、次のような命題において要約され得る:

1.神の働きのすべての始まりと終わりには神の憐れみがある。

2.その神の憐れみはその仕事をただ、それがそれ自身を与え、そしてそれがそれらの人々において果たされることを望む人々が積極的にそれ自身と協力することによってのみ達成することができる。

3.救世的、栄光の受肉の始めである究極的、独自的そして多様なその仕事の始めに、すなわち、神の賜物と人間の協働によって為されたあの神人的な働きの始めに、肉となった御言葉と彼がその中で肉を取った選ばれた女が立っている。それらにおいて、そしてそれらによって、彼のすべての教会的な、そして宇宙的でさえある仕事の始めにおいてのように、神の憐れみは達成される:それは働き、そして働きを促進する。それは被造物をそれの仲間に加えることによってその目的を達成する。換言すれば、キリストの聖心と祝せられたおとめの御心は時間における神の憐れみのすべての働きの唯一の源であり泉である。源はキリストの聖心である。源から流出する泉そしてそれによって源がそれ自身を広める泉はマリアの御心である。

4.絶対的な仕方で主張されるキリストの「原理」および第一原因、それはなお、キリスト御自身が、御自身に結びつけられたすべての関連し、参与した原因の第一のもの、マリアの原因に完全な光を投げかけることを望まれているという事実、そして彼女のその照明が彼の究極的な望みであるという事実である。彼はその死の瞬間にそのことを示される:「見よ、汝の子を....見よ、汝の母を」(ヨハネ 19:26f )。そしてそれはいくつかの理由でそうである。それらの理由はこの一つの理由に要約される:すなわち、汚れなきマリアは神の憐れみの至高の働き、救世の業、の隠された始まりであるので、その働きの最後にそのすべての力とそのすべての栄光のうちに現れるのは彼女である。なぜなら、それが彼女の従順および信仰のフィアットと共に彼女から始まったように、彼らを栄光へと導くであろう人間的・神的運動の中へと入ることができるようにあらゆるものとあらゆる人々がすがりつくべきであるのは、救いの仕事の最初の創造された共同原理である彼女に、であるからである。そのことは神の憐れみの栄光であり、神の憐れみが彼において、そして彼によって為すことを望んでいるものとの被造物の協働によって完全に実現され得る栄光そのものによって要求されている。しかしその協働の始まりには、受肉した御言葉とその中で御言葉が肉となった汚れなきマリアの人間性が分かち難く立っている。それゆえにまた、神の憐れみが最大限の栄光に達するのは彼らのうちにおいてである。神の憐れみは彼らに栄光を帰することによって、すなわち、彼らにおいて、そして彼らによってそれが達成する仕事における彼らの協働の全体的な力から彼らを拡がらせることによって、栄光を受けるのである。

そしてキリストは、神の憐れみの栄光のあの仕事のアルファでありオメガであるのと同じように、彼が祝せられたおとめから受け、そしてそれでもって彼が彼女に結びつけられ、関係づけられた人間性において、アルファでありオメガである。それゆえに、彼のすべての救世の仕事の連合した原理かつプレローマ( pleroma )である彼女において彼は彼自らに栄光を帰するであろう。それは彼がわれわれに彼女に戻るように告げるとき、そして彼が、ちょうど彼女にその始まりを依存させたように、救いの達成を彼女に依存させるとき、することである。

5.われわれは上に、神が御自分の憐れみの仕事をそのまったき完全性において示すためにのみそのすべての力でもって広げるために悪を許容なさったと言った。その完全さは神において始まった仕事を示すことにおいて被造物の協働のうちにある。しかし一人の創造された人物のその完全な協働は汚れなきマリアのフィアットのうちにその始まりとその最高の表現を持っている。悪の増大する拡がりに直面して、神の憐れみがその仕事とその栄光を共に達成することを望まれるのは汚れなき方のフィアットの力の顕示と拡がりによってである。

神が今日教会と世界の中へ燃え立たせようと望んでおられるのは、そのような偉大な神秘、救世の受肉のそのような最後の仕事である。その言葉はわれわれに、それにわれわれが従事している、そしてわれわれの希望の基礎である戦争の意味である。とりわけ、それはわれわれに、ファチマの預言的な神秘がどの程度まで福音の啓示の神秘と調和しているかを示す。その光において、そして聖書の言語において「心」が彼のうちにあるものの中で人格そのものが最も深い、最も霊的でそして最も確実に肉であり血であることを意味するということを想起しながら、われわれは、コヴァ・ダ・イリアにおける祝せられたおとめのあれらの断言の真理と深さ、力と現実性を理解する、あるいは少なくとも、かいま見ることができるのである:

「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。」 -- 「しかし最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。」

1)われわれはここで 、少数の細部と"affidamento" という言葉に関するものを除いて、L'Osservatore Romano のフランス語週刊版(No.20, May 18, 1982 の翻訳を用いている。ポルトガル語の翻訳は entrega であり、それはむしろ一つの解釈である。L'Osservatore Romano において用いられているフランス語の offrande という語は、言語からはさらに遠く離れてさえいる。イタリア語の affidamento に当たるフランス語はないので、われわれはその言葉の意味を:委託の行為と意訳している。とりわけ、われわれは遺憾な見過ごしによってL'Osservatore Romano のその号においては印刷されなかった奉献それ自体の行為を(パラグラフ1, g )を取り戻している。

2)ファチマの聖母の戴冠のための1946年5月13日のピオ十二世のラジオ・メッセージ(AAS 38 "1946" 264, ff. )は特別の言及に値する。彼は、それを「マリアの『忠誠』のメッセージ」(ib. 46 "1954", 626-627)と呼びながら、彼の回勅 Ad Coeli Reginam において自らそれをほのめかされた。ヨハネ二十三世もまた、特に 8.19.59, 8.22.62 および 10.24.62 における Allocutions において、ファチマを教会のための「恵みの源」として認める彼の公的な宣言を繰り返された。後にわれわれはファチマに好意的なパウロ六世の偉大な諸行為を想起するであろう。ポルトガルの聖域とペトロの座との間の絆はファチマの神秘の最も際だった特徴の一つである。

3)1982年5月9日、日曜日、レジナ・チェリの朗読の前に、ヨハネ・パウロ二世は信徒たちに彼のファチマへの旅行を告知され、次のように宣言された:「現在の世界はさまざまの仕方で脅威を受けている。それは、おそらく、歴史の過程の中でこれまで以上に脅威を受けている。」

4)「1917年10月25日にロシアの歴史は終りを告げ、U.S.S.R. の歴史が始まった。人類は一つの新しい時代に入る。」これは「現在存在している最も完全な、そして疑いもなく最も満足できる」ものであると評価された書物(B. Feron, Le Monde, Feb. 5th, 1982)、"Utopia In Power, The History of the U.S.S.R. from 1917 to our own day(Paris, Camann-Levy, 1982, pages 8-9 )におけるM. Heller と A. Mekrich の判断である。著者たちは考えすぎであるとされることはできない次のような結論をわれわれに残している:「ソ連は拡張における、その外交政策における生命に必要なエネルギーを見出している。拡張はこのように成熟した社会主義の唯一の形式となる。」(p. 580 )

5)ロシアの奉献の要求について話しながら、ルチアはこう書いている:「異なった会話の中で、われらの主は最近次のように約束なさりながら、その要求を強く要求することをおやめになりませんでした:もし教皇がロシアに特別に言及して、マリアの汚れなき御心への世界の奉献をするならば、苦難の日々を短縮する、と。」(ピオ十二世宛の手紙、1940年12月2日)。文章の構成は二つの要求、ロシアの奉献の要求と世界の奉献の要求との間に一つの連続性を示しているように思われるけれども、全体としてのテキストの分析、用いられた言葉("promitendo ultimamente": 最近約束されながら、あるいは少し前に)そしてとりわけその中でこの手紙が書かれたすべての歴史的状況、これらすべての要因は事実明白に異なった二つの要求があること、そしてシスター・ルチアの使命に固有の要求はロシアの奉献の要求であることを示している。

6)1943年5月4日、ゴンサルヴェス神父宛の手紙:教皇の行為は応答としては、すなわち、ファチマの祝せられたおとめの要求に対しては、「不完全でした」1943年5月2日、アパリシオ神父宛の手紙:「あの国(ロシア)の奉献は聖母の要求なさった言葉においては行われませんでした。」

7)1942年の奉献は1954年、教皇がその回勅 Ad Coeli Reginam において、5月31日、すなわち、彼がその機会に制定されたマリアの忠誠の祝日に彼と共にそれを更新するようにすべての司教たちに命じられたとき、共同的となった。しかしそれはなお、たとえロシアが覆われた言葉において言及されたとしても、世界の奉献の問題であった。逆に、1952年には、教皇が祝せられたおとめに奉献されたのは実際ロシア、あるいは「ロシアの人々」であった。しかしそれは司教たちがそれに加わることができなかった行為によってであった。その結果、ファチマの聖母の要求はまだ果たされていないのである。

8)1939年以来シスター・ルチアの相談相手として、ドン・パスクアーレは彼女から157通の手紙を受け取った。彼は彼女の家族の成員たちと同じレベルで彼女との関係を保って来たし、今も保っている。彼はまた、ロザリオに関する一つの真の小さな神学であるルチアの手紙の一つを公表した。

9)この提示は1982年5月13日にその説教の中で教皇によってなされた提示と一致している。彼はこう言っておられる:メッセージは両方とも福音に一致して「真理と訴えを含んでいる」(No. 6 )。すべてのものの基礎である真理は「マリアの霊的母性」(No. 5 )である。訴えは祈りと痛悔への福音の訴えである(No. 6 )。このように、祝せられたおとめは「悔い改めへと招いておられる。彼女は警告なさる。彼女は訴えておられる....」(No. 7 )。そして最後に彼女は黙示録によって(12: 1; 強調はテキスト)われわれに提示された「偉大なしるし:一人の女」であり、そして彼女の御出現はそれ自体において最後の勝利の約束である。

10)第四回想録におけるルチアの証言によれば:もしそれをヤシンタの証言 -- それを疑う理由はない -- と比較するならば、反対に、ルチアがここで「第三の秘密」について何かあることを知らせることを恐れてここでそれ以上のことを言うのを望まなかったと思われる。

2005/03/07 三上 茂 試訳

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作成日:2005/03/07

最終更新日:2005/03/07

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