ファチマの聖母マリア

真理は変わらない:もし私たちが教義を失うならば、信仰を失うのである

The Fatima Crusader Issue 74, Summer 2003より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

『悪魔の最後の戦い』という書物によって示されているように、私たちは今日、聖書の中に予言された大背教のまっただ中にいる。この背教は教会の頂点で始まっているとチアッピ枢機卿は私たちに告げている。チアッピ枢機卿は、第三の秘密の中で聖母は私たちに背教に対して警告を発しておられると告げている。

背教に対する第一のそして最大の防波堤そして防御の一つはカトリック信仰の教義上の諸定義の堅固な把握とそれへの忠実を保つことである。「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」と聖母が言われるとき、第三の秘密の始めにはっきりと語っておられるのは、まさに信仰の教義についてである。シスター・ルチア自身によって書き留められた「云々」は聖母がその後にもっと言葉をつけ加えられたことを明白に示している。

すべてのファチマ学者は、世界の他の場所においては信仰の教義が攻撃され、そうであるべきようには保たれず、まったく失われてしまうことさえあるだろうと、聖母がおっしゃるところまでゆかれたという点で一致している。私たちは、私たちの周りをすべて取り囲んでいるこの忍び寄る背教の犠牲となることを許してはならないのである。

 私たちの時代には、多くのカトリック者--司祭、司教、そして枢機卿ならびに平信徒--が教義の感覚を失っている。彼らは、もし信仰の教義を十分に守らないならば、その結果、一つの教義--カトリック教会を通じてイエズス・キリストによって誤りなく教えられてきたカトリック信仰の教義--を不埒にも否定し、或いは疑いさえするならば、そのとき大罪を犯すのだということを忘れている。もし彼らがこの罪について悔い改めず、しかるべき告解(あるいはその死の床での完全な痛悔の行い)をしないならば、そのとき彼らは永遠にわたる地獄へと堕ちるだろう。聖トマス・アクィナスは、信仰に反する罪は罪の中でも最大の罪であると教えている。

 ある人々は、彼らのカトリック信仰に取って代わり、あるいはそれを抑圧し、あるいは掘り崩そうとする誤った思想、教え、教義に対して十分に自分たちの身を護らないゆえに、教義の感覚を失っているのである。他の人々は、イエズス・キリストとそのカトリック教会の真の教えが何であるかを決して理解しようとせず、あるいは知ろうとしないことによって、一つあるいは多くの点において、福音書の教えを受け入れることから彼らを排除する時代の虚偽へと連れ込まれるということを認識することさえないのである。

 私たちは実際背教の時代を生きているのである。それは聖パウロによってと同様、イエズス・キリスト御自身によって聖書の中で予言された時代なのである。異端の罪は信仰の教義の一つあるいはそれ以上を否定することであり、これは霊魂を地獄へ送る大罪である。しかし、背教はもっと悪い。背教の罪は福音の拒否(あるいは福音の多くを拒否すること)である。そしてこの背教の時代が私たちの上にあるのである。

 ある人々は福音の基本的な事柄さえ知らずに、無知によって背教へ落ち込む。他の人々は、基本的な事柄を学んで、それらをただしばらくの間だけ保ったゆえに背教に陥る。これらの人々はよい土地に落ちなかった種のような人々である。彼らは誤った教義に対して真の信仰を防御するための用心をしない。そしてこれらの誤った教義は彼らが転落するように彼らの信仰を窒息させるのである。他の人々は、誤った教義を教える目の見えない司祭、司教、枢機卿たちの悪い模範に従ったために、背教に陥る。異端的な教義を公言するこれらの誤った教師たち--そしてこれらの人々は今日の教会の中には少なくないのである--は彼らに委ねられた霊魂たちを異端と背教へと陥らせる不祥事を引き起こすのである。

 シスター・ルチアは1970年代の始めに彼らを「目の見えない道案内」と呼んだ。彼女が沈黙を強いられてきたのは驚くにあたらない。

 私たちは教義上の真理の感覚を取り戻さなければならない。そしてもしある司祭、司教、枢機卿、あるいは教皇でさえ、何らかの異端的な教義を公然とあるいは暗黙のうちに教えるようなあることを言ったり、あるいはしたりするならば、私たちはそれを恐れ、抵抗しなければならない。私たちはどの方面からのものであれ、異端的な陳述に抵抗することによって、私たち自身の霊魂を防御し、できる程度まで、他の人々の霊魂を防御しなければならない。そのような事柄を言うのがたとえ教皇であってもそうである。

 たいていのカトリック者は、ある教皇が異端を教えたか、あるいは異端を抑圧する義務において失敗したか、そのいずれかの事例が教会史の中にあったということを知らない。そしてそのことが以前に起こったのであれば、ふたたび起こり得るのである。注1

 例えば、教皇ニコラス一世は、洗礼は、それがいとも聖なる三位一体の三つのペルソナ(位格)の名において行われようと、あるいはただキリストの名においてだけ行われようと、有効であると言った。この点で教皇ニコラスは誤ったのである。キリストだけの名において行われる洗礼は有効ではない。注2

 教皇ホノリウスは異端者たちとの妥協を正当化するために、634年に「われわれは古い諍いに再び火をつけないように気をつけなければならない」と言った。この議論に関して、その教皇は誤謬が自由に広まるのを許し、その結果真理と正統が事実上追い払われたのである。エルサレムの聖ソーフロニウスはほとんどひとりで、ホノリウスに対して立ち上がり、彼を異端のゆえに告発した。ついには、教皇は悔い改めた。しかし、彼の妥協的な原則によって彼が教会に及ぼした測り知れない害悪を回復することなく死んだのである。このようにして、第三コンスタンチノープル公会議は彼に破門を宣告した。そして、このことは教皇聖レオ二世によって確証されたのである。(D.S.561を見よ)

 教皇ヨハネ二十二世はアヴィニョンで1331年諸聖人の祝日に、霊魂は最後の日の肉体の復活までは至福直観には入らないと言った。その後、教皇はパリ大学の神学教授たちによって非難された。彼らは、教皇のこの説が異端であると知っていたから教皇を非難したのである。教皇が自分の誤りを撤回したのは1334年に死ぬ直前だった。注3

信仰は最高のものである

 信仰の遺産は私たちの救いの基礎である。それは教皇制度の基礎である。それは秘蹟の基礎である。もし信仰の遺産が防御されないならば、攻撃から安全であるものは教会内には何もない。信仰の遺産のすべてをひとつひとつ防御することの根源的に重要なこの態度は私の意見ではない。それはカトリック教会の荘厳な教えである。私たち皆が信じなければならないカトリックの信条の一つは次のように述べている:「救われたいと望む者は誰であれ、なかんずくカトリック信仰を保持する必要がある;各人がこの全体的なそして神聖なものを保たないかぎり、疑いもなく永遠に滅びるであろう」(D.S.75)

 この義務は貧しい人々や私たちの隣人に対する愛の法を越えるものである。--それはあらゆるよい行い以前のものである。信仰に対する義務は教皇、司教、司祭あるいは家族や友人に負っている尊敬や敬意よりももっと重要である。聖パウロは「しかし、わたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:8)と言った。私たちは伝統的なカトリックの教えを否認するような説教者に耳を傾けてはならないのである。

 私たちの仲間の人々以上に、私たちが司祭や司教に負っている愛以上に、教皇にさえ負っている愛以上に真理を愛さないならば、特に一般的な背教のこの時代に私たちに何が起こるであろうか?私たちが財産、地位そして人間的尊敬以上に真理を愛さないならば、何が起こるであろうか?そのときには私たちは神の次のような呪いの下に立つことになるだろう。「そしてあらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。」(2テサロニケ2:10-11)

 非常に重要な確実性のこの回復そしてあらゆる時代のために不可謬的に決定されたものとしての教義上の真理の絶対的必要性はもし人々が、私たち皆の周りを取り囲んでいる一般的な背教によって連れ去られるようとしているのでないならば、決定的なことである。

 あなたの魂を救うためには、あれこれの司祭、枢機卿あるいは司教--あれこれの教皇でさえ--が、もし一つの不可謬的に決定された教義を否認するならば、どれほど広汎に賛成されているとしても、彼らに従うことは十分ではない。

 いくらかの無知な司祭や教師たちは言う。「私たちは前の時代の教義上の決定には注意を払わない。私たちは『生きている教導職』に従う」と。(私は誇張しているのではない。私は自分の耳で聞いた。最初は、忠実で熱心で伝統的であると主張している司祭たちによって言われたことをほとんど信じることができなかった。)

 換言すれば、これらの愚かで無知な「教師たち」が言っていることは、「私たちはラッツィンガー枢機卿に、あるいはバチカンの他のある枢機卿に、あるいは教皇自身にさえ従うだろう--たとえ彼らのうちの一人が以前のある教皇の荘厳な不可謬の決定,あるいは以前のある教皇によって不可謬的に確認されたある以前のエキュメニカルな公会議の決定を明白に否定するとしても--」ということである。注4

 これらの目の見えない指導者たちは次のように論じるである。私たちが謙遜であり、従順であるがゆえに神は私たちに満足しておられる。そして神はこれらの人々を、教皇として、信仰教義聖省長官として、私たちの上に置かれたのだ。これらの人々は、誤っているのは、「生きている教導職」を信じないために神によって罰せられるのは、服従しないあなたたちであると言うところまで行くのである。

 そのような考えは、実際、彼らが「真理を信じなかった」ので、そして彼らが「不義に同意した」ので、「神が彼らに送られる」「滅びへと彼らを導く」「惑わす力」である。(2テサロニケ2:10-11を見よ。)

 神は人がこのように欺かれることをお許しになるのだろうか?神はどうしてそのようなことがお出来になるのであろうか?とある人は尋ねる。その答としては、私たちには聖ジョン・ユードと聖書の教えがある。

 聖ジョン・ユードは神がその民に送ることがお出来になる最も恐るべき懲罰は悪い司祭たち(それは明らかに悪い司教、枢機卿を含んでおり、また教皇をさえ含むことができる)であると説明している。ここに聖ジョン・ユードが言っていることがある:

「神の怒りの最も明白なしるし、そして神が世界に与えることがお出来になる最も恐るべき懲戒は、神がその民に、行為において以上に名において司祭である聖職者、献身的な羊飼いの慈愛と愛情よりは貪欲な狼の残酷さを実行する司祭である聖職者の手の中に陥ることをお許しになるとき、明らかにされる...」

 「神がそのようなことをお許しになるとき、神はその民に対して完全に怒っておられ、その最も恐ろしい怒りを彼らの上に送っておられるということがまさに積極的な証明である。だからこそ、神はキリスト者に向かって絶えずこう叫んでおられるのだ。「おお、背信の子らよ、立ち帰れ...わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。」(エレミヤ3:14,15)このように、司祭たちの生活における不品行は罪の結果として人々の上にくだる天罰を招くのである。」注5

 『悪魔の最後の戦い』注6や別の箇所で注7証明されているように、私たちは司祭の中へのあらゆる種類の堕落した人々の潜入を経験している。すべての悪い司祭たちの中で、私たちは今教会の中に、そして最も目に見える形で聖職者の中にスキャンダルを見ているがゆえに、神がその民に対して非常に怒っておられるということは明らかである。

 私たちは、聖アルフォンソが特に言及しているように、この世の生活において神が私たちに罰、懲罰、そして警告を送っておられるということ、それゆえに、私たちにとって遅すぎるようになる前に、まだ時間がある間に神の警告に心を用いるようにしなければならないということを思い起こさなければならない。聖職者たちにおけるスキャンダルは神がその御警告の終わりに達しられたという明白なしるしである。時は遅いのである。私たちは少なくとも自分の罪のために償いをしなければならず、この時にあたって私たち自身のため、また神が私たちの配慮に委ねられたすべての人々ために、神の恵みと憐れみを求めて最も熱心に祈ることによって目覚めなければならない。しかし、あれらのスキャンダルは邪道に陥った堕落した司祭や司教たちに限定されない。なおもっと悪いのはいわゆる「信仰の擁護者たち」による私たちのカトリック信仰の堕落である。「生きている教導職」が不可謬の変化し得ない教義上の決定よりも優ると主張する人々は数え切れない霊魂たちを地獄へと誤り導いているのである。

 不信者にとってカトリック信仰へと回心する必要はないと私たちに告げる司祭たちや司教たちによる曲解注8は、--少年愛と同様にいまわしいが--少年愛よりももっと大きな倒錯である。この異端は--たとえそれがバチカンの枢機卿たちによって促進されていようとも、たとえそれが暗黙のうちにしろ、あるいは明白なものにしろ、教皇の支持を得ているものであったとしても、そのような教えの倒錯性を少しも変えないのである。「生きている教導職」のそのような教えを擁護する人々は、彼らの信仰を失ってしまったか、それともその全生涯それについて完全に無知であったかのいずれかである。しかし、彼らの無知はこの問題における悲しむべき罪から彼らを必ずしも免除するものではない。

 カトリックの信仰--あらゆるカトリック者が自分の魂を救うために信じなければならない、イエズス・キリストから私たちに手渡された信仰の遺産--は中でも次のことを教えている:

 1)神は私たちの信仰の創始者である。

 2)神が私たちに告げておられることが真理であるがゆえに、神は信じられなければならない。

 --神は全知の方であるから、神が誤り導かれることはあり得ない、あるいは真理の一部しか持たないということはあり得ない。

 --神はまったき聖なる方であるから、私たちに嘘を言われることはあり得ない。私たちが真理を愛さないがゆえに、神は私たちが欺かれることをお許しになるかもしれないが、しかし決して私たちに嘘を言われることはない。

 3)神が私たちに真理を告げておられるがゆえに、また神が啓示なさったがゆえにあらゆる信仰箇条が真理であるがゆえに、次のことが帰結する: 

 1) 33 ADに真であったことはまた2003 ADにおいても真である。

 2) ・325年にニケアで

   ・1438-45年にフィレンツェで

   ・1545-65年にトレントで

  ・1870年にバチカン第一公会議で

 教会によって真として決定されたことは今日でもなお真である。

 すなわち、イエズス・キリストは昨日、今日、そして永遠に同一である。それゆえ、フィレンツェの公会議が、ユダヤ人も、異端者も、分離主義者も、もし彼らが死ぬ前に自分たちの誤りについて悔い改めないならば、誰も神の国には入らないと定義するとき、それはあらゆる時代にわたって真理なのである。

聖人たちと公会議は私たちに何を告げているか

 しかし、次のような反対論が提出される:しかしもし後の教皇が何か異なったことを言うならば、反対のことを言うならば、彼もまた教皇ではないのか?彼は以前の教皇と同じ力を持ってはいないのか? だから、以前の教皇とは反対のことを言う後の教皇に従って、あなたはどのように間違うことができるのか?と。

もちろん、最初に私たちがしなければならないことは、後の教皇が、あるいは現在の教皇さえそうだが--以前の教皇の荘厳な不可謬の教えに明白に矛盾する何かあることを言ったのかどうかを決定することである。しかしもし実際に彼がそう言ったのであれば、その後の教皇は間違っているのである。その理由は教皇の役割は新しい教義を発明することではなく、新しい教義を教えることでなくて、神によって啓示された信仰の遺産を手渡すこと、そして信仰の遺産を擁護し、説明することだからである。第一バチカン公会議は次のように教えている:

 そしてローマ教皇たちは、時代と状況の切迫した事情に従って、時にはエキュメニカルな公会議を召集し、あるいは世界中に散らばった教会の精神を求め、あるときには特別の教会会議によって、あるときには神の摂理が提供した他の助けを用いて、神の助けをもって彼らが聖書と使徒的伝統と一致し得ると認めた事柄を保持すべきものとして定義した。なぜなら、聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、その啓示によって彼らが新しい教義を知らしめるということではなくて、聖霊の助けによって彼らが使徒たちを通じて伝えられた啓示あるいは信仰の遺産を犯すことのできない仕方で保ち、忠実に説明するということであるからである。」(D.S.3069-3070)注9

 それゆえ、ある教皇がある事柄は信仰の遺産の一部であるとひとたび教えたならば、私たちはそれが実際神御自身が啓示された真理であるということを知るのである。

 そして真理の第一の特質はそれが自己矛盾することはあり得ないから、それゆえに私たちはある後の教皇がやって来てある新しい真理を教えることはできないということを知るのである。もし彼がそうしたならば、その新しい教義は真ではあり得ない。なぜなら、それは神が教え給い、初めの定義によって確証されたものに反するからである。

 それゆえ、やって来て神の名において新しい教義を教えることができる「生きている教導職」は存在し得ないのである。なぜなら、神は真理の創始者であって、偽りの創始者であることはお出来にならないからである。そして神は一つの嘘を真理であるとお教えになることはないし、またある人に嘘を信じるように命令することもお出来にならないからである。また神はあたかもそれが真理であるかのように嘘を教える誰かを正当と認める、あるいは正当と認めるふりをすることもなさらないであろう。

 このように、そのような「生きている教導職」は神から教える権威を盗もうとしているのであり、そして真の、本当の現実の教導職を簒奪しているのである。

 ところで、真のスキャンダルは今日、異端を教え、そしてそれが真理であると誤って主張し、それはカトリック教会が公式に、教導権に基づいて教えることであると主張する高位の教会人がバチカンの中にさえ存在するということである。私たちは、教皇でさえカトリックの教義を変えることはできないということを神的なそしてカトリック的な信仰によって知っているからして、このことを知るのである。私たちは、第一バチカン公会議の荘厳な不可謬の定義を持っているがゆえに、そのことを知るのである。それは次のように言っている:

 「それゆえに、キリスト教信仰の始めから受け取った伝統を忠実に信奉しながら、私たちの救い主である神の栄光、カトリック宗教の賛美、そしてキリスト教の人々の救いのために、聖なる公会議の承認と共に、私たちは以下のことが神によって啓示された一つの教義であるということを教え、決定する。すなわち、ローマ教皇は教皇座からex cathedra話すとき、すなわち、すべてのキリスト者の司牧者および教師の職務の遂行において、その至高の使徒的権威に基づいて信仰あるいは道徳に関するある教義を普遍的教会によって保持されるべきものであると決定するとき、祝せられたペトロの名において教皇に約束された神の助けによって、救い主が御自分の教会は信仰あるいは道徳に関して教義を決定する際に与えられるべきであると望まれたあの不可謬性を持っているのである。そしてそれゆえに、ローマ教皇のそのような決定はそれ自身で、教会の同意からではなくて、変更することができないのである。しかし、もし誰かが--神がそのようなことを防がれんことを!--この私たちの決定に対して反対しようと思うならば、その人は破門されるべし。」注10(D.S.3073-3075)

 教義上の決定は不可謬のものであるから--すなわち、それらは神御自身が支持し保証しておられる明確な真理であるものをはっきりと列挙することに失敗することができないから--そのような決定は変更されたり、改革されたりすることはできないのである。それらは改変不可能なものである。それらはある司祭、ある司教、ある枢機卿、全公会議あるいは教皇自身によってさえ--現在の教皇であれ、未来の教皇であれ--、改革されることはできないのである。これが教会が教えることである。ある人がこのことを信じないならば、その人はもはやカトリック者ではない--彼は自分の異端によって教会から切り離され、破門され、追い出されたのである。

 それゆえ、あなたは、私たちがカトリック教会の教義上の決定を回復する必要があることを見ることができる。私たちは自分たちの精神において、心において、そして日々の考え、話、行動においてそれを回復しなければならないのである。私たちは私たちの信仰を全体として保持しなければならない。私たちは、たとえ司祭、司教、枢機卿が、教皇が彼らに同意していると主張するとしても、私たちの教義上のカトリック信仰を失うことを自分自身に許してはならないのである。私たちは教会博士たちが教えたことに従わねばならない。これらの博士たちは、教会が彼らの教説は確実である、私たちは彼らの教えに従えば安全であると私たちに告げているがゆえに博士とされたのである。

 教会博士である聖ロベルト・ベラルミンはローマ教皇に関するその著作の中で、教皇でさえもし彼が教会に害を及ぼすならば非難され、抵抗を受けるであろうと教えた:

 「肉体を攻撃する教皇に抵抗することが正当であるのと同じように、霊魂を攻撃する者、あるいは市民的秩序を乱す者、あるいはなかんずく教会を破壊しようとする者に抵抗することもまた正当である。私は、彼が命じることをなさないことによって、そして彼の意志が遂行されないように妨げることによって、彼に抵抗することは正当だと言っている。しかしながら、彼を裁き、罰し、あるいは退位させることは正当なことではない。なぜなら、これらの行為は上長に適切なことだからである。」注11

 同様に、16世紀の優れた神学者であるフランシスコ・スアレス(教皇パウロ五世は彼をDoctor Eximius et Piusすなわち、「例外的で敬虔な博士」として称賛した)は次のように教えた:

 「そしてこの第二の仕方で教皇は、もし彼が教会の全体との正常な一致の状態にあることを望まなかったならば--それは彼が教会全体を破門しようとする場合に起こるであろうように、あるいは、カエタヌスやトルケメダが述べているように、教皇が使徒的伝統に基づいた教会の典礼を越えようと望んだならば起こるであろうように--教会分離主義者であり得るであろう...もし[教皇が]正しい慣習(道徳)に反する命令を与えるならば、彼に従うべきではない。もし彼が正義や共通善に明らかに反する何かをなそうとするならば、彼に抵抗することは合法的であろう。もし彼が力によって攻撃するならば、正当防衛に適切な節度をもって力によって彼を退けることができる。」注12

 教皇でさえ、彼が教会を害するであろう行動をするときには、合法的に抵抗することが許されるであろう。まったく単純に、教皇聖フェリックス三世が宣言したように、「誤謬に反対しないことはそれを承認することである。そして真理を擁護しないことはそれを抑圧することである。」平信徒および低い地位の聖職者のメンバーもその命令から免除されていない。教会の全成員はその命令に従属している。私たちはこのように声を上げる義務を有しているのである。

 聖トマスは、ある司教あるいはある教皇でさえが言うことのために信仰が危機にあるならば、信仰を擁護するためにその聖職者は公然と譴責されなければならないと述べた。彼自身聖書--ガラテヤ2:11--に基づきながら、最も偉大な教会博士である聖トマスは次にように言う:

 「しかしながら、もし信仰が危機にさらされるならば、臣下はその高位聖職者を公然とさえ非難すべきであるということが認められなければならない。それゆえ、ペトロの臣下であったパウロは信仰に関するスキャンダルの切迫した危険のために、公然とペトロを非難したのである。そしてアウグスティヌスの注釈はガラテヤ2:11に関してこう言っている。『ペトロは上長に対する一つの例を与えた。すなわち、もしいかなるときにも彼らが真っ直ぐな道から迷い出るようなことが起こるならば、上長たちはその臣下から非難されることを軽蔑すべきではない。』と。」注13

 私たちは信仰の教義を守らなければならない。大背教においては大多数の人々は彼らの精神、心そして魂において神聖で侵すことのできない信仰の教義を守らないために道を失うのである。

 私たちはまたファチマのシスター・ルチアに言われた私たちの主イエズス・キリストの言葉に注意を払うことを忘れないようにしよう:「教皇のためにたくさん祈りなさい。」

脚注:

(1)「教皇は、不可謬であるから異端を教えること、あるいは促進することは決してできない」という反対論に対してこの問題に関してさらに詳しく知るために私たちは次のように答えなければならない:教皇はあらゆる事柄において不可謬なのではなくて、ただカトリック教会によって、特に第一バチカン公会議で、厳密に決定され、荘厳に教えられているある条件においてのみ不可謬である。この問題についてさらに詳しく知るためには、『ファチマ・クルーセイダー』66号p.23以下のJonathan Tuttleによる"Mission Infallible"を見よ。また私たちのウエッブ・サイトhttp://www.fatima.org/library/cr66pg23.htmlをも見よ。

(2)John Henry Newman, Certain Difficulties(London, 1876)を見よ。これはMichael Davies, Lead Kindly Light: The Life of John Henry Newman (Long Prairie, Minnesota: Neumann Press, 2001), pp.181-182に引用されている。Dz.229,Dz.297A, Dz.430, Dz.482をも見よ。

(3)Catholic Counter Reformation,June 1973.それ以上のことについては、The Pope, a Concise Biographical History,edited by Eric John, published in 1964を見よ。これは最近Roman Catholic Books, Harrison, New Yorkによって再発行された。Dz.530; D.S. 1000をも見よ。

(4)編集者注:この号のpp.56-58にあるFather Paul Kramerによって与えられた例を見よ。

(5)Saint John Eudes, The Priest: His Dignity and Obligations,( New York, P.J. Kennedy & Sons,1947), pp.9-10.

(6)The Devil's Final Battle,edited and compiled by Father Paul Kramer,(The Missionary Association, Terryville, Conneticut, 2002)pp.39, 47-48, 51, 53, 58, 61, 124, そしてp.299の脚注#24を見よ。またウエッブ・サイトhttp://www.devilsfinalbattle.com/ch5.htmをも見よ。

(7)カトリック教会の同性愛浸透に関する文献については、"Clerical Scandals and the 'Negligence of the Pastors'"by John Vennari, The Fatima Crusader, Autumn 2002, Issue 71, pg.15以下を見よ。ウエッブ・サイトhttp://www.fatima.org/library/cr71pg15.htmでも見られる。

(8)バチカンに根拠地を持っているWalter Kasper枢機卿は、「...今日、私たちはエキュメニズムを、他の人々が『回心してカトリックに戻る』という意味での帰還とはもはや理解しない」と言うとき、「教会の外には救いはない」という決定された教義を拒否したのである。このことは第二バチカン公会議ではっきりと放棄された。Adisti, Feb. 26. 2001.English translation quoted from "Where Have They Hidden the Body?" by Christopher Ferrara, The Remnant, June 30, 2001.また、The Devil's Final Battle, p.68をも見よ。

(9)Vatican Council I, First Dogmatic Constitution on the Church of Christ, July 18, 1870.Dogmatic Canons and Decrees, (TAN Books and Publishers)p.254から引用。

(10)Vatican Council I, First Dogmatic Constitution on the Church of Christ, July 18, 1870.Dogmatic Canons and Decrees,pp.256-257.

(11)De Romano Pontifice,lib. II, Chap. 29, in Opera Omnia, Neapoli/Panormi/Paris:Pedone Lauriel, 1871, vol.I, p.418.

(12)Francisco Suarez,De Fide,Disp. X, Sec. VI, N. 16.

(13) St. Thomas Aquinas, Summa Theologica, Pt. II-II, Q33, Art. 4, Ad 2.

2003/10/14 三上 茂試訳

If We Lose Dogma, We Lose Our Soulへ

マリア様のページ

トップページ

作成日:2003/10/14

最終更新日:2005/03/19

E-メール:mikami@po.d-b.ne.jp