祝せられたおとめマリアの鑑

ザクセンのコンラート
三上 茂訳

序言

 聖ヒエロニムスが指摘しているように、われわれの祝福された御母について立派に言われるものは何であれ、神の称賛と栄光をまったく高めるということは疑いない。
 それゆえに、われわれの主イエズス・キリストの栄誉と栄光のために、そして主のいとも栄光ある御母の称賛へと向かうであろう一つの作品を作ることを望みながら、私は私の論文の主題のために祝福された御母の最も甘美な崇敬を取り上げることが相応しいと判断した。しかし、私はそのような試みにとって私がまったく不十分であることを認める。第一に、その主題の崇高さのゆえに。第二に、私の知識の貧しさのゆえに。第三に、私の言葉の無味乾燥さのゆえに。そして最後に、私の生活の価値のなさと私が歌おうと望んでいる方の至高の栄光と賛美に値することのゆえに。
 なぜなら、聖ヒエロニムスが次のように語ることを躊躇しないあの主題を不可解であると考えない者が誰かいるであろうか。「自然が所有せず、習慣が用いず、理性が欠落させており、人間の精神が理解することができず、天を震えさせ、地がものを言わせず、天のすべての住人を驚かせるもの、このすべてのことがガブリエルによってマリアに神的に告げられ、キリストにおいて実現された。」
 それゆえに、私はそのような、そしてそのように偉大な一人のヒロインについて語る値打ちが自分にないことを告白する。私は再び言う。アンセルムスの照明された精神がその仕事の提示において失敗するときに、私のわずかの知識と私の鈍い精神がマリアに相応しい賛美を考えるに十分であることができようか。なぜなら、アンセルムスはこう言っているからである。「貴婦人よ、私の舌は衰える、なぜなら、私の精神は不十分だからである。貴婦人よ、私の内部にあるすべては、私があなたのそのように大きな好意に対してあなたに感謝を捧げるように燃える。しかし、私は相応しい賛美を考えることができない。そして私は相応しくないものを持ち出すことを恥じている。」

  聖アウグスティヌスはマリアに宛ててこう言っている。「才能においてこのように貧しい私はあなたについて何と言おうか?何であれ私があなたについて言うことがあなたの偉大さに値するよりも少ない賛美しか言わないときに。」

 さらに、人々のうちで最も雄弁であったアウグスティヌスが次のように言うとき、私の訓練されていない舌、私の貧しい解釈力がマリアの賛美において失敗しないことがどのようにして可能であろうか?「われわれのすべての肢体が舌になるとしても、われわれの内の誰もマリアを賛美するに相応しくないときに、このように小さい、このように弱いわれわれはマリアの称賛において何を言おうか。」(注1)

 さらに、罪人の口からの賛美が相応しくないものである(シラ書15.9)とするならば、そのような価値のある人であるヒエロニムスが躊躇するということを聞くときに、哀れな罪人であり、最も相応しくない生活の人間である私は、どのようにマリアの賛美を敢えて公言するであろうか?なぜなら、彼はこう言っているからである。「私は、私が相応しくない賛美者であることを証明しないように、私があなたの期待を実現することを望んでいる間中恐れ、そして震える。なぜなら、私のうちには祝福された、そして栄光あるおとめを相応しく賛美する聖性も雄弁もないからである」(注2)。

 そしてさらに、「私はなぜ海に小さなコップ一杯の水を加えるべきなのか?なぜ山に一つの石を加えるべきなのか。そしてマリアがすでに人々と天使たちの舌によって非常に適切に賛美されてきたから、われわれの取るに足りない努力、そして特に私自身の努力をこれらに加えることができるのか?」  最後に、聖ヒエロニムスはマリアについて語りながら次のように言っている。「もし私が真理を語るべきであるならば、何であれ人間的な言葉において表現され得るものは天によって与えられた賛美よりは小さいものである。なぜなら、マリアは神的および天使的使者によって優れた仕方で説かれそして賛美されてきたし、預言者たちによって予告され、太祖たちによって予表と象徴において予め示され、福音史家たちによって述べられ記述され、天使たちによって相応しくそして公式に挨拶されたからである。」(注3)。

 これらの事柄をまじめに考量したとき、敬虔な読者よ、私は何であれ、私のこの書き物における不十分さであれ、技術の欠如であれ、それらに対してあなたの赦しを願わなければならない。そのように不十分な私がマリアのユニークなそして熱心な賛美者である聖ベルナルドゥスの前でこの仕事においてどのようにして資格ある者として成功するであろうか?なぜなら、彼はこう言っているからである。「おとめである御母の栄光について説教することよりも大きな喜びを私に与えるものは何もない。」そしてこの喜びの理由を与えながら彼はこう続けている。「なぜなら、すべての人々は相応しいものである最も大きな愛情と献身でもってマリアを称賛し、抱きそして受け取るからである。しかし、そのように語り得ないほどに至高な方について言われることは何であれ、それが言葉にされるというまさにその事実によって、相応しくなく、喜ばしくなく、受け入れがたいのである」(注4)。

 しかし、聖ヒエロニムスは次のように言いながら、私を勇気づけ、そして慰める。「マリアを賛美するに相応しい人は誰一人見出されることはできないけれども、しかしそれでも、罪人でさえその全力でもってマリアを賛美することを思いとどまることのないようにさせよう(注5)。

 そして聖アウグスティヌスは神の御子がその御母に対して多産の賜物を与え給うた、しかしにもかかわらずマリアから生まれることによってマリアの統合性を取り去らなかったその仕方について語りながら、他の事柄と並んで、こう言っている。「そのように取るに足らないわれわれは神のそのように大きな賜物について十分に語ることはできない。そしてにもかかわらず、われわれは、沈黙したままでいることによって、われわれが恩知らずであると思われることがないように、マリアを賛美する声をあげることを強いられる。そして確かに、その二枚の銅貨でもって神をそのように喜ばせる捧げ物をしたあの貧しいやもめは彼女がそれ以上を与えることができなかったゆえに、その捧げ物を思いとどまるべきであったのではない。むしろ、彼女にできることをすることによって彼女は神をいたく喜ばせたのである」。

 それゆえ、才能において非常に貧しく、そして同様に知識と雄弁に欠けている私がそのように偉大な女王に対してこの私の貧しい書き物を敢えて捧げたということである。その中で、言ってみれば、一つのぼんやりした鏡においてのように、この偉大な女王を愛する単純な者たちがある不完全な仕方でその方が誰であり、そしてどのように偉大であるかを知るべきであるということである。そしてこの論文は、言わば、マリアの生活、恩寵そして栄光を反映する一種の鏡であり、それが「マリアの鑑」と名付けられているのは不適切ではないのである。それゆえに、おお、私の最も親切な貴婦人かつ御母よ、あなたを愛する貧しい者によって捧げられたこの小さな贈り物を寛大に受け取ってください!なぜなら、この取るに足らない贈り物、あなた自身の挨拶についてのこの小さな仕事でもって私はあなたを賛美するからである。膝を屈め、頭を垂れ、心と唇でもって私はあなたを賛美する。私はあなたに神の恵みを願う。めでたしマリア....

1.St.Augustine, "De Sanctis," CCVIII, n.5.
2.St.Jerome, "Epist. ad Paulam et Eustoch."
3."Epist.cit."
4."Serm. de Assumpt. B. Mar.," IV
5.St.Jerome I. c.

最終更新日:97.07:20

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