カトリック思想史

第 IV 篇


文学博士 姉崎正治・山本信次郎 監修

ヨゼフ・フービー 編

前駐日仏国大使 ポール・クローデル 序

天主公教会司祭 戸塚 文卿 訳


中央出版社 刊

[三上記:以下の文章は読みやすくするため漢字、仮名遣いを改めました]

p. 1

目次
序説

第I 篇 新約時代ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

1 イエズス(p. 1)

共観福音書(p.1)
善き道 山上の垂訓(p.10)
比喩的説教 善き音信(p. 12)
特殊の弟子 イエズス派(p.15)
イエズスの人格(p.20)

2 弟子らの信仰(p.34)

ペンテコステ以前(p. 34)

p. 1

12使徒の説教 原始的教会(p. 40)
聖パウロの説教(p. 48)
聖ヨハネ福音書(p. 56)

第II 篇 初代キリスト教ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

1 第2世紀および第3世紀(p. 69)

キリスト教の統一性ならびに多面性(p. 69)
教会に内在するキリスト(p. 70)
教会と国家 迫害(p. 75)
キリスト信者の生活 友愛(p. 81)
智慧と信仰 理性に内在する御言(p. 87)
グノーシス派異端(p. 93)
御言による世界の支配(p. 96)

p. 3

可見的教会(p. 97)
アレキサンドリア思想家(p. 100)

2 第4世紀および第5世紀(p. 104)

この時代の意義(p. 104 )
天国の玄義(p. 108)
道徳的理想(p. 112)
ギリシアキリスト教徒(p. 113)
ラテンキリスト教徒(p. 117)
修道生活(p. 120)
聖アウグスチヌス(p. 127)
ローマ支配の終局 ラテン教会およびギリシア教会(p. 131)

第III 篇 中世紀キリスト教ピエール・ルッスロ、ヨゼフ・フービー

p. 4

1 中世紀におけるキリスト教精神(p. 144)

教会と蛮族(p. 144)
西欧の修道者 聖ベネヂクトゥス(p. 145)
教会と神の国(p. 148)
キリストの教の外面的発展(p. 160)
中世紀における心霊生活(p. 166)
聖ベルナルドゥス(p. 170)
聖フランシスクス(p. 176)
『イエズス・キリストの模倣』(p. 182)
スコラ学派 聖トマス・アキナス(p. 184)

2 反キリスト教、反カトリック教、中世紀の終末(p.192)

異端との闘争(p. 192)

p. 5

中世紀の終末(p. 198)

第IV 篇 文芸復興時代よりフランス大革命に至るキリスト教
アレキサンドル・ブルウ ピエール・ルッスロ

1 宗教改革(p.213)

異教的人文主義(p. 213)
ルーテル(p. 214)
カルヴィン(p. 219)

2 教会の反動改革(p.223)

カトリック教会の覚醒(p. 223)
聖イニゴ・デ・ロヨラ(p. 230)
聖女テレザ(p. 238)

p. 6

3 第17世紀フランスにおけるカトリック教会(p.243)

第17世紀フランスにおける教会の偉観(p.243) 聖フランソワ・ド・サル(p. 249)
尚古主義(p. 252)
ガリカン教会主義(ガリカニスム)(p. 255)
ジャンセニウス異端(p. 258)
尚古主義の敗北(p. 262)
カズイスト(p. 266)
ポール・ロアイアル修道院派の敬虔(p. 269)
静観派の敬虔(p. 273)
聖心の信心(p. 275)

4 第18世紀(p.278)

p. 7

哲学主義(p.278) カトリック教会の防衛(p. 285)

第V 篇 第19世紀および第20世紀初頭におけるカトリック教
レオンス・ド・グランメーゾン ピエール・ルッスロ

1 第19世紀における神の国の思想(p.289)

第19世紀における思潮の一般(p. 289)
カトリック教会の統一(p. 295)
教会と社会問題(p. 299)
教会と世界平和(p. 311)
教会と布教事業(p. 314)

p. 8

2 カトリック教理に関する論争(p.317)

ローマン主義(p.318)
科学的主理主義(p. 323)
不可知論的主情主義ならびにモデルニスム(p. 330)

3 カトリック的敬虔および教会の内的生命(p.347)

カトリック社会事業(p.347) カトリック修道生活(p. 350)
教皇 巡礼 奇蹟(p. 352)
宗教美術及び文学(p. 356)
カトリックの信心(p. 360)

4 現代(決論)(p.362)

附録 年表
人名索引

第IV 篇 文芸復興時代よりフランス大革命に至るキリスト教

アレキサンドル・プルー ピエール・ルッスロ共述

p. 213

第IV 篇 文芸復興時代よりフランス大革命に至るキリスト教

1 宗教改革

異教的人文主義

異教的理想の復活は、もしこれが論理的に発展したならば、ヨーロッパを一直線に今日の絶対自然主義に導くはずであった。しかし1千年にわたる長年月の造り上げたキリスト教の影響は人心から一朝一夕にして消え失すべきものではなく、新しい悪思潮に主として禍されたのでは知識階級の一部に止まって、教会は危機を切り抜けて立ち直る余裕を得たのである。人文主義それ自身も地方によって前後の差こそあれ、やがて極端な異教性を失って純然たる文芸上の古典主義となってしまった。これは第16世紀末頃の教育学の改革、ことに各国に無数に成立したイエズス会経営の諸学校の功績であって、ギリシャ文芸は美と趣味と秩序と論理との模範となり、古典学(humanities)

p. 214

は古代文芸の永遠に健全なる分子をキリスト教のために使役する学科となり終わった。

しかし文芸復興期の精神は死なずして、自然主義的精神は特に文筆の人の間に残っていた。ラブレー(Rabelais, 1483?-1553?)からヴォルテール(Voltaire, 1694-1778)を経てルナン(Renan 1823-1892)に至るまで、自由思想家の伝統は絶えないのである。そのある者はモンテーニュ(Montaigene 1533-1592)のごとく単に信仰を忘れただけであろう。またある者はヴァニニ(Vanini 1585-1619)のごとく公然無神論を唱えるであろう。あるいはまた第17世紀における多くの遊蕩児(リベルテン)のように、単に快楽の中に浸って暮らすだけの者もあろう。自由思想の大潮流はリシュリュ(Richelieu 1585-1642)ルイ14世(Louis XIV 1638-1715)の治下に一時姿を潜めていたが、オルレアン公フィリップの摂政時代(1715-1723)になって再び社会の表面に出現した。ヴォルテール一派の百科全書派の主理主義の源泉は遠く第15世紀にあるのである。

ルーテル

しかし自由思想と教会との最初の衝突はこの主理主義の上に生じたのではなかった。個人の権

p. 215

威を高唱して起こったプロテスタント教はこれを突きつめればすべての信仰の否定となる。徹底した論理的のルーテル教はルーテルの教えた最初の福音教でなくして、今日の自由プロテスタント派がそれである。しかしここに到達するまでには1世紀以上の年月が必要であった。

400年間の絶えざる進化を経て、しかもなお今日ウィッテンベルグの福音の使徒をその師と仰ぐ人々が魁となって認めている事実は、ルーテルは決して第20世紀の自由思想家ではなかったということである。ウェルンレ(Wernle)も、彼を古い教理に忠実な昔風の神学者で近世人でなかったと評し、またハルナック(Harnack)も彼について『その個性の外面ばかりでなく、またその最も深奥のある点に至るまで、ルーテルは中世期の古くさいカトリック的現象である』(教会史)と言ったこの点は近代カトリックの有名なルーテル研究者、ドミニコ会のドニフル(Denifle)ワイス(Weiss)イエズス会のグリザール(Grisar)の研究によって、もはや一点の疑問の余地もない。ルーテルはウィクリフやフスと同型にして、ただ厖大なる中世紀的の一異端者である。ルーテルがウィクリフ、フス以上に優れた点は単に彼の劇しい気質である。ルーテルは教皇および教階に対して抑えきれぬ劇しい憎悪を抱いていた。しかしこの憎悪も従来の異端に欠けていたのではない。

p. 216

ただルーテルは、この情熱に駆られる時は前後を顧みる暇なく、いかなる言辞を弄することをも敢えて辞さなかった。それゆえに彼の教説を連絡のある一の体系に組み立てて、その有機的発展を順序づけることは無益の業である。一事を攻撃するためには思慮を失って極端に反対のことを言う。『聖ペトロは使徒の首長ではなかったかと?そうではない、反対だ、彼は使徒らに服従していたのだ。教皇は教会の首長だと?そうではない、彼は教会の下だ、司教の下だ、悪魔の下だ、俗政府の下だ』(Weiss: Luther und Luthertum t. II. p. 145 note 3)このような憤怒の発作の後に、反省の時が来ると、ルーテルは無造作に発したこの種の言説を辻褄の合うように統一しなければならなくなる。それゆえルーテルの説に有機的統一がありとすれば、それは彼の気質以外に求めることはできぬ。

あらゆる論理を無視する彼の情熱は、系統的な神学を作り上げようとするプロテスタント神学者にとっては、時としては多分の迷惑と困難である。しかしまたこの情熱が生存時のルーテルの力であり、今日においてもなお思想家としてでなくむしろ神秘家としての彼の影響を感じさせるゆえんである。ルーテル(Martin Luther 1483-1546)は今日の言葉で言えば、独自の『宗教的経験』を有し

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ていたのである。苦闘と、疑惑と、煩悶との幾年かの後に、彼はその霊魂の底からキリストの無条件の慈悲、およびこれに頼る絶対の信頼、この二のことを悟ったと自ら語っている。完全な平和を発見したりと信じた時の彼のこの感情、この喜悦は自ずから感動に充ちた力強い言葉となってあふれ出でて、同様な煩悶に悩む人々にとって解放の声と聞こゆるのである。『われらを救うものは、われらの行にあらず、キリストの純粋な慈悲こそわれらを救うものなれ。』彼の言葉はほとんど霊示の声とも響いて、今日に至るまでプロテスタント教徒は彼が真正の信仰を発見したと信じている。『彼はその時代の雄で、歴史の千年を超越した』(ハルナック『教理史』)。彼の発見せるものは神学の語彙をもってすれば『義とせらるること』(Justification)であり、彼が後代の信者に残したものは直接にキリストに行くことである。以上がプロテスタント教徒によるルーテルの評価である。

キリストに直接に行く、それゆえに義とせらるるため、また救霊のために業が不必要となる。ルーテルは決して罪と善業とに無頓着なのではない。『罪を犯せ、されどいっそう多く信ぜよ』と言う彼の有名な言葉はそのままに取るべきでなく、むしろ演壇上の誇張である。しかしこの点で彼の反教皇主義が明瞭になるという訳は、メランクトン(Melanchthen 1497-1560)が後に指摘したよう

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に、これがローマと分離する理由にならないからである。カトリックにとっても、我らが義とせらるるはわれらの功徳によるのでなく神の賜である。しかし人間は木石のごとく神の恩寵に対して全然受動的でない。人間はその自由意志をもって、義とせらるることを受諾し、この意味で救済に協力せねばならぬ。ルーテルも本当はやはり同様に考えていなかったであろうか。悲しいかな、los von Rom! ルーテルはまずローマと分離することを考えていたのである。それには教義上の相違が必要である。カトリックが『義とせらるること』の神の賜に人間の協力の要素を認むるに対して、ルーテルは反教皇主義のためにこの要素を否認するに立ち到ったものである。

[註] なおここに彼の矛盾の最も著しきものを述べれば、第一、彼はキリストを発見せんがために教会の裡にある必要を認め、また Deus interna non dat nisi per externa (神は外的条件によらずしては内的賜を与え給わず)の原則を支持し、第二に在来の教義を信ぜざるべからずと唱え、(彼のいわゆる信とはプロテスタント流の『信頼』なると共にカトリックの言う『信仰』である)第三に聖書の文字的霊示(literal inspiration)説を支持する等である。(ハルナック『教理史』)。

上述のごとくルーテル教は元来権威の破壊を根本としているものであったから、ルーテルの立

p. 219

場は矛盾であり、中途半端であった。彼の根本思想を徹底させれば、宗教は個人の内的生活の一現象となり、人々の間の連鎖としての社会的宗教は否定される。教会は平等なる信者間の組合となり、その用は集会によって互いの宗教的感情を刺激するだけのものとなる。信者は同時に司祭であるから特別の聖職者は不要である。教会としての教義もなければ聖伝もない、唯一の信仰の規範は聖書を解釈する各人の良心がそれである。それゆえルーテルの死後30年にしてたちまち宗派の分裂が生じ、自由研究から自由思想へと大河の決するがごとく流れていったのは極めて当然と言わねばならぬ。

カルヴィン

ルーテルの宗教改革の騒擾に堤防の役をつとめたのがカルヴィン(Calvin 1509-1564)である。彼は宗教改革の熱情にフランス人的の明晰な組織的才能を加味したものであった。

カルヴィンは教皇圧制の軛を脱してもこれに代わる他の権威が必要であると考えた。自由研究はまた彼の立場であったが、信者各人の個人的解釈を絶対のものとはしなかった。信者とキリストとの直接の接触によって特殊の司祭階級が不用になる、それはよいが教会の統治は残して置きた

p. 220

い。外面的規範は廃止せねばならぬが、指導し、時としては強制する道徳的権威は必要である。この権威はもとよりローマの教会ではない。カルヴィンは自身の意志、思想を権威とした。彼の強烈な意志は巧みにおのれをローマの伝統に反抗する人々に承認させて、諸人はラテラン教皇宮におけるよりも、ジュネーブ市の彼の前で跪伏したのである。全欧州を通じ、イギリスでも、ドイツでも、カルヴィンの意志が律となった。

彼のプロテスタント教は一の整然とした固定した一徹な体系(システム)である。彼は純粋な原始的教会に還るという口実をもって、カトリック教に対するルーテルの反抗を継続しつつも、同時にドイツ系の無政府的プロテスタント教を匡正せんと試みたのである。

人文主義に対する態度を窺えば、ルーテルは最初には彼のキリスト教的良心がこれを許さないと言っていたものの、その人文主義者が反教皇主義なるを見て、これと握手した。カルヴィンはここでも、もっと論理的で、彼ら『古代美の愛好者なる遊蕩児』と挑戦した。人文主義者も憎悪をもって憎悪に報ゆといった風に彼に対した。

科学、文学、美術等近代的精神の産物は悉くカルヴィンの憎むところである。けだし『罪によっ

p. 221

て根本より腐敗したる人性』に対する彼の憎悪はその極みに達し、この人性の価値を認め、あるいはこれを美化せんとする試みを容認することはとうていできなかった。ゆえにカルヴィンの追随者は聖像破壊者となり、美術の敵となり、人生の喜びと微笑とに渋面をもって対する清教徒(ピューリタン)となった。英国における彼の弟子クロンウェル(Cromwell 1599-1658)の時代にはこれがあらゆる快楽の恐怖とまでになってしまった。

かくのごとき悛酷な道徳観はまったくカルヴィンの教義の所産で、カルヴィン教は人間の考え出した最も厳格なキリスト教神学体系であると言うことができる。彼は先進のプロテスタント神学者に倣い、人間の自由意志は神の大能と矛盾するがゆえにこれを否認する。いわゆる善業の価値はゼロである。聖パウロによれば、人間はアダムの罪によって根本的に腐敗して、悪の他産み出すことはできぬ(と彼は言う)。理性は盲目にして、心情は腐敗し、意志は自由を有せざるものが人間である。それゆえ人間の行為は、慈悲とか祈祷とか普通に善と称せらるるものも、その実みな罪悪に過ぎぬ。人性のこの堕落はとうてい回復の道がない、神の聖寵も人の霊魂の中に入ってこれを癒す力はなく、単に神と人間のとの間にイエズス・キリストの功徳を置いて、人間を庇護するにすぎないのである。

p. 222

神の方から見れば、神は永遠の昔より『義とせらるべき人々』すなわち救うべき人々を勝手に決定し、その直接の意志により、ある者の救霊、および他者の堕獄を欲せられた。罪人の滅亡は神がやむを得ずして許し給うところではない。神は積極的にある人々を地獄の渕に陥れるのである。神は罪を犯すなかれと公然と命じ給うも、その実は堕獄せしめる者が必要であるから、ある人々が罪を犯すことを欲し給うのである。堕獄の徒が必要なのは、これによって神がおのれの光栄を輝かし給わんためである。

実に恐怖すべき教義ではないか、しかも彼一個の権威をもってかかる教義を一般に承認させ得たのは不思議ではないか。この成功はあるいは戦慄すべき宿命説の反面に、慰藉に満ちた宿命説があったせいかもしれない。『われらの善業が何の役にも立たないとしたら、いかにしてわれらが義とせられたことを知るを得るか。答えていわく、信仰のみによりてわれらがこの義に参与すると信ずるときしかり。』キリストの義によりて、義とせられたりと自ら信ずる時、これで充分である。この人は実際に義とせられているのであって、この義はもはや失わるることのできぬものである。善業がわれに義を与ること能わざるごとく、罪悪も一度与えられた義はこれを奪うことができぬ。われは天

p. 223

国か、しからずば地獄に宿命づけられているのである。悛酷な恐怖に充ちたカルヴィン教に、このように論理的な道順で予定以外の息抜き穴ができる。人間を直接にキリストに触れさせるのが目的であった宗教がだんだんとキリストの信仰の破壊に導いたように、過激の厳格主義は道徳の頽廃をその裡に蔵した。

2 教会の反動改革

カトリック教会の覚醒

プロテスタント背教は教会にとって大なる衝動であると共に覚醒の機であった。

まず教会の最初に気がついたのは事態が容易でない、反逆の運動を抑制すると共に、失われた信仰を回復するためには、真剣な闘いが必要だということであった。この精神的の戦闘に第一線に立って働いたのは新しい二個の修道会で、すなわち在来のフランシスコ会の分派なるカプシン会(Capuchin Friars Minor)とイエズス会(Jesuits)とであった。イエズス会はその幾多の事業の中でも、教育事業に力を注いだ。そのために教会よりまったく失われたと思った地方が、学校経

p. 224

営の方法により再びカトリック教に帰した所も少なくなく、プロテスタント教の鋭鋒もだいぶ鈍って、ある地方においては退歩の状に移ることとなった。

同時に長い間期待されていた教会内部の刷新が力強く着手される運びとなった。

まず第一に学問的方面においては、神学の研究が隆盛となり、同時に宗教科学の新しい地域が拓けた。トリエント公会議(Tridentum, Council of Trent 1545-1563)はその『教義決定』により従来の信仰を明らかに宣言し、同時に進んでさらに精密な点にまで言及して、神学者に新研究の材料を与えた。またプロテスタント学者が古代教会に遡っておのが立場を築き上げようとする努力に応えるために聖会史が科学的に研究されるようになり、やがてバロニウス(Baronius 1538-1607)の『聖会年紀』(Annales ecclesiasitici)を生み、やはりプロテスタント学者に対抗するための聖書の批評的研究はマルドナート(Maldonat 1533-1583)の『聖書註釈』(commentarii 1596-1679)となった。プロテスタントの教会制度および教皇権に対する種々絶え間なき批難は、カトリック神学者が教会論および教皇論を説明する機会となり、ベラルミノ(Bellarumine 1542-1621)は教会と国家との関係について『論評』(De Controversiis, 1587)を書いた。また中世紀の諸異端以上

p. 225

に神学の根本に疑いを挟んだプロテスタント異端に対して、この点を確実にするためにメルシオル・カノ(Melchior Cano 1509-1560)の『神学源泉論』(De Locis Theologicis Salamanca 1563)が現れた。この書は神学的論理学あるいは神学方法論とも言うべく、神学の基礎となるべき10の loci (源泉)、すなわち聖書の権威、聖伝、聖会、公会議、教父、ローマ教会、スコラ神学者、科学に現れし人智の価値、哲学者の権威、歴史の価値が論じられている。カルヴィン教に対して、人間の自由と聖寵との関係を決定するためには、問題が機微(デリケート)なことであるだけに、カトリック神学者の意見も二三に別れて各その所説を主張した。モリナ(Luis de Molina 1535-1604 イエズス会神学者)スアレス(Souarez 1548-1617 イエズス会神学者)バニエス(Bagnez 1528-1604 ドミニコ会神学者)の説がこの論争の中心となるものである。

スコートゥス学派は『助力の聖寵』(actual grace)に関するこの劇しい論争の間はしばらく忘れられていたかの観があるが、その実、プロテスタント神学者および引き続いてバイユス(Baius)およびジャンセニウス(Jansenius)のいわゆる『聖アウグスチヌス派』の議論に対する反動として『自然』と『聖寵』との関係に関するスコートゥス派の見解『方法における超自然(supernatural quoad modum)』

p. 226

の説は第16世紀から第19世紀にかけて種々の反対学派に取り入れられて、正統神学者の中にこれを承認したのも少数でなかった。

[訳者註](1) 人間が自由意志を有すること、および人間が実際に行うあらゆる超自然的言動の有効の原動力たる聖霊(gratia efficax)を神が人間に賜わることの二点はすべての正統神学者の承認するところである。人における自由意志の存在をしっかりと把握して、いかにして自由意志が聖寵の影響を受けるかと思索を進めたのがモリナおよびスアレスである。神が第一原因たる所以を最初に肯定して、いかにして神の聖寵が自由意志を傷けずして人間に作用するかと考えて行ったのがバニエスである。両体系とも未だ完全に自己の立場を説明し尽くすことはできぬ。要するに吾人は鎖の両端を確実に手にしているが、その両端がいかなる風に連結されているかは神の奥義である。

(2)プロテスタント神学者その他のいわゆるアウグスチヌス派は人間の天性(自然)の価値をゼロと見なした。スコートゥス派の見解はその正反対で、自然の価値を誇張したのである。聖霊の働きは自然それ自身を超自然に高める(quoad substantiam)のでなく、自然の能力を扶けて救済になる思念を起こさせるのである(quoad modum)と説く。

大体においてカトリック神学の復活はかくのごとくめざましかったが、その間に躊躇と模索とがなかったのではない。カトリック教会の宏壮な大建築が、僅少の罅隙から崩壊の端を発するを恐れ、

p. 227

またプロテスタント背教に続いて、何らかの問題で再び信者の信仰が動揺することを恐れ、一部の神学者の間には極端な保守思想を抱いていた人々もあった。これらの保守的神学者が、その中でも特にアリストテレス学説の中に、確固不動の基礎的真理と、当然学術の進歩に伴い改善せねばならぬ附随的仮説とを充分に区別せずして、当然廃棄すべき事柄を極力庇護したのも無理のない心理状態である。謬れる保守主義の犠牲となった最も有名な実例はガリレオ事件として知られる、すなわちカトリック司祭コペルニクス(Copernicus 1473-1543)の新しい天文学説を敷衍して唱道したフィレンツェの天文学者ガリレオ(Galileo 1564-1642)の所論がローマの聖務聖省の誹謗を受けた事件である。なるほどこの問題は軽率に看過することのできぬ種類のものであった。宇宙の地球中心説に太陽中心説を更えるのであるから、思想上の革命であったところに、なおいっそうの紛糾を来たしたのは、ガリレオが科学の範囲を脱して神学の範囲にまで入り込んで来たことである。神学者の杞憂は、新学説を採用することになれば聖書の文字的真理を否認する結果となり、プロテスタント教徒に乗ずべき隙を与えることであった。哲学者は、吾人の直接認識の価値を動揺せしめんとするがごとき新説を好まなかった。神学者も、哲学者も、また一般の信者も地球が宇

p. 228

宙の中心ではないことになると、人間の価値も減少したように思え、また人間に対する特殊の神の愛という点から見た神の摂理も、判然と解らなくなり、一種の大なる不安を感じ始めたのである。問題は大きい、第一に聖書に記されたる科学に関する事項をいかに解釈すべきかという聖書解釈学上の問題、第二に感覚の認識の価値の問題、第三に宇宙目的論上の問題である。それゆえに、かかる思想上の革命を要求して、それ自身はなお未だ一の仮説に過ぎざる新天文学説に対して聖務聖省は軽率の態度よりは過度の慎重を選んだのであった。このやり方は一時的には急激の変化に慣れぬ人心の動揺を防いた効果はあったが、後々の禍根となった。なぜならばジョルダノ・ブルノ(Giordano Bruno 1550-1600)にとって既定の事実であった学問の民衆化の勢いがますます進むにつれ、科学者と神学者とは各々独立して研究の道をたどり、胸襟を披いて互いの研究の結果を交換することはなくなったからである。もとよりこれは両者にとって禍である。しかし特にアリストテレス哲学は科学の進歩と絶縁してからは、新発見のこれを刺激するものもなく、従ってかつて第13世紀においてその成功たり、光栄たるゆえんなりし包容力を失い、衰微に陥ったのである。

p. 229

以上は理智的方面における当時の趨勢であるが、道徳的規律方面においても、トリエント公会議は上下の大覚醒の出発点となり、イタリーにおいては特に聖カルロ・ボロメオ(S. Carlo Borromeo, 1538-1584)の活動となった。その詳細はとうてい述べ尽くすことはできぬが、その影響はひいて当時の文学美術の方面にも及んで厳格主義の面影を残した。文芸復興期の異教的芸術と第17世紀末における絢爛たる美術との中間、ラファエル(Raphael, 1483-1520)とベルニニ(Bernini, 1598-1680)との中間に厳格悲痛、強力赤裸の反動改革期の芸術を挟むことができる。

教会において規則を作ることと喜び勇んでこの規則に服従する精神を養成することとはまた自ら別である。教会を滅亡に導くべき(もし教会にして永遠不死のものならざりせば)堕落と反逆との本能に反対するには、犠牲と規律の精神が必要である。この教会刷新の機にあたり、スアレス、モリナ、バニエス、カノ、マルドナート等の大神学者が輩出したスペイン国は、また霊界の改革者を生んだのである。カスチラのイサベラ女王ならびにアラゴンのフェルヂナンド5世王の下に国家を統一して、長い世紀間の回教徒制圧の軛を振り払ったスペイン国がこの光栄を獲得したのはけだし偶然でない。ドイツでは当時キリスト教徒は数派に分裂し、アウグスブルグ(Augsburg)の

p. 230

宗教和議(後にウェストファリー(Westphalie)条約でさらに認可され範囲を広められた)によって勝利を得たプロテスタント教徒はドイツ帝国の法律にかの有名な cujus regio, ejus religio(王の領土内にては王の宗教に従うべし)という原則を認めさせて、個人の良心の権威を蹂躙して、変転窮まりなき君主の信仰を臣民に強い、イギリスでは流血淋漓の迫害裡にヘンリー8世と女王エリザベスとが島国的教会を建てていた。この時スペインでは数世紀にわたる対回教徒十字軍の下に男性的なカトリック信仰が保持されていたのである。スペインの栄冠は神と教会とに忠実なりし酬として与えられた聖人と使徒との輩出である。遠くインドを経て日本にキリスト教の光明をもたらした聖フランシスコ・ハーヴィエ(S. Francisco Javier, 1506-1552)もスペイン人である。コロンブスが発見した新大陸に出発した最初の布教使を送り出したのもスペイン、ポルトガルの海港である。さらにまた欧州旧大陸のためにカトリック精神の驚嘆すべき模範、聖イニゴ・デ・ロヨラおよび聖女テレザを生んだのもまたスペイン国である。

聖イニゴ・デ・ロヨラ

昔からイエズス会の建設者たる聖イニゴ(イグナシウス)デ・ロヨラ(S. Ignigo de Loyola,

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1491-1556)とルーテルとはしばしば比較して評論された。ルーテルは革命家であり、宗教的個人主義者にして自由解釈論者なるに対して、イニゴは権威と規律の選手であり、『われらの聖なる母なる教会』の忠実なる子であった。彼はその『心霊修行』(Ejercicios Espirituales)の中に指導者として、彼の弟子らに『戦闘の教会の真実の思想に随従せんがために』一定の規則を与え、また彼が建設したイエズス会の修道士に教皇に対する特殊の従順の誓願を立てしめた。ルーテル教のアナルキスムの正反対なるイエズス会は厳重な規律と自由な適応性とを持っていた。この会は対プロテスタント教の抗争の最も激烈にして、しかも信仰の回復を希望することのできる地方に特に発展した。また同時にカトリック教国内においては、ガリカン教会主義者やその他国家主義の色彩を有する国教論者にして、カトリック教の一致を傷けざる範囲において、しかもローマに対してコンスタンス、バーゼル宗教会議におけるがごとく一種の敬遠的態度をとる人々に対して敢然として挑戦した。かくのごとくイエズス会はあくまでも教皇権の擁護に努めたために、すべて教皇を憎悪する者、またはこれを無視する者の反感を惹いたのである。

この通りイエズス会は教会に対して真率なる服従を献げたが、同時にまた自由な独創的態度

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を持っていた。イニゴは極めて寛容な心の持ち主であったから、過去のキリスト教が残して行った宗教の宝を何一つ軽蔑せず、何一つ除外せず、しかも将来に新しく獲得すべきものがあるを察して、これを受け容れる準備をした。すなわち神学では在来のスコラ学派の思索を尊敬すると共に実証的神学(positive theology 聖書および教父の研究を主体とする神学の部門にして思索的神学speculative theology に対す)の研究を奨励した。また同様の精神は、心霊生活の方面にも現れて、彼においては伝統的の信心は新しい内的生活と矛盾しなかった。当時も、また今日でもプロテスタント教徒が特にカトリック臭いと言って軽蔑する秘蹟、聖遺物、断食、苦業、聖母および諸聖人の尊敬、巡礼、『十字架の道』などが皆大切に保存され、何一つ棄てられもせず賤しめられもせず、推奨されている。しかしこの伝統的信心への愛着は精神の自由を妨げないのである。

われらはまた再びイニゴとルーテルとの比較に還えれば、彼らは共に同じ時代精神の子で、行き方こそ正反対であったが、共に大なる宗教運動の主唱者で、共に多数の同時代の人々と同じく、前世紀のある種の傾向に反動的に力強く働かねばならぬという、同一信念を有していた。すなわち聖寵は決して一定の信心行為、語を替えて言えば、善業の物質的部分に結びついているものでは

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ないという信念である。(聖イニゴが秘蹟に関するカトリックの教義はそのままに受け容れたのは勿論である。)

もとより中世紀といえども、神が善業を嘉し給うは業それ自身のためでなく、善業をなす人の愛の強さのためであることを知らなかった訳ではない。しかしながら、時として善業の物質的方面に過度の執着がなかったとは言えぬ。中世紀の人々は方法を重大視するのあまりやがて目的を忘れて、時として実際生活において、聖パウロのいわゆる、神を信ずる者の自由と背馳するに至ったことも事実である。この傾向は教会の廓清を図ろうとする人々にさえも現れて、異端とまでになった。イエズスの山上の説教と、弟子らを布教に派遣するに際し彼らに与えた種々の注意をば、極端に文字通りに解釈して、これが真実のキリスト教であると信じた一派の純福音主義が中世紀に存在して、それが遂に教会より分離して異端に走ったことは中世紀篇で説明した通りである。かかる極端の主張は教会より禁止された。しかし実を言えば、この同じ傾向、すなわち福音の文字通りの解釈の傾向は、中世の最も偉大な神秘家のある人々にも存在していた。例えば聖ベルナルドゥスのような人においてさえも、時として福音的勧告の道、すなわち具体的に言えば修道生活を、救済の道と混同する

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風が見え(書簡 111)、またフランシスコ会の中においても、例えば聖ボナヴェンツラの『使徒の革履』の短編を読んでみれば、やはりこの思想があったことがわかる。清貧の徳をいかに解釈すべきかという問題について、フランシスコ会中にしばしば疑義が生じて、会の数次の分裂を見たのも、これまた同じ傾向の禍である。要するに文字に即して精神を忘れ、善業の物質的方面に執着して、その霊的方面を忘れるという傾向は、中世紀にかなり深く宗教界に浸み込んでいて、早かれ遅かれ、その反動の生ずるのは免れ難い勢いであったのである。

この反動は第16世紀に至って生じた。もとより人々が最も切に要求していたのは、教会の主権者が尊敬に相応しくなること、および贖宥の売買や聖職者の風紀頽廃などの弊害の廓清であった。しかし多くのキリスト教徒はまた囚われざる敬虔を渇望していた。寛やかな精神は、必ずしも福音的生活と矛盾するものではないという感が、当時の人心にはあったのである。

この時解放の声は二つの方角から起こって来た。それはルーテルの『善業に関する説教』およびイニゴの『心霊修業』である。聖寵は本質的に一定の善業に結びついているものではない。福音生活は必ずしも一定の信心の行業にあるのではない。これが二の声の等しく教えたところである。ル

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ーテルとイニゴはこの点において一致していた。しかしそれから先は相異なっていた。

両者共、道程に特有の超自然的価値のないことを説いた。ゆえに道程(いわゆる善業)を顧みるな、とルーテルは教えた。ゆえに最善にして目的を達するために最も有効の道程を選め、すなわち各種の道程の自然的価値を検査して、しかる後に始めて採るべきものを決定せよ、とイニゴは教えた。ルーテルは、その考えの徹底を期するために、聖寵は『自然』(nature)と何らの関係がないと言った。殊にカルヴィンはこの点を力説した。後にジャンセニウス派の徒は堕落した人性(human nature)にいささかでも価値を認めようとした人々をペラジウス派異端の徒(第2篇聖アウグスチヌスの条下に出づ)と称した。イニゴの考えはそうではなく、自然(人性)の賜物(gifts of nature)は神より出づるがゆえに、聖寵は吾人の裡なるこの人性の堕落せざりし分子を浸潤し、活かし、超自然化することができると教えた。前者は自然(人性)の絶対的の軽蔑を説いて、自然的道程の利用を悪となし、後者は自然にある価値を認めて自然(人性)の利用と、自然的方法の活用とを勧める。ルーテル教とカルヴィン教とは人性を骨髄まで腐敗せるものと見なし、神は人間を名目だけの外面的義をもって覆い給えども、霊魂を棄てて顧み給わず、自然(人性)と聖寵との間に

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は一致の余地がない、と言う。この悲観説の論理的結果として--まったく期待していなかった、しかも当然な結果として--近代社会に澎湃として充満する生命の流れは、既述の自然主義思想と合して、人間の自然性の独立、自足を唱えるようになった。イニゴはこれに反して、一般のカトリック神学者と共に、殊に神学的議論よりは実行と指導とをもって、人間社会が聖寵によりて高められ、自然(nature)が超自然(supernatural)をもって活かされることを示した。

聖イニゴが創建した修道会イエズス会の特徴は、(例えば日課祈祷の唱和の廃止、特定の修道服の廃止、一般の会員の義務的規則としての苦業の廃止、種々雑多の聖役、種々雑多の学問の研究等)上段描出して来た彼の精神の明らかな解説である。『彼が会員に望むところは、彼らがその従事するいかなる業務の中にも神を発見せんと努め、....愛徳または従順の名によりて行うあらゆる事業に、祈祷と黙想の時間におけるごとく敬虔の念を有し、....学問の研究は詩学、修辞学、論理学、自然哲学、倫理哲学、形而上哲学、数学、その他何によらず会員の才能に応じてこれを修めることである』と彼の秘書役が書き残した。また彼がイエズス会に一定の規則を与えることを躊躇したのも、その寛大な精神の発現で、彼の理想としては長上者が諸修道士の活ける規則で、特に

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各人に聖霊が内面的に示し給う指導に従うことが最も大切である。またその後、遂に彼が書いた規則の二の根本原理はまず第一にいかなる人も神の最大の光栄のために神の御手に自らを委ねて神と一致すること、第二に、一度以上の内的基礎が確立したならば次に最上の手段を選みて、最も完全なる善業をすることである。

僅少な紙数の中に、聖イニゴの面影を悉く尽くすことはとうていできないから、書き洩らすことも多いのであるが、彼が心霊生活、すなわち信心に及ぼした影響は是非とも一言せねばならぬ。かつてニューマン(Newman, Historical sketches)は古来の聖人中、三人の偉大なる『族長』または『養父』が教会に主要な影響を与えたと説いた。第一は聖ベネヂクトゥスで詩趣であり、第二は聖ドミニクスで学問であり、第三は聖イニゴで賢徳、すなわち人心の精確にして有益なる知識である、と言う。他の『族長』については今ここに論ぜずまた聖フランシスクスを逸したのはむしろ怪訝に堪えないが、聖イニゴの心霊生活の特徴を賢徳と喝破したのは実に当を得ている。実行に際しての規律の精神と賢徳とは疑いもなく、近世カトリック精神に寄与したる彼の功績であるから、とは言え、近世のカトリック精神を造り上げたのは彼一人の仕事ではない。最近のカトリック運動を単にジ

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ェズイット主義と見るは、しばしばカトリック教反対者に存する偏見で新しいカトリックの心霊生活および教会政治のすべてをイニゴの影響と見るのは大なる誤謬である。トリエント公会議の全体が教会の規律を匡し、服従精神を旺にすることを目的としていたのである。さらに心霊生活の方面から言えば、聖イニゴの自由精神は聖フランソア・ド・サル(S. Francois de Sales, Franciscus Salesius)を経て、極めて甘美な姿をもって一般の人々に働いたのである。

聖女テレザ

賢徳はこの時代に教会が産んだ聖人等の通有的の特徴で、あたかもローマの弊害に対してファリザイ人的の厳格主義を標榜して決起したプロテスタント宗教改革家に応えんとするところがあったようである。中世紀風の劇しい精神もまたそこここに現れた。聖女テレザ(S. Teresa de Jesous 1515-1582)には賢徳と単純との美しい一致がある。賢徳と犠牲的精神と、極めて崇高な神の観想とは彼女において完全に融合して、おそらくは教会の聖女の中で同時に最も人間的で、また最も神的(divine)な人を作ったのである。

[註] ここがキリスト教的神秘生活(mysticism)について説明するに最も適当な場所であろう。普通に神秘生活

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と言えば、極めて漠然たる内容を有して、宗教的情操の生活というほどの意味になることもある。しかし厳格な意味で神秘生活と言い、神秘家と言えば、まったく異なった一定のことを指すのである。すなわちこの語は古来多数の観想家(contemplative souls)により経験され、記載され、ことに聖女テレザおよび十字架の聖ファンによって明瞭な区別をもって描写された特殊の霊的現象の総和をさすもので、神秘状態の本質は、普通の理性によって得らるる神の知識とは、程度においても、性質においても、まったく異なるほとんど実験的(quasi-experimental)の神の認識(理智的霊覚 intellectual vision )であって、霊魂はこの認識においてまったく受動的の状態にあり、そしてこの時普通の祈祷時におけるものとまったく異なる愛による神との一致を経験するものである。神秘的祈祷(mystical prayer)あるいは天賦的観想(infused contemplation)と称せらるる状態に次の四段を分けることができる。いわく『静祈祷』(prayer of quiet)いわく『単純の愛の結合』(simple union of love)いわく『恍惚的結合』(ecstatic union)いわく『霊的結婚』(spiritual marriage)がこれである。(もとよりもって詳細な分類をすることもできる)。物体的あるいは想像的霊覚(bodily or imaginative vision)および特殊の事柄の啓示(revelation 預言、千里眼、人心の秘密の認知等)のごときは神秘生活における第二義的の事柄で、神秘家の身体的変化(無感覚、地を離れて宙に浮かぶこと levitation )の類はさらにより偶有的の現象である。神秘状態の本質は前に述べた通り神のほとんど実験的認識と愛の結合とに存するのである。A. Ponlain: Des Graces d'Oraison, Paris 1922 (英訳 The Graces of Interior Prayers, London 1912)に神秘生活に関する詳細な文献がある。

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さて、再び聖女テレザに還る。彼女は最も偉大なる神秘家であって、『悲の恍惚』、『喜の恍惚』を歌い『死なざるを嘆くのあまりわれは死なんとす』と言ったくらい、神との一致の劇しい愛の焔に燃えていた人であるが、他の一面には単純な心と共に、不撓不屈の勇気を有し、また賢明な常識を具えて、無数の困難を凌ぎ、『刷新カルメル会』の修道院を各地に建てるために、スペイン国中を経巡った。病身と迫害の嵐との中にあって、彼女は常に微笑と快活とを保ち、快い滑稽気分をさえ持っていた。堅固なカトリック的信仰の他、彼女はまた聖イニゴのごとく人間の自然的の才能の価値を解し、これを讃美した。優れた才能を有する一個の修道士、ドミニコ会のトレドのガルシアについて、彼女は『主よ、彼は優れてわれらの友たるに良き者なり』と神に言った。彼女を識りし伝記者リベーラの証言によれば、『彼女は明晰なる頭脳の人を特に愛した』という。彼女のこの愛好はその著書および書簡のどこにも現れている。神学と神学者とに対する彼女の尊敬もまたそれから出ている。彼女は偉大な神秘家であって、神より直接に与えられる彼女の知識が、概念と論理とによって組み立てられる人間理性による神の認識よりも遙かに優れるを知っていたが、また同時に、本質的にはスコラ神学よりも貴い神の賜も、神学に代わるべきものとして

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与えられたものでないということをよく解していたのである。彼女自身も神の智慧を解説し、他人に頒け与える能力を与えられていた。実に彼女が神秘神学における最上の権威なることは、倫理神学における聖アルフォンズス・デ・リゴリオ(S. Alfonsus de Ligorio)定理神学における聖トマス・アキナスに比して遜色がないのである。そのゆえに彼女の肖像にはしばしば博士の帽子が足下に置いてある。彼女は神秘生活の聖寵をよく識弁せるがごとく、修徳生活に関しても、極めて正確な指導を与えている。

彼女は極めてカトリック的であった。カトリック教会の教うるところは悉く彼女の愛するところである。彼女はほとんど絶えず三位一体の神の理智的霊覚(intellectual vision)を有していたが、悪魔を追うために聖水を喜んで使っていた。彼女の大なる自由精神は刷新カルメル会の厳重な規則の裡にあっても少しも災いさるるところがない。カトリック教会の教える最も些細な真理はその生命よりも貴い。もし彼女の受ける超自然的知識にして、聖書に記された最も微細の点と矛盾するならば、彼女は喜んですべての霊的認識を棄てたであろう。『異端は私を悲しませる。それを思うたびごとに、私はそれがわれらの嘆かねばならぬ唯一の不幸と思えるのである』と言った彼女は、臨終の床上にあっ

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て満足の色を浮かべて、教会の娘として死ぬ幸福を喜んだ。実に彼女は徹頭徹尾カトリック精神に浸潤していた人で、この精神を知りたい人は彼女の伝記を読むがよい。

あるいはそれよりも、もっと善いことはテレザの亜流は未だ死に絶えないから、カルメル会修道院の応接室の格子戸を隔てて、一度修道女と会話してみるがよい。『キリスト教の本質』を説く学者めいた本を読むより遙かに深くそれを悟ることができるであろう。(訳者いわく日本には残念なことにはカルメル会修道院がない。かかる純観想的修道会の渡来を祈ってやまぬ。本文はわが国においては、トラピスト修道院を尋ねてごらんなさい、とでも読むべきであろう)。[=日本にもカルメル会修道会がすでに渡来して活動しています。三上記]

第16世紀の聖人の中にあって、聖イニゴと聖女テレザとはその最も独創的なるものであった。しかしこの時代にはほとんど各国にわたって教会の覚醒、超自然的生命の刷新が行われて、数多の聖人が現れている。この時代頃より歴史的文献も豊富になるから、聖徳とは何ぞやということを研究するのも容易になる。教会と聖職者との改革者には教皇ピウス5世(S. Pius V, 1566-1572)カルロ・ボロメオ(S Carlo Borromeo, 1538-1584)修道会の創建者および改革者にはペドロ・

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デ・アルカンタラ(S. Pedro de Alcantara, 1499-1562)ヒエロニムス・エミリアニ(S. Hieronymus Aemiliani, 1481-1537)その他20名あり、神秘神学者には聖ファン・デ・ラ・クルス(十字架のヨハネス S. Juan de la Crouz, 1542-1591)あり、異郷の使徒にはフランシスコ・ハーヴィェ(S. Francisco Javier, 1506-1552)を筆頭に夥しき宣教師および数百名の殉教者あり、プロテスタント教国における説教者ペトルス・カニシウス(S. Petrus Canisius, 1521-1597)エドモンド・カムピオン(B. Edmund Campion, 1540-1581)フィデリス・フォン・シグマリンゲン(S. Fidelis von Sigmaringen, 1577-1622)あり、慈善事業の聖徒には聖ファン・デ・ディオス(神のヨハネス S. Juan de Dios, 1495-1550)カミルス・デ・レリス(S. Camillus de Lellis, 1550-1614)あり、教育事業に従事せし者にはアンジェラ・メリチ(S. Angela Merici, 1474-540)ピエール・フリエ(S. Pierre Fourier, 1565-1640)があり、その他とうてい列挙するに堪えないのである。

3 第17世紀、フランスにおけるカトリック教会

第17世紀フランスにおける教会の偉観

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フランスにおける教会の覚醒は他国に比すればやや遅れて、宗教戦争が終結してから後に行われたが、しかし一度覚醒期に入れば自ずから他国のそれとは異なる特色を示した。一般にこの時期の聖人の通有性は賢徳すなわち超自然的常識なることは前章に述べておいたが、フランスにおいてもさらに著しくその傾向を示して、その例として聖女シャンタル(S. Chantal, 1572-1641)、パリの『御托身』のマリア(Marie de l'Incarnation, Mme Acarie, 1566-1618)ケベック(カナダ)の『御托身』のマリア(Marie de l'Incarnation, Marie Guyard, 1599-1672)聖ピエール・フリエ(s. Pierre Fourier, 1565-1640)等を挙げることができる。その中でも最も有名な聖ヴァンサン・ド・ポール(S. Vincent de Paul, 1580-1660)についても『彼は優れた常識を具えていた』と伝記者は書き残している。しかし彼らのような偉大なキリスト教徒にとっては、常識も高邁の識見と、大勇猛心とに矛盾するものではない。彼らの特徴とするところは神の奉仕のための企業精神、新奇にして雄大なる『事業』の創始である。彼らの計画は大胆であったが実行は最も簡単な方法によった。ヴァンサンの伝記者はこの『貧人』が幾ばくの施し物を頒つことができたかを伝えている。彼の生時中、彼が送った宣教師がバルバリー地方(現今の北アフリカ一帯を指す)のために費やした金額は百二

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十万リーブルに近かったと言う。また、ロレーヌ州の貧民およびアルトア州において攻略し獲得したる町々のために贈った施与は前後を通じて百六十万リーブルに上ったと言う。(アベリー『伝記』、パリ、1684年出版)企業精神の点においては、フランスのカトリック生活の他の時期も敢えてヴァンサンの時代に劣らないであろう(例えば第19世紀)。しかし彼の時代に特に驚異すべきはこの旺なる外面的活動と共に、また力強い心霊生活があったことである。おのが精神生活を空虚にしておいて、内面的に祈祷と修徳とをもって神の子キリストとの一致を計らず、いたずらに外面事にあくせくするは当時においては中途半端のキリスト教徒としか考えられなかった。

第17世紀の前半フランスにはポール・ロアイアル修道院(Port-Royal)(後出)しかキリスト教的生命がなかったと考えるのはセント・ブーブ(Sainte Beuve, 1804-1869)一派の無神論的歴史家の偏見である。その実、『天使のごとく清浄なれども、悪魔のごとく傲慢なり』と評されたポール・ロアイアルの一団を除いても、もっと謙遜な、もっとキリスト教的生命に溢れた求道の中心は、他に多くあった。ヴァンサンはその修道士(ラザリスト Lazaristes)に向かって『家にありてはシャルトルゥ Chartreux のごとく、田舎に出ては使徒のごとく働け』と訓戒していた。けだしシャルトルゥは

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最も観想的の修道会で、ラザリストはヴァンサンがフランスの田舎の宗教的更新のために創立した説教団体である。今日極東布教の大原動力たる外国宣教会(Societe des Missions Etrangeres)の最初の会員はパリのイエズス会の許にあった『聖母会』に属する劇しい愛徳と熱烈な信仰との人々の中から求められた。また、今日、フランス、アメリカ合衆国、およびカナダにおいて多数の神学校を経営する聖スルピス会(La Congregation de Saint-Sulpice)は最初はむしろ心霊生活の学校であったので、その創立者オリエ氏(Mr. Olier, 1608-1657)の目的は学者を作ることでなく、聖職者たるに相応しいキリスト教的の徳を修めて、観想と念祷とによって立派な内的生活の基礎を有する善良なる司祭を養成することにあった。彼がこの充実せる内的生活によっってフランス聖職者、上はソルボンヌの神学教授より下は田舎の村司祭に至るまでを刷新せんと企てたその計画に見事に成功し、オリエ氏の弟子によってフランスの聖職者に真率なる敬虔と厳格なる気風とが与えられた。イエズス会のスュレン聖父(Pere Surin, 1600-1665)が当時有名の事件であったルゥドゥンのウルスュリン会修道女の悪魔に憑かれたるを追うために遣わされた時に執った行動もまた同じ精神から出ている。聖父は悪魔の憑依の事実を堅く認め、また教会の定めた抜魔祈祷の能力を深

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く信じていた。しかし悪魔を追うために彼が用いた主要なる方法は呪文ではなくして、苦業と修徳との方法によって修道女らの内的生活を改善することであった。彼は悪魔を確かに普通よりは劇しいが、しかし自然の誘惑の一と考え、この方法を執ったのである。そして他の抜魔家の失敗したこの事件に成功を収めたのであった。

以上の人々の他に、真に偉大なキリスト教徒が指を屈するに暇がないほどに、この時この国に輩出した。マデモアゼル・ル・グラ(MlleLe Gras, 1591-1662)は貧しき病者を看護する『博愛の姉妹会』を創立し、霊父(ペール)ユード(le Pere Eudes, 1601-1680)はフランスにおける宗教心の振興と、優秀な司祭の養成とを目的としてユーヂスト会(Eudists, Congregation de Jesus et Marie)を創立し、カルヂナル・ベリュル(Cardinal Berulle, 1575-1629)は『オラトアール』(Oratoire, Oratory)創立者である。等々。

本項の始めにケベックの御托身のマリア(Marie de l'Incarnation, Marie Guyard, veuve Martin, 1599-1672)の名を書いた。聖女テレザも一面に活動的生涯を送ったけれども、このマリアの生涯はもっと外面的に喧噪を極めて、しかも彼女の霊魂の内部には非常に深い神秘生活が湛えら

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れていた。カナダの聖テレザと称ばれているその面影は、次に引用する伝記者の言葉で窺われる。『彼女の風采にはどことなく偉大にして崇高なあるものがあったために、道ゆく人も歩を停めて振り返って見るほどであった。その容貌は端正であったが、どちらかと言えば男性的の美で、剛毅の精神が溢れていた。彼女は丈夫な、しっかりとした身体と快活な心との持ち主であった。彼女は絶えず神を見ていて、そのために何となく神聖にして犯すべからざるところがありながら、しかし彼女の前に出ることが他人にとっては苦痛でもなく、また遠慮がちにもならなかった。....彼女は当時の精神的な婦人であったが、巧妙なる応接ぶりと、気高い質朴と、鋭い明智と、堅実な判断力とを具えていた。』これが第17世紀前半の敬虔なるフランスの絶好の代表者である。そこには自然と超自然(nature and supernatural)とが完全に融和して、真のカトリックの典型を後世に示している。

聖フランソア・ド・サルはこの時代の敬虔の精神を教えて下のように言った。『否、フィロテアよ、真正の信心は何物をも害わず、万事を完全にする、兵隊の群から、職人の仕事場から、王侯の宮廷から、結婚した夫婦の日常生活から信心の生活を放逐しようと言うのは誤謬であり、

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むしろ異端である』と。(信心生活の入門、第1篇、第3章)

聖フランソア・ド・サル

かくのごとくフランスの第17世紀における偉大なるキリスト教徒は数多いけれども、その中でも聖フランソア・ド・サル(S. Francois de Sales, Franciscus Salesius, 1567-1622)を最大の心霊生活の指導者なりと認めるになんぴとも異論はないであろう。生前彼の影響はすでに大きかったが、死後さらにその創立に係わる修道会と、著書とによってますます広く拡がるばかりであった。『信心生活の入門』(Introduction a la vie devote)は彼の著書中最も有名であるが、この本の主要の目的は上に引用したその一節で窺うことができる。彼の『神愛論』(Traite de l'Amour de Dieu)は神学的に言えば『入門』よりも深い内容を持っているけれども、時代の宗教的精神の動き方を研究する者にとっては『入門』の方が遙かに重要である。かつて聖イニゴはイエズス会を建てて、修道生活が必ずしも伝統的形式を要しないことを示した。聖フランソアが建てた訪問会(Visitation)は従来の童貞会が劇しい苦業を会則とするために、入会を許可される者も極めて強壮な健康を有する者にのみ限られていたのに反して、ここには比較的虚弱な志願者の入会を許して、身体的苦

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業は修道の一手段に過ぎず、これを省くこともできるゆえんを明らかにした。また彼はその『入門』において、キリスト教的完徳は必ずしも組織立った修道院生活の中にのみ期待すべきではなく、世俗の生活の中にてもこれを実現し得ることを教えた。

『入門』は当時の世間の婦人の心霊の鏡となって広く愛読された。この書は甘美なる敬虔の香りと、繊細なる心理解剖とを有して吾人の驚異に値する。『信心は精神(こころ)の砂糖である。また愛徳を乳汁とすれば、信心は乳酪である。』われらの心は、桜実や、桃や、苺のように『極めて腐り易く、愚かであるが、神の御子の御血肉の砂糖と蜜との中に漬けてあれば、罪の腐敗を防ぐことができる。』このように容易(やさ)しく記述された本が、エピクテータスやセネカや古代の教父よりの引照だらけの学者めいた第16世紀の信心の書よりも、一般に社会の隅々まで行き渡った、という理由は自ずから明らかであろう。しかもこのような美しい形容と比喩とに充てる文で綴られているにもかかわらず、聖フランソアがその中でフィロテアに教えるのは雄々しいキリスト教的脱離の精神であった。

聖ヴァンサン・ド・ポールが一日聖フランソアと会談した後に『ジュネヴの司教でさえあのように優しいなら、神様はどんなに慈悲深い方であろう』と傍の人に洩らしたという挿話がある。

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フランソアは慈悲と柔和との聖人であった。しかしオリエ氏がすべての聖人中最も克己的の人と評した通り、彼の敬虔の根本は強烈なる意志であって、しかも年と共にますますそれが劇しくなって行った。彼の終始変わらざる根本原理は、必要なるはただ一つ、すなわち神におのれの意志を献ぐるにあり、感情の満足と不満とは問うところではない、というにあった。最初のうちは『汝の天性が信心生活に興味を感じても、反感を感じても、別に心配するな』と教えたが、後には『興味を覚えるとか、反感を覚えるとかいうことを知ろうとさえするな』と言うに至った。

彼が晩年に及んで訪問会の童貞を指導する際に与えた原理は、この第二のものであった。『われらの理性的意志の命令によって行う、乾燥、赤裸、無感情の行為に満足するのが究極の完徳である』と。聖女シャンタルは後年その指導者を追想して『われらの福なる父の残された晩年の文章は、自己をまったく脱離することと、神によりすがることと、惜しむところなく神に奉仕する大なる心(ジェネロジティ)を目的(めあて)にしていた』と言った。聖女シャンタルもまた実にこの精神に活きた人で、彼女は優しいよりも、むしろ剛い人であった。彼女の娘なる童貞女のことを書いて『私は決して柔らかく彼女らを育てない。私は柔弱な精神と、過度の優しさを嫌忌する。神の精神は喜ばしく力強いが、決して優しくも、懶惰

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でもない』『私どもは精神的の女兵士(アマゾン)となりたい』等と言っている。

この世紀の前半を飾った旺盛な雄々しいキリスト教精神がやがて衰退したのは、真にフランソア・ド・サルの精神を汲む人々の責任でなくして、静観派(quietists)と称ばれる一派の責任である。彼らはフランソアの信心の教えの中から勝手に選択をして、聖人の名に隠れておのれの危険なる謬説を拡めたのである。

尚古主義

以上述べ来った種々の傾向に一の共通な特徴がある。それは一方活ける教階的教会、すなわち伝統にしっかりと愛着しつつ、他方に前途に向かって活動する進歩主義である。聖ジャン・バプチスト・ド・ラ・サル(S. Jean-Baptiste de la Salle, 1651-1719)の始めた『キリスト教学校の兄弟会』(Freres des Ecoles Chretiennes)のごときも、この進歩的精神によって実現した新修道会の一である。しかしいつとなく反対の傾向もキリスト教界に顕れて来た。

プロテスタント教徒は教会の伝統を棄てると共に、すべてこれに代わるさらに古代の伝統の継承者であると自称して、過去を顧み、過去を研究して真のキリスト教精神を汲み出し、これによって過古の

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形式を再現させることを唱道した。それゆえ、カトリック側にても初代キリスト教をなおいっそう研究し、古代教父の書籍を読み直す必要が生じた。その中にある人々はこの初代のキリスト教が、カトリック、プロテスタントの乖離を最小にする妥協地点ではあるまいかと考えるようになった。また、彼らが真率、質朴、厳格、および合理的なるものを愛好して、中世紀的敬虔の無益なる繁瑣と、児戯的分子とに嫌悪を覚えたのにも無理はなかった。これらやおよびその他種々の理由で、いつとなくカトリック教会の内部に一の複雑な傾向が生まれて、多寡の差こそあれ、種々の方面および種々の人物に深い影響を及ぼすに至ったものである。この傾向を言い現す適当な名称がないので、今しばらくこれを尚古主義(archaism)と呼ぶことにする。

この主義を奉ずる人々は、中世および近世においてカトリック教の生んだ進歩を好まず、初代の宗教に還らんとするところより、教義においても、儀式慣例においても、より霊的、より単純にして、かつ教皇に対して司教の権能を多分に認めるキリスト教を採用せんとして、古代教父、特に聖アウグスチヌス(彼らの偏見に基づいて解釈した)の権威を引用した。これは明らかにいわゆる宗教改革家の主張に対する無意識的の譲歩である。

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以上の態度はキリスト教の刷新を活ける進歩に求めずして、かえって過古への退歩に求むるものであった。

その中でも『偽善的カルヴィン派』と称ばるるに至ったジャンセニウス派の人々(Jeansenists)は極端の尚古主義を唱えた。彼らはあまり過激に走った。中には昔風の公衆の前での罪の償業を復活せしむべしと説く人さえあった。ピストイア(Pistoia)の私的宗教会議(Conciliabule, 1786年)は、ジャンセニウス派が教会の刷新を要望した会議であるが、この時には絶えず初代キリスト教の規律が模範として引用された。一の教会には一の祭壇しかなく、公の祈祷に地方語を用い、ミサの謝金を廃し、宣誓を絶対に禁止する必要はどこにあろう。また、修道者が直接司牧の務めにたずさわることを禁じ、修道会は唯一のベネヂクト会のみとなし、そこでは修道士の中で修道院付き司祭として必要な人数のみを司祭に叙品し、一市につき修道院は一箇所に限り、それも人家を離れた淋しい土地に建てる等々、の必要はどこにあろう。これらは皆古代の単なる模倣である。ジャンセニウス派は近世の活ける教会に要するところを知らないのである。唯一の正しきは古代精神にして、彼らのみこの真理を把持せりと思いなしたこの派の人々はおのがポール・ロアイアル修

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道院(Port-Royal)をあたかも世界の洪水の日のノアの箱船のように考えていた。この他、教会の忠実なる下僕の中にも穏和な尚古説を唱えた人々がある。実際、教会内に真の弊害が存する時は、伝統の正しき源泉に遡ってこれを匡正しなければならないのであるから、その意味でこれらの人の所説は有益なる反動であった。しかし時代の大勢および本能は進歩主義にあって、彼らは要するに一部の人士の反動に過ぎなかった。しかし進歩の精神を代表するイエズス会主義(Jesuitism)またはウルトラ・モンタニスムの(ultra-montanism 山の彼方=イタリー、教皇権至上主義、すなわち中央集権主義)--かかる名称は狭きに過ぎ、従って不正確なるは申すまでもない--教会制度、教義、および敬虔の三方面における完全なる勝利は第19世紀に至ってからであった。

ガリカン教会主義(ガリカニスム)

教会制度に関する進歩主義と尚古主義との争いは久しいもので、すでに第15世紀に諸地方で行われた宗教会議の重要問題はこれであった。その後にも一方には教皇の主権をますます堅固にしようとする考え(教皇権至上主義、ウルトラ・モンタニスム)と他方に時世の推移に伴う進歩を否定しようとする者とがあって、各国王の上に権威を振るった神聖ローマ帝国の崩壊と同時に新たに

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各国の国家観念が強くなって来た結果、国王の手にできるだけの権力を収めてローマ教皇の干渉を防ごうとする者がこれに荷担し(政治的ガリカニスム)、また根本原理としてはローマ教皇の至上権を認めても、実際には各地方の司教、および地方的宗教会議に、できるだけの実権を収めようとする者も後者に加担した。(宗教的ガリカニスム)この運動をガリカン教会主義、ガリカニスム(gallicanism)と称するのは主としてガリア、すなわちフランス内に行われた論争であったからである。

1682年にフランスの聖職者は宗教会議を開いてモー市(Meaux)の司教ボスュエ(Bossuet)の筆になる四条の決議を宣言した。この有名なガリカニスムの四条項は要するに俗権は、直接的にはもとより、間接的にも霊権の支配下にあらずとなし、公会議の権威を教皇権以上に置き、また地方的教会の慣例は教皇といえどもこれを尊重すべしと言うにあった。教皇アレキサンドル7世はこの決議を誹謗した(1609年)。次の世紀になるとフェブロニウス(Febronius)の過激説が教皇ピウス6世に誹謗された(1786年)。彼の説は司教は教皇に対して、おのれの教区内に独立の支配権を有すと主張し、教皇がキリスト教世界のすべての教区に直接司教としての支配権あることを否定するに

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あった。同年ピストイア私的宗教会議は司教権を高唱し、また一教区内にありてはその区内に存する各教会の主任司祭およびその他の司祭が組織する教区的宗教会議は司教と共にその教区内における信仰および道徳に関する事項の判定者なりと決議したが、これも同じく誹謗された。しかしかかる教皇の誹謗も、俗政府の後援のために、なかなか直ちに反対論を圧倒してしまう訳には行かなかった。ドイツのヨゼフ2世皇帝(1765-1790)は教会管理および祭式に関してローマに対して陋劣な戦いを謀り、フランスではナポレオン(Napoleon, 1769-1821)およびシャルル10世王(1824-1830)に至るまで、1682年のガリカニスムの四条項を神学校で教えさせた。

しかし万般の傷害も、人心の帰趨の大勢と教皇追従の精神とに敵することができなかった。またその中に教皇側に都合の好い事情も生じて遂に教皇権至上主義の勝利となったのである。例えば教皇ピウス7世がナポレオンとの協定の後に、旧制度の下に任命された多数のフランスの司教を罷免したるがごとき、ガリカニスムにとっての摂理的打撃であった。また、第19世紀に入ってから諸修道会はますます盛大になり、ますます種類を増して、ピストイアでの理想であった、いわゆる古風の修道生活の概念を事実上打ち消した。さらにかの尚古主義者の夢見ていた理想と正反対に、

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教皇はキリスト教的生活の各方面に以前よりも、もっと直接な、もっと広汎な権威を及ぼすようになった。この変化は俗世間において封建制度が追々と中央集権的の政府に変化したのと似通った点がないでもない。

ジャンセニウス異端

ガリカニスムの論争と時を同じく行われたバイヤニスム(Baianism)およびこれに引き続いてジャンセニスム(Jeansenism)に対する教義上の劇しい議論は、これと同様の傾向を有し、同様の結果に到着した。

ルヴェン(Louvain)大学の神学教授バイユス(Baius, 1513-1589)、および同じくルヴェン大学神学教授で、後にイープル(Ypres)の司教となったジャンセニウス(Jeansenius, 1585-1638)は共にカルヴィンのごとく古代に帰れと唱道して、人間の運命の予定(predestination)と聖寵との関係の極めて機微(デリケート)な問題において、聖アウグスチヌスの説(少なくとも彼らの解したるがごとき)によらねばならぬと主張した。すでにカルヴィン一派のプロテスタント神学者も好んで、偉大なる教父聖アウグスチヌスの言葉を濫用したが、バイユス、ジャンセニウス、次いでオラトアール会のケスネ

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ル(Quesnel, 1634-1719)も、同じく聖アウグスチヌスの教えの中から、カルヴィンの説に酷似した憂鬱なるキリスト教を作り出して、これを真正の原始的キリスト教であると称するに至った。

ジャンセニウスの説中の新奇の点は次の数条であった。『神の律のあるものは、義人さえもこれを守ることはできぬ。彼らの意志と努力とにかかわらず、現在の能力はこれを成就するに足らず、またこれを可能ならしむる神の恩寵が欠けているからである。--堕落した人性の現状にありては、われらは内的の聖寵に抵抗することができぬ--堕落した人性の現状にありては、必然的の行為といえども、来世の賞罰の基づくところなるわれらの自由と矛盾するものでない。われらは無理に強いられた行為のためには責任がない。必然的の行為は強いられた行為ではない。除外例なく万民のためにキリストが死に給い、または血を流し給うたと説くは半ペラジウス異端(Semi-pelagianism)の説である』等であって、すべてこれらの命題は教皇イノセントゥス10世によって異端的なりと宣告された。(1653年)

ジャンセニウス異端の問題は殊にフランスにおいて非常な議論を惹起して、賛否の論を起草するにどれほどの墨汁が流されたか計り知れない。極めて巧妙な新方法を用いて、ジャンセニウス異端は

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破門にかかわらず、教会の中に止まろうとしたために混乱はますます深刻となった。教皇側もまた手を弛めなかった。イノセントゥス10世(1653年)の後、アレキサンドル7世(1656-1664年)アレキサンドル8世(1690年)クレメンス11世(1705-1713年)ピウス6世(1794年)の諸教皇が相次いでこの執拗な異端を誹謗した。この際、反動の勢いの趨くところ、聖寵の生命に関する聖アウグスチヌスの狭苦しい思想のあるものはこれと同時に退けられて、もっと広々とした、ギリシャ教父の説に近いスコラ神学派の聖寵説が奨励された。すなわち、堕落せる人性の治癒、および善業を行う際における原動力としての聖寵の作用よりも、好んで神の全然無代償的賜の効果なる人性の向上と神化という点が説かれるようになった。(ヨハネ第1書 3:2)

ジャンセニウス異端以前にすでに存した聖寵に関する重大な論争は、今日なお正統神学の裡において引き続き残っている。すなわちバニエスを主唱者とする聖トマス学派(Thomism, ドミニコ会)対モリナ学派(Molinism, イエズス会)の争いで、前者は万事万物の第一原因としての神の絶対的独立自由を高調して、ペラジウス異端の反対を唱え、後者は人間意志の自由を説明せんとして、カルヴィン異端の反対を説いている。

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当時一般に古代の教父、特にその最大なる者、ヒッポの司教聖アウグスチヌスに大なる権威を認めていたにかかわらず、教会がバイユスおよびケスネルの著書中に引用された聖アウグスチヌスの言を『誹謗』するを敢えてしたことは注目に値する事実である。もちろんそれは引用した人々が解釈した意味においてこれを誹謗したのであるが、それにしてもこの教会の行動は、聖アウグスチヌスに対してさえ何の拘束を感ぜざる極めて自由な振る舞いと言わねばならぬ。神学上の最大の権威者に対してこの態度を執るに至ったのは、畢竟教会の教権の自覚に他ならぬのである。ジャンセニウス派はそう考えていなかった。教皇アレキサンドル8世が誹謗した彼らの命題の中には次のものがある。いわく『一の教説にして、明らかに聖アウグスチヌスの説なるを発見したる時は、いかなる教皇の教書をも無視して、この教説に従うことを得』と。

ジャンセニウス異端に関する論争の結果、もう一つ他のことが明らかになった。それは教会内において教皇の判定は単に法規的命令に止まらず(『何々の命題は異端的なり』)、また事実の解釈上にも及ぶということである。(『何々の命題は著者何某の教説を正確に約言するものなり』)。これは教会の古来の態度で、格別新しいことでもなかったのであるが、教皇アレキサンドル7世およびクレメンス1

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1世が、『事実解釈』および『法規的命令』の区別を誹謗して後は、これを明白に認めねばならなくなったので、教皇の権威はさらに一段と重大になったのである。

[訳者註] ジャンセニウス異端は巧妙なる方法を用いて、破門にもかかわらず教会の中に止まろうとした、と本文にあったのは、彼らが教皇の判定に『法規的命令』と『事実的解釈』とを区別して、前者はこれを認むるも後者はこれを別事であると言ったのである。すなわち彼らは『何々の命題は異端的なり』との判定はこれを認めても、その命題はジャンセニウス派著者何某の所説ならず、従って何某は教皇の誹謗に触れず、と唱えた。ゆえに教皇はさらにジャンセニウス派のこの区別を誹謗して、教皇の判定は『法規的命令』の他、『事実的解釈』にも権威を有すと規定したのである。

尚古主義の敗北

ジャンセニウス異端の敗北を機として、一般の人心が、一の極めて重要なる点に関して、正統的尚古主義者の期待をまで裏切る方向に動いて行った。ペタヴィウス(Petavius, Petan, 1583-1652)ボスュエ(Bossuet, 1627-1704)トマセン(Thomassin, 1619-1695)等の正統的尚古主義者はあまりスコラ神学を好まず、むしろ外見上より自由な古代教父の神学を愛好した。しかし第4世紀には善かった教父神学が、第13世紀にスコラ派学者に棄てられた理由は、漸次にある一定の

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哲学範囲以外において神学者がその思索を試みることが困難となったからである。しかるにこの中世のより豊富、より精細となり、『キリスト教化』され、組織されたアリストテレス哲学が衰えてからは、デカルト(Descartes, 1596-1650)の哲学が持て囃されるようになった。この新哲学を最も歓迎したのが、かの極端な尚古主義者のジャンセニウス異端であるのは極めて皮肉な矛盾と言わねばならぬ。彼らはかくのごとくして後来の哲学主義(philosophism)の時代を準備したことになる。しかし教皇らは主理主義者(ラシオナリスト)の迫害に対してスコラ哲学を防衛し、これを存続せしめ、かくして第19世紀の後四分の一期におけるスコラ哲学の復活を準備した。

スコラ神学を防衛するは、外観的には中世に恋々たるがごときも、その実は進歩の原則を防衛するのである。尚古主義のある者は少なくとも固定的傾向を有していた。もとより古代教父らの著書を閲すれば、教父といえども、時としてその間に思想の相違あり、また比較的後代の教父は先進者よりも精密な言語を用いていることが明らかである。しかし尚古主義者にはこれ以上の進歩、すなわち教父時代以後においての教義の進歩は考えられなかったのである。ボスュエがその『正統ガリア』(Gallia Orthodoxa)と題する著書の中で、教皇の不可謬権問題について論じ、彼がかかる教義は決定せ

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られざるべしと信ずる理由を述べているその態度を見れば、この間の消息を知るに足るであろう。

[註] 『かかる不可謬権がもし存するとせば、キリストより受けしものなるべし。キリストもしこれを賜いせば、当初より明らかに啓示し給いしはずなり。疑惑の裡にあり、あるいは充分に啓示せられず、あるいは明らかに聖伝に伝えられざる時は、かかるものは無用の不可謬権たるべければなり』....ボスュエ。

彼のこの態度に達したのは一方において古代の好尚によるのであるが、他方にはプロテスタント教徒を帰正させようと欲したからである。かいしここでもその後の歴史の発展はボスュエの考えの誤謬を証した。進歩の原則は第19世紀においてカトリック思想が最も歓んで高調したもので、かつそれより最も豊富な成果を収め得たものである。そして、これは実にプロテスタントとの論争に必要であったからで、また古代教父をいっそう理解した結果なのである。かくて遂に1870年のヴァチカン公会議は教皇の不可謬権を定義するに至ったが、これそのカトリック主義をより鮮明ならしむるゆえんであり、また真理と異端との間の差異を曖昧ならしめて置くよりは、教会の子にさらに教皇不可謬権という一の超自然的真理を頒与するを欲したからである。

本項の劈頭に連ねたペタヴィウス以下の大学者はその古代偏愛の好尚のゆえに当然尚古主義者

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として数えねばならないが、同時に公平の立場から見て、彼らの為し遂げた事業はカトリック教会の力であり、光栄たることを否むことができないのである。ボスュエは教義の『変化』を恐るるあまり、教義の進歩をさえあまり説くことを好まなかった。ある意味で彼はこのように臆病であったが、彼が他の半面においてプロテスタント教徒に対して長期間堂々の論陣を張った神学者、護教家、はた歴史家としての価値を忘れてはならぬ。ただそれだけではない。彼は稀に見る大説教家であった。またその『神の玄義への霊魂の高挙』(Elevation sur les Mysteres)『福音書の黙想』(Meditation sur l'Evangile)は無韻の詩であり、王世子のために書いた一篇の『世界歴史講話』(Discours sur l'Histoire Universelle)は神の摂理の深い考察である。またボスュエに劇しく攻撃されたフェヌロン(Fenelon, 1651-1715)といえども単に後に説明する静観派の影響を受けたのみが、そのすべてではなかった。『霊的書簡集』(Lettres spirituelles)は彼の価値を充分に語るであろう。

第17世紀の前半に行われた神学の歴史的研究の新機運はシルモン(Sirmond, 1559-1651)ペタヴィウス(Petavius, 1583-1652)の業績に始まり、チルモン(Tillemont, 1637-1698)マビヨン(Mabillon, 1632-1707)およびその他のセン・モール(St. Maur)修道院派ベネヂクト会修道士

の一団によりて頂上に達して、今日吾人の有する初代キリスト教に関する知識の根底となっている。本文(テキスト)の出版、註釈、辞書の編纂、批評的方法の創造、歴史の補助的学科の進歩等、皆当時機運に乗じて輩出した無数の学者の賜物で、現代の歴史的研究の興隆は実にその淵源をこれら聖俗のカトリック学者(主としてフランス人)に見るのである。聖書の批判的研究、殊に内的証拠による批判的方法の創始者はリシャール・シモン(Richard Simon, 1638-1712)であった。ボスュエはやや偏狭な立場から彼を非難したが、シモンは近世聖書批評学の父と見なされている。

カズイスト

倫理神学(Moral Theology)は最近数世紀間の創造であると言ってよい。フィレンツェの聖アントニヌス(S. Antoninus, 1389-1459)以来、理論および実際としてのキリスト教的道徳の研究は、夙に長足の進歩を営んで、遂に定理神学(Dogmatic Theology)に対する神学の一分科となるに至った。われらの良心がその解決に困難を感ずる問題、いわゆる『良心例』(Cases of conscience)は、また聴罪司祭が実際に信者にその解決を教示する必要に迫らるるべき性質のものである。良心例の実際的解決法の研究を良心例学(casuistry)と称するが、要するにこれは応用的倫理神学である。や

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がて良心例学者は、その学説と各自の性情との差違により、数派の学派を作るに至った。その中には極端の厳格論(rigorism)から極端の放漫論(laxism)まであって、カズイスト(casuists, 字義に従えば良心例学者)とは後者の名称となった。カズイストとはすなわち煩瑣の技巧を弄して道徳的懈怠を弁護する神学者である。ジャンセニウス異端者および尚古主義者らはカズイストを酷く攻撃したが、実際カズイストのある者は宥すべからざる放漫に陥っていたのである。ローマ聖座も極端な放漫論的命題を、その正反対なる厳格論的命題と共にこれを禁じた。しかし放漫論者が自衛の原則としていたプロバビリズム(probabilism)はパスカル、ボスュエ、イエズス会総長ゴンザレス(Gonzalez, 1624-1705)ドミニコ会、その他多数の神学者の非難攻撃にかかわらず、教会はこれを否認する挙に出なかった。

実を言えばプロバビリズムを非難する人々の中には、その真正な意味を理解せず、盲目的にこれを攻撃した人もいた。プロバビリズムとはそのことが多分罪にはなるまいというプロバビリティ(probability 見込み、蓋然性)がある時、そのまますなわち一行為の善悪に関する疑惑を抱ける良心のまま、このことを行ってもよいと言うのではない。罪かも知れぬが、罪でないかも知れぬから、あることを行

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って差し支えないと論じた人はカトリック神学者には一名もない。吾人は一事を行うにあたっては吾人の良心が確実なる時、始めてその命令に従ってこれを行うべきである。プロバビリズムの主張するところは、ある律が具体的の一行為に適用されるべきや否やが確実ならざる時、『疑わしき律は義務(拘束力)を生ぜず』なる原則に考え及び、ゆえに『この律はこの際に適用せられず』と三段論法を経て確実なる良心を作るにある。すなわち理論的の確実性のない場合にも、かくのごとくして自由に行動を許す実際的の確実性を有することができるのである。しかしそれには、このプロバビリティは相当の根拠を有するものでなければならぬ。例えば今日は木曜日か金曜日かわからぬとする。金曜日には教会は律として肉食が禁じられている。私は今日肉食をしてよいであろうか、悪いであろうか。安全論者(tutiorism)はこの際より安全な道を取れと言う、すなわち少しでも律に触れる危険がある場合には、これを避くるために斎を守らざるべからずと教える。放漫論者はこれと反対に、金曜日ならざる最微の疑惑の存する場合にも、もはや律に従わずしてよいと説く。プロバビリオリスト(probabiliorists)は木曜日なるか、金曜日なるかの可能性を点検して、可能性の多い方に従えと言う。エキプロバビリスト(aequiprobabilists)は双方の可能性相等しき時、始めて斎を守らざ

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るを得と言う。最後にプロバビリスト(probabilists)は今日金曜日なる可能性がたとえ木曜日の可能性より多くとも、木曜日ならずやとの疑惑が相当の根拠ある場合には、安んじて斎を守らざることを得、なぜならば疑わしき律は拘束力を生じないから、教えるのである。以上列挙した中、放漫論と安全論とは教会より禁止され、またプロバビリズムの誤れる命題も禁止された。しかし原則としてのプロバビリズムはかつて一度も誹謗を受けなかった。教皇ピウス9世が聖アルフォンスス・デ・リゴリオ(S. Alfonsusu de Liguorio, 1696-1787)に教会博士の称を与えたのは、その最後の所論なりしエキプロバビリズムに多少好意を寄せたのであろうか。そうとは思えない。真面目なプロバビリズムは聖アルフォンススが1755年頃まで、すなわちおよそ60歳になるまで主張していたところで、今日でもカトリック神学者の大部分はこの説を唱え、ローマの神学校でもこれを公然と教えている。そして今日では神学者間に理論上の争いはあっても、聴罪司祭が信者を指導する実際にはほとんど何らの影響がない有様である。

ポール・ロアイヤル修道院派の敬虔

敬虔に関する事柄についても議論があり、進歩があった。聖フランソア・ド・サルの敬虔は

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外観的には極めて愛すべく、その実その根底は厳格にして、しかも全体として人の心を楽に広くする性質のものであったとその項に述べて置いた。彼の後にフランスには敬虔に関する種々の学派が生じた。例えばオラトアール会(Oratoire)の人々の敬虔は、主として思索的で、肉となり給いし『御言葉』を中心としていた。イエズス会の敬虔は、良心の糾明、年毎の黙想等の規則正しい方法によって、徳行を獲得せんとする意志の努力を主としていた。一般にかかる伝統的の修徳の法は必ずしも人々に愉悦の微笑を禁止しないが、ここに新たに厳格一遍の敬虔を説く人々が出現した。それはジャンセニウス異端の影響を受けた敬虔である。

ジャンセニウス異端は元来第一原因としての神の偉大に心を奪われて、神の慈愛を看過していた。それゆえ、その影響を受けたポール・ロアイヤル修道院系統の信心は厳格一遍であり、霊魂の絶えざる緊張であり、人性の蹂躙であったのである。

ポール・ロアイヤル(Port-Royal)はパリーの付近にあって元来ベネヂクト会の修道女院である。第17世紀の初頭にあたり、聖フランソア・ド・サルの助言の下にメール・アンジェリック・アルノールド(Mere Angelique Arnauld)によって従来の多少の弊害を廓清された。聖フランソアの指導の下にある

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間は、穏和な快い敬虔の集団であったが、ジャンセニウス派のセン・シラン(Saint-Cyran; Duvergier de Haurame, 1581-1643)の指導を受けるようになってから気風が一変した。やがてセン・シランを中心として、隠棲を愛する一群の人がここに寄宿するようになった。彼らをポール・ロアイヤルの隠棲者(solitaires de Port-Royal)と称び、有名な数学者、哲人のパスカル(Pascal, 1623-1662)もその一人である。

隠者の心理状態は恐怖であった。セン・シランは常に危惧の裡に活きていた。サシイ(Sacy)は聖書と聖アウグスチヌスの中から神の憤怒の章句のみを集めていた。セングレン(Singrlin)は神を恐るるのあまり人間は自ら地獄に入るより他はないと言った。また彼らは奇蹟を求めて、絶えず神の特殊の干渉を見ようとしていた。その果は、『聖メダール(S. Medard)の痙攣事件』である。

訳者註 1727年にポール・ロアイヤルの熱心な弟子のパーリス(Paris)という助祭が死んでパリの聖メダールの墓地に葬られた。彼は謙遜のあまり司祭に授品さるるを肯んぜず、2年間聖体の秘蹟にも近づかなかった。その1万フランの歳入は悉く貧民に頒けられて、自分はみすぼらしい破屋の中で死んだのである。すると間もなく、その墓で病人が奇蹟的に治癒するとの噂が立った。そこには奇怪

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なことが起こった。男も女も地に倒れて劇しい痙攣を起こし、倒れた人は『扶手』に打たれたり、ひねられたりすると、非常な快感を覚えるというのである。警察はこの忌まわしい墓地を閉鎖したが、世紀の終わり頃までいわゆる『奇蹟』は秘密裡に続いていった。これが当時有名の聖メダールの痙攣事件である。

ジャンセニウス派は少なくとも当時の修徳文学の趣味を高めたと言われている。実際、第17世紀の半ば以前には、一方に真率愛すべき著者と共に、他方には巧みを弄し、形容の遊戯に走る種のものがあって、パスカルの攻撃(Les Provinciales 第8書簡)もその理由がないではない。ポール・ロアイヤル派、ことにニコル(Nicole)の影響が修徳文学の体裁の向上に認められぬでもない。しかし詳細に観察すれば、従来の書といえども、奇怪な表題と荒唐の寓喩の中に隠れていたのは健全な思想で、世間の趣味が次第に古典的になり、落ち着いて来るに従って、その文体も清楚になって来たのに不思議はないのである。

信心に対するジャンセニウス派の影響を否定することができないのは、その教説に因果関係を有する外面的礼拝形式の方面である。神のものを神に帰すという口実で、ジャンセニウス派は、従来のカトリックが聖母その他の聖人に献げて来た尊敬の範囲を減らそうとした、彼らはあるいは日課祈祷

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書、ミサ祈祷書、その他の儀式的方法を改革して、聖母の権能の讃美を打ち消そうとし、あるいはかのピストイアの私的宗教会議において聖遺物、祭壇に花を飾ること、贖宥、聖像等に関して清教徒的の改革を試みた。

メール・アンジェリックの兄弟アントアン・アルノールド(Antoine Arnauld)が1643年に出版した『頻繁の聖体拝領について』という本は、信者は軽々しく聖体の秘蹟に近づくものでないということを説いて、有名な大論争の種子となった。これも神を畏るべしと教えたるジャンセニウス派精神の当然な結論である。しかし後々の教会の執った方針は、外面的礼拝についても、信者の聖体拝領の問題でも、ジャンセニウス派の教えたところとまったく正反対であった。

静観派の敬虔

フランスおよびその他諸国におけるジャンセニウス異端の影響は極めて深いものがあった。この異端の教義を少しも認めない人々、最も優れた教会の学者のある者に至るまでその重苦しい雰囲気の影響を受けた。ジャンセニウス異端攻撃の前駆となったボスュエや、イエズス会修道士のある者にさえ厳格陰鬱なその傾向が及んでいる。第17世紀末に教会から禁止された静観派(quietism)は神秘生

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活および修徳生活に関する謬説で、ジャンセニウス異端に比すれば、その影響の及ぶところは遙かに狭かった。しかし当時の人々の心霊生活に非常の害毒を流したものである。

静観派の代表者としては、モリノス(Molinos, 1640-1696)マダム・ギュイヨン(Madame Guyon, 1648-1717)フェヌロン(Fenelon, 1651-1715)を挙げればよい。もっとも、モリノスとフェヌロンとの間にはよほどの差違がある。モリノスはおのれの意志を虚無にするのが、真の霊魂の浄化であると言い、すべてのことにまったく受動的でなければならぬと教えた。また修徳の努力も不必要であり、自分さえまったく受動的であるならば、外界より来る印象としての罪の誘惑も退ける必要がない。この霊魂の受動的の態度こそ、神の真の観想と、心の平和とに至る道であると説いた。カンブレーの大司教、愛すべき人格者なりしフェヌロンはモリノスほど極端に走らなかったが、『聖人金言の解釈』(Explication des maximes des Saints)という小冊子を著して、聖フランソア・ド・サルの心霊生活に関する教えを、半静観派的(semi-quietism)に敷衍した。キリスト教的常識に富む聖フランソアは決して正統説を踏み違えることをしなかった。しかしフェヌロンはその境界を不用意にも脱したのであって、ボスュエがこれに対してフェヌロンを攻撃した方法態度は多少酷

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に過ぎた嫌いがあるが、ボスュエの攻撃も無理ではなく、フェヌロンの説は健全なる心霊生活に関する実際の危険を含んでいたのである。危険とは神の懼を忘れ、苦業と修徳の努力とを怠り、その他一切の外的事物に無関心となり、信心が遊戯に堕することすなわちこれである。

聖心の信心

フェヌロンの教えた信心は、これを最も好意に解しても、その中にイエズス・キリストがあまり看過されている、という非難は免れることができぬ。ジャンセニウス異端も、裁主としての神の恐るべきを説き、愛の秘蹟たる聖体拝領より信者を遠ざけて、救主の慈愛を忘れさせた。この二の傾向に正反対の運動がこの頃パレ・ル・モニヤル(Paray-le-Monial)の訪問会修道院から発した。

これは言うまでもなくイエズスの聖心(みこころ)に対する信心である。聖心の信心をローマで許可したのは、もとより全然神学的考察の結果であったが、実際上からはこの信心が聖女マルグリット・マリー(S. Maruguerite-Marie, 1647-1690)の見奉りしイエズスの御出現に由来することはあまねく人の知るところである。マルグリット・マリーと聖女テレザとを比較すれば非常の差違がある。マルグ

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リット・マリーはテレザに比してその言葉も行状もずっと平民的であり、またテレザの精神的自由なく、神の能力の下に打ちひしがれている面影がある。聖フランソア・ド・サル流の形容をすれば、テレザは鷹で、マルグリット・マリーは鳩である。しかし後者もわれらの心を惹く点においては前者に劣らず、また200年来その及ぼした影響の範囲は、むしろより広汎と言わねばならぬ。カトリック教は、神の御子の『哲学的』神性の教義を主張するに力を尽くし、その間一歩の譲歩もしなかった。この立場からの最大の危険はキリストの肉体は外形のみで実在ではないと説いた古代のキリスト仮肉説(docetism)であろうと言われる。しかし救主の人性の真実性の教義はカルセドン公会議以来定義されているのであるから、実際においてはわれらのためにキリストのとり給いたる人性の弱さについて、聖書の言葉を充分に了解するように努めればよいのである。

聖心の信心はキリストの人性を忘れる危険に対する最良薬である。信者はこの信心によって人たるイエズス、弱きイエズス、苦しみ給うイエズスの観念をひしひしと感ずるに至る。イエズスの聖心の苦悩の玄義に思いをめぐらさねば、たとえ十字架にかかり給いし御姿を黙想しても、これを仮の御姿なりと考えるのは不可能でない。聖女マルグリット・マリーとその徒にっては、御

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主の聖心の悲しみに優る尊い黙想はない。そこにはただにイエズスのおのが受難に対する恐怖、煩悶のみに止まらず、世の罪を一身に負いて神の正義の御怒りの前に打ち挫かれ、萎え伏し、虚しくなり給いし、解すべからざる『神に反きし神の悩み』の玄義がある(マルグリット・マリーの言葉)。

聖心の新しい信心はキリスト教を女々しい柔弱な信仰と化したとの非難を受けたのも一再に止まらなかったが、実はこの信心は上に述べ来ったように、神人の受難により世の罪を償うという新約聖書の中の、最も力強い玄義に到達するのである。最近二世紀以来、信者の心に人たる救主の理解と愛とを加えしもの、この信心の右に出づるものはなかった。注意すべきは、この際イエズスの愛が、理解に容易(たやす)き、極めて民衆的な象徴(シンボル)をもって表現されていることである。第17世紀フランスにおける教会の偉観の条下に紹介したベリュル、オリエ等の士も、肉となりし『御言葉』の謙虚卑下の玄義を想うことに、多大の法悦を感じたのであるが、彼らはマルグリット・マリーのごとくこれを一般信者のものとなすまでに至らなかった。これに反して聖心は民衆の理解することのできる象徴である。ゲッセマニの園にて『汝ら一時間をわれと共に醒めいる能わざりしか』とのたまいしイエズスのために、毎週1回、1時間を祭壇の前に跪き祈る『聖き一時間の信心』に敬虔の霊魂

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を集え、また今日に至るまでもパリ、モン・マルトルの聖心大聖堂あるいはパレ・ル・モニアル聖心出現の聖堂に夥しきカトリック巡礼団体の心を燃やすところに聖心信心の大なる威力が窺われるのである。

4 第18世紀

哲学主義

前世紀が生んだカトリック運動はいずれも第18世紀に続いている。しかしこの第18世紀に特殊のものとては、フランス大革命に向かいつつある隠れたる機運と、あらわになりつつ行く社会の背教の状とのみである。

自然主義的文芸復興の結果なる自由主義の精神は、第17世紀において一時人目に隠れていたが、決して滅びた訳ではない。当時フランスで自由人(不信心家、遊蕩児 libertins と言われていた輩は、フランス以外、殊にイタリーでは有力な庇護者を有していた。プロテスタント改革の勢いの猖獗なりし国々では、カトリック教会の廓清、『反動改革』の成功は、プロテスタントに

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とり一種の刺激となって、伝統的キリスト教会形式への復帰が行われた。(もとより中世以来の本能、習慣、必要が宗教改革の大嵐の中にも、人々の心に生き残っていたのも有力な因子であるが)。プロテスタント改革の根本原理だった『福音の自由』聖書の自由解釈の説は事実上蹂躙されたのである。かくしてプロテスタント教会対ローマ教会の関係は教会に対する教会、権威に対する権威、正統神学に対する正統神学の抗争となり、最初の宗教改革の精神は、このプロテスタント教会から分裂していった新しい種々の分派の中に生きるようになった。これらの分派は大小の差こそあれ、一般に宗教としての教義の方面は、主として信者の随意の選択に委せ、これに代わって宗教的情緒、個人的霊示、敬虔、厳格なる道徳を重んずるのである。ゆえに今日の自由プロテスタント派の唱える唯心論的主情主義、排教理的倫理主義は、一定の信条に信者を強うるいわゆる『プロテスタント教会』より出でたのでなくして、上述の分派の生んだものである。すなわちジョージ・フォックス(George Fox, 1624-1691)は個人的霊示を重んじて震顫派(クエーカー派または教友派 Quakers, Society of Friends )を創始し、フィリップ・ヤコブ・スペーネル(Philip Jakob Spener, 1635-1705)は信心と実践的キリスト教を主眼とする敬虔派(ピエチスム Pietism)の運動をオラン

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ダに起こし、ボヘミア兄弟団(Bohemian Brethrens, Maravian Brethrens, Unitas Fratrum)と呼ばるるは、教義を顧慮せず倫理を主眼とする団体で以前からあったものであるが、特にチンツェンドルフ(Zinzendorf)が1722年にヘルンフート(Herrnhut)の教団を建ててから、新しく勢いを添えた。ジョン・ウェスレー(John Wesley)がオックスフォード(Oxford)で説教を始めて後のメソヂスト教会(Methodist)の濫觴となったのは1729年である。かくしてプロテスタント教徒の中で、より宗教的の人々、道徳的理想を追わんとする者、自由を愛好する者は、これらの分派に趨いた。もっと極端な者はまったく超自然を排斥する自然神教(Deism)へと走っていった。イタリー人ファウスト・ソッチニ(Fausto Sozzini, Faustus Socinus, 1539-1604)によって創められたソチニアニスム(Socinians)は現時のユニテリアンあるいは統一教会(Unitarians)の前駆者であり、イギリスにはいわゆる『自由思想家』(free thinkers)の群があり、『自由工匠組合』(フリー・メーソン Freemasonery)も島帝国で誕生した(1717年頃)。彼らはみな自然神教家(Deists)である。あるいはまた英国教会およびカルヴィン教会を逃れて、カルヴィンに呪詛された人文主義者と握手し、純然たる無神論者(Atheists)となったものもある。

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フランスでは哲学主義(Philosophisme)と称し、ドイツでは啓蒙主義(Aufklaerung)と称した、この智的解放の運動の先駆者の中でユデア人出身の思索家スピノザ(Spinoza, Baruch d' Espinosa, 1632-1677)について一言を費やさねばならぬ。彼はデカルトの哲学の一方面を驚くべき幾何学的厳密さと理想に対する熱烈な感情とをもって追求していって、遂に一種の唯心論的汎神論に到達した。そしてまたユデア人に応えるために神学政治論(Tractatus Theologico-politicus)なる一書を著して、極端な主理的聖書解釈の基礎を作った。--ピエール・ベール(Pierre Bayle, 1647-1706)は天才ではなかったが、しかし通俗著者として、その影響は甚だ広く、その『批判辞典』(Dictionnaire ciritique)の目的はすべての従来の解釈に疑問点?を打つにある。かくのごとくにして、哲学的および歴史的の批評精神は世上に投ぜられ、遂にヴォルテールの大辞典となった。フォントネル(Fontenelle, 1657-1757)は格別キリスト教の敵ではなかったが、懐疑的精神を植えてカトリック信仰に数滴の強力な腐食剤を滴下した。モンテスキュー(Montesquieu, 1689-1755)は『法律の精神』(Esprit des Lois)の中でキリスト教に多少の政治的および社会的功績を認めたが、同時に自由批判的無信仰の精神を拡げた。モンテスキューの所説の一半に暗示を受けて、キリスト教

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の政治的および社会的効験を論じて護教論を試みたのは、後年のシャトーブリアン(Chateaubriand)である。

ヴォルテール(Voltaire, 1694-1778)の最鋭の武器は彼の皮肉である。彼は豊富な才能と、機智とを有し、博学にして、よく敵手の弱点を見抜く鋭利な眼光を持っていたが、狭量な常識のために、彼に明瞭ならざるものは皆虚偽なりと思い、神秘を幻影と混同し、おのれの理解する能わざる万事を否定するに至った。彼はあらゆる事柄を確信をもって語る通俗記者である。彼の所説には非常に事実の真相を捉えている点と、ばからしい讒言とが交じっている。彼の本当の心の底はどうであったろうか。おそらくは彼には真理の至上権という概念がなかったので、人間がある思想、あるいは宗教のために闘うことが考え得られなかったのであろう。それゆえ、キリスト教が自己の信仰を主張し、自己を防衛し、自己を拡張せんとする態度は、彼には愚昧な狂信としか見えず、かかる宗教を皮肉と嘲笑とをもって葬り去るのは人類に対する大なる奉仕と信じていたのであろう。

ヴォルテールは自然神教主義者であった。少なくとも自らそう称していた。しかし彼に続く『百科辞典家』(Encyclopaedists)の群はダラムベール(d'Alembert)ドルバック(d'Holbach)ディド

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ロ(Diderot)を始めとしておおむね無神論者である。しかしさすがに多少は世間体を憚ってか、この有名な百科辞典(1751-1772)の筆者の中には数名の司祭をも加えていた。しかし内密では彼らはすべて恐るべき神の冒涜者であった。例えばディドロは秘密の集会で性的羞恥は人間の自然でないと証明することを専心に行っていたのである。

ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)と共にフランスにローマン主義の時代が始まる。簡単、明瞭、乾燥なヴォルテール式の常識尊重の反動として、空想は恣となり、鋭敏なる官能に一抹の宗教趣味が加わった。ルソーはまた『民約説』(Contrat social)をもってフランス社会主義の祖で、また同時に自由プロテスタント思想の源である。彼の『サヴォアの牧師の信仰告白』(Profession de foi du vicaire savoyard)は自由研究の教義に基づいて、カルヴィン教の教義そのものを否定するプロテスタントの信仰告白である。ルソーがキリスト教に保存するところは、彼にいわゆる『真髄』とまったく空想と感情との産物たる一種の宗教的情調とのみである。ヴォルテールの嘲笑的破壊はやがて後年のルナン(Renan, 1823-1892)の同情的否定となる。しかしルナンの中にもジョウレス(Jaures)およびサバチエ(Sabatier, 1839-1901)の中にもルソーの影響

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は認められるのである。

以上の主理的運動は当時の民衆と政府とを背景にして行われた。民衆はパスカルの時代から教理上の論争に容喙する習慣を得、ボスュエ、フェヌロンのごとき人々に至るまでも、彼らの議論を民衆の判断に訴える悪例を残した。プロシャのフリードリヒ2世(1712-1786)ロシアのカタリナ2世女皇(1729-1796)フランスのルイ15世の寵姫マダム・ド・ポムパドゥール(Madame de Pompadour, 1721-1764)同王の外務大臣ショアズル公(Choiseul, 1719-1785)ポルトガルの宰相ポムバル(Pombal, 1699-1782)スペインの宰相アランダ(Aranda, 1716-1799)等、当時各国の為政家は残らず『哲学者』の庇護者であった。また、ガリカン教会主義、ジャンセニウス異端およびドイツにおいてはジョゼフィニスム(Josephinism)を奉ずる人々はカトリック(公)的精神の失墜の原因を作った。

[訳者註] ジョゼフィニスムとはドイツ皇帝ヨゼフ2世(1741-1790)が採用した最も徹底した国家的教会主義で、『教会とは一種の警察にして国家の目的を協賛すべきものなり。』『国家の利益と相反する教会法の規則は自然法に悖り、ゆえにキリストの意志に反するものなり。』等を原則とする教会に対する国

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家万能主義である。

また他方、世間では信仰の仮睡、秘蹟の忘却と共に、道徳は頽廃し、人間の超自然を求むる心は魔術、降神術、動物磁気術、テオソフィー(Theosophy 接神論)等の不思議を好む醜怪な趣味に堕落した。

このすべての反カトリック運動の力を集めた新しい敵は自由工匠組合(Free masonery)である。その起源はともかく、自由工匠組合の本態は人間をもって神に替え、人間を礼拝することであって、すべての超自然を否認する組織的の自然主義である。自由工匠組合のイギリスにおける最初の運動は自然神教的(Deist)であったが、ドイツにおいては純然たる無神論となり、フランスでは社会を軽佻浮薄の風に導き、その特有の捕捉することのできぬ不思議な影響を政治と歴史との背後に及ぼした。この秘密結社の第一の目的が、あらゆる超自然の否定、すなわちキリスト教の滅亡にあるということは、公然の秘密で万人周知のところである。

カトリック教会の防衛

これらの攻撃に対抗するにはカトリック教会は余りに疲弊していた。ガリカン教会主義は教会を

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国家に支えさせたのであるが、その国家が今日は背教し、しからずばドイツのごとく教会の君主となったのである。各種の修道会も衰えて来た。イエズス会は解散を強いられ、これに次いで他の一般の修道生活もフランス政府に絶えず圧制せられて、大革命がこれに最後の打撃を加えた時分にはようやく余喘を保っているに過ぎない状態であった。

教義上には護教家は絶無ではなかったが、しかし惜しむらくは傑出した人がいなかった。彼らも智識に不足があったのではない。例えばヴォルテールの言葉に多くの矛盾を指摘することくらいはできた。文芸復興の時代に、神学の一部門として『真正宗教論』(De vera religione)の研究ができていたのであるから、闘うべき鋭利の武器に欠けていたのではない。しかし極めて稀の例外の他は、当時の護教論は光彩を欠く憐れむべきものであった。

主理主義の攻撃に応ずるためにはボスュエのやや古風な聖書解釈や、ドン・カルメの危なつかしい科学知識の他に、必要なものがあったのである。リシャール・シモン(Richard Simon, 1683-1712)に、もうすこし豊富な内容と力のある文章とを加えたものが欲しかった。神学者にも、もう少し生気があり、時代の要求を解する人が必要であったのである。悲しいかな、前世紀の教

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会内部の争論は、なおも引き続いて、ジャンセニウス派とモリナ学派とは手を携えて『哲学者』を攻撃しても、『哲学者』はジャンセニウス派に荷担してモリナ学派(ここではイエズス会のこと)と闘うという状態であったのである。ジャンセニウス異端を中心にして起こった瑣々たる争論、『法規的命令』と『事実解釈』との区別いかん、クレメンス11世の教書ウニジェニトゥス(Unigenitus, 1713年)に関する争論等が、どれほど教会の対外的戦闘力を削いだかわからない。しかし聖座は性質上譲歩することのできぬ立場にあり、これに対して個人的感情の傲慢と頑固とがあり、その間に処して主理主義は漁夫の利を占めたのである。

かかる状態で局面を展開するに足る大著述家なく、大神学者もなかった。ドン・カルメ(Dom Calmet, 1672-1757)とマルドナート(Maldonat, 1533-1583)との聖書解釈を比較してみれば、二人の時代の間隔にキリスト教精神に進歩があったか、退歩があったか、自ずから窺われるであろう。この間に唯一の逸すべからざる学者は聖アルフォンスス・デ・リゴリオ(S. Alfonsus de Liguorio, 1696-1787)である。聖アルフォンススは非常に独創的な思索家と言うことはできぬが、しかし彼がジャンセニウス派倫理神学をまったく破壊し、その修徳に関する著述の中に、その以

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前二世紀の間にカトリックの思想、信心に寄与したものの全部を包括した功績は没すべくもない。

要するに第18世紀におけるカトリックの護教は熱誠をもって行われたが、秩序と方法とに誤っていた。護教家の武器の種類は多くとも皆古びていた。兵士は勇敢であったが将軍がいなかった。群を抜く才能を有して戦いに勝利を得させる天才がいなかったのである。

この時局面は急に回転した。思想の戦いよりにわかに事実の戦いに移ったのである。ド・メストル(de Maistre)はこれを叙していわく『現代はかつて人目に映じた最大の場面を観ている。キリスト教と哲学主義の戦いである。闘技場は開かれた。両雄は相対した。観客は全世界である』と。

全世界の見たるところは、これ鮮血による護教の術。哲学主義は恐嚇政治を生み、恐嚇政治は再び殉教の時代を開いたのである。

第4篇 文芸復興時代よりフランス大革命に至るキリスト教 終わり

以下つづく

作成日:2004年06月21日

最終更新日:2004年06月21日

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