けれど(Credo)


Weblog / 2006-04-29 22:52:16

 450年前に日本に宣教に来たキリシタン伴天連はキリシタンに「けれど」をまず教えた。「けれど」とはラテン語 Credo = 私は信じる、のポルトガル語訛りであり、きりしたんとなるために信ずべき信仰箇条である。きりしたんが信ずべき事柄はこの「けれど」の他にもいろいろあるが、しかし基本的な事柄として使徒たちによって伝承されてきたので「使徒信条」とも言われるのである。

 「けれど」 Credo が一人称単数形であることは重要なことであると私には思われる。もちろん、信仰する個人が共同体をなして、Credimus われらは信ずると宣言することが「えけれじや」=教会を構成するわけであるが、信仰内容を信じ、守るのはひとりひとりの私である。きりしたんの集団洗礼とか集団棄教とかが問題にされるが、受洗のとき、あるいは棄教のときに、credo と宣言するか non credo と否認するかは、あくまでもひとりひとりの個人、私である。大名によって命令され、あるいは勧められて受洗しても、それを受け入れたのは個人であり、棄教に際してもそれを決断したのは個々の人間である。

Credo
Weblog / 2006-04-30 22:15:43
Credo in unum Deum. われは信ず、唯一の神。

Credo 人間の救いにとって必要な信仰(ひいです)は何であれ神が啓示された事柄に対する完全な同意である。その反対は疑いである。トマは復活されたイエズスを疑った。われわれは弱いので信仰の徳を願わなければならない。公教会祈祷文には信徳唱という祈りがある。「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますがゆえに、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。」人間の救いとは人間の究極的な幸福の達成であり、それはこの世において満たされることはない。魂の救いと言ってもよい。そのような事柄は人間が神によって造られたがゆえに、人間の心に本性的に植えつけられた願望としてあると思うが、具体的な形は神による啓示によって人間に明らかにされたのであり、その啓示の内容の保持者が公教会すなわち2000年前にイエズス・キリストによって建てられたカトリック教会である。

 「どちりなきりしたん」が「ひいですのあるちご」と言っているのは、信仰箇条のことで、12箇条から成っている。


Credo
Weblog / 2006-05-01 22:17:38
Credo in unum Deum、factorem caeli et terrae, visibilium omnium, et invisibilium.

われわれが信じなければならないのは唯一の神である。「天主の十戒」の第一はこう述べている。「われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。」神の実体、本質は一である。したがって、多神教は退けられなければならない。なぜなら。神は至高の善であり、無限の完全性を具えた御者だから、当然御一体でなければならないからである。

 Credo は in unum Deum のすぐ次に Patrem omnipotentem と述べる。一なる神は全能の父なる神としてまず述べられる。さらに、factorem caeli et terrae, visibilium omnium, et invisibilium 天と地、見ゆるものと見えざるものすべての造り主を、と続く。これが「ひいですのあるちご」の第一条である。全能永遠にして天地の創造主なる唯一の神をわれわれは信じなければならないのである。存在するすべてのものはその存在をこの唯一の神に負っているということである。ホレブの山で神がモーセに仰せになった「われは在りて在るものなり」とは、神がまさに存在そのものであり、神以外のあらゆるものがその存在を神から得た、つまり神によって造られたということである。宗教を神に対する人間の道と言うならば、真の宗教は真の神を信じるものでなければならない。偽りの神あるいは神々を信じることが神によって禁じられているのである。神の命令、神の掟を守らないで自らを宗教と称しているいかに多くの派があることだろう。

 人はこのようなことを聞くと、そのように述べる者を「傲慢、排他的、僭越、独善的」だと言うであろう。しかし、人間がそう主張しているのではなくて、神御自身が啓示を通して人間にそのことを信じ、公言することを命じておられるのである。

けれど 第一かでう
Weblog / 2006-05-02 22:37:18

 どちりなきりしたんでは以上のことを第一かでうとしてこう述べている。

ばんじかなひ玉ひ、てんちをつくり玉ふ御おやでうすをまことにしんじ
  奉る事。

 世界の宗教といわれるものの中でユダヤ教とイスラム教はキリスト教とともに唯一神信仰を宣言しているが、その両者ともキリスト教が宣言する神の三位一体を否定する。この三位一体の神という信仰は人間が考え出すことができなかった神御自身による啓示への信仰であって、われわれはその啓示によって始めて唯一神でありながら三つのペルソナを有し給う神の本性を知り得る。知る、知解すると言っても、それはわれわれ人間の理性の限界を超えた神の神秘であり、キリストの証言を通してわれわれはただそれを信じることができるだけである。

 どちりなきりしたんはけれどをつくったのはだれかと問いながら、それは

   御主ぜずすきりすとのあぽすとろたちすぴりつさんとの御導きを
  もて一所にあつまり玉ひて、御あるじぜずすきりすとの御くちよりぢ
  きにきき奉られたるむねをつらね玉ふ

ものであると述べることによって、第二のペルソナである御子イエズス・キリストと第三のペルソナである聖霊(Spiritus sanctus)を通して御父(御おや)がわれわれに啓示されたことを使徒(あぽすとろ)たちが証言しているのだと教えている。

 第二のペルソナであるイエズス・キリストと第三のペルソナである聖霊についてはどちりなきりしたんの第二のあるちご以下で述べられるが、天地、見ゆるものと見えざるすべてのものの創造主たる神はその創造の後にも、創造されたすべてのものを保存し給い、支配し給い、そして動かし給うのであって、神のそのような働きなしには万物はただちに造られる以前の無に帰することを忘れてはならない。万物はその存在、保存をまったく神に負うており、神のお支えなしにはただちに消滅するのである。そのような御方である神を信じないことは人間の最も大きな罪である。

 それゆえ、きりしたんの信ずべき教えは他のすべての宗教(といわれるもの)が偽りの宗教である、つまり真の神に対する人間の真の道ではない、と主張するのであり、そのことがきりしたんの迫害にもつながっているのである。現代では「融和」とか「対話」とか「寛容」が美徳とされ、「唯一の真の宗教」という言い方は以前にも述べたように、「尊大、僭越、排他的、不遜、傲慢」として嫌われ、憎まれる。カトリック教会のある部分(一部の高位聖職者やバチカン当局者をさえ含む)は今日、エキュメニズムの名において、すべての宗教の同等性、同列性を承認しているように思われる。唯一の真の神に対する信仰を持つべしという神の至上命令は放棄されたのか?かつて教えられたことが教えられなくなり、あるいはそれと反することが教えられるということは、かつて教えられたことが真理ではなかったことを意味するのか?時代の趨勢、要求によって変わるものは普遍的(カトリック)ではないはずである。2000年前の教えは450年前のきりしたんにとっても現代のわれわれにとっても、同一であるはずである。

けれど 第二かでう
Weblog / 2006-05-03 22:05:47

 Et in unum Dominum Jesum Christum, Filium Dei unigenitum. Et ex Patre natum ante omnia saecula. Deum de Deo, lumen de lumine, Deum verum de Deo vero. Genitum, non factum, consubstantialem Patri: per quem omnia facta sunt. Qui propter nos homines, et propter nostram salutem descendit de caelis.

(われは信ず、)唯一の主、神の御ひとり子イエズス・キリストを。主はよろず世の先に父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と一体なり。主によりてすべては造られたり。主はわれら人類のため、またわれらの救いのために天よりくだり給えり。

 ひいですの第二のあるちごでは「その御ひとり子我等が御あるじぜずきりすとを眞にしんじ奉る事」と簡潔に示している。

 父なる神の御ひとり子として生まれ給うた救い主イエズス・キリストは父なる神と同一実体(consubstantialis)であり、父から造られた被造物ではなくて、父から生まれ、父と一体である神である。この神秘は父からこの世に遣わされたキリストによってのみわれわれに明らかにされた信仰の神秘(mysterium fidei)である。キリストは人類のため、われわれの救い(salus)のために天から、父の懐からこの世に下られた救世主(Salvator mundi)である。

 イエズス・キリストは御自身で父である神のことを弟子たちにお話しになった。われわれが神を「天にましますわれらの父よ」と言う場合と、イエズスが父なるわが神と言われる場合とでは意味が違う。イエズスは父なる神の御ひとり子であり、われわれ人間は神の被造物として神を父と呼ぶのである。イエズスは御自身を神と等しい者としたという廉でユダヤ人の長老たちや司祭長から冒涜の罪だと訴えられて十字架につけられた。ユダヤ教は今もイエズス・キリストを神のひとり子とは認めない。イスラム教もキリストを預言者の一人とはするが、神のひとり子、神に等しい方とは認めない。従って一神教であるユダヤ教もイスラム教も三位一体を認めないという点で同じである。

 キリスト教は他の諸々の宗教と言われているものと比べて、自らの創設者を神のひとり子、神と本質的に一体の方、まさに神である信じ、公言し、宣教する世界で唯一の真の宗教である。イエズスがもし神でないならば、神を僭称した大うそつきということになり、イエズスが神であることを証言した使徒たち、聖人たち、過去2000年の信徒たち、450前にぱあでれの宣教に耳を傾けて最後には殉教したきりしたんは真理ではなくて虚偽を受け入れて生き、無駄に死んだということになる。

 キリストは旧約の時代からの長い歴史の中で預言されていた救世主、世の罪を除くため、人類の罪の贖いのために2000年前にこの世に来られた歴史上の人物である。使徒たちはおのれのすべてをかけてイエズスがキリストであること、神であることを証言し、宣言し、生命を捧げた。

 すべての宗教と言われているものが同列、同等、等しく真理であると言うことはイエズスがこの世に来られたこと、福音を述べられたこと、十字架につけられたことの意味を無にすることである。真の神に対する信仰が魂を救うのであって偽りの神に対する信仰は魂を失うことにつながる。これは世間的、常識的に考えれば、傲慢、僭越、不遜に聞こえる主張である。キリスト教はそういう意味では人に選択を迫る厳しさを持っている。しかし、それは人を強制したり、脅迫したり、暴力をもって支配したりするものではない。キリストのメッセージは福音(Euangelium=よき知らせ)であり、永遠の幸福への招きである。生命を捨てても教えを捨てなかったきりしたんはそのことを知っていたのである。

けれど 第二かでう 続き
Weblog / 2006-05-05 22:30:04

 イエズスは神の御ひとり子である。神はイエズスのうちに、そしてイエズスは神のうちに住まわれる。イエズスがペトロに「われをたれなりと言うか」とお尋ねになったとき、ペトロは「汝は生ける神の子キリストなり」と答えた。イエズスはペトロに答えてこう言われた。「汝は幸いなり、ヨナの子シモン、そは、これを汝に示したるは、血肉にあらずして、天にましますわが父なればなり」と。これがわれわれの救いと贖いの最も確実な基礎である。われわれ人間が救いと贖いを必要とするのはわれわれ人類の祖であるアダムが神から与えられた恩寵の状態をサタンの誘惑を受けて神の命令に背くことによって失い、罪の状態に陥ったからである。これが原罪である。アダム以後のすべての人間はこの原罪を背負っている。この堕落した状態から人類を救うために、神はその御ひとり子をこの世に救い主として遣わす約束をなさった。それが旧約の歴史である。アブラハムがそのひとり子イザアクを神の命令に従順に犠牲として捧げようとしたことをよみされた神は、そのアブラハムの子孫の中から、やがて人類を救うための犠牲として御自分の御ひとり子、神の御言葉をこの世に遣わされた。それがイエズスである。イエズスは神=人(God=man)であり、救世主である。大天使ガブリエルはマリアに「汝、懐胎して一子を生まん、その名をイエズスと名づくべし。彼は偉大にして、いとたかき者の子ととなえられん。また主なる神、これにその父ダヴィドの玉座を賜いて、ヤコブの家を限りなく治め、その治世は終わりなかるべし」と告げた。マリアが夫ヨゼフを知らざるに、いかにしてこのことがあり得るのかとお尋ねになったとき、大天使は「聖霊、汝にのぞみ給い、いと高き者の能力の陰、汝をおおわん、ゆえに汝より生まるべき聖なるものは神の子ととなえらるべし」と答えた。ここにわれわれはイエズスが三位一体の第二のペルソナとして、神から生まれ、聖霊によってマリアの御胎内に宿られ人としてお生まれになったことを知るのである。キリストは第二のペルソナとして神の本性と人間の本性という二つの本性を合わせ持たれた神=人なのである。

 イエズスはキリストである。キリストとは「油を注がれた者」という意味である。油注がれた者の代表は司祭と王である。司祭は神に対して犠牲を捧げ、絶えざる祈りをもって人々の執り成しをする。王は民を支配する。キリストはこの司祭職と王職を遂行する方として神御自身によって油注がれた方であり、さらに御父なる神の人智を超越した御意志を開示し解釈なさる預言者として油注がれた方である。人間の有限な司祭職、王職、預言者職と異なり、キリストのそれは神である方のそれとして御父である神に対する完全な犠牲の遂行、終わりなく続く王国の支配、天にまします御父の御旨を人類に明らかになさる預言と教育という働きを完全に遂行なさるのである。

 キリスト教徒はこのようなキリストからその名を頂いてキリスト教徒なのであり、きりしたんなのである。キリスト教徒はその信仰の恵みを頂くことによってキリストを神人として信仰することができる。洗礼を受けるということは、キリストに身を捧げ奉献する義務を負うことであり、キリストの敵、神の敵であるサタンと世とを断念することである。

けれど 第三かでう
Weblog / 2006-05-06 22:26:25

 Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria virgine: et homo factus est.(聖霊によりて処女マリアよりおんからだを受け、人となりたまえり)。どちりなきりしたんでは次のように言われている。「此御子すびりつさんとの御きどくをもてやどされ玉ひ、びるぜんまりやよりむまれ玉ふ。」

 びるぜんまりやがすぴりつさんとの御きどく(奇特、奇跡)によってその御胎内に宿された御子イエズスの肉身は聖ヨハネが「初めにみ言葉あり、み言葉、神とともにあり、み言葉は神にてありたり。...かくてみ言葉は肉となりて、われらのうちに宿り給えり」と言っているように、汚れなき処女マリアから形成されたが、マリアの御懐妊は人間である聖ヨゼフによってではなくすぴりつさんと・聖霊の御働きによってであった。このようにしてイエズスは真の神でありながら真の人間となられた。この受肉(Incarnatio)の神秘、神が人間の肉となられたという人間の理解力を超えるこの玄義はまさに自然を超越する超自然的な出来事であり、御父である神の人類に対する無限の愛の実現である。従ってこのことは自然的な理性の範囲内での知解の問題ではなくて、超自然的な事柄に対する信仰の問題である。常識や科学的な知識を持ち出してこのことを否定しても始まらない。あなたはこのことを信じるか、信じないか、キリストの証言、使徒たちの証言を信じるか否かの問題である。この信仰にあなたの魂の救いがかかっている。キリストをただ人間的な面からだけ見て、預言者であるとか、偉人であるとか言う人がいる。しかし、キリストはあなたはどう言うのか、私が神であり人であるということを信じるか、とひとりひとりの人間に問われる。その問いに対して、あなたはペトロのように「あなたは生ける神の子キリストです」と断言するのか、それとも、エリアのような預言者の一人であると答えるのか?ユダヤ教はキリストを神とは認めず、自らを神とした神の冒涜者だと認定して十字架につけてしまった。

 びるぜん(Virgen=ポルトガル語:virgo=ラテン語) まりや(マリア):

 マリアが処女、おとめでありながら御子を懐胎なさったことも、また聖霊によって懐胎なさったことも、人間の常識や科学的知識を超越している。これを信じない限りきりしたん、キリスト教徒であることはできない。マリアは大天使ガブリエルのお告げによって、そのことが神の御意志であることを知り「フィアット」(fiat)(仰せのごとくわれになれかし)と御旨に従われた。マリアの同意なしにはマリアの御懐妊、御ひとり子の受肉、降誕はあり得なかったし、マリアが神の御母となり給うことはなかった。その意味でキリスト教にとってマリアの受諾、神の御母たることの承認の意義は決定的に重大である。キリスト教を自称しながら神の御母にしておとめなるマリアを正当に評価し得ないプロテスタント諸派はここでカトリック教会と袂を分かち、信仰箇条において重大な欠陥を持つと思われる。大天使ガブリエルはマリアに「めでたし、恩寵に満てる者よ、主、汝とともにまします。汝は女のうちにて祝せられたる者なり」と挨拶した。聖母の御訪問を受けたエリザベトは聖霊に満たされ「汝は女のうちにて祝せられたり、ご胎内の御子も祝せられ給う。われ何によりて、わが主の母の来臨をかたじけのうしたるぞ...」と喜び、彼女の胎内の子ヨハネまでその胎内でおどった。

 マリアは有名な讃歌(Magnificat)を歌われる。

 「わが魂、主をあがめ奉り、わが精神、わが救い主なる神によりて喜びに堪えず、そは、その御召使の卑しきを顧み給いたればなり。けだし今より万代(よろずよ)までも、人われを幸いなる者ととなえん、全能にてまします者、われに大事をなし給いたればなり。聖なるかな、そのみ名。そのあわれみは世々これを恐るる人々の上にあり。自ら御腕の権能を表わし、おのが心の思いにおごれる人々を打ち散らし、権力ある者を、その座よりおろし、卑しき者をば高め、飢えたる者をよきものに飽かせ、富める者をば手を空しゅうして去らしめ給えり。御あわれみを忘れず、そのしもべイスラエルを引き受け給い、われらの先祖にのたまいしごとく、アブラハムにも、その子孫にも、世々に限りなく及ぼし給わん。」

 全能の神は最愛の御ひとり子を聖霊の働きを通して処女マリアの御胎内に送り給い、マリアの肉を通して御言葉なる第二のペルソナに真の人間としての肉をお与えになった。マリアが被造物でありながら創造主である神の御母となり給うたというこの大きな神秘を無視ないし軽視するプロテスタント諸派はカトリック信仰をマリア崇拝などと言ってけなす。カトリックはは三位一体なる神を礼拝するが、被造物たるマリアを礼拝しない。礼拝と崇敬とを混同してはならない。前にも言ったが、天主の十戒は「われは汝の主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし」と戒めている。しかしマリアはその神への同意によって神の御母であることを受諾なさった。謙遜この上ないマリアは御自分で「今より万代(よろずよ)までも、人われを幸いなる者ととなえん」と仰っている。そういう方を無視ないし軽視することが神の御意志、御子であるイエズスのお喜びになることであると言えるであろうか、否である。きりしたんがびるぜんまりやの崇敬をカトリック信仰の一つの大きな標識としたことは大浦天主堂におけるプチジャン神父のきりしたん発見の物語を見れば明らかである。マリアを度外視してキリストだけと直結できると考えるのはプロテスタント諸派の偏見あるいは短見であると思う。カトリック信者の信ずべき教義として「マリアの無原罪の御宿り」と「マリアの被昇天」の二つがあるが、プロテスタント諸派はもちろんそれを信じない。仄聞するところではカトリック信者の中にもそういう人がいるらしい。この人は名はカトリックでも教義を否定することにおいて自己破門あるいは異端の状態にある人であろう。それらの教義を信じない理由としてそれらが聖書には出ていないからということが言われるが、聖書を聖書として認定したのはカトリック教会ではないか。カトリック教会には聖書だけではなく、聖伝、聖なる使徒伝承の教えがある。マリアに対する大いなる尊敬は古代の教会から連綿と続いてきたカトリック信仰の重要な一面である。今日、現代的なカトリック教会堂、モダンな教会堂の中からマリア像が姿を消したということは悲しいことであり、それは現代カトリック教会のプロテスタント化を表すものである。

けれど 第四かでう
Weblog / 2006-05-08 22:07:10

 Crucifixus etiam pro nobis: sub Pontio Pilato passus, et sepultus est.(われらのためにポンシオ・ピラトのもとにて十字架につけられ、苦しみを受けて、葬られ給えり。)

 どちりなきりしたん:ぽんしよぴらとがしたにをひてかしやくをうけこらへ、くるすにかけられしし玉ひて、御くはん(=棺)におさめられ玉ふ。

 イエズス・キリストは神である限りで、その神性において苦しみ給うことはできないが、しかし人間である限りで、その人性において苦しみを受けて死に給うた。それは、ローマ総督ポンシオ・ピラトの支配下にあったエルザレムにおいて起きた一つの歴史的事件であった。イエズスは御自分の自由な御意志ですべての人間の罪を贖い給うがために十字架にかけられて死に給うたのである。きりしたんの時代に、われわれの生きているこの現代につながっているあの 2000年前のエルザレムに、つまりわれわれの歴史的時間と現実空間の中に絶対、永遠の超越的存在者であられる神が介入されたのである。キリストは人間として死に、葬られ給うたが、その死は十字架に磔にされて苦しまれた後の死であった。死とは霊魂が肉体から離れることである。イエズスが死なれたということはイエズスの霊魂がその身体からお離れになったということである。そして霊魂が離れたその御肉身が墓に葬られたのである。トレント公会議のカテキズムは「しかしながら、われわれは、イエズスの神性がその身体から離れたということを認めない。そうではなくて、われわれは、彼の霊魂が彼の身体から分離せられたとき、彼の神性は墓における彼の身体とリンボ(=古聖所)における彼の霊魂との両者に常に結びつけられ続けたということを固く信じかつ公言する」と述べている。

 以上のことは、どちりなきりしたんでは「でうすにあたり奉る御ところは御あにまにも御しきしんにもはなれたまはず、人となり玉ふ御ところの御あにまは御しきしんにはなれ玉ふによて、しし玉ひ御くはんにおさめられ玉ふと申ぎなり」と言われている。

 御子イエズスが人となり、十字架につけられて死に給うたその理由は@人間に対する神の限りない愛をわれわれに示し給うため、Aわれわれ人間の罪の深さをわれわれに弁えさせるため、B神のこの深い御恩をよく考えて人間が神に感謝すべきため、C神の正義と人間の罪の深さを人間に知らせるため、D サタンが善悪の木の実を食べさせることによって人祖を欺き、アダム一人の罪が全人類に及んだように、キリスト一人が十字架の木にかかり給うことによって、サタンの支配から全人類を解放し給うため、であったとどちりなきりしたんは説明している。

 キリストの御受難を黙想するロザリオの「苦しみの玄義」ではまず「主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い」給うたこと、主の汗が血のしたたりとなったことが追想される。第二に「主が鞭打たれ給」うたこと、第三に茨の冠をかむらせられ給うたこと、第四に重い「十字架を担い給」うたこと第五に主はその手足を「十字架に釘づけにせられ」給うたことが黙想される。救世主キリストは肉体的な苦しみだけでなく精神的な苦しみを苦しまれた。ユダの裏切り、ペトロの否認、弟子たちの逃散、そして群衆の罵り、嘲り。メル・ギブソンの「パッション」を御覧になればキリストの御受難をリアルなものとして受け止めることができる。これほどの苦しみをキリストはなぜ受けられたのか?キリストの御受難は人間の罪からの解放のためであった。キリストはわれわれを愛され、御自身の血においてわれわれの罪からわれわれを洗い清められた。

 主がゲッセマニの園で「死するばかり憂い」給うたのは、主御自身の肉体的、精神的な御受難ばかりではなく、将来人類が犯すであろう無数の罪のことを予見されての死するばかりの憂いであったであろう。新たな異教の出現、教会の分裂、革命の頻発、近代主義の跋扈、共産主義による大量虐殺、中絶による現代の嬰児大量虐殺、同性愛結婚の合法化等々人類の罪をキリストは予見されて苦しまれたであろう。人類は罪を罪と認めないという最悪の状況に陥っている。ピラトがキリストに「真理」とは何か、と問うたように、現代人は今「罪とは何か」と嘯いて、自らの手を洗っている。罪とは神を神として認めないこと、神の与え給うた掟を破ること、あるいは無視すること、あるいは掟なぞ存在しない、人間は人権の擁護という美名のもとに、勝手に法を定めることができると考えることである。

 キリストの十字架上での死はそのような展望の下で成し遂げられ、人類の救いのために父なる神に捧げられた執り成しの犠牲であり、神の無限の愛の実現である。「神のこの世を愛し給えることは御ひとり子を賜うほどにして、これすべて、これを信仰する人の滅びずして永遠の生命を得んためなり」(ヨハネ3:15)しかし、罪を罪と認めない者には神の愛よりは神の正義が鉄槌を下すであろう。地獄の存在は現在ほとんど語られなくなった。神の愛のみが前面に押し出され、神の正義、神の怒りは隠されるようになった。イエズスは審判について語られたときに、こう言われた。「呪われたる者よ、われを離れて、悪魔とその使らとのために備えられたる永遠の火に入れ」(マテオ25:41)と。永遠の火すなわち地獄とは神から見捨てられ、悪魔とその使らとのために備えられた永遠の刑罰のことである。御父なる神は人の滅びを望み給わないがゆえに、その御ひとり子、愛子を人類の贖いのために十字架の刑に渡し給い、御ひとり子は人となってこの世にくだり、十字架の刑を甘んじて受け苦しまれたのである。キリシタンは、そして現代キリスト者はわれらの主キリストとともに苦しみ、キリストと共にこの世に死んで葬られ、罪を清められて、キリストとともに復活の栄光に与るように召されているのである。それがあにまの救いであるとキリシタンは信じて彼らの信仰を死守した。現代のわれわれはその心構えがあるだろうか。もちろん私を含めて現代キリスト者はそのことを再吟味する必要がある。

けれど 第五かでう
Weblog / 2006-05-09 22:36:06

 Et resurrexit tertia die, secundum Scripturas.(聖書にありしごとく、三日目によみがえりたまえり。) 

 どちりなきりしたん:大ぢ(大地)のそこへくだり玉ひ、三日めによみがへり玉ふ。

 現在の使徒信経、またニケア信条には「大地の底にくだり給い」という部分はないが、Cuicumque vult には descendit in infernos,tertia die resurrexit a mortuis と言われており、どちりなきりしたんは「大地の底に四さま所あり」と言っている。大ぢの第一の深き底はいんへるのであり、それはサタンを初めとして大罪を持ったまま死んだ罪人がいる地獄、ゲヘンナである。第二はその少し上にあるぷるがたうりよ(purgatorio)であって、聖寵から離れずに死んだ人が現世で果たせなかった罪の償いをしてから天国に行くまで留め置かれる場所、すなわち煉獄である。第三はリンボ(limbo)、洗礼を受けずに死んだ子どもたちの霊魂の行く所、第四はこのリンボの上にアブラハムの天と呼ばれる、キリスト以前の聖人たちの霊魂が休らっている所である。キリストは大ぢのそこにくだられて、これらの罪を犯さずに死んだ子どもたちの霊魂とキリスト以前の聖人たちの霊魂をリンボとアブラハムの天から解放され、天国へ送り給うたと考えられる。現在の使徒信経では「古聖所にくだりて」と述べて、どちりなきりしたんが四つに分けた場所を一括して挙げている。キリストが葬られた墓にはキリストの亡骸が置かれていたが、キリストの霊魂はキリストの死後ただちに大ぢのそこに降られ、その亡骸が墓に残されていた間、その大ぢのそこに留まられたのである。マグダラのマリアが墓に行ってキリストの亡骸がないのを発見したとき、キリストはすでに復活なさった、つまり霊魂が再び身体に結合されて、墓の外に出られたのである。

 主キリストは金曜日の第九時(午後三時)に十字架の上で息絶えられた。そしてその日の夕方、ピラトの許可のもとに弟子たちによってまだ使われたことのない新しい墓に葬られ給うた。キリストが亡くなられて三日目の朝、すなわち日曜日の朝、キリストの霊魂はキリストの亡骸と再び結びつき、このようにして三日の間死んでおられたキリストは再び起き上がられて復活なさったのである。キリストが三日目に甦られたのは、その死が仮死ではなくて、真の死であったことをわれわれに示すためでもあった。

 ラザロに見られるように、死者からの復活はキリストの復活の前にも起こった。しかしラザロの復活はキリストの超自然的な力によって復活させられたのであるが、キリストは御自身の力によって自ら復活なさったのである。このことはキリストが神の御子であるというわれわれの信仰を保証するものである。キリストは死と悪魔を征服し、不滅の栄光のうちに天国に凱旋なさった。

けれど 第六かでう
Weblog / 2006-05-10 22:10:20

 Et ascendit in caelum: sedet ad dexteram Patris.(天に昇りて父の右に坐し給う。)

 どちりなきりしたん:てんにあがり玉ひ、ばんじかなひ玉ふ御おやでうすの御みぎにそなはり玉ふ。

 主イエズス・キリストは救世の業を完全に達成なさって、復活した人として、その身体と霊魂を具えて天に昇られた。キリストは御自分の力によって天に昇られたのであって、受身的に御父なる神から天に上げられ給うたわけではない。キリストは神として、そして人として御自分の力で天に昇られた。

 イエズス・キリストが天に昇られたのは天の栄光に満ちた王国が墓から起き上がり不滅の栄光の身体と合わさった栄光のキリストの住処であるからである。これはキリストの王国がこの世の王国に属しないということである。この世の王国は地上的で移ろい易く富や物理的な権力に基づいている。それに対してキリストの王国はユダヤ人が期待したような地上の王国ではなくて、霊的・永遠の王国である。キリストが天に昇られたのはまたわれわれに、地上においてわれわれは巡礼者、旅人であり、天こそわれわれの故郷であるがゆえに地上にありながら望みにおいて天を目指すようにと教えるためである。

 きりしたんはこのことを信じて、この世に執着せず天に希望を置いて棄教よりは殉教を選んだ。すべてのきりしたんがそうだったのでないことはもちろんである。現代のキリスト者はどうであろうか?カトリックの世界でも世界平和とか人権擁護とかこの世的・地上的なものに大きな関心が向けられ、霊的・永遠的な魂の王国へ向けての旅人、寄留人としてのあり方を強調しなくなっている気がする。教会の現代化すなわち教会を世界へ開くことはこのけれど第六かでうの信仰宣言を忘れあるいは無視することにつながらないであろうか?この世はサタンが支配し、人を誘惑しようと彷徨している世界である。教皇パウロ六世は「サタンの煙が教会の中に入って来た」と言われた。教会でサタンのことが語られなくなること自体がサタンの煙の侵入ではないか?だれの耳にも心地よい「平和」「対話」「一致」「すべての人の救い」という標語は人の目を見えなくさせるサタンの煙ではないか? 

けれど 第七かでう
Weblog / 2006-05-12 17:05:10

 Et iterum venturus est cum gloria, iudicare vivos et mortuos:主は栄光のうちに再び来り、生ける人と死せる人とを裁き給う。)

 どちりなきりしたん:いきたる人、ししたる人をただしたまはんためにあまくだり玉ふ。

 主イエズス・キリストはその御受難と御死去とによって全人類を贖い給い、御昇天によって御父なる神と罪人なるわれわれとの間の仲介者となられ、御父の右に坐し給いてわれわれの審判者となられる。どちりなきりしたんでは審判はじゅいぞ(Iuizo)とポルトガル語の音のままで言われている。審判は人の死後直ちに行われる私審判と世の終わりにそれまでに存在した全人類(生者と死者のすべて)に対して行われる公審判とに分けられる。公審判は主の日とも言われる。この主の日には主イエズス・キリストは審判者として全人類を裁かれ、それぞれの人の犯した罪あるいは行った善に応じて永遠に続くべき返報、すなわち悪人には永遠の苦痛と罰とを、そして善人には大いなる永遠の報いと慰めをお与えになる。

 公審判の前には三つのしるしがある。すなわち福音宣教が世界中に行われる、信仰が見捨てられるそして反キリスト「いと憎むべき荒廃」が出現するというしるしである。しかしその日、その時を誰一人知らない。それゆえわれわれは常に警戒していなければならない(マテオ24章)。

 死、審判、天国、地獄は四終と言われるが、現代のカトリック教会ではこのことについて余り語られない。永遠の生命、魂の永遠の救いは人間の究極の目的である。牧者が羊と牡山羊とを分けるように、審判者キリストは善人と悪人とを右と左に分けられる。天国に行くか、地獄に行くか、それは人の信仰とこの世での行いによって決定される。それを「糺す」方、すべてをお見通しになる神であるキリストは再び天からくだり給うのである。キリストの再臨とはこのことである。

 神の愛、慈悲をこの審判において要求する人がいる。愛の神、慈悲の神は悪人をもその憐れみによってお赦しになるであろう、と。そうではない、父なる神が御ひとり子をこの世に遣わし、十字架の死に至らせるまでに人を愛されたのは人に審判に際して左の側に分けられないように、滅びの宣告を受けないように配慮なさったからであって、善も悪も区別なしにすべての人を救いの対象となさったということではない。審判は正義の実現である。この世の裁判では誤審や不正な裁きが起こり得るであろう。しかし、神の審判は誤りのない真理と絶対的な正義において行われる。神は真理そのもの、正義そのものであられるからである。善と悪とは相対的であるとか、判定困難であるとか、そもそもそういう区別はないとか、と考える人々がいる。もちろん、不確実で誤り易い人間の世界ではそう思えるような状況もたびたび起こるであろう。しかし、そのことを神に関して当てはめてはならない。あるいは神の啓示を受けたカトリック教会に適用してはならない。悪は存在しないとか、真の悪人は存在しない、すべての人は外面的には悪しき行動をしても、その意図は本当は良いのだ、従って、すべての人は神の慈悲、憐れみによって、究極的には救われる、だから地獄は存在しない、あるいは存在するとしても、ほとんど空っぽである、皆最終的には天国に行けるのだ、と本気で説教したり、本に書いたりする司祭もいらっしゃる。本当にそうなら、キリストはなぜ人を救うために十字架にかかられたのか、殉教者は何のためにその生命を捧げたのか、カトリック教会の宣教の目的は何なのか、まったく分からなくなるではないか?

 神を拒絶し、神を否定し、神を無視する人々は神の敵である。これらの敵と戦うものとしてキリストはカトリック教会を建てられた。戦うと言っても鉄砲や大砲という武器で戦うのではなく、神の御言葉を武器として戦うのであり、信仰と行いとによって、真理や正義の実現によって戦うのである。その意味で現世の教会は戦う教会 Ecclesia Militans である。しかし、現代の教会は平和を最高理念としてこの戦いを止めたかのようである。和解と一致が叫ばれ、悪は悪として断罪されず、真の宗教へと人々を回心させる宣教はもう必要ではないかのごとくである。「汝ら、全世界に行きて、すべての被造物に福音を述べよ。信じ、かつ洗せらるる人は救われ、信ぜざる人は罪に定められん」というキリストの命令はもはや真剣に受け止められていないのか?

けれど 第八かでう
Weblog / 2006-05-13 21:17:20

 Et in Spiritum Sanctum, Dominum, et vivificantem: qui ex Patre Filioque procedit. Qui cum Patre et Filio simul adoratur, et conglorificatur: qui locutus est per prophetas.(われは信ず、主なる聖霊、生命の与え主を、聖霊は父と子とより出で、父と子と共に拝み崇められ、また預言者によりて語り給えり。)

 どちりなきりしたん:すぴりつさんとをまことにしんじ奉る。

 どちりなきりしたんでは、ここでちりんだあで(Trindade=三位一体)の第三のぺるさうなであられるすぴりつさんとが御おやと御子より出で給うこと、ぺるさうなの三位と神の一体なることを説明している。
    
 聖パウロはエフェゾ書の中で「汝らもまたキリストにおいて真理の言葉なる汝らの救霊の福音を聞き、かつこれを信じて約束せられ給いたりし聖霊をもって証印せられたり」(1:13)と述べている。聖霊は父と子とより発出し、父と子とを結びつけると共に神と人間とを結びつける霊である。聖霊はわれわれの上にくだり給うことによってわれわれに信仰の賜物を通して神を知らしめ、心の目を明らかにして神を望む希望を与え、われわれの心を熱して神を愛する恩寵を与え給う。われわれは父と子と聖霊との御名によって洗礼を受けることによって神の子となる。父が神であり、子が神であるからして、父と子とより出で、父と子とに結びついておられる聖霊もまた神である。

 聖霊は生命の与え主 Dominus vivificans である。創世記では「天主の霊」(Spiritus Dei)が天地万物を創造されたと言われているように、世界の創造と万物の支配は聖霊の働きである。主キリストはその御昇天の後十日目に使徒たちに約束なさったように聖霊をくだされた。この聖霊降臨によって使徒たちは信仰の真理を悟り、宣教の勇気を得、奇跡を行うなどの数々の賜物、恵みを受けた。聖霊は世の終わりまでカトリック教会を護り導き給う。聖霊はわれわれひとりひとりの霊魂に働き給うて知恵を照らし、心を強められる。われわれは聖霊来り給えと絶えず祈り求めなければならない

けれど 第九かでう
Weblog / 2006-05-14 22:01:54

 Et unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam. (われは信ず、一、聖、公、使徒継承の教会を。)

 どちりなきりしたん:かたうりかにてましますさんたえけれじや、さんとすみなつうようし玉ふ事。

 どちりなきりしたんにおける師の説明を現代語で言い直してみよう。この箇条は二つのことを示している。一つはカトリックである聖なる公教会のこと、もう一つは諸聖人の通功である。まず、えけれじや(Ecclesia=教会)とはでうす(天主)を信じ奉って共にその教えを代々受け継いでいくきりしたんの団体のことである。教えとひいです(Fides=信仰)は一であるから、一なる公教会と言うのである。この教会を身体にたとえれば、信徒は肢体であり、らうま(ローマ)のぱつぱ(Papa=教皇)は頭である(厳密に言えば頭はイエズス・キリストであり、教皇はキリストから教会の統治の命令を受けたキリストの代理者である=筆者)。この教会がかたうりか(Catholica=カトリック)と言われるのはすべて世界のきりしたんを一にしているという意味であり、すぴりつさんと(Spiritu Sancto=聖霊)が治められるゆえにさんたえけれじや(Sancta Ecclesia=聖なる教会)とも言われる。聖霊に誤りがないように、教会も誤ることはない。

 次に、諸聖人の通功とは何か。キリシタンの団体は一身の心であり、教会は一であるから、各々の肢体である信徒たち、聖徒たちは信仰、さからめんと(Sacramento=秘跡)善業などの功徳を共有する。この世に生活するきりしたんだけはなく、天におられるさんと(Sancto=聖人)たちもぷるがたうりよ(Purgatorio=煉獄)で罪の償いをしている霊魂たちもイエズス・キリストを頭とする教会の構成員であり、互いに功を通じて(祈り、善業、贖宥、ミサ聖祭等)助け合うこと、これが諸聖人の通功である。
    
 教会が一(Una)、聖(Sancta)、公(Catholica)、使徒継承(Apostolica)であることを、けれどは宣言する。その教会の一員であることを離れては救いの道は閉ざされている。キリストがお建てになった唯一の、聖なる、世界に普遍的な、使徒からずっと継承されてきた教会、それがカトリック教会である。

 ところが現実にはキリスト教は四分五裂どころかまったくバラバラである。1054年にギリシャ教会がローマ・カトリック教会から分離し、それ以後正教会(Orthodox Church)を名乗っているが、これはロシア正教会(8500万人)、ルーマニア正教会(1700万人)、ギリシャ正教会(900万人)、セルビア正教会(800万人)、ブルガリア正教会(800万人)、コンスタンティノープル正教会(150万人)、ポーランド正教会(100万人)その他の国々の正教会(900万人)となってそれぞれ総主教を頂いている。1517年のルターによる宗教改革は以後無数のプロテスタント諸派を次々と産み出していった。 1538年にはイギリス国王ヘンリー八世がローマから離反してアングリカン・チャーチ(聖公会)を建てた。全体で7700万人がアングリカンと言われているが、英国聖公会は2630万人(ゲイの司教を支持するローワン・ウィリアムズがトップ)、その他にアメリカ・エピスコパル教会(最初のホモセクシュアルの司教ジーン・ロビンソンが属する)は240万人、カナダ・エピスコパル教会が80万人、これらの同性愛支持派のアングロ・アメリカ系のアングリカンに反対するアフリカ諸国のアングリカンが3930万人、ナイジェリアの2000万人を筆頭にウガンダ、ケニヤ、南アフリカ、タンザニア、スーダンなどにいる。そして1949年に中国はカトリック教会に代わるものとして Catholic Patriotic Association を創設し、聖職者、信徒をローマ教皇から離反させた。これはカトリックの名をつけているが、一、聖、公、使徒継承の真の教会ではない中国共産党傀儡の組織であり、ローマ教皇に忠節を尽くす信徒は地下教会として細々と生きているが、激しい弾圧を受け、おそらく殉教者が現在も出ている。

 つい最近のニュースを以下に掲げよう。

 CHINESE GOVERNMENT REJECTS VATICAN PROTESTS

May. 09 (CWNews.com) - A Chinese government official has rejected the Vatican's protest against the ordination of bishops without the Pope's consent, the Italian ANSA news agency reports. Liu Jianchao, a spokesman for the Chinese foreign ministry, said that while Beijing wants to improve relations with the Holy See, the Vatican cannot interfere with "internal" matters such as the appointment of Catholic bishops. He claimed: "Chinese bishops are elected democratically by Chinese Catholics and the government does not interfere in religious affairs." The Vatican had issued a stern protest against the ordination of two bishops, on April 30 and May 3, without authorization from the Holy See. The Vatican statement had charged that bishops and priests of the government-approved "official" Catholic Church had been subjected to a campaign of threats and intimidation, forcing them to participate in the ceremonies.

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 このような教会とも言えない協会(the Chinese Catholic Patriotic Association=CCPA)を正当なカトリック教会であるかのように見なしているバチカン当局者は何を考えているのか?上のニュースではもちろん、共産党中国政府がバチカンの抗議(?)を拒否する、という内容であるが、教皇の許可なしに司教を任命する行為を繰り返し意図的に行っている CPPA は確信犯であり、抗議ではなくて、破門に相当するはずである。「中国の司教たちは中国のカトリック教徒によって民主的に選挙されており、政府は宗教問題に干渉していない」?司教は信徒によって選挙で選ばれるのではない。教皇の司教授任命令(mandate)なしの政府による任命あるいは信徒による選挙などは教会法違反であり、破門の対象であるはずである。マルセル・ルフェーブル大司教による四人の司教の叙階について直ちに行動を起こしたバチカンは数十年にわたる中国カトリック愛国協会の司教叙階について「厳重な抗議」を行うに留まっているが、それはダブル・スタンダードではないのか?

 一、聖、公、使徒継承という四つの特徴を持つべきイエズス・キリストに直接つながるカトリック教会がそこから反逆し分離したオーソドックス諸派、アングリカン諸派、プロテスタント諸派そして共産中国愛国協会などと協議したり、対話を交わしたりすることによって、上述のカトリック教会の特徴はすべて否定されることにならないのか?過去四十年間に何らかの実りがあったとは思えない。バチカンは「多様性における統一」(unity in diversity)という訳の分からない言葉によって、カトリック教会から分離してしまったすべての派をおのれと同等のものとして承認しようとしているかのようである。教義においても、典礼においても、道徳的な問題においても、まったく異なった、相反した主張をしているものがどうして一、聖、公、使徒継承の教会であり得るのか?キリストが御自分の教会として、その上にお建てになったペトロの教会、すなわちカトリック教会以外の教会は使徒継承という条件を欠いており、ペトロの後継者であるローマ教皇を否定している点で上述のすべての派は一致している。これは歴史を見れば一目瞭然である。

けれど 第十かでう
Weblog / 2006-05-15 22:37:35

 Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum. (われは罪のゆるしのためなる唯一の洗礼を認め奉る。)

 どちりなきりしたん:とがの御ゆるしの事。

 イエズス・キリストは使徒たちに罪を赦す権能をお与えになった。「汝らたれの罪を赦さんも、その罪赦されん、たれの罪を留めんもその罪留められたるなり」(ヨハネ20:23)。人はまず洗礼を受けることによって、すべての人に具わっている原罪と各人がこれまでに犯したすべての罪を赦される。

「人は水と霊とにより新たに生まるるにあらずば神の国に入ることあたわず」(ヨハネ3:5)とイエズスはニコデモに言われた。

 洗礼を受けることによって教会の一員となった信徒は、洗礼以後に犯した罪の赦しを得るために赦しの秘跡(こんひさん=Confissan のさからめんと=Sacramento)を受けなければならない。この罪の許しの権能を受けたのは使徒たちであり、その後継者である司教、司祭である。上述したように、キリストがこの世に来られて十字架にかけられて苦しみの後に御死去になられたのは全人類の罪を贖われるためであった。そして洗礼と悔悛の秘跡を通して罪を赦す権能を教会に委ねられたのである。
    
 これは信徒の義務であるが、同時に権利でもある。罪を、特に大罪を持ったまま死ねば、たとい洗礼を受けていたとしてもその人は永遠の火、地獄に行くということは、イエズスの言葉から確実である。そういう悲惨な結果にならないために赦しの秘跡を受けることができることは大きな恵みであり、信徒の特権であると言うことができる。罪を罪だと認めない風潮が世界中に瀰漫しているが、教会もその悪しき風潮に流されないようにしなければならない。現代化とか、世界との調和とかと言っているうちに神の敵が支配する世によって教会が毒されることに対して警戒しなければならない。

けれど 第十一かでう
Weblog / 2006-05-16 22:40:49

Et exspecto resurrectionem mortuorum. (われは死者のよみがえりを待ち望み奉る。)

 どちりなきりしたん:にくしんよみがえるべき事。

 世界の終わり、最後の審判(じゅいぞ)の日には地獄に堕ちた人間の魂も天国(ぱらいぞ=Paraiso)におられる聖人たちも残らず死によって離れた肉身に再び合わされてよみがえる。それまでは霊魂だけで受けていた地獄での苦しみも天国での幸福もこれ以後はよみがえった肉身と霊魂の両方によって、すなわち、復活した人間として味わうことになる。塵となりこの世から消失した身体が再びよみがえって霊魂と合わせられることがどのようにして可能なのか、われわれ人間の常識では不可解であるが、無より万物を創造することがおできになる神にとっては可能である、とわれわれは信じなければならない。キリストは御自分の復活によって、そしてマリアの被昇天によってそのことをすでにわれわれに知らせておられる。

 よみがえり、復活を考える場合に、まず人間が死ぬという事実から出発しなければならない。死とは人間の霊魂が肉身を離れることである。人が死ねば肉身はただちに崩壊を始めやがて土に帰るが霊魂は物質ではなく神によって不滅のものとして創造されているから無に帰するわけではなく、私審判の後に天国か、地獄かまたは煉獄に行くのである。そして世の終わりに、イエズス・キリストの御約束と御復活の保証によって、これまでに生を受けたすべての人、全人類の肉身が復活するのである。

 「父が死人を起こして生かし給うごとく、子もまた、わが思う者を生かすなり。また父は、たれをも審判し給わず、審判をことごとく子に賜いたり。これ人みな父を尊ぶごとく、子を尊ばんためなり。子を尊ばざる人は、これを遣わし給いし父を尊ばざる者なり。誠に誠に汝らに告ぐ、わが言葉を聞きて、われを遣わし給いし者を信ずる人は永遠の生命を有し、かつ審判に至らずして死より生に移りたる者なり。誠に誠に汝らに告ぐ、時は来る、今こそ、それよ、すなわち死人は神の子の声を聞くべく、これを聞きたる人は生くべし。けだし父は生命をおのれの内に有し給うごとく、子にもまた生命をおのれの内に有することを得させ給えり。かつ人の子たるにより、審判する権能をこれに賜いしなり。汝らこれを怪しむなかれ、墓の内なる人、ことごとく神の子の声を聞く時来らんとす。かくて善をなしし人は出でて生命に至らんがために復活し、悪を行ないし人は審判を受けんがために復活せん。」(ヨハネ5:21-29)

 世の終わりの公審判の後には煉獄はなくなり、羊と山羊が右と左に分けられたように、天国と地獄のどちらかにすべての人が分けられるのである。公審判が行われる理由を「公教要理」はこう説明している。すなわち「公審判は、一、天主の智恵と正義とはすべての人に認められ、二、イエズス・キリストがすべての被造物の前に光栄を得、三、善人と悪人とはそれに値する名誉又は恥辱を受けるためであります」と。

 福音とは以上のような決定的な分かれ道を選ばなければならない人間の運命を知らせ、よき道を選ぶように知らせるよき知らせである。神はすべての人が救われることをお望みになるが、人には自由意志が与えられているがゆえに、強制的にというか、人それぞれの自由意志を無視して、天国や地獄へ連れて行かれるのではない。天国は心の貧しき者たちのものである。あるいは「汝ら、もし翻りて幼子のごとくにならずば、天国に入らざるべし」(マテオ18:3)。

 無神論者、啓蒙主義者、近代主義者は神を否定し、肉身の復活、天国、地獄の存在を否認する。カトリックの神学者たちの中にも、天国、地獄は単に心のあり方にしか過ぎないと主張する人がいる。そういう近代主義者はキリストの福音を中世的、幼児的、迷信的考え方だと断定するのか?ファチマで聖母は三人の子どもたちに地獄の幻視をお見せになった。地獄は存在し、そこには無数の人々が苦しんでいる、人々がこのような地獄に堕ちることがないよう罪人たちのために祈りなさいと聖母は子どもたちに言われた。地獄にいる人々はもう救いようがない。地獄に堕ちることとがないようにまだ改心の機会がある現世の人々の罪が赦される道は信じて洗礼を受けることである。真の一、聖、公、使徒継承の教会の中でキリストの恵みを受ける以外に救いはないというのが、カトリックの信仰である

けれど 第十二かでう
Weblog / 2006-05-17 21:14:35

Et vitam venturi saeculi.Amen. (われは来世の生命を待ち望み奉る。)

 どちりなきりしたん:をはりなきいのちをまことにしんじ奉る事。

 来るべき世、それは永遠に続く世であり、じゅいぞ(公審判)の日に復活すべき一切の人間はその後再び死ぬことはないとどちりなきりしたんは述べる。神を知らない者と悪しききりしたんは終わりなくいんへるの(地獄)の苦しみを受けて永らえ、がらさ(恩寵)から離れることなく終わったきりしたんは永遠の生命を楽しむのだ、と。

 公審判の後、善人に向かってイエズスはこう言われる、「来れ、わが父に祝せられたる者よ、世界開闢より汝らのために備えられたる国を得よ」、また悪人に向かっては「呪われたる者よ、われを離れて、悪魔とその使らとのために備えられたる永遠の火に入れ」(マテオ25:34, 41)と。これは肉身、霊魂ともに、しかも永遠に続くものであって、善人は永遠の生命を、そして悪人は終わりなき死を受けるのである。

 永遠の生命の幸福はあらゆる悪からの解放であり、あらゆる善の享受であり、終わりなき死の不幸はあらゆる善からの疎外、あらゆる悪との共存である。

* * * 

以上がけれど(Credo=使徒信条)の内容である。神であられるイエズス・キリストから告げ知らされたこととして、聖霊によって導かれる聖なるカトリックから教えられるひいです(信仰)の各条はこれを全体としてなんらそこなうことなく信じ保持しないならば、永遠の滅びに至るほどの重要な箇条なのである。信ずべきことの次には守るべき掟(まんだめんと=Mandamento)を検討しなければならない。

まんだめんと 第一
Weblog / 2006-05-18 21:50:01

どちりなきりしたん 第七 でうすの御おきて十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)の事

第一のまんだめんと:御一たいのでうすをうやまいたつとび奉るべし。

 「我は主汝の天主なり、汝をエジプトの地より、奴隷の家より連れ出せる者なり。我の他汝に天主あるべからず。汝、己の為に、刻みたる像も、上は天に在るもの下は地にあるもの又地の下の水の中にあるものの肖像も作るべからず。汝、これらの物を礼拝すべからず、また之に仕うべからず。我は力あり、妬む主、汝の天主なれば、我を憎む者には、父の不義を子に報いてその三四代に及ぼし、我を愛してわが誡を守る者には、慈悲をかけて千代に及ぼさん。」(出エジプト記 20:1-6)。

 どちりなきりしたんは十戒の各条の説明の前に、この十箇条はすべて二箇条に極まると述べる。第一に、御一体であるでうす、天主を万事に超えて愛すること、第二におのれの如くぽろしも(Proximo=隣人)を大切にせよ、と。十戒は信じ奉る唯一の神を万事に超えて愛すべしという愛の掟である。十戒の最初の三箇条は神に対してつとめるべき道であり、後の七箇条は人に対してつとめるべき道である。

 創造主にまします神はまた天地万物の立法者、掟の制定者にまします。人間に対する神の掟は良心を通して万人に与えられているが、原罪によって罪の傾きを持っており、意志の自由の乱用があり得るので、神の助けなしにはなかなか守れない。被造物の中でまず神に背いた天使であるサタン、悪魔が人間を誘惑して神に背かせたことはアダムが禁断の実を食したことによってわれわれに告げられている。人間は原罪によって生まれたときから罪への傾きをすでに持っているのである。しかしイエズス・キリストはその十字架の贖いによってわれらの救い主となられた。奴隷の家より連れ出されるという意味は罪の奴隷、サタンの奴隷となることからわれわれが解放されて自由の身となるということである。そのことは神の愛に応える神への愛として神の掟を守ることなしにはあり得ない。

 我の他汝天主あるべからず。これは真の神である私を礼拝しなければならないという積極的な命令であると同時に私以外の神(偽りの神あるいは神々)を礼拝してはならないという禁令である。われわれは真の神を信じ、望み、愛さなければならない。神に従い、神の助けを願わなければならない。神は天主と言われるように、天地の主である。唯一、絶対、全知全能の神である主を礼拝しなければならないということは当然、そうでない偽りの神を神として礼拝したり、被造物を神として立ててそれを礼拝してはならないということであり、あるいは真の神の存在を否定する無神論、懐疑論を主張してはならないということを含んでいる。十戒の第一の掟は(他の掟もそうであるが)ユダヤ教徒やキリスト教徒だけを束縛する戒律ではなくて、被造物である全人類を縛る第一級の掟である。その意味ではこの第一戒の意味は非常に重い。神を否定する者、拒否する者、被造物を神とする者、誤った神を信じる者、真の神の立てられた教会に従わない者は自らの救いを放棄する者である。人生は長いと言ってもせいぜい100年以内である。永遠の救いを忘れてこの世の富や名誉や健康にすべてをかけることは空しくはないか?罪を犯すということは、現世の現行法違反という犯罪だけを意味すると考えるのは短見である。私は罪を犯したことがないと言う人は虚言者である。神の掟に反する人は罪人である。まず第一の掟に従わない人は大罪人である。もちろん、神に従い、真の神を認めていても罪を犯すことからわれわれはそう簡単に逃れることはできない。だからこそ神の恩寵、助け、聖人たちによる神への執り成しや模範が必要なのである。

 第一戒は神のみを礼拝すべし、他のものを礼拝してはならないと命じているからして、天使や諸聖人を崇敬すること、祈りの執り成しを願うことまで禁止されていると考えるのは間違いである。カトリック教会は常に天使や諸聖人に対する崇敬を尊重してきた。神に忠実な諸天使、神に対する信・望・愛において模範的な諸聖人を尊敬すること、崇敬することは神を礼拝することと何ら矛盾対立することではない。また聖像や聖画を偶像崇拝と取り違える人がいるが、それらをそのものとしてではなくて、主キリストや天使や聖人を表すものとして崇敬し尊重することは偶像崇拝には当たらない。このことを誤解して十字架や聖像、聖画をいっさい拒否するプロテスタントはキリストの受肉をどう考えているのであろうか?偶像崇拝は画像や物体を神として、あるいは神性を具備したものとして崇拝、礼拝することである。カトリック教徒はそのような偶像崇拝者ではない。われわれはそれらの聖画像や聖遺物を通して、それが表している実在の天使、諸聖人を思い起こし、神に従う優れた模範として彼らを尊敬するのである。現代のカトリック教会の多くが改造されプロテスタントの会堂のように聖像も置かなくなっているのはカトリック教会のプロテスタント化の一つの現れであろう。

 神を唯一の天主として礼拝すべしという命令、そして真の神以外のものを神として礼拝してはならないという禁令は表裏一体である。そしてそれは現実には人間の自由意志がそれを拒否することがあるとしても、神は命令、禁令に従う者を祝福なさり、従わない者を罰し給うということを忘れてはならない。神はすべての人が滅びに至らず、救いに至ることを望み給うがゆえに、このような命令、禁令を出されているのであって、そこに神の人間に対する強い愛があることを知るべきである。神に従わないことが人間の不幸であり、永遠の滅びであることを知らせることは人間を幸福にするためにまず第一に必要なことであり、そのことを知らせないことはその人を対する愛の欠如なのである。これが宣教の目的、意味なのではないか。エキュメニズムがあらゆる宗教と呼ばれるものがどれも皆救いに導くかのように主張するとすれば、それはこの第一戒に対する誤解から起こっているように思われる。神が「我は妬む主」であると言われるとき、それは人間の妬みのような精神の混乱ではなくて、まさに神の愛、神の正義、神の善が人間に対して注がれているということである。

まんだめんと 第二
Weblog / 2006-05-19 21:16:11

 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

 第二のまんだめんと:でうすのたつとき御名にかけてむなしきちかひなすべからず。

  神は第一の掟でただ神のみを神として礼拝することを命じ給う。その礼拝は神の聖なる御名の尊敬を当然含んでいなければならず、神の御名を軽々しくみだりに呼び汚し冒涜してはならないということを含んでいる。さらに、天主の御名によって偽りであること、正しくないこと、無益なことを誓ってはならないということも含まれる。そのようなことは神の威厳を損なうことであり、神に対する大きな罪である。積極的に言うならば、われわれは神の御名を賛美し、賞賛し、神に光栄を帰さなければならない。 

まんだめんと 第三
Weblog / 2006-05-20 22:12:03

どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

 第三のまんだめんと:御しゆくにちをつとめまもるべし。 

 「汝、安息日を聖とすべきことを憶ゆべし。汝六日の間働きて、汝のすべての業を為すべし。されど七日目は主汝の天主の安息日なれば何の業をも為すべからず。汝も、汝の息子も、娘も、汝の僕婢(しもべしもめ)も、汝の家畜も、汝の門内に在る他所人もまた然り。盖(そ)は主六日の間に天と地と海と、その中にある一切のものを造り、七日目に休み給いたればなり。されば主七日目を祝してこれを聖とし給う。」(出エジプト記20:8-11)。

安息日(Sabbath)は主の日、主日(どみんご=Domingo)と言われる。主なる神に捧げられた日、それが主日、日曜日の意味である。どちりなきりしたんでは、どみんごとえけれじやより知らされた祝日には仕事を休むべしと述べている。

 唯一の天主なる神を神として礼拝することは内面において礼拝するだけではなくて、外面において礼拝することを意味する。すなわち、具体的には世俗の仕事から離れ、仕事を休んで、主の日を聖なる日として行動をもって礼拝すること、儀式としてのミサに与らなければならないということである。これは人間の義務であるが、しかしこの義務の遂行によって利益を受けるのは義務の遂行者自身である。

 トリエント公会議のカテキズムによれば、この第三戒が他の十戒の箇条と異なる点は、後者が自然法の規範、あらゆる時に義務的であり、変えられない戒律でるのに対して、第三戒はモイゼの律法としてユダヤ教徒に課せられた安息日であり、モイゼに与えられた律法がキリストの到来によって廃止された後には、土曜日から日曜日に変更されたように、変更可能なものであるとう点である。なぜなら、この第三戒の曜日の指定は道徳法ではなくて、儀式に関わる律法だからである。しかし週の何曜日にということは変更可能であるとしても、真の神の礼拝と宗教的儀式の挙行・参加は人類にとって普遍的な、自然法をその基礎に持っているという点では、他のすべての掟と同様である。被造物である人間が精神において神を礼拝すべきであるだけでなく、また身体的・外面的・社会的に真の宗教儀式に参加して神に対して尽くすべき義務を果たさなければならないということはすべての人間にとって一つの道徳法である。

 サバト(Sabbath)とはもともと停止、休止を意味するヘブライ語である。サバトを守るということはそれゆえ仕事、労働をやめるということである。第七日目に神は創造の仕事を終えて休まれ、その第七日を祝して聖とされた。神が仕事を休まれ、その日を聖とされたがゆえに、人間も週の六日働いて第七日には労働を休み、そしてその日を聖としなければならない。現代人は日曜日に仕事をしたり、あるいは仕事を休んでも、その日を聖とせずに、娯楽やスポーツなどの自己満足のために宛てる。このことは神の掟に対する重大な違反である。それゆえ第三戒は第一第二の掟とは区別して立てられ、聖なる主の日には労働と世俗的な事柄から離れて、われわれの全存在、魂と肉体を真の神への宗教的礼拝に捧げるべきことを命じているのである。

 第三戒を無視することはそれゆえ、神と神の建て給うた教会の命令に対する反抗であり、そうする人は神の敵である。共産党がロシアで政権を取ったときにやったことの一つは日曜日、主の日を労働の日にすることであったという。holidayはholy day であるのに、それを secular day 俗なる日にしてしまうのが世俗主義 secularism である。

まんだめんと 第四
Weblog / 2006-05-21 22:22:32

 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

第四のまんだめんと:ぶもにかうかうすべし。 

 「汝の父母を敬うべしさらば主汝の天主が汝に賜う地において、汝長寿(ながいき)することを得ん」(出エジプト記20:12)。

第一戒から第三戒までが神に直接向けられた掟であるのに対して、第四戒以下の掟が対象とするのはわれわれが隣人に対して負っている愛の掟である。しかし、隣人に対する愛の掟もまた神に対する愛の掟から導き出される掟である。われわれは神を愛するがゆえに隣人を愛しなければならない。あるいは神を愛することなしに隣人を愛することはできない。また、目に見える隣人を愛することができない者は目に見えない神を愛することはできない。

 われわれの自然的な父母を愛すべしという掟は一般化されて目上、長上、権力・地位・働きにおいて上に立つ者にも適用される。彼らを尊敬し、敬愛し、その命令に従うことが神に依って命じられている。もちろん、父母や長上は神の掟に反する命令を子どもや目下に与えることはできない。

まんだめんと 第四 つづき
Weblog / 2006-05-22 20:32:55

 現在家庭における父親の権威が失墜していることは誰もが認めるところであるが、これは第四のまんだめんとが守られなくなったことに関連している。神の権威を認めない人間中心主義、ヒューマニズムが至上のものとされる近代においては、国家における君主の権威、社会における長上の権威、夫婦関係における夫の権威、家庭における父母の権威等がないがしろにされる。悪しき平等主義が行き渡っている。これは革命のもつ毒であろう。上下関係、支配・被支配の関係をすべて悪とする考え方が民主主義・平等主義として尊重される。これは神が定め給うた第四戒に対する罪であるが、人間主義・近代主義はそれを罪とは考えず、むしろ人間の権利、人権であると考える。フランス革命の自由・平等・博愛のスローガンがこの第四戒を権威主義的・非民主なものとして否定する。

 聖パウロはエフェゾ書5:22-23において「妻たる者はおのが夫に従うこと、主におけるがごとくにすべし、そは夫が妻の頭たること、キリストが教会の頭にして、自らその体の救い主にましませるがごとくなればなり」と述べて、妻は夫に従うべしとしている。これは第四戒の適用である。教会がキリストに従うべきであるように、妻は夫に従うべきである、と。これは神の定め給うた逆転できない関係である。キリストが教会に従うのではないのと同じように、父は子に、夫は妻に従うべきではない。

 バチカン公会議後、教会内部でも権威について混乱が起こっている。教皇の首位権が曖昧になり、ペトロがイエズスから与えられた至高の権威が司教団・枢機卿団に分散され、低下する傾向が生じている。ローマ・カトリック教会として教皇の下に普遍的教会を形成してきた歴史はバチカン公会議後徐々に各国の司教団の自律性を重んじる方向に変わってきた。各国の教会の自由・自主性の尊重ということで典礼をはじめとしてカトリック教会のカトリック性(普遍性)が失われてきた。

 フェミニズムは教会の中にも浸透をはじめ、女性司祭を要望する点にまで進んでいるところさえあるという。男児しか認められなかったミサにおける侍者の役割も今では女児もごく普通に行っている。

 父母、教師、長上、目上に従うべしという神に由来する掟、命令は前に述べたように、彼らが神の掟に反することを命じた場合には従うべきではなく、拒否すべである。それゆえ、神の掟に反しない限りでという前提つきで命じられており、神を絶対者としてその掟に従うことが、第四戒の存在根拠である。神を否定する革命的平等主義においては権威の正当な根拠はなくなるのではないか。フランス革命においても、ロシア共産主義革命においても、その他諸々の無神論的革命政府は、神の地位に自分を置いて、彼らのスローガンの自由・平等・博愛とは正反対の抑圧と絶対的専制と憎しみとを産み出してきたことは歴史が示している。

まんだめんと 第五
Weblog / 2006-05-23 20:41:35

 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

第五のまんだめんと:人をころすべからず。 

 「汝殺すなかれ。」(出エジプト記20:13)。

どちりなきりしたん:人にたいしてあたをなさず、がいせず、きずをつけず、此等の悪事を人のうへにのぞまず、よろこばざるをもてたもつ者也。ゆへいかんとなれば人はみなでうすの御うつしにつくり玉えばなり。

 この掟は神の似姿として造られた人間、神の子としてすべてが同胞である人間について定められた掟である。どちりなきりしたんは「人をころすべからず」と正当に述べている。このまんだめんとによって禁止されているのは人間を殺すことである。神は人間に動物を食することを許しておられるからして、動物を殺すことが禁じられていると理解してはならない。

 また人を殺すべからずという掟は国家による正当な死刑を禁止していると理解してもならない。犯罪者を罰し、無実の者を保護するために、国家は正当にその法律に基づいて人を殺すことができる。神が第五戒を定め給うたのは、人間の社会生活を守り、安全を確保するためであるからである。無法や暴力を抑制するために、不正が犯されたり、暴力が無法に行使されることを防ぐために、国家権力が最高罰として死刑を宣告、執行することは神の正義に反するどころか、社会の安全を守る正当な処置である。

 同じように、正当な戦争において敵を殺す軍人は「人を殺すべからず」の第五戒を犯していると考えられるべきではない。国家の危急存亡に際して敵と戦闘しなけれならない軍人は個人的な野望や残虐性を満足させるために人を殺すのではなく、自国の安全を守るために戦い、敵を殺すのである。個人の場合でも、人から襲われて正当防衛として人を殺さざるを得ない場合にはこの第五戒に違反したとは考えられない。

 自殺、すなわち自分の生命を自分で奪うことはこの第五戒律の侵犯であり、神によって禁じられている。日本人は自殺を罪だと考えない傾向があると思われるが、それは天地の創造主、宇宙の支配者たる絶対神への信仰がないからであろう。自殺は殺人と全く同様に、上に述べた例外を除けば、神の掟に対する重大な違反、大罪である。だから、第五戒は「汝他人を殺すべからず」ではなくて、自他を含めて端的に「汝殺すべからず」と述べているのである。

 他人の身体を害する殺人の中にはもちろん堕胎・中絶が入っている。人を殺す戦争に反対する多くの人々、平和を叫ぶ多くの人々が平気で堕胎・中絶を行っている。世界中で現在堕胎・中絶がどれほど多く行われているか正確にはわからないが、少なくとも年間数千万の無実の赤ん坊が愛されるはずの母親の同意のもとに母親の胎内で殺されている現実に目を向けずに戦争反対を叫ぶ空しさにわれわれは気づくべきである。

 肉身を害する殺人と同様に、人の霊魂を害する行為、言葉、行い、書物その他によって人を精神的に躓かせ殺すことも広い意味では第五戒に対する違反である。今日、マスコミや小説、映画がどれほど人の霊魂を殺し、人に罪を犯させているであろうか。

まんだめんと 第六
Weblog / 2006-05-24 22:42:16

 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

 第六のまんだめんと:じゃいんををかすべからず。   

 「汝姦淫するなかれ。」(出エジプト記20:14)。
 
 どちりなきりしたん:ことばしよさをもてなんによともにいんらんのとがををかすべからず、又はみづからをかす事もおなしとがなり。

 男と女が結婚して夫婦となり、お互いに忠実を尽くして共同生活を営むべきことは神の定め給うた掟であり、この第六戒はまず第一にその夫婦間の正しいあり方を阻害する姦淫を禁止し、精神と肉身の清さを保つべきことを命じている。カトリック教会は婚姻を秘跡の一つとしており、「神の合わせ給いしもの、人これを分かつべからず」(マテオ19:6)というキリストの命令にあるように、その信徒に婚姻を結んだ夫婦が離婚することを禁じている。また「たれにても妻を出だして他にめとるは、これかの女に対して姦淫を行なうなり。また妻、その夫を捨てて他に嫁ぐは、これ姦淫を行なうなり」(マルコ10:11 -12)とも定められている。これは人が自由に改廃できる実定法ではなくて、自然法と神法によって禁止されていることである。そのような夫婦の間で終生その縁を聖なるものとし、互いに相愛し、欠点を忍び、貞操を守ることが命じられているのである。従って男女いずれにとっても姦淫は神の掟に対する重大な違反、すなわち大罪である。この自然法、神法は今日近代国家において破られている。キリスト教国といわれる欧米においてさえ離婚を合法としない国はもうないのではないか?

 双方が結婚している場合の姦淫も一方が結婚しており他方が未婚である場合の姦淫も、未婚者同士の姦淫もすべてこの第六戒に反する大罪である。男女の性的結合は神聖な婚姻関係においてのみ許されているにもかかわらず、今日の社会、大人たちは青少年が結婚の外で性的関係を結ぶことを罪だと考えさせないようにあらゆる手段を使って努力している。性教育と称して結婚前の性的交渉の結果として生じる女性の妊娠を防ぐために避妊の仕方を教えるなどということが公教育で行われているというようなことは現代社会がいかに堕落し、神の前に恐るべき罪を犯しているかを示している。これはもはや個人の罪ではなくて、社会の罪である。

 男女間の性的関係の乱れだけでなく、かつては異常とされた同性愛、同性結婚というような自然に反する罪が国家や州の法律によって合法とされるという狂気の時代が到来している。旧約聖書の時代からソドム・ゴモラの町においてこのような罪が犯されたという例はあったが、それらは大罪とされ神の怒りを蒙って町全体が火で焼き尽くされた。しかし、国家が法律によってこのような反自然的な関係を公認し、一般の人々も嫌悪すべきこととしてではなく、人権の名のもとにそれらを擁護するというような時代は歴史上初めてのことである。神の掟、自然の法を蹂躙して人権を主張する現代社会。神よ、われらを悪より救い給え!

まんだめんと 第七
Weblog / 2006-05-25 16:48:33

 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

 第七のまんだめんと:ちうたうすべからず。

 「汝盗むなかれ。」(出エジプト記20:15)。

  どちりなきりしたん:他人のざいほうをなになりともそのぬしのどうしんなくしてとる事も、とどめをく事もあるべからず、人にもこれらの事をすすめず、そのかうりよくをもせず、そのたよりともなるべからず。

 他人の所有物を盗み、横領し、それに損害を与えることがこの掟によって禁じられている。神は、人間がこの世に生きていくために必ず物を所有しなければならないことを保証するために、財産を正当に所有する権利をお与えになり、その所有権を侵害することをこの掟によって禁じられた。これは人間に対する神の無限の愛の現れである。人間の存在・生存に対する侵害である殺人、社会を構成する正しい男女関係の侵害である姦淫が第五戒、第六戒によって禁じられ、そしてこの第七戒によって神がそれによってわれわれ人間の現世での生存・生活を保護なさる所有権の侵害である盗みが禁じられているのである。

 各人に各人のものをということが正義であり、その侵害の一つが盗みである。盗みの禁止は神の掟であるとともに自然法でもある。人間の社会を転覆させないためには各人に正当に属する物の所有を各人に確保する必要があり、どの社会でも盗みは犯罪とされている。

 神の掟はしかし実際の盗みだけではなくて、その意志や欲望をも禁じている。さらに七戒に背く盗みの罪は痛悔や告白だけでは不十分で、他人に与えた害を償う義務がある。つまり損害の補償、賠償、返還が必要である。

 盗みの禁止はしかし他人の所有物を盗むという行為ばかりでなく、インチキや嘘によって人に物を売りつけ損害を与える商行為にも適用される。これは詐欺的商行為であって、盗みの罪に虚言の罪が加わっている。現代資本主義社会は拝金主義的であり、巧妙な形でこの第七戒に背く事例に満ちている。公務員の汚職・賄賂や企業の談合による不正所得は、個人に損害を直接与えないとしても、社会に大きな損害を与えるがゆえに、すべて盗みの罪である。

まんだめんと 第八
Weblog / 2006-05-26 22:00:39

 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

第八のまんだめんと:人にざんげんをかくべからず。 

 「汝隣人に対して偽証するなかれ。」(出エジプト記20:16)。

どちりなきりしたん:人にざんげんをいひかけず、そしらず、人のかくれたるとがをあらはすべからず。しかりといへどもその人のとがをひきかへさすべき心あてにてつかさたる人につげしらせ申事はかなふなり、人のうへにじやすいせず、きよごんをいふべからず。

 舌の罪はだれもが犯す罪である。そしてこの罪は無数の悪の源となる。公教要理ではこの第八戒によって禁じられていることとして、裁判などで偽って不実を申し立てる偽証、言葉・行いによって他人をだます虚偽、無実の罪を他人に負わせる讒言、ゆえなく他人の欠点や過ちを言い現す誹謗、十分な証拠なしに他人に罪ありと信じる邪推などを挙げている。要するに舌によって他人を陥れ、名誉を傷つけることである。これらはいずれも真実、事実に反する虚偽によって他人に害を与える行為であり、人間関係を破壊する罪である。十戒はつづめれば神を愛し、隣人を愛すべしという二つの掟になるが、第八戒は真実を曲げ、虚偽を申し立てることによって、神と隣人の両者に対して不正を働くのである。

 嘘や欺瞞は神が真実にましますがゆえに、神よって憎まれる行為である。悪魔が神から憎まれるのは彼が真理そのものであられる神に反逆し、真理に敵対する「嘘の父」となったからである。嘘をつく者は他人に損害を与えるだけでなく、悪魔に与して神に敵対する者となるのである。神を否認する人々はこの嘘や欺瞞を最大の武器として利用する。もちろん嘘や欺瞞を単純に並べても誰からも信用されないので、嘘や欺瞞を真実・事実と巧みに混ぜ合わせるのである。共産主義者たちは旧ソビエトにおいても現共産中国においても真実に代えて虚偽を武器とし人々を巧みに騙して支配し、歴史を改竄してきた。嘘は武器であると述べたのはレーニンである。虚偽を流し続けた新聞の名が「プラウダ」(真理)とは何たる皮肉か。

まんだめんと 第九および第十
Weblog / 2006-05-28 06:24:11

 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

第九および第十のまんだめんとす:たのつまをこひすべからず。たもつをみだりにのぞむべからず。

 「汝隣人の家を貪るなかれ。またその妻をも、その僕婢をも、その牛、驢馬をも、そのすべての所有物をも、望むなかれ。」(出エジプト記20:17)。

どちりなきりしたん:他人のつまをこひせず、そのほかれんぼにあたる事をのぞむべからず。いんらんのまうねんにくみせず、又はそれによろこび、しうぢやくする事もあるべからず。他人のざいほうをみだりにのぞむべからず。

 これら最後の二つの掟は妻であれ、財産であれ、他人のものをむやみに欲しがってはならないという禁令である。自分の欲望に制限を設けないで、みだりに他人のものを欲しがる者は神から自分に与えられた分を弁えず、与えられたものに対して神に感謝することを知らない。悪しき欲望はあらゆる悪の根である。第九戒と第十戒は、第六戒と第七戒に関連している。第六戒と第七戒が破られるのは第九戒と第十戒がすでに犯されているからである。人間の外的行為、行動は夢遊病的になされるのでない限り、行動に移される前にすでに心の中で悪しき欲望が肯定され、その実行の機会を狙っているわけである。

 原罪を否定し、性善説を主張する人々はなぜ人間の中に悪しき欲望が潜んでいるのか、罪を犯す行動に走るのかを説明することができない。人間は原罪によって罪への傾向を生まれつき持っているのである。われわれはその事態を謙虚に認めて、神の助けなしにはこの根強い悪への傾きを克服することができないということを知るべきである。現代社会は人間中心に物事を考えて神の掟を無視し、他人の妻を恋することを罪とは認めないで美徳として賛美する。

 欲望は人間が生きて行くために神から与えられたものであるから、あらゆる欲望を悪の根であると考えるのは間違いである。正しく秩序づけられた欲望の満足はしかし原罪によって歪められた。人間は自由意志を与えられているので、思い、望み、言葉、行動、怠慢によって、悪しき欲望を満足させようとして神の掟に背く、これが罪である。原罪はすべての人に生来具わっている悪・罪への傾向であり、各人は正しい教育や信仰によってその傾向に抵抗しなければ、そして神の恩寵が得られなければ罪に陥るのである。生まれながらに神によって備えられた良心も社会の風潮や両親の教育、学校教育によって正常に働かない。現代社会はマスコミや小説・映画・インターネット等を通じて人間の良心を麻痺させ、善悪の判断を誤らせる。人権、自由が野放図に主張されて、神の掟、教会の正しい教えが嘲笑される。「天にましますわれらの父よ、...われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。」

ぱあてるのすてる
Weblog / 2006-05-29 07:02:32

どちりなきりしたん 第三 ぱあてるのすてるの事 

「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

これは主キリスト御自身が弟子たちに教えられた祈り(おらしよ)であるがゆえに主祷文・ぱあてるのすてると言われる。祈りとは神に心を挙げて神を賛美し、御恩を感謝し、罪の赦しと御恵みを願うために神に語りかけることである。神の被造物である人間は神に祈りを捧げる義務があり、祈ることは神の御命令である。救霊を得るために最も必要なものである。キリスト御自身が御父に絶えず祈りを捧げられたその模範にならってわれわれはこの祈りを真剣に御父なる神に捧げなければならない。

 われわれは祈ることによって神に栄光を帰す。われわれは神の前に身を屈め、われわれ人間が神に従属していることを告白する。祈りは神がすべての善きものの創造者であることを謙遜に認め、宣言する行為である。神はわれわれが最終的に希望を置くことができる方、われわれの唯一の避難所、われわれの永遠の救いの砦である。その方に栄光を帰し、賛美し、祈願することは人間として当然の義務であり、祈りを通してわれわれは神からの恵みを得ることができる。キリストは「願え、さらば与えられん、探せ、さらば見出ださん、たたけ、さらば開かれん」(ルカ11:9)と言われた。祈りは天に通じる鍵である。人間の祈りは天へ昇り、神の憐れみが地にくだる。

 どちりなきりしたんにおいて師は神が直接に人間に与え給う三つの善として、「ただしくしんじ奉るためのひいです(Fides=信徳)、よくたのみた奉るためのえすぺらんさ(Esperanca=望徳)、身もちをよくおさむるためのかりだあで(Charidade=愛徳)」を挙げている。ぱあてるのすてるのおらしよはこの第二の徳、すなわちよくたのみ奉るために肝要であると弟子に教えている。しかし一般的に言えば、祈りは三つの徳を育て強める。神を信じない人は正しく祈ることができないし、逆に祈ることによって神に対する信仰を得、強めることができる。祈りはわれわれがますます神に信頼し、希望するようにその力を与えてくれる。われわれに永遠の生命とそれを得るための恩寵、恵みを神が必ず与えてくださるという望みを強める力を祈りは持っている。そしてあらゆる善とあらゆる祝福の与え主である神を愛する心を祈りは涵養する

ぱあてるのすてる (2)
Weblog / 2006-05-30 06:10:44

 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

どちりなきりしたん:てんにましますわれらが御おや御名をたつとまれたまへ。

 第一は御名をたつとまれ玉へと、此こころはでうすのみなと、御ほまれせかいにひろまり、一さいにんげんの御あるじでうすと、その御子御あるじぜずきりしと見しり奉り、うやまひとつとひ奉るやうにといふ心也。

 キリストが弟子たちに教えられた主の祈りの最初の部分は、ラテン語では Pater noster qui es in caelis であり、ぱあてる、父、御おやで始まっている。威厳と力強さを示す創造主、造物主という言葉ではなく、ぱあてる、御おやという信頼と愛を呼び起こす言葉である。創造主なる神は他のすべての被造物とは異なるものとして人間を愛して御自分に似せて創造なさり、神の子となさった。それゆえに神は正当に人間の父と言われるのである。神はすべての人間を御自分の愛子となさり、そのために父としての特別の配慮をなさる。 Providence 神の摂理とは神がすべての人間に対して特別に備え provide、示される配慮のことである。人祖アダムとエヴァは神の命令を無視し、禁令を破った。その結果として楽園から追放された。しかしそれでもなお「主なる天主は、アダムとその妻とに、皮衣を作りて着せ給」うたと創世記が録しているように、人間をお見捨てにならなかったのである。神は正義を貫徹なさるが、それだけではなく愛の手を人間に差し伸べられる。そのことは贖い主であるキリストを後にこの世にお遣わしになったことを見ても明らかである。神は放蕩息子が財産を使い果たして帰宅した時に喜んで迎え牛をほふって宴会の準備をするよき父である。

 ぱあてるのすてる:われらが御おや:神は「われらの」父である。つまり、われわれは神の子としてお互いに兄弟である。人間は兄弟愛、隣人愛に目覚めるべきであるということがこの「われらが御おや」という呼びかけによって示されれている。自分のために祈る人よりは他者のために祈る人を神はお喜びになるということを「われらの父よ」という祈りは示している

ぱあてるのすてる(3)
Weblog / 2006-05-31 06:21:22

 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

どちりなきりしたん:御代きたりたまへ。此こころはあくじとつみをのがれ、でうすとその御子ぜずきりしとよりげんぜ(現世)にをひてはがらさ(Graca=聖寵、恩寵)ごしやう(後生)にをひてはごらうりや(Gloria=栄光、光栄)をもてわれらをしんだい(進退)したまへといふぎなり。

 Adveniat regnum tuum: み国、御代と言われている regnum tuum は kingdom of heaven 天国のことである。洗者聖ヨハネが荒野で「汝ら改心せよ、天国は近づけり」(マテオ3:2)と叫び、キリストが真福八端の一つとして「幸いなるかな、心の貧しき人、天国は彼らのものなればなり」(マテオ5:3)と言われた天国である。そのみ国、御代が来ますように祈れとぱあてるのすてるの第二の部分はわれわれに告げているのである。われわれはこの世でさまざまのものを願い求めるが、キリストは「汝らも何をか食い、何をか飲まんと求むることなかれ、また大望を起こすことなかれ、けだし世の異邦人は、このいっさいのものを求むれども、汝らの父は汝らのこれを要するを知り給えばなり。されは、まず神の国と、その義とを求めよ、さらばいっさいのものは汝らに加えらるべし」と諭された。

 神の国とはこの世にあってわれわれが悪と罪から解放されるために必要ながらさ・恩寵を豊に受けて神的生命のうちに生きられる世界であり、死して天国において神のごらうりや・光栄が完成される世界である。凱旋の教会 Ecclesia triumphans (天国)に入るためにわれわれはこの地上では悪・罪と戦う教会 Ecclesia militans の一員でなければならい。

ぱあてるのすてる(4)
Weblog / 2006-06-01 06:57:24

 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

 どちりなきりしたん:てんにをひておぼしめすままなるごとく、ちにをひてもあらせたまへ。此心はてんにをひてもろもろのあんじよ(天使)でうすにしたがひ、おぼしめすままに御ないせうにかなふ事をつとめらるるごとく、ちにをひても一さいにんげんでうすにしたがひ、おぼしめすままにつかへ奉れかしとの儀也。

 Fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra: み旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを。神の国に入ることを望む者は神のみ旨が行なわますように神に願わなければならない。キリストはこう言われたからである:「われに主よ主よと言う人みな天国に入るにはあらず、天にましますわが父のみ旨を行なう人こそ天国に入るべきなれ」(マテオ7: 21)と。従ってこの主祷文の第三の祈願が第二の祈願:み国の来らんことを、に続くのである。

 み旨 voluntas tua とは神がわれわれ人間に対して命じられたことそして禁じられたことである。以前に検討した十戒は神のみ旨である。命じられたことを守り、禁じられたことを避けることである。神の御意志に対して人間の意志を従属させること、それがみ旨の行なわれることである。神のみ旨が行なわれることが人間の永遠の救い、永遠の幸福につながるのである。

 しかし原罪によって人間の知恵は暗くされ、意志は恣意に堕しやすくなった。禁断の木の実を食することによって神のようになれるという悪魔の誘惑に負けて人間は神に背いた。その傾きはすべての人間が受け継いでいる。人間は神のみ旨が人間の幸福につながるということに関して盲目となり、神の意志に反することが人間の自由意志の行使であると錯覚するようになった。人間のこの知恵の暗さ、意志の弱体化を克服するためには神の恩寵が必要である。

ぱあてるのすてる(5)
Weblog / 2006-06-02 06:24:33

 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

 どちりなきりしたん:われらが日々の御やしなひを今日われらにあたへたまへ。此こころはあにまのためににちにちの御やしなひをあたへたまへとこひ奉るなり。これすなはちたつときえうかりすちやのさからめんととがらさと、ぜんと、すぴりつさんとの御あたへとうの事なり。又しきしんのそくさいと、いのちをつぐべきためにもいるほどの事を与へたまへとこひ奉る儀也。

 Panem nostrum quotidianum da nobis hodie.主祷文のこの第四の祈願は先の三つの祈願が神の光栄に関する事柄の祈願であるのに対して、われわれの身体的・霊的な必要を満たしてくださるようにこいねがうものである。日毎の糧、パンばかりでなく、他のあらゆる生存のために必要なもの、すなわち、衣類や住宅や医薬品、光、熱、空気、水等がこれには含まれる。そしてどちりなきりしたんが適切に解説しているように、われわれが霊的に必要としているもの、あにまのためのにちにちの御やしなひとしてがらさ(Graca=恩寵)、えうかりすちや(Eucharistia =御聖体)など、さらには神の御言葉が含まれる。身体のための食物としてパンが必要であるように、霊魂のための食物として神の御言葉が必要である。われわれはそれを真剣にこいねがわなければならない。そしてキリストの御身体・御血である御聖体はわれわれの霊的な日毎の糧であるからして、それを与えられるように願うのである。

 霊魂のための食物である神の御言葉を受け入れない者は霊的に餓える。アモス書の中で主はこう言われた。「その日、私は地に飢えを送る。パンの飢えではなく、水の渇きでもなく、主のみことばを聞こうと望む、かつえである。人は、こちらの海から向こうの海へ、北から東に至るまで、よろめき歩く。彼らは主のみことばを求めてさまようが、それを見いだすことはできない」(アモス8:11-12)。

 われわれは肉体の飢えを恐れるが、霊魂の飢えを恐れない。飢えを飢えと感じない。日用の糧を今日われらに与え給えと祈らなければならない。日毎の糧 daily bread は霊肉ともに日毎に必要とされるがゆえに、われわれが三度の食事を欠かさないように、神に対してわれわれの日々の生活のために必要な糧が、そしてわれわれの永遠の救いのため不可欠の恩寵が与えられるように、継続的に祈り求めなければならないのである。

ぱあてるのすてる(6)
Weblog / 2006-06-03 15:09:48

 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

 どちりなきりしたん:われら人にゆるし申ごとくわれらがとがをゆるしたまへ。此心は我等にたいして人よりかけらるるちじよく(恥辱)、又はくはんたい(緩怠)以下をゆるすごとく、われらがでうすにたいし奉りてをかすとがあやまりをゆるしたまへとたのみ奉るぎなり。

 Dimitte nobis debita nostra, sicut et nos dimittimus debitoribus nostris.ぱあてるのすてるのこれまでの四つの祈願は霊的および物質的な善を希求するものであったが、この第五以下の祈願は悪・罪からの解放を祈願するものである。神の人間に対する限りない慈愛は神に背いた人間に対して、正義を貫徹する裁判官のようにではなく、放蕩息子の帰宅を喜んで迎える慈父のように、注がれる。

 イエズス・キリストの御受難と御死去に示されるわれわれ人間に対する神の限りなき愛によってわれわれはおのれの罪を許されるのである。ここでも、私の罪と言われずに、われらの罪、われらの負債、われらがとが、と言われている。もちろん、罪、負債、とがは各個人に帰せられるべきであって、集団の中に解消させてはならず、あくまでも一人一人がその責めを負うべきものである。にもかかわらずわれらの罪を許し給えと祈願するのは、人間が神に対してだけでなく、他の人間に対して負債を負い、罪・とがを犯すからである。父なる神に対してわれらの父よと呼びかけるべきわれわれは、他の人をわれわれの兄弟として持っているのであり、お互いに罪を犯し、負債を負うことがあるから、お互いに許し合わなければならないということである。

 この祈願の持っている意味を最もよく説明していると思われるたとえがある。長くなるが引用する。「されば天国は、その臣下に会計せしめんとせる王のごとし。会計を始めしに、王に一万タレントの負債ある者差し出だされしが、返すすべなきままに、主君は彼と、その妻子と、すべての持ち物とを売りて返すことを命ぜり。しかるに、その臣下平伏して願いけるは、しばらく、われを忍容し給え、われ、ことごとく返済せん、と。主君その臣下をあわれみて、これを許し、その負債をも許せり。さて、かの臣下出でて、おのれに百デナリオの負債ある一人の同僚に会いしかば、負債を返せ、と言いつつ捕えてそののどを絞むるに、同僚平伏して、しばらく、われを忍容し給え、われ、ことごとく返済せん、と願えども、彼がえんぜずして去り、負債を返すまでこれを監獄に入れたり。同僚らは、その顛末を見て、いたく憂い、来りて事の次第をことごとく主君に語りしかば、主君、彼を召して言いけるは、汝、凶悪の臣、汝の願いによりて、われ、ことごとく負債を汝に許せり、されば、わが汝をあわれみしごとく汝もまた同僚をあわれむべかりしにあらずや、と。かくて主君怒りて、負債をことごく返すまで彼を刑吏に渡せり。汝ら、もし、おのおのの心より、おのが兄弟を許さずば、わが天父もまた、汝らにかくのごとくなし給うべし。」(マテオ18:23-35)

 主君が臣下の一万タレントの負債返済延期を猶予したばかりでなく負債そのものを免除したということが意味していることは、われわれ人間が神に対して犯した罪がとても人間の力では返済しきれないほどの大きな額であること、にもかかわらず神は人間の力では消すことのできない負債を御子キリストの贖いによって、いわば無償で、その負債を負ってくださるということである。同僚のわずか百デナリオの負債を許せない人間は神に対してどうしてこのように大きな負債の免除を願うことができるか、ということである。

 われわれが神に対して負っている負債 debitum, debita, debt はここでは神に対し、他人に対し、己に対して犯す罪のことを意味しているのであって、人間すべてがその永遠の救いのために求められている神に対する当然の義務、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして神を愛すること、唯一の真の神を神として礼拝すること、神の掟を守ることなどの義務の遂行を意味しているのではない。そのような義務の猶予や免除は神の掟そのものに反することである。
  
 しかし他人から受けた身体的・精神的な損害を許すことは人間にとってどんなに難しいことであるか、だれもが知っている。だからこそキリストはこの主の祈りの中にこの祈願を入れられたのだと思う。


ぱあてるのすてる(7)
Weblog / 2006-06-04 22:47:09

 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

 どちりなきりしたん:われらをてんたさんにはなし玉ふ事なかれと、此心は一生のあいひだぜんじのさまたげあくのすすめとなるてんたさんよりせめらるるといふとも、それにまけざるやうに、でうすの御かうりよくをたのみ奉る心なり。

 Et ne nos inducas in tentationem. イエズスはこのことについてゲッセマニにおいても弟子たちにこう命じられた:Vigilate, et orate ut non intretis in tentationem. 誘惑に入らざらんために目覚めて祈れ、(マテオ26:41)と。イエズス御自身宣教を始められる前「四十日四十夜、荒野にありてサタンに試みられ」給うた(マルコ1:12)。サタンは神人であるイエズスの人間としてのあり方に対して誘惑の攻撃をしかけた--パンによる誘惑、権力と栄華とによる誘惑、神でないもの、特に悪魔に対して礼拝する誘惑、主である神を試みる誘惑などをもって--(ルカ4:3-13)。人間は弱い。神の助けなしにはサタンの誘惑・試みを退けることはできない。どちりなきりしたんにおいて言われているように、人間一生の間、絶えず善事を妨げ、悪の勧めとなるてんたさん(Tentacan =試み・誘惑)によって攻められるのである。世間が、肉が、そしてサタンが人間を攻撃するのである。ちなみに英語の辞書で大文字で始まる the Temptation は(キリストが悪魔から受けた)荒野の試みとあり、the Tempter は悪魔(the Devil)とある。

 現代人はサタン・悪魔などこの世に存在しないと主張する。悪魔の誘惑などとは幻想、子ども騙し、迷信であると言う。悪魔が存在しないと信じさせることこそ悪魔の思うつぼである。悪を悪と認めない自然主義が一般化している。それは神を認めない無神論者の考えである。しかし無神論が風靡していたロシアで今悪魔主義・オカルティズムが猖獗を極めているという。サタンが勝利を占めているのであろう。

 われわれはこの世ではサタンの誘惑から自由であることはできない。だからこそ誘惑に負けて悪・罪に陥ることがないよう目覚めて祈らなければならないのである。悪・罪への誘惑はそれだけでは悪・罪ではない。意識的な同意と実行によって悪・罪となる。

 誘惑はわれわれ人間の弱さをわれわれに自覚させ神の前に謙遜になるべきことを教える。誘惑と戦い神の助けによって誘惑を退けることができるとき、われわれは栄光の冠を受けることを期待することができる。われわれは誘惑そのものをわれわれから取り除いてくださるよう神に願うことはできない。神に敵対するサタンが存在するからである。われわれは肉、世間、サタンに誘惑されてもそれに負けて悪・罪に陥ることがないように神の助けを求めることがどうしても必要である。

 現代人は誘惑を誘惑としてではなく、魅力あるもの、好ましいもの、追求すべきものと考える傾向がある。神の掟に反することを人間の本来のあり方、自然のあり方として肯定する。罪を罪と認めず、人権の享受であると強弁する。思想の自由、言論の自由を主張して神を否定し、悪を肯定する。

 キリストがサタンの誘惑を退けられたように、そして聖人たちが悪と罪に勝利して天国に凱旋されたように、われわれはわれわれの優れた模範を持っている。サタンが打ち負かされるのは怠慢、眠り、酩酊、快楽の享受によってではなく、謙遜、祈り、労働、断食、節制を通してであると言われる。後者がサタンと戦うための武器である。キリストの御助け、聖母マリアの御執り成し、聖人たちの取り次ぎを願いながら、われわれは生きている限りこの戦いに加わらざるを得ないのである。その意味でもわれわれは Ecclesia militans 戦う教会の一員なのである。

ぱあてるのすてる(8)
Weblog / 2006-06-05 15:03:58

 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

 どちりなきりしたん:われらをけうあく(凶悪)よりのがしたまへと、此こころはあにまのあた(仇)となるとが(科)と、しきしん(色身)のわざはい(災い)をものがしたまへというこころなり。

 Sed libera nos a malo. この世の生活においてわれわれは諸々の試練や危険、誘惑にさらされざるを得ない。人間を抑圧し人間に脅威を与える諸々の悪から解放してくださるようにわれわれは神に嘆願しなければならない。この嘆願・祈願は人間が苦境に立たされ苦難を経験するときには自ずと発せられるもので、ある意味では人間に本性的に具わっているものである。われわれはそのような時にのみ神の名を呼ぶ。「苦しい時の神頼み」は本末転倒である。

 ぱあてるのすてるのこの祈願はそれゆえに祈りの最後、第七番目に来ているのである。まず先に、み名の聖とされんこと、み国の来らんこと、み旨の地に行なわれんことをわれわれは願わなければならない。それは神の御意志である。苦しいときだけ身勝手に神に助けを求めるのは筋違いである。イエズスは山上の説教の中で「ゆえに、まず神の国と、その義とを求めよ、しからばこれらのもの、みな汝らに加えらるべし」(マテオ6:33)とわれわれが希求すべきものの順序を教えられた。われわれは災厄、試練、危険、悪からの救助を願う場合にも、まず神の光栄ということを念頭において願わなければならない。

 そもそもわれわれにとって最大の悪・危険・災厄は神からの離反、永遠の救いからの排除ではないか。この世の諸々の苦難がわれわれを襲うとしても、救助を求め、避難所として逃れるべき場所は神の懐以外にはないのである。神のみ旨を果たすことにおいて神に希望を置くこと、それが信仰である。激しい迫害の中できりしたんが抱いた神に対するこの絶対の信仰は彼らを殉教の栄冠にまで導くほどに純粋であった。

 悪よりの救いの祈願は最終的には神の敵であるサタンからの解放の祈りである。サタンは人間に罪を犯させ邪悪な者とした張本人である。サタンは神と神の特別の被造物である人間に対して憎しみを抱き永遠に戦いをしかける悪そのものである。この悪より救い給えと祈ることはすべての人間にとって必要なことである。しかも悪魔との戦いにおいて神や善なる天使の助けなしにはその勝利はおぼつかない。サタンは人間が自力に頼って戦える相手ではない。キリストはそのことをよく御存知の上で、神に信頼してこの悪からの解放の祈願をするように教えられたのである。

 サタンによって支配されることが人間にとっての悪であり、罪である。われわれはそのようにサタンによって支配され彼の支配の下で神の敵対者となるのである。人間にとっての外的な諸々の悪も確かにわれわれを痛めつけるが、しかし、内的・霊的な悪つまり罪よりもわれわれを傷つけるものはない。われわれはそれを恐れ、それから解放してくださるように祈らなければならない。なぜなら永遠の救いがそのことにかかっており、人間の永遠の救いを妨害することが永遠の滅びの中にいるサタンの最終的な目的だからである。

ぱあてるのすてる(9)
Weblog / 2006-06-06 06:05:39

 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

 どちりなきりしたん:あめん。

 Amen.これはヘブライ語で、イエズス御自身の口からしばしば発せられた言葉である。Amen quippe dico vobis 「けだし、われ誠に汝らに告ぐ」(マテオ5:18)。この場合アーメンは「誠に」という意味である。しかし主の祈りの最後に唱えられるアーメンにおいてその意味はトリエント公会議のカテキズムによれば、「汝の祈りの聴かれしことを知れ」ということである。神が嘆願者の祈りを好意的に聴かれたこと、彼の祈りにお答えになり安心して引き下がってよいことを示すための言葉である。主の祈りの中のこのアーメンという言葉は、ミサの犠牲の中では、 Sed libera nos a malo の後で司式司祭、つまりミサ聖祭において神と人間との仲介者である司祭によって唱えられる。司祭は神の民の祈りを神は聴かれた、と民に告げるのであって、他の祈りの終わりにアーメンと唱える場合は神の民の同意(そうであります)、あるいは願望(そうでありますように)が会衆によって表明される。

 アーメンという言葉はまた種々の祈りの終わりに唱えられるが、それはわれわれが祈りにおいて気を散らさないようにわれわれをその祈りに集中させる。われわれの祈願が聴き入れられるように嘆願する締めくくりの言葉である。

 どちりなきりしたん第三 ぱあてるのすてるの事は次の句で終わっている:弟子:ぱあてるのすてるにまさりたるおらしよもありや。師匠:これにまさりたるおらしよべつになし。これさいじやうのおらしよ也、そのゆへはでうすにこひ奉るべきほどのせんようなるでうでうを此おらしよにこめ玉ひて、御あるじでうす御でしたちにをしへ玉ふおらしよなれば也。

あべまりや
Weblog / 2006-06-07 09:05:43

 どちりなきりしたん 第四 あべまりやの事

 「がらさみちみち玉ふまりやに御れいをなし奉る。御あるじは御みとともにまします。によにんの中にをひてわきて御くはほう(果報)いみしき(いみじき)なり。又御たいないの御みにてましますぜずきりしとはたつとくまします。でうすの御ははさんたまりやいまもわれらがさいごにも、われらあくにんのためにたのみたまへ。あめん。」

 弟子:でうすに対し奉りてのみおらしよを申べきや。師匠:そのぎにあらず、われらが御とりあはせて(取り合わせ手=仲介者)てんにましますもろもろのぜんにん、中にもあくにんのためになかだちとなり玉ふ御ははびるぜんさんたまりやにもおらしよを申あぐる也。

 この祈りはさんがびりえるあんじよ(大天使聖ガブリエル)の聖マリアへの受胎告知のときの言葉「めでたし、恩寵に満てる者よ、主、汝とともにまします」(ルカ1:28)が最初に来ているので、その作者の一人は大天使聖ガブリエルであると言ってもよい。次にくる言葉はさんたいざべる(聖エリザベト)が御訪問になった聖マリアの挨拶を聞くや、その子(洗者聖ヨハネ)が胎内でおどり、聖霊に満たされて、聖マリアに語った言葉である。すなわち、「汝は女のうちにて祝せられたり、ご胎内の御子も祝せられ給う」(ルカ1:42)そして最後はさんたえけれじや(カトリック教会)よりの言葉を添えた祈りの部分である。

 がらさみちみち玉ふ:大天使聖ガブリエルが聖マリアに対して述べた最初の挨拶:がらさ・神の恩寵が満ち満ち給う方、それが聖マリアである。あるものがそこに満ち満ちているとき、他のものが入る余地はない。神の恩寵に満ち満ちておられる聖マリアには罪の余地がない。それは神が聖マリアを、御自分の御ひとり子を贖い主としてこの世にお遣わしになるために、お選びになったからして、罪のひとかけらをも持たない清い方としてお造りになったということである。

 1854年12月8日ピオ九世は Ineffabilis Deus において聖母マリアの「無原罪の御宿り」、すなわち、聖母マリアが最初から原罪の汚れを免れて母の胎内に宿られたことを荘厳にカトリック教義として宣言された。原罪の汚れを免れられた聖マリアはもちろん一生の間罪を犯されることがなかった。だからして「聖寵みちみちてるマリア」とわれわれは呼びかけることができるのである。罪がないという消極的な面は裏を返せば積極的にあらゆる徳を賦与されておられたということである。

 でうすの御はは:聖マリアはその御子イエズス・キリストが真の人間であられると同時に真の神であられるからして、神の御母なのである。でうすの御ははさんたまりやは他のすべての聖人たちよりも遙かに強力な執り成しをわれわれのためにしてくださる力を持っておられるのである。

 われらあくにんのためにたのみたまへ:原罪を持ち、罪を犯すわれわれ弱い人間はその罪を赦していただかなければ永遠の地獄に行かなければならない。われらあくにんのためにたのみたまへという祈りによって、聖マリアの強力な執り成しを通じて神の赦しを得る必要があることを教会はわれわれに教えているのである。

 いまもわれらがさいごにも:われわれの日常生活の中で常にということと同時に、われらがさいごにも、聖マリアに対してわれわれのために神に頼んでいただけることを願うのである。われわれの最期は特に重要である。いままでずっとよい生活をしていたとしても、最期が道徳的・宗教的に悲惨な状態であれば、それはサタンの勝利である。われわれは最期において右に分けられるか、左に分けられるかの境目に立つのであり、以後は永遠である。最期、臨終の大切さはいくら強調してもし過ぎることはない。サタンはそのことをよく知っているから、このときに猛攻撃をしかけ、人間が罪のうちに死ぬことに全力を投入する。神を憎むサタンは人間が天国に行くことを妨害し、おのれとともに地獄に引きずり込むことを最大の目的にしているのである。

 最後に師匠は御ははびるぜん(Virgen=童貞女)まりやについて次のように締めくくっている。びるぜんまりやは「でうすの御ははのためにえらびいだされてんにをひてもろもろのあんじよ(Anjo=天使)のうへにそなへられ玉ひ、しよぜんみちみちてんの御きさきのくらいにあげられ玉ふたつときによにんにてましますなり。これによて御子ぜずきりしとの御まえへにをひて、もろもろのべあとよりもすぐれて御ないせう(内証)にかなひ玉へば、われらが申あぐることはりをおほせかなへらるるがゆへに、をのをのきりしたんふかくしんがう(信仰)し奉るものなり。」

あべまりや(2)
Weblog / 2006-06-08 05:39:45

 たつときびるぜんまりやのろざいろ(Rsairo=ロザリオ)とて百五十ぺんのおらしよの事:御ははさんたまりやのろざいろと申は、ぱあてるのすてる十五くはん、あべまりや五十(百五十が本当)くはんなり。

 ここで現在われわれが唱えているロザリオと全く同じ形のロザリオをきりしたんが唱えていたことがわかる。どちりなきりしたんはこの百五十ぺんのおらしよを毎日唱えることができない場合でも、せめてその三分の一、つまり三つの玄義のどれか一つを唱えるべしと述べている。

 どちりなきりしたんでは喜びの玄義は「御よろこびのくはんねん(観念)」、苦しみの玄義は「かなしみのくはんねん」栄えの玄義は「ごらうりや(Gloria=栄光)のくはんねん」と呼ばれ、それぞれ第一玄義から第五玄義まで内容的に今のロザリオとまったく変わらない。カトリックの信仰、信心は変わらないことの証拠である。

 ロザリオの祈りは南フランス(トゥールーズ)でアルビジョワ派の異端がその地方を荒らしていた時に聖ドミニコ(1170-1221) が熱心に聖母の助けを嘆願し、異端と罪に対する解決方法として聖母から示された強力な効果を持つ信心であると言われている。異端や罪と戦うための最も効果的な武器としてのロザリオは従って13世紀からすでに信徒たちによって熱心に唱えられていたわけである。

 最も大切な祈りであるぱあてるのすてるを各玄義で1回、あべまりやを10回、そして最後に栄唱を1回唱えながら、天使のお告げに始まり、マリアのエリザベト訪問、主イエズス・キリストの御降誕、神殿への奉献、イエズス十二歳の折りの神殿での再会、ゲッセマニでの主の御心痛、鞭打ちの御苦難、茨の冠の侮辱と苦しみ、十字架を担い給うたこと、御死去、御復活、御昇天、聖霊の降臨、聖母が天に上げられ給うたことそして最後に天使と人類との元后となられたことを黙想する優れた祈りである。聖母が聖ドミニコに異端と罪の克服の最も効果的な武器としてお与えになったのもむべなるかなである。15の玄義がそれぞれ5玄義を1環として喜び、苦しみ(あるいは悲しみ)、栄えの三つの玄義に編まれている。最初に使徒信経を1回、主祷文が15回、天使祝詞が150回、栄誦が15回ということになる

あべまりや(3)
Weblog / 2006-06-09 06:43:54

どちりなきりしたんでは続いてころは(Coroa=冠)のおらしよについて述べている。これは聖母マリアが御歳63で天に上げられ給うたことを記念してぱあてるのすてるを6くはん、あべまりやを63ぐはん唱えるものである。私はそのことは知らなかった。この祈りはロザリオの栄えの玄義の最後第5連が聖母の天上での戴冠を黙想するものであることに関連して、ころはのおらしよとして特に取り上げられたものであると思う。ことほどさように聖母マリアは神の御母として特別の崇敬を受けるに相応しい方であるということであろう。

 「びるぜんさんたまりやをはじめとしてそのほかさんと(Sancto=聖人)たちの御えい(御影=肖像画)をあるたる(Altar =祭壇)にそなへ玉ふ」ことについてどちりなきりしたんは主イエズス・キリストの御前で彼らに執り成しを願い、また彼らの生涯や行いを黙想することによって彼らから学ぶためであって、聖画や聖像がものを見たり聞いたりすると考えて拝むのではないと注意している。プロテスタントやイスラムの人々がカトリックを偶像崇拝であるかのように非難するのは見当違いである。マリアをはじめ聖人たちは天にあってわれわれの嘆きや祈りを聴いて主なる神に取り次ぎをしてくださるのである。諸聖人の中でもとりわけ聖母マリアは神の御母であられるからして、その御執り成しの力はすべての聖人を合わせたものよりもさらに大きいことは確実である。われらの罪の赦しと恩寵、そして永遠の救霊を願うのはもちろん神なる主、イエズス・キリストに対してであるが、それらのことを願い求める際に、御子であられる主イエズス・キリストの前にわれわれの祈願を取り次いでくださるように聖母によりすがるのである。

さるべれじな
Weblog / 2006-06-10 09:37:14

 どちりなきりしたん 第五 さるべれじなの事

 まず原語のラテン語の祈りを見てみよう:Salve Regina, Mater misericordiae,Vita, dulcedo et spes nostra, salve. Ad te clamamus exsules filii Hevae, Ad te suspiramus gementes et flentes in hac lacrimarum valle. Eja ergo, advocata nostra, illos tuos misericordes oculos ad nos converte. Et Iesum, benedictum fructum ventris tui nobis post hoc exilium ostende. O clemens: O pia: O dulcis Virgo Maria.

次にどちりなきりしたんにおけるさるべれじなは以下の通りである:あはれみの御はは、こうひ(后妃)にてまします御身に御れいをなし奉る。我等が一めい(一命)かんみ(甘味)たのみをかけ奉る御身へ御れいをなし奉る。るにん(流人)となるえは(エワ)の子ども御身へさけびをなし奉る。此なみだのたににてうめきなきて御身にねがひをかけ奉る。これによて我等が御とりなしてあはれみの御まなこをわれらに見むかはせ玉へ。又此るらう(流浪)ののちは御たいないのたつときみ(実)にてましますぜずすをわれらに見せ玉へ。ふかき御にうなん(柔軟)、ふかき御あいれん(哀憐)、すぐれてあまくましますびるぜんまりやかな。でうすのたつとき御はは。きりしとの御やくそくをうけ奉る身となるやうにたのみ玉へ。あめん。

 そして現代語のサルヴェ・レジナはこうである:元后、あはれみ深き御母、われらの命・慰め・および望みなるマリア、我ら逐謫(ちくたく)の身なるエワの子なれば、御身に向かひて呼ばはり、この涙の谷に泣き叫びて、ひたすら仰ぎ望み奉る。ああ我らの代願者よ、あはれみの御眼もて我らを顧み給へ。またこの逐謫の終らん後、尊き御子イエズスを我らに示し給へ。寛容、仁慈、甘美にまします童貞マリア。

 どちりなきりしたん版のほうがサルヴェ(salve=be in good health, be in good condition, be well)という挨拶の言葉を「御れいをなし奉る」と言いかえているので丁寧である。

 この祈りは Hermann Contractus(1013-1054)によって作られた祈りで、中世には修道院の晩歌として歌われた。教皇レオ十三世は1884年1月6日このサルヴェ・レジナの祈りを私唱ミサの後に必ず唱えるように規定された。われわれは今ロザリオの祈りの最後にこの祈りを加える。

 どちりなきりしたんは第五という一つの項目を立てて、「さんたえけれじやよりもちい玉ふおらしよはおほき中にもとりはけ(とりわけ)さるべれじなと申おらしよこれ第一也」とさるべれじなの祈りを特に推賞している。このサルヴェ・レジナはかつて教会で「カトリック聖歌集」543番としてしばしば歌われていたが、今日ほとんど歌われることはなくなった。さびしいかぎりである。マリアに対する崇敬・信心がカトリック教会から薄れてきていることを喜んでいるのはプロテスタント諸派の人々であろう。カトリック教会が自分たちに近づいて来た、と彼らは思っているであろう。

 びるぜんまりや以外のべあと(Beato=聖人、福者)にも信心を表すこともここで述べられている。就中、守護のあんじよ(天使)と洗礼の時にその名をいただく保護の聖人に信心をもつべきである、と。べあとそれぞれにあたるおらしよもあるが、ぱあてるのすてるやあべまりやのおらしよをべあとに対して祈る理由がある。その一つはべあとの御くりき(功力)によってでうす御憐れみを垂れ給えと祈願すること、もう一つはこれらのおらしよをわれわれのためにでうすに捧げ給えとべあとに依頼することである。

こんしりよ
Weblog / 2006-06-11 21:16:12

 どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。

こんしりよ(Consilio = 公会議)あるいはイエズス・キリストの代理者たるぱつぱ(Papa = 教皇)によって定められたまんだめんと(Mandamaento)はすべてのきりしたんが守らなければならない掟である。その地域のびすぽ(Bispo = 司教)が定めるまんだめんとはその地域のきりしたんが守らなければならない掟である、とどちりなきりしたんは言っている。

 われわれはこんしりよについてすでにきりしたんが教えられていたことを知る。こんしりよ(公会議)はキリスト教成立以来第一ヴァチカン公会議(1869-1870)までに20回開催され、そこではすべてのキリスト教徒を拘束する教義と規律に関する事柄が決定されてきた。初期のきりしたんが知っていたこんしりよはトレント公会議(1546-1563)までである。このトレント公会議の次の公会議が第一ヴァチカン公会議である。その二つの公会議の間はおよそ300年である。トレント公会議はルターや他の改革者たちによって広められた諸々の誤謬を検討し断罪するために召集された。そして300年後の第一ヴァチカン公会議では教皇の不可謬性(教皇が聖座から ex cathedra 全キリスト教徒の牧者および教師としてある事柄を決定し宣言するとき、教皇は不可謬 infallible であるということ)が教義として荘厳に決定され宣言された。教皇がこのように信仰と道徳に関して聖座から、あるいは公会議に参加するすべての司教たちと一致して、荘厳に決定、宣言したことは世界中のキリスト教徒がそれを守る義務が生じる。教皇あるいは教皇の特使によって主宰され、全世界の(その当時のキリスト教世界の)司教たちが召集されて開催されるのが ecumenical council であり、この場合 ecumenical とはギリシャ語の oikoumenos(=全世界の)に由来した形容詞である。

 さて今日は三位一体の祝日である。今日の聖福音はマテオ28:16-20で次のように読まれる:「16 かくて十一人の弟子、ガリレアに行き、イエズスの彼らに命じ給いし山に[至り]、17 イエズスを見て礼拝せり。されど疑う者もありき。18 イエズス近づきて彼らに語りてのたまいけるは、天においても、地においても、いっさいの権能は、われに賜われり。19 ゆえに汝ら行きて万民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、20 わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。さて、われは世の終わりまで、日々(にちにち)汝らとともにおるなり、と」。

 イエズスは「天においても、地においても、いっさいの権能は、われに賜われり」と宣言なさり、御自分が父なる神とともなる神であり、三位一体の第二のペルソナであることを明らかにされた。そして「ゆえに汝ら行きて万民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。さて、われは世の終わりまで、日々(にちにち)汝らとともにおるなり」と弟子たちを全世界に派遣なさえり、宣教の使命をお与えになった。今から457年前に聖フランシスコ・ザヴィエルがわが日本に宣教に来たのも、まさにイエズスの弟子たちに対するこの命令を実行するためであった。

 ところで、エキュメニカルな公会議として1962-1965年に開催された教会史の中で第21回目の第二ヴァチカン公会議は今までの20回の公会議と非常に性格を異にし、信仰と規律・道徳に関して教義を決定したり、異端・異説を断罪したりしない特殊な公会議であった。今日のわれわれが経験しているカトリック教会の混乱がこの公会議によって引き起こされているという強い批判が多くの伝統的なカトリック者たちから提出されている。典礼の刷新ということでなされたカトリック教会の現代化、世俗化とともに、もう一つはエキュメニズムということでカトリック教会を偽りの諸宗教に適合させる試みがこの40年以上にわたって続けられている。これは今日の福音で読まれたカトリックの宣教の使命を否定するものであり、キリスト教の一致ということもカトリック教会への帰一ではない仕方で実現しようと無益な対話が繰り返されている。

 きりしたんが現代に戻って来たとするなら、彼らはカトリック教会の中に自分たちが命をかけて守った信仰、教義や実践とは異質のものを見出して仰天するであろう。二つの公会議の間にこのように大きな差異があるのはなぜなのか。カトリック教会は普遍的、永遠の真理の所有者ではなかったのか、イエズス・キリストは「世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり」と約束されたではないか。

 第二ヴァチカン公会議は先に述べたように、教義を荘厳に決定したり、ある異端・謬説を断罪することはしていない他に例のない公会議であった。従って、「第二ヴァチカン公会議の精神」というような曖昧な仕方で述べられてはいるが、すべての信徒を教義の上で破門をもって拘束するというこれまでのエキュメニカル公会議とは異なることに注意すべきである。しかもその「第二ヴァチカン公会議の精神」なるものは、それ以前の公会議の拘束的な決定と明らかに矛盾・対立する方向へと信徒を導いていく現代化・世俗化の精神であり運動であって、カトリック教徒が信仰し固守すべき一、聖、公、使徒伝承の、イエズス・キリストが世の終わりまで守られる真の教会とは反するものである。たつときえけれじやの御おきての根本は決して変化するものではないことを肝に銘じて、もう一度われわれの信仰や実践を見直してみる必要がある、と思う。

http://www.d-b.ne.jp/mikami/ecum.htm

ぱつぱ
Weblog / 2006-06-12 14:28:13

 どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。

こんしりよ(Consilio = 公会議)あるいはイエズス・キリストの代理者たるぱつぱ(Papa = 教皇)によって定められたまんだめんと(Mandamaento)はすべてのきりしたんが守らなければならない掟である。その地域のびすぽ(Bispo = 司教)が定めるまんだめんとはその地域のきりしたんが守らなければならない掟である、とどちりなきりしたんは言っている。

潜伏きりしたんが長い間その再渡来を待ち望んでいたぱあてれ(Padre=神父、司祭)を識別する条件は三つあった。第一は彼らがさんたまりやを崇敬しているかどうか、第二は彼らが独身を貫いているかどうか、そして第三は彼らがローマのぱつぱを頭に戴いているかどうか、であった。長崎大浦天主堂(当時はフランス寺)でのプチジャン神父と浦上信徒との出会いの場面は何度聞いても感動を呼び起こすものである。ローマのぱつぱを頭と頂くのはローマ・カトリック教会以外にはない。正教会も、アングリカンも、プロテスタント諸派もいずれもイエズス・キリストがその上に御自分の教会を建てると言われた巌たるペトロの首位権(マテオ16:17-19参照)を否定している。ペトロとその後継者がぱつぱであり、ぱつぱの下に組織された位階制度(ヒエラルキア)はイエズス・キリスト御自身が定められた神的制度であり、人間の産み出した制度ではない。ぱつぱを頭に戴いているか否かという条件は従って真の宗教であるか否かを判定する一つの決定的条件である。

 神はユダヤ人を選民としてやがて人類を救済すべき救世主が来られるまでの長い期間多くの預言者たちを遣わし、律法を通して彼らを導かれた。しかしイエズス・キリストの御到来によって古い契約は新しい契約によって取って代わられるべきであったにもかかわらず、ユダヤ人たちは救世主の御到来を否認した。ユダヤ教の指導者たちはイエズス・キリストを神と認めるどころか、神を自称する神に対する冒涜者だとしてキリストを十字架につけて殺してしまった。従ってユダヤ教はキリスト教がユダヤ教を引き継いだことを認めないし、ましてキリストの代理者であるぱつぱ・教皇を認めない。

 世界三大宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)はみな一神教であり唯一の神を信じているからして同じだと考えるのは誤りである。ユダヤ教もイスラム教も三位一体の神、その第二のペルソナ・神の御言葉たるイエズス・キリストを神と認めない。それゆえユダヤ教のヤーヴェもイスラム教のアッラーもキリスト教の三位一体の神とまったく同一の神ではないのである。イエズス・キリストを神と認めないからして、そのイエズス・キリストがお建てになり、御自分の代理者となさったペトロそしてその後継者である諸教皇を神の代理者とは認めない。その他の諸宗教はなおさらそうであろう。

 ローマ教皇は Monarch 一人で支配する者である。キリストはペトロに天国の鍵を預け、「私はあなたの上に私の教会を建てる」と言われることによって、ペトロとその後継者を Monarch とされたのである。これが教皇の首位権の一つの意味である。ペトロとその後継者である教皇は primus inter pares 同等な者たちの中での一番目という意味で首位なる者なのではなくて、キリストが特にペトロを名指して他のすべての使徒たちのものではない権威・権力をペトロにお与えになったのである。「わが羊を牧せよ」(Pasce ovus meas)(ヨハネ21:17)とはよき牧者であられるイエズス・キリスト御自身の羊である信徒を牧する、すなわち支配するよき牧者となれという御命令である。

 昨日こんしりよについて考察したが、こんしりよも教皇あるいは教皇から指名された代理者によって召集され、主宰されなければならない。こんしりよにおいても教皇は Monarch である。

 以上見てきた教皇の首位性や不可謬性が第二ヴァチカン公会議以来揺らいできたように思われる。各国の司教団への権威・権力の委譲のようなことが起こっているように見える。これは教会の一致にとって危険なことである。他の諸宗派・諸宗教との一致よりもまずカトリック教会内部の教皇と各国司教団の一致のほうが先決問題であるような気がする。典礼におけるインカルチュレーション、ミサにおける各国語の使用がカトリック教会の普遍性を喪失させている上に、教義・道徳の面での教皇の決定権が縮小されてきているのではないか。自由、平等というフランス革命の精神が権威と位階制度を身上とするカトリック教会の内部に浸透してきているのではないか。

 しかし教皇の首位性や不可謬性ということは、無制約的なもの、恣意的なものと解してはならない。教皇はキリスト御自身から、そして使徒たちから委ねられて来た聖なる伝統に忠実に従う限りでのみ、その首位性と不可謬性を保証されるのである。従って教皇が言われたこと、なされたことのすべてが信徒を拘束するわけではない。「よき牧者」のよきという条件は決定的である、と思う。それは最後の使徒によって閉じられた啓示の全体を正しく、欠けることなく受け伝え、守るということである。啓示に何か新しいことを付け加えたり、何千年にもわたって引き継がれてきた啓示の意味を変更したりすることは教皇といえども許されない。そういう点でわれわれ現代のカトリック教徒はきりしたんが経験しなかった難しい状況の中に置かれている。

 1917年ファチマに御出現になった聖母マリアは子どもたちに「教皇のために祈りなさい、教皇のためにたくさん祈りなさい」と告げられた。現代の混迷したカトリック教会を牧されるベネディクト16世教皇のために祈ろう。

みいさ
Weblog / 2006-06-13 19:56:36

 どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。

こんしりよ(Consilio = 公会議)あるいはイエズス・キリストの代理者たるぱつぱ(Papa = 教皇)によって定められたまんだめんと(Mandamaento)はすべてのきりしたんが守らなければならない掟である。その地域のびすぽ(Bispo = 司教)が定めるまんだめんとはその地域のきりしたんが守らなければならない掟である、とどちりなきりしたんは言っている。

 えけれじやのまんだめんと 第一:どみんごゆはひ日に諸職をやむべし。第二:どみんごゆはひ日にみいさ(Missa=ミサ聖祭)ををがみ奉るべし。

 前期版のどちりいな-きりしたんではえけれじやの第一のまんだめんとはここで参照している後期版の第二が第一としてあげられており、諸職をやむべしという文言はない。現代の公教会祈祷文でも「主日と守るべき祝日とを聖とし、ミサ聖祭に与るべし」となっていて、前期版のどちりいな-きりしたんの第一:「どみんご・べあと日にみいさを拝み奉るべし」と同じである。

 どみんご(Domingo=日曜日)とゆはひ(祝い)日には労働を休むことが命じられている。ポルトガル語のDomingo はまさに主の日である。一週間のはじめの日は、他の六日の労働日、生活の糧を得るために捧げられる俗の日々に対して、労働を休んで主のためにとって置かれる日、主日として俗ではない聖なる日を過ごすべきことが命じられている。もちろん、病者のための見舞いや看病、家族のための食事の準備、葬儀、そしてきりしたんの時代に日常的であった出陣、合戦への参加、掘、築地、城の造営、そのための荷物運搬などの肉体労働は許されていた。貧しいために家族を養うためにはどみんごにも働かなければならない場合にもこのまんだめんとに背くことにはならないと説明されている。さんたえけれじやの目的はどみんご・ゆはひ日に上に挙げたような特別の事情がない限り、えけれじやに参詣し、でうすに対する礼拝を行い、世俗のことから離れてごしやう(後生)のねがひをすべきだということである。

 第二の掟は「どみんごゆはひ日にみいさををがみ奉るべし」とある。みいさとはなに事ぞ、という弟子の問いに対して師匠は「御あるじぜずすきりしとの御しきしん(色身)と御ち(血)とともにさきりひしよ(Sacrificio=犠牲)とてささげものとしてでうすぱあてれにいき(生き)たる人、しし(死し)たる人のためにささげ奉らるるなり。これすなはち御あるじぜずすきりしとの御一しやうがいの御しよさと、御ぱしよん(Passion=御受難)を思ひいださせたまはんためにさだめをき玉ふ者也」と答えている。ミサ聖祭はパンとぶどう酒との外観のもとにイエズス・キリストの御体(御しきしん)と御血(御ち)とを犠牲として父なる神に捧げ、キリストの十字架上の犠牲の功徳を、生ける人とぷるがとりよ(Purgatorio=煉獄)のあにま(Anima=霊魂)とに施す聖なる祭儀である。

 どちりなきりしたんは更に「ぱあてれ(Padre=神父・司祭)さんちしもさからめんと(Sanctissimo Sacramento=至聖なる秘跡、すなわち御聖体)を人々におがませ玉ふときのおらしよ」として「御主ぜずすきりしと貴き御くるすの道もて世界をたすけ玉ふによてくぎやうらいはい(恭敬礼拝)し奉る、わがとがをゆるし玉へたのみ奉る」という祈りを挙げている。また「かりす(Calix=ミサ聖祭に用いる聖盃)ををがませ玉ふ時」のおらしよとして「御あるじぜずすきりしと一さいにんげんをたすけたまはんためにくるすのうへにてながし玉ふたつとき御ちをおがみ奉る」という祈りを挙げている。

 「此みいさの貴きさきりひしよはいかなる心あてをもてささげ奉らるるや」つまり貴いミサの犠牲はどのような意向で捧げられるかという問いに対して、どちりなきりしたんは三つの意向を挙げている。すなわち、御をんの御れいとして、われらがとがのつくのひ(罪の償い)として、いやましに御をんをうけ奉らんために、という三つの意向である。

 以上見てきたように、きりしたんにとってみいさををがむとは、キリストの十字架上の犠牲の再現に立ち会い、司祭とともにキリストの御体と御血とを、パンとぶどう酒の実体変化を通して、父なる神に捧げる至聖なる祭儀であった。このことは永遠に変わることなく世の終わりまで続けられる犠牲の祭りである。

 イエズス・キリストは最後の晩餐において弟子たちにみいさのさきりひしよを御制定になったのであるが、犠牲という面を強調せずに最後の晩餐の単なる記念として信徒の会食のごときものに変えてしまったのがプロテスタント諸派の聖餐式である。さからめんと(Sacramento=秘跡)の項でまた触れられるであろうが、みいさにおけるえうかりすちや(Eucharistia=聖体)の位置づけはカトリック教会の中心的な問題である。

 公会議の後、Novus Ordo Missae と呼ばれるミサが何千年も続いてきた伝統的なミサに取って代わった。ミサ典礼の内容的な変化についてはここでは触れないことにして、外的な面での変化だけを取り上げても、以下のような変化が起こった。祭壇は伝統的な教会では聖櫃を仰ぎ見るように作られ、司祭は祭壇の聖櫃に向かって、すなわち神に向かって(信者に背を向けて)ミサを挙行していたがこのやり方が、司祭が信徒と対面して(ということは聖櫃に背を向けて)ミサを挙行するやり方に変わったこと、聖体拝領台が撤去され、それまで信徒が体拝領台に一列に並んで跪き、司祭の手から舌の上に聖体を受けていたやり方が司祭あるいは信徒の聖体臨時奉仕者から、立ったままで手で受けるやり方に変更されたこと、説教壇が取り払われたこと、信徒席からも跪き台が取り外されたこと、ラテン語を用いずに各国語でミサが行われるようになったこと、従ってラテン語の聖歌あるいはグレゴリオ聖歌も用いられず、カトリック聖歌集に変わって典礼聖歌集という新しいものに変わったこと、等々である。

 きりしたんが「みいさををがむ」ために現代のカトリック教会に足を踏み入れたとすれば、彼は来た場所を間違えたと確実に思うであろう。ぱあてれがきりしたんの方を向き、御聖体のまします聖櫃に背を向けていることなど彼には考えられないことであろう。その他上に挙げたような事実を見たらこれはもうさんたえけれじやのみいさではないと考えるであろう。第二ヴァチカン公会議後わずか四十数年の間にこのように変わってしまったミサを初めとする典礼の改革は、一言で言えば、「教会を現代世界に適合させる」とするヨハネ二十三世の言われる aggiornamento [=現代化]が実はキリストを世界にもたらす代わりに教会の中に世界を持ち込むことになった、つまり教会の世俗化をもたらしたということである。

 私はきりしたんの時代のミサとまったく同じミサとは言わないまでも現代化・世俗化・プロテスタント化されていない伝統的なミサに与りたいとつくづく思う。聞くところによれば、伝統的なミサ、聖ピオ5世のミサは禁止されていないそうであるが、どうしてどこの教会も一様にNovus Ordo Missae なのであろうか? 

えけれじやの御おきて 第三
Weblog / 2006-06-14 20:10:03

 えけれじやのまんだめんと 第三:たつときえけれじやよりさづけ玉ふとき、ぜじゆん(Ieiun=大斎・絶食)をいたすべし。又せすたさばと(せすたへりや Sexta Feria=金曜日とさばと Sabatho=土曜日)ににくじき(肉食)をすべからず。

 前期版のどちりいな-きりしたんではこの第三のえけれじやのまんだめんとは第四に挙げられていて、順序が不同である。また前期どちりいなきりしたんでは簡単な説明で済ませているが、後期どちりなけきりしたんでは具体例を挙げて詳細に説明している。

 きりしたんは二十一歳から正当な理由がないかぎり、くはれずま(Quarezma =四旬節)には大斎(一日一度の食事)を守り、かつ肉食を避けることが義務づけられる。しかし二十一歳前の成長期の子ども青年や六十歳を過ぎた老人また妊娠中や授乳中の婦人、農作業や建築のような力仕事をしなければならない者、徒歩旅行をしなければならない者など、仔細のある者は大斎を免除される。ただどちりなきりしたんは大斎を免除されようと思うとき、自分のこんへそる(Confessor=聴罪司祭)に相談すべきである、としている。

 また金曜日、土曜日に肉食をしてはならない(小斎)という教会の掟がある。肉食といってもきりしたんの時代には牛肉、豚肉などは食さなかったから、「とりのかいこ(鶏卵)、けだもののちにてつくりたるしょくぶつ(食物)」を挙げている。

こんひさん
Weblog / 2006-06-15 19:54:13

 どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。

 えけれじやのまんだめんと 第四:ねんぢう(年中)に一たびこんひさん(Confissan=告解、罪の告白)を申べし。

 イエズス・キリストは使徒たちに「汝らたれの罪を許さんも、その罪許されん、たれの罪を留めんもその罪留められたるなり」(ヨハネ20:22-23)と言われ、使徒たちと彼らの後継者である司教、司祭に罪を許す権能を授けられた。人は洗礼を受けることによって原罪を許されるが、洗礼を受けた後に犯した罪はイエズス・キリストが制定なさった七つの秘蹟の一つであるこの悔悛の秘蹟によって許される必要がある。こんひさんはこの悔悛の秘蹟にどうしても必要な部分であり、犯した罪(大罪と小罪)を聴罪司祭(こんへそる=Confessor)に告白することである。こんひさんの前に罪の糾明、痛悔、遷善の決心が要求され、こんひさんの後には罪の許しの後にも残る償いをしなければならない。

 どちりなきりしたんの説明はかなり詳細になされている。善悪を弁えるほどの年齢のきりしたんはえけれじやの定めの通り、「こんひさんをきき玉ふべきぱあてれ」すなわち、聴罪司祭がいる場合には、せめて一年に一度こんひさんをしなければならない。しかしきりしたんの当時は司祭にいつもこんひさんをすることは不可能であったであろう。司祭がいないとき、当然こんひさんを申し上げることができないから、その場合はまんだめんとに背くことにはならないと言っている。

 身体が汚れたとき身を清めるのと同じように、あにまは悪によって汚れるから、こんひさんによって清めなければならない、というどちりなきりしたんの説明は非常に分かりやすい。日本では身を清めることによって魂の穢れをも消すと考えられることが多いが、悪・罪という神の掟に背く穢れは神の定め給うた秘蹟によってしか清められないのである。

 死の苦しみにあるとき、たつときえうかりすちやを授かる前には、こんひさんをするべきである、と述べられている。もるたるとが(Mortalとは死のこと、もるたるとがで大罪を表す)については第九の項目で述べられるが、これはこんひさんによって必ず許されなければならず、罪の許しなしにえうかりすちやを受けることは大罪に大罪を重ねることになる。

 こんひさんにおいて重要なことは「一にはへりくだる事、二にしんじつしやうぢき(真実正直)にあらはす事。三にはとがをのこさざる事」である。へりくだるとは罪を犯した自分は許しをうける資格がないと考え、神の御前に謙遜にひれ伏してキリストの贖いの功徳によりすがる態度・心構えである真実正直に表すとは神は人間の内面をもすべて知り給うからして包み隠さずにありのままを告白することである。とがを残さないこととはこんしえんしや(Conscientia=良心)をよく糾明して思い出すことはすべて残らずさんげ(懺悔=告白)することである。

 「こんしえんしやのきうめい」のためには十戒、教会の掟、「七のもるたるとが」、「十四のじひのしよさ」(後の二つは後述)などの項目についてあやまりがなかったかどうかをただすことが肝要であると述べられている。

 きりしたんは洗礼を受ける前のカテキズムにおいてこのようなことを詳しく教えられたのである。現代のカトリック教会ではどうなのであろうか。告解をする人が少なくなったと言われている。かつては告解室があり、司祭はミサの前に告解室で待機していて、多くの人が列を作って告解を待っている風景はどこの教会にも見られた。今は告解室のない教会も多い。司祭に告解を申し出る機会を見つけることが困難になっているのではないだろうか。大罪を持ったまま死ねば、たとえ洗礼を受けた信徒であっても、否信徒であればなおさら、地獄、永遠の火の中へ行かなければならない、ということをわれわれはもう一度真剣に思い起こすべきである。神の憐れみはだからこそ、こんひさんの重要性をえけれじやのまんだめんとの一つとして示すという形で、示されているのである。

えうかりすちや
Weblog / 2006-06-19 21:05:06

 どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。

 えけれじやのまんだめんと 第五:ぱすくはぜんごにたつときえうかりすちやのさからめんとをさづかり奉るべし。

 「公教会の六つのおきて」では「第三 少なくとも年に一度は御復活祭のころに聖体を受くべし」となっており、順序が違うが内容は同じである。これは前期版のどちりいなきりしたんでも現在と同じ第三に挙げられている。

 ぱすくは(Paschoa=復活祭)前後にえうかりすちや(Eucharistia=聖体)のさからめんと(Sacramento=秘跡)を受けるべしという教会の掟、定めである。このまんだめんとをどのように考えるべきかという弟子の問いに対して師匠はこう答えている:「たつときえうかりすちやに御あるじぜずすきりしとおはします事をわきまへ、たつとみ奉るほどのちえあるきりしたんはいずれもぱすくはのぜんごにびすぽ(Bispo=司教)の御はつと(法度)にまかせ一年に一たびえうかりすちやをうけ奉るべしとのぎなり。しかれどもそれはこんひさんをきき玉ふぱあてれの御どうしん(同心=同意)をもてのぎなるべし。」

 過ぎ越しの食事の時「弟子たちの食するに、イエズス、パンを取り、祝してこれを裂き、彼らに与えてのたまいけるは、取れよ汝ら、これ、わが体なり、と。また杯を取り、謝して彼らに与え給い、みなこれをもって飲みしが、イエズス彼らにのたまいけるは、これ衆人のために流さるべき新約のわが血なり」(マルコ 14;22-24)。 パンとぶどう酒の形色・外観の下にイエズス・キリストの真の体と血の犠牲がミサの度毎に新たに繰り返され、信徒はそのえうかりすちや・御聖体を拝領することによってイエズス・キリストと一致し、そして霊魂の糧とする。教会は信徒に最低限一年に一度は復活祭の頃に聖体を受けることを命じる。それはキリストが「わが肉を食せずわが血を飲まざれば、汝らのうちに生命を有せざるべし」と言われたからである。

 御聖体の中には実体的にイエズス・キリストの御体と御血がましますだけでなく、イエズス・キリストの御霊魂と神性がましますからして、われわれは聖体拝領によって神御自身を受け奉るわけである。確かにキリストは最後の晩餐の席で弟子たちとともに食事をなさったのであるが、これは単なる食事・会食ではない。そのときに上に述べたように、キリストはパンとぶどう酒を御自分の体と血と霊魂と神性とに変えられたのであり、それを弟子にお与えになり、弟子たちに「汝らわが記念としてこれを行え」と言われて、えうかりすちやをさからめんととして行う権能を与えられた。

 プロテスタント諸派はこのえうかりすちあがさからめんとであることを否定して、単なるキリストと弟子たちとの会食の記念としての聖餐式に変えてしまった。そこで食されるパンとぶどう酒はもはやキリストの体と血、霊魂と神性ではなくて、単なる会食のための食物・飲料でしかない。第二ヴァチカン公会議後はカトリックの中でも、聖体の中に真のイエズス・キリストがましますことを信じない人々が増加しており、ある世論調査ではアメリカで半数近いカトリック教徒がそのことを信じていないという結果が出ているそうである。彼らはもはやカトリック教徒ではなくなっているのであろう。きりしたんはこの点でもまた現代に現れたならば驚倒するであろう。

もるたる科
Weblog / 2006-06-20 21:12:54

 どちりなきりしたん 第九 七のもるたる科(とが)の事。

 どちりなきりしたんは十戒、教会の掟の次にもるたる科について説明する。科はもるたる科(Mortal=死にあたる、罪、すなわち大罪)とべにある科(Venial=赦さるべき、罪、すなわち小罪)とに区別される。もるたるの意味はこの場合、身体的な生命の喪失としての死ではなくて、「なつうらのうへなるあにまの一命」(超自然的な霊魂の命)のことであり、それによってがらさ(Graca=恩寵、聖寵)が失われて霊的に死の状態に陥る罪について言うのである。もちろん霊魂は不滅であるからして、霊魂が死滅するということではなく、がらさを失うことにおいてあにまはいわば死んだ状態になると考えられているのである。もるたる科はでうすに対する叛逆としてでうすから離れ、がらさを失いぱらいそ(Paraiso=天国)のごらうりや(Gloria=栄光)ではなくて、いんへるの(Inferno=地獄)の罰を招く原因である。われわれが何にもまして大罪を避けねばならぬのはそのような永遠がかかっているからである。

 もるたる科を犯すときにはひいです(Fides=信仰)を失うのかというとそうではない。もるたる科はでうすのがらさを失うけれども、ひいですを失うわけではない。もるたる科を犯すことによってきりしたんであることをやめるわけではない。信仰の喪失は背教という別の事柄である。きりしたんはもるたる科を犯したとき、それを痛悔し、再び犯すまいと決心した上でこんひさん(Confissan=告解、罪の告白)のさからめんとをぱあてれから受けなければならないことは前にも触れた。

 もるたる科の数は七つ:これは「よろづのとがのこんげん」としてかうまん(高慢、傲慢)、とんよく(貪欲)、じやいん(邪淫)、しんい(瞋恚、憤怒)、とんじき(貪食)、しつと(嫉妬)、けだい(懈怠、怠慢)が挙げられているが、現在の公教要理でもその項目は全く同じで(呼び名と順序が少し異なるが)「七つの罪源」と呼ばれている。もるたる科は事によってべにある科となることが多いとどちりなきりしたんは言っている。

 当然のことであるが、きりしたんはどちりなきりしたんを学び、信じ、実行することによってきりしたんとして生きたのであって、われわれは、ともすれば彼らが領主の一言によってわけも分からずにきりしたんになったと考えがちであることが如何に誤っているかを、思い知らされるのである。十分に訳語が定まらない時代にポルトガル語の音をそのまま移したいわばきりしたん用語でもって、彼らきりしたんは千数百年伝えられてきたカトリック信仰を理解して受け入れ、実践していたことにわれわれは改めて驚異の念を抱く。われわれの祖先が450年前に受け入れた信仰は彼らにとっては1550年前、われわれにとっては 2000年前のキリスト教の始まりから一貫して不変のものとして生き続けているのである。そのことが時代的にも場所的にもカトリック(普遍的)である教会の本質である。われわれは時代に合わせて変化して行く面をも持っているが、事、信仰に関していえば、それはあり得ない。キリシタンはわれわれが享受している文明の利器を何一つ享受しなかった。しかし信仰は20000年前も、彼らの時代も、われわれの時代も変わらない。教会の aggiornamento 現代化というようなことが安易に語られ実行されれば、それはカトリックでなくなることにつながる、と思う。

べにある科
Weblog / 2006-06-22 22:23:47

 べにある科とはもるたる科より軽いもので、でうすのがらさを失うことはないとがではあるが、でうすへの愛とでうすにお仕えする心をゆるがせにするものであるから、もるたる科の発端になる。公教要理では小罪と言っている。小罪といえども神の掟に背くことには違いなく、やがて大罪へと導くものである。どちりなきりしたんは公教要理よりも詳しくこのべにある科・小罪を説明している。べにある科の赦しのためには、さからめんと・秘蹟を授かり、みいさ・ミサを拝み、あやまりのおらしよを申しあげ、痛悔の心をもってびすぽ・司教のべんさん(Bencan=祝福)を受け、あぐはべんた(Agoa benta=聖水)を注ぎ、胸を打ち、信心をもってぱあてるのすてるのおらしよを申しあげ、どんな所作もこんちりさん(Contrican=完全な痛悔)の印となることをする、などのことが必要である。

 悪の根源、大罪へと導くものである七つの罪源をもるたる科のところで見たが、それに対抗する七つの善をどちりなきりしたんは以下のように挙げている。高慢に対抗するうみるだあで(Humildade=謙遜)はへりくだることであり、貪欲に対抗するりべらりだあで(Liberalidade=寛容)はよく施すこと、、邪淫に対抗するかすちだあで(Castidade=貞潔)は貞心のこと、瞋恚・憤怒に対抗するはしえんしや(Patientia=忍耐)は堪忍のこと、貪食に対抗するてんぺらんさ(Temperanca=節制)は中庸のこと、嫉妬に対抗するかりだあで(Charidade=愛徳)は大切のこと、懈怠、怠慢に対抗するぢりぜんしや(Diligentia=熱心・精励)は善の道にゆるがせなく勧めることである、と。

 第九、七のもるたる科の事の最後にどちりなきりしたんはあにまの三のぽてんしや(Potentia=能力)について説明している。一にはめもりや(Memoria=記憶)といって過去のことを思い出す能力、二に
はえんてんぢめんと(Entendimento=悟性)といってものを知り弁える能力、三にはおんたあで(Vontade=意志)といって憎んだり、愛したりすることに傾く能力があにまの三のぽてんしやである、と。そしてあにまに備わるこの能力は身体を離れて後もあにまに伴って行くものであり、後生の苦楽を受けるのである、と。それに対して身体のせんちいどす(Sentidos=感覚)はげん(眼=視角)、に(耳=聴覚)、び(鼻=嗅覚)、ぜつ(舌=味覚)、しん(身=触覚)の五つであり、これらは身体に伴うから死んで身体が果てるとこれら五つの感覚も果てる。あにまとしきしん(色身=身体)から成る人間はこのようにして前者は霊的なものとして不滅であり後者は物質的なものとして滅びるのである。

 きりしたんはこのようにして、未だ訳語が確定されていないあにまのぽてんしやについてポルトガル語の音そのままにキリスト教的道徳と人間学をどちりなきりしたんを通して教えられたのである。彼らはあにまのたすかり・救いを本気で望んだと思う。現代のキリスト者はどうであろうか?きりしたんにとって道徳は人間社会内部のただ水平的であるだけの関係ではないのであって、まず先ず第一に神との関係において、神の掟に背く罪・悪と神の掟に従う善・徳との戦いの場への参加であったと思う。人間中心主義の道徳は平和・戦争反対を叫ぶ一方で、神の掟にまっこうから反する堕胎や同性愛を人権として主張する

さからめんと
Weblog / 2006-06-23 20:22:21

 どちりなきりしたん 第十 さんたえけれれじやの七のさからめんとの事。

 ごしやうをたすかる(=来世の救霊を得る)ためにはこれまでに示されたことを守り、信仰を保ち、行動を正しくするという三つのことで十分かどうか?そうではない。信仰を保ち、正しく実行するためにはでうすのがらさが絶対必要である。なぜなら、それらの三箇条でさえでうすのがらさがあって初めて達成できるのであって、人間の自然的な能力だけでは無理だからである。そのがらさを人間に与えるものが御母さんたえけれじやの七のさからめんとなのであり、これらを十分な覚悟をもって受けなければならない。

 さからめんと(Sacramento=秘蹟)というのはがらさ・聖寵を施すためにイエズス・キリストが定め給うたしるしであり、そのしるしによって聖寵が与えられるだけでなくて、実際に聖寵を与える手だて・手段となるのである。しるしは何かあるものを指し示す役割を果たす。例えば自然的なしるしとして煙はそこに火があるしるし、つまり火を指し示す。秘蹟はもちろん、単に自然的なしるしではなくて、イエズス・キリストが制定なさった超自然的・神秘的なしるしである。あにまにがらさが与えられてそこにあるというしるしであり、またがらさを与える手だてである。超自然的・神秘的であると言ってもわれわれが把握できない、目に見えないというのではなくて、外的・感覚的な物事を通してそのしるしは与えられる。例えば洗礼の秘蹟は水を額に注ぎながら「われ、父と子と聖霊との御名によりて汝を洗う」という洗礼の言葉を唱えることによって授けられる。このように、水は洗礼において外的なしるしとして、水が身体を洗い清めるように、洗礼において与えられる聖寵が霊魂を洗い清め、原罪の穢れを消すということを示すために用いられるのである。がらさ・聖寵は救霊のために天主がイエズス・キリストの功徳によって施し給う超自然の恵みであり無償の賜物である。人はそれによって悪を避け善を行うように助けられ、また霊魂を聖なるものとする恵み(成聖の聖寵)を受ける。その聖寵を施すしるし・手だてとして七つのさからめんとがイエズス・キリスト御自身によって制定された。従って、イエズス・キリストが聖寵をお与えになる仕方を決定されたということであり、その数も決定されたということであるから、人間がこれを改廃することはできないのであって、イエズス・キリストからその執行を委ねられたカトリック教会は聖寵を秘蹟を通して人々に授けるけれども、イエズス・キリストが望まれる仕方でのみ、そうするのである。プロテスタント諸派は洗礼以外の秘蹟をすべて放棄している。

 どちりなきりしたんではさからめんとはすべてポルトガル語やラテン語で呼ばれている。一にはばうちずも(Baptismo=洗礼)、二にはこんひるまさん(Confirmacan=堅振)、三にはえうかりすちや(Eucharistia=聖体)、四にはぺにてんしや(Penitentia=悔悛)、五にはえすてれまうんさん(Extrema Vncan=終油)、六にはおるでん(Orden=品級)、七にはまちりもによ(Matrimonio=婚姻)がそうである。

ばうちずも
Weblog / 2006-06-25 21:59:52

 この七つの秘蹟のうちの第一は洗礼の秘蹟である。なぜなら、洗礼の秘蹟を受けなければきりしたんになれないし、その他の秘蹟を受けることができないからである。またえうかりすちやの秘蹟を受ける人はもるたる科を犯しているならば、まず痛悔した上でこんひさん(罪の告白)をするぺにてんしやの秘蹟を受ける必要がある。

 ばうちずもとはきりしたんになるさからめんとであり、これをもってひいですとがらさを受け、おりじなる科と、生まれてこれまでに犯した科を赦される、とどちりなきりしたんは説明する。ひいですを受けるので、アウグスティヌスは洗礼のことを信仰の秘蹟と呼んだ。洗礼を受けることによってわれわれはカトリック教会が教えるキリスト教信仰のすべてに対するわれわれの信仰を告白するからである。がらさの中でも最も根本的な救霊のがらさを洗礼によって受ける。洗礼はイエズス・キリストが「人は聖霊と水とによって新たに生れずば、天国に入る能わず」(ヨハネ3:5)と言われたように、救霊のためにどうしても必要なさからめんとである。

 どのような覚悟でこのさからめんとを受けなければならないか?是非を弁える年齢の者が洗礼を受ける場合には、まずきりしたんになろうと望むこと、過去の罪を痛悔し、これからはイエズス・キリストの掟を守るという覚悟でこのさからめんとを受けることが肝要である。

 ばうちずものさからめんとの授け方:洗礼名として聖人の名をいただき、身の上に水をかけて次の祈りを唱える:例えばぺいとろの名を貰った人には「ぺいとろ、ぱあてれと、ひいりよと、すぴりつさんとの御名をもてそれがしなんじをあらひ奉る、あめん」。どちりなきりしたんは念のためラテン語による祈りの文をすぐつけ加えている。「ぺてれ、えごばうちぞいんのみねぱあちりす、えつひいりい、えつすぴりつさんち、あめん」。水をかけるとともに三位一体の御名によって汝を洗うという祈りを唱えることはばうちずもが有効であるための必須要件である。それが抜けてもばうちずもが有効である言葉はぺてれ、それがし、あめん、の三つであり、それ以外の他の祈りの言葉が欠ける場合にはばうちずもを授かったことにはならない。

 ばうちずもはたすかりの絶対必要条件であるが、水によるばうちずも以外にのぞみのばうちずもとちのばうちずもとによって、でうすはたすかりを得る道をお与えになっている。通常のばうちずも、すなわち、水と聖三位一体の御名によるばうちずもを授かることが不可能でも、これら二通りのばうちずもによって救霊の道は確保されるとどちりなきりしたんは教えている。公教要理も、洗礼を受けないでも、死後、救霊を得る人があるか、という問いを設けている。

 のぞみのばうちずもとは真実ばうちずもを授かりたいという望みを持っていても機会を得ず、自分の怠慢でなく、よい覚悟をもって死ぬ場合には水のばうちずもを授からなくても、のぞみのばうちずもとなるので、死後のたすかり、救霊は保証されるのである。

 ちのばうちずもとは御あるじイエズス・キリストをひいですにうけ奉る、すなわちイエズス・キリストに対する信仰を持っているが、水のばうちずもを授かる機会がなく、イエズス・キリストに対する信仰のゆえに殺される場合、血を流すことのゆえにまるちる(Martyr=殉教者)の位にあげられ、死後の救霊を得られる。これが殉教による血の洗礼である。

 ばうちずもを授けるのは誰か?通常、その人、その時に応じて相応しい盛儀をもってなされる場合、ぱあてれ(司祭)が授ける。しかしこのさからめんとは救霊のために絶対必要であるからして、司祭がいない場合には男女によらず誰でもこのさからめんとを授けることができる。ただし、前に述べた条件を厳密に守らなければならない。どちりなきりしたんは当時の状況を考慮してであろう、「ぱあてれのなき所にても此御さづけしげくいる事なれば、きりしたんはいずれもばうちずもさづくるみちをならふべき事専(もっぱら)也」と述べている。このことによって、きりしたんは宣教師、司祭がいなくなった日本できりしたんとしての信仰を何百年も守り続けることができたのである。

こんひるまさん
Weblog / 2006-06-26 15:49:05

 七つのさからめんとの第二はこんひるまさん(Confirmacan=堅振)である。これはきりずま(Crizma)とも言われる。これはばうちずもを授かった人にびすぽ(Bispo=司教)が授ける重要なさからめんとである。

 このさからめんとによってでうすは信徒に新しいがらさを与え給い、ばうちずもの時に受けたひいですを強め(confirm)給うのである。そして必要なときには、万民の前で自己のひいですを公言する力をくださるのである。だからそのような幸せを受けることができるからして、このさからめんとを授からずにいることはできない、とどちりなきりしたんは教えている。以上のような簡単な説明でこんひるまさんの部分は終わっている。

 公教要理は「堅振とは、完全なキリスト信者とならせるために、聖霊と其の賜物とを豊かに受けさせる秘蹟である」と述べている。聖霊の賜物とは「聖霊のすすめにたやすく速かに従わせるために、人の智慧を照らし、心を強める、徳に優れた超自然の賜物である。」それは、専ら天主のことを重んじ味わわせる御恵である上智、教えを悟らせ、之を心に浸み込ませる御恵である聡明、天主の御栄と自分の救霊のためになることを選ばせる御恵である賢慮、救霊の妨げとなるものに打ち克たせる御恵である剛毅、天主の御旨に従って世の中の物事を悟らせ、之を用いさせる御恵である知識、孝子の心を以て楽しく天主に仕えさせる御恵である孝愛、天主を敬わせ、其の御旨に逆うことを畏れさせる御恵である敬畏の七つであり、これらの聖霊の賜物によって、人は信仰を強められ、キリストの兵士となり、戦う教会 Ecclesia militant の一員となるのである。

 こんひるまさんはきりずまとも言われるが、きりずま(Crizma, chrism)とはオリーブ油とバルサムを混ぜたもので、司教によって聖別されて聖香油とされ、堅振式の時に司教はこれを受堅者の額に塗りながら、「われは十字架のしるしをもって汝にしるしをし、父と子と聖霊との御名によりて、救いの聖香油をもって汝を強める」という祈りを唱える。最後に司教は受堅者の頬を軽く打つが、これは受堅者に、キリストのためにはあらゆることを、時には死さえも、忍ぶ準備ができていなければならないことを思い知らせるためである。

 以上のように、こんひるまさんのさからめんとは、この世にあってさまざまの誘惑に取り巻かれているきりしたん、われわれキリスト者が信仰と道徳の危機の時代に立ち向かうために必要な力を与えてくれる重要な秘蹟なのである。堅振の秘蹟によってわれわれは一人前のキリスト者とされ、キリストのために戦う兵士とされるということをわれわれはもう一度思い起こす必要があるではないか?キリストの敵と戦うことを放棄して戦場離脱をし、あまつさえ、敵に身を投じて敵のために働く者になっていないかどうか?融和、対話、赦し、平和という標語はわれわれに塗られたきりずま(われわれを戦いにおいて強める聖なる香油)の意味を忘れさせる危険を多分に持っていないか?反戦・平和運動やエキュメニズム運動はさからめんとであるこんひるまさんを無視する陰謀ではないか?


こむにあん
Weblog / 2006-06-30 19:55:41

 七つのさからめんとの第三はこむにあん(Communian=聖体拝領 注:ポルトガル語では a の上に〜)である。これはえうかりすちや(Eucharistia)とも言われる。

 このさからめんとは最上の理、不可思議第一のみすてりよ(Misterio=玄義)であって言葉で述べることができない。この秘蹟は司祭がミサにおいてイエズス・キリストの教え給うた御言葉[これわが体なり - これわが血なり]をかりす(Calix=聖盃)とおすちや(Hostia=供えのパン)の上に唱えるとき、そのおすちやがまことのキリストの御体となり、かりすの中のぶどう酒がまことのキリストの御血となり変わる。パンとぶどう酒の色、香、味のうちにイエズス・キリストが、天におわしますのと同じようにおわしま す。これは神学的に言えば、実体的変化(Transsubstantiatio)であり、パンとぶどう酒が実体的に変化してイエズス・キリストの御体と御血に変わるが、パンとぶどう酒の外観はそのまま残るので、人間の理性では捉えがたい神秘である。どちりなきりしたんは「まことのみなもとにておはします御あるじぜずきりしとかくのごとくをしへ玉ふうへはすこしもうたがはずしんずる事もつぱらなり」とこのさからめんとに対する信仰を強調している。

 どちりなきりしたんでは、パンとぶどう酒の外観の下でのイエズス・キリストの御身体と御血への実体的変化についてくどいくらいに説明を加えている。しかい要するに「ひいですのひかりもてしんずる」ことが肝要なのである。

 えうかりすちやという言葉はギリシャ語から来ている。えうはよいという意味であり、かりすは恵み、感謝のことである。神からのよい恵みがえうかりすちやである。神の恵みは永遠の生命である。パンとぶどう酒の外観の下に神であるイエズス・キリストが実体的にまします御聖体はまさに神の恵みそのもの、否、神御自身であられる。パンとぶどう酒がわれわれの身体を養う食物・飲み物であるように、パンとぶどう酒の外観の下にまことにおわしますイエズス・キリストは永遠の生命を養う食物・飲み物である。これは単なる比喩ではなくて、イエズス・キリストが定め給うた神秘的な現実である。

 こむにあん(ラ:Communio)はこの秘蹟がわれわれを主イエズス・キリストに結びつけ、われわれをキリストの御体と御血そして神性に与らせ、そのことによってまたわれわれ信徒をお互いにキリストにおいて結びつけ、キリストにおける一つの体すなわち教会を形成することから、そう言われるのである。

 えうかりすちやには三つの意味があると言われている。一つはそれがわれらの主キリストの御受難を表しているということである。聖パウロはこう言っている:「けだし主の来り給うまで、汝らこのパンを食し、また杯を飲むたびごとに主の死を示すなり」(コリント前:11:26)。第二に、この秘蹟は神の恵みを表している。われわれはばうちずもによって新らしい生命に生まれ、こんひるまさんによってサタンに抵抗する力を強められ、えうかりすちやによって霊的に養われ、支えられるのである。第三にわれわれはえうかりすちやを拝領することによって、キリストの御約束のように、やがて受けるであろう未来の永遠の喜びと栄光とを予見するのである。

 えうかりすちやを受けることができるのは、カトリックの洗礼を受け、えうかりすちやの意味を知ることができる年齢に達した者、そして何よりも恩寵の状態にある、すなわち、もるたる科を犯していない状態にある者である。もしもるたる科を犯している場合には次に述べられるぺにてんしや(Penitentia=悔悛の秘蹟)を受けて赦されていなければならない。肉身の準備として、きりしたんの時代はもちろん、近頃までえうかりすちやを受けるためには、前夜十二時から飲食をしてはならなかった。昭和三十年代には条件が緩和されて聖体拝領の三時間前から固形物およびアルコール飲料、一時間前まら水または湯以外の非アルコール流動物を飲食してはならないことになった。病人や死の危険にある最後の聖体拝領の場合にはこの断食の必要はない。

ぺにてんしや
Weblog / 2006-07-02 19:39:58

 七つのさからめんとの第四はぺにてんしや(Penitentia=悔悛の秘蹟)である。これはばうちずもを授かった以後に犯したあにまの病となる科を赦す天の良薬だと言われている。

 このさからめんとは三つの要素からなる。第一はこんちりさん(Contrican=完全な痛悔。最後のシラブルのcはフランス語でいうセディーユ)でこれは心の底からの後悔のことである。第二はこんひさん(Confissan=罪の告白。告解)でこれは言葉で罪を司祭に言い表すことである。第三はさしちはさん(Satisfacan=罪の償い。c はフランス語のセディーユ)である。

 まずこんちりさんとは、人が罪を犯してでうすに背き奉ったところを深く悔い悲しみ、二度と犯すまいと固く思い定め、こんひさんをする覚悟を決めることである。でうすに対する科のために深く悲しむことがこんちりさんであって、科によって受けるべきいんへるの(inferno=地獄)の苦しみや科から生まれる災いのゆえに後悔するのは真実のこんちりさんとは言えない。

 しかしいんへるのの苦しみを恐れて、または科によって生じる災いを恐れて、後悔する場合には赦しを得ることができないのか?それは完全な後悔であるこんちりさんに対してあちりさん(Attrican=不完全な痛悔。c はフランス語のセディーユ)と言われ、それだけでは罪の赦しを得られず、その上にこんひさん(罪の告白、告解)をすることが必要である。あちりさんも不完全ではあるが痛悔であるから、痛悔をしないよりはよいことである。あちりさんは「でうすを御たいせつにぞんじ奉るこころよりをこるこうくはい(後悔)」であるから完全な後悔であるが、あちりさんの後悔はでうすの御たいせつより起こらずに、「身のひいき」(自分の利益)から起こる後悔である。しかしでうすはその御じひによってこんひさんの道を定めてあちりさんの不足を補い給うたのであるから、われわれはそれを有り難く感謝して、罪の赦免に与らなければならない。

 こんちりさんがあれば差し支えることがあってこんひさんをすることができなくても、罪の赦免に与り得る。きりしたんの時代にはこんひさんをすることができない事情も多かったであろうから、心あるきりしたんは夜毎寝る前にこのこんちりさんをもって罪を悔い悲しむことは益の多いことである、とどちりなきりしたんは勧めている。

 初めてのこんひさんではばうちずも以後の罪からそのときまでのことを申し述べ、それ以後のこんひさんでは、前のこんひさんからのことを残らず申し述べなければならない。

 さしちはさんは罪の償いであり、司祭から申し渡されたことを実行する。こんひさんにおいて罪の赦しが与えられても、罪の償いは残るからである。

 以上見て来たように、ぺにてんしやがどのように大切な秘蹟であるかがよく分かる。洗礼を受けてキリスト者になれば天国に行けるわけではない。むしろ洗礼を受けて罪の恐ろしさを知ったキリスト者は知った上で犯した罪を赦して頂き償いを果たさなければ天国に行くどころか、大罪を犯したまま死ねば地獄へ、罪の赦しを得ていても償いが残っていれば煉獄へ行かなければならないのである。ぺにてんしやの秘蹟はそういう意味で神の大きな慈悲なのであり、この秘蹟を持っているカトリック教会こそがイエズス・キリストが建て給うた唯一の真の教会であることがわかるというものである。今日われわれはこの貴い秘蹟を有効に活用しているであろうか?

えすてれまうんさん
Weblog / 2006-07-03 20:12:08

 七つのさからめんとの第五はえすてれまうんさん(Extrema Vncan=終油の秘蹟。c はフランス語でいうセディーユ)である。これはびすぽ(Bispo=司教)よりとなへ玉ふ貴きおれよ(Oleo=油、聖油)をもって授かるさからめんとである。

 このさからめんとは死に臨んだ病人に授けられるさからめんとである。このさからめんとをもって御あるじぜずきりしとは御自身のがらさを与え給い、あにまに残った罪の汚れを清め給い、臨終の難儀をよく堪えるための力を与え給うのである。

 どちりなきりしたんの説明は以上の通りいたって簡潔である。このさからめんとは死と関係がある。このさからめんとを授かることによって人は死の苦しみを聖なる油によって和らげられ、天国へのより容易な道を準備させられるのである。終油の秘蹟は病者の塗油の秘蹟、あるいは死に行く者の秘蹟とも呼ばれる。人は生涯の間にさまざまの秘蹟を受けるが、このえすてれまうんさんのさからめんとは人生最後のさからめんとである。

 使徒ヤコボはこの終油の秘蹟について証言している。「汝らのうちに病める者あらんか、その人は教会の長老たちを呼ぶべく、彼らは主のみ名によりてこれに注油し、これが上に祈るべし。かくて信仰の祈りは病者を救い、主これを引き立て給い、もし罪あらば許さるべきなり。」(ヤコボ5:14-15)

 終油の秘蹟で使われる油は司教によって聖別されたオリーブ油である。それ以外の油は無効である。秘蹟の質料はこの油であるが、その形相は司式する司祭と列席する信徒の祈りである。ヤコボが病める者の上に祈るべしと言っている通りである。この油とこの祈りによって病者は力を得て回復することもあり得る。ただ病者と言っても終油の秘蹟を受けることができるのは死の危険が迫った病者に限られ、回復が見込まれる通常の病者が簡単に受けられるわけではない。また死に臨んだ者であっても、戦場に赴く兵士とか、処刑前の囚人もこの終油の秘蹟を受けることはできない。

 終油の秘蹟はべにある科を赦すがもるたる科を赦すものではないので、もるたる科を持った者はぺにてんしやの秘蹟を受けなければならない。この秘蹟はすべての信徒が必ず受ける機会を得られるかどうか、その保証はない。「よき終わりを遂ぐる恵み」を得られるようわれわれは聖母マリアにお取り次ぎを願わなければならない。

おるでん
Weblog / 2006-07-04 20:26:20

 七つのさからめんとの第六はおるでん(Orden=品級の秘蹟)である。このさからめんとをもってびすぽ(Bispo=司教)よりさせるだうて(Sacerdote=司祭、神父)として、さからめんとを授ける位にあげ玉ふものである。このさからめんとを授かり奉る人はその約束をよきように勤めるために御あるじぜずきりしとよりがらさを受け奉るのである。

 どちりなきりしたんにおける品級の秘蹟の説明も以上の簡単なもので終わっている。

 この品級の秘蹟は他の秘蹟を執行する司祭職の位に人を上げる秘蹟であるから、この秘蹟なしにはまたキリスト教もないと言っても過言ではないほどに重要な秘蹟である。つまり、キリストの代理者である使徒たちの後継者として、司祭、司教はキリスト教にとって不可欠の存在である。司祭がいなければ、御聖体の秘蹟はこの世からなくなる。司祭がいなければ、悔悛の秘蹟も執行できなくなる。キリストの兵士とする堅振の秘蹟も司教の存在なしには執行できない。もちろん、当の品級の秘蹟を継続していくことができなくなる。キリストは世の終りまで教会と共におられると約束しておられるから、司祭や司教がいなくなることはあり得ないけれども、地域的、時代的に、司祭や司教がいなくなる状況は、迫害の時代のキリシタン時代を考えても、十分にあり得ることである。あるいはキリスト教を名乗っているアングリカン・チャーチやプロテスタント諸派には牧師はいるけれども、品級の秘蹟を受けて、使徒伝承の教会を真の意味で維持していく司祭・司教はいないから、真の教会としての役目、キリストが制定された七つの秘蹟の執行の役目を果たしていない。牧師は司祭・司教と同じ聖職者であると世間では誤解されているが、この品級の秘蹟を受けていないがゆえに、パンとぶどう酒を真のキリストの御体と御血に変える聖体の秘蹟、罪人の罪を許す悔悛の秘蹟、使徒の後継者を生み出す品級の秘蹟を執行する権利を持たず、従ってカトリック教会におけるような司教・司祭と平信徒との決定的な役割の違いを持たないのであって、信徒の代表のようなものである。
 
 司祭・司教は(大司教、枢機卿、教皇もそうであるが)神から特別の聖別を受けた特別な祭司職(外的祭司職)であって、信徒が持っていると言われる祭司職(内的祭司職)とは根本的に区別されなければならない。カトリック教会でも近頃、信徒の祭司職が強調され出して、司祭はいわば信徒の代表、ないし会衆の司会者であるかのように考えられる傾向があるが、これはこの品級の秘蹟の持つ重大性を見逃した大きな考え違いであり、カトリック教会のプロテスタント化の現れである。

 この品級の秘蹟を授かる者はいわば神からの特別の召し出しを受けた者であり、洗礼によって神の召し出しを受けて信徒となった者からさらにまた特別の召し出しを受けたいわば二重の召し出しを受けた者である。品級の秘蹟を受ける者は長い召し出しの期間を経て司祭職を最終的に受けるために司教からこの秘蹟を受け、清貧、従順、貞潔の誓願を立てて神にすべてを献げ一生独身を貫く。ルターはこの誓願を破り、カトリック教会の外に出た。プロテスタントの牧師も独身を守らず結婚する人が多い。イエズス・キリストが制定された七つの秘蹟を保っているのはカトリック教会だけである。

まちりもうによ
Weblog / 2006-07-09 14:41:54

 七つのさからめんとの最後、第七はまちりもうによ(Matrimonio=婚姻の秘蹟)である。このさからめんとはえけれじやの御定めのごとくつま(夫、妻)をもうけることであり、これをもって夫婦共に無事大切に永らえ、とがなく子孫繁盛のためにがらさを与え給うさからめんとである。  その時夫婦が相互にしなければならない約束が三つある。第一はひとたび縁を結んだ後には男女ともに離別することはできない。第二は夫婦以外の他人と交わることはできない。第三は、まちりもうによのさからめんとによって神より互いに離れることのない夫婦とされたのであるから、互いに不足のある所を補い助け合い、子どもの養育・教育をゆるがせにしてはならない。

 婚姻は神の定め給うた制度であり、人間が改廃できるものではない。キリスト教は一夫一婦制と婚姻の不解消性を断固として主張してきた。まちりもうによのさからめんとによってでうすから与えられるがらさが夫婦の絆を強固なものにする。気の向くままに離別ができることになれば、夫婦の間にできた子どもたちは父母のいずれかと引き裂かれ不足のないように育てられることは不可能である。また離別がいつでも可能となれば夫婦は別の男女に心を移して真実の夫婦の仲を割くことになる。これは道理にはずれたことである。 夫婦は生きている限りいかなる場合にも離婚はできないが、夫婦のどちらかが身持ち乱行やえけれじやの掟に従わない場合など、特別の場合にはえけれじやの定めの旨にまかせて別居することは許される。その場合でも相手が生きている間は再婚は認められない。

 夫婦のどちらかが亡くなり、必要が生じる場合にはもちろん、生き残った方はもう一度まちりもうによのさからめんとを受けることができる。

 以上七つのさからめんとについて概略見てきたが、七つのさからめんとの最後の二つ、すなわちおるでんとまちりもうによは教会にとってどうしてもなければならないさからめんとであることはもちろんであるが、各個人にとっては、その望みがない場合に、受けなければならないという性格のものではない。司祭の道を選ぶか、結婚して新しい家庭を築くか、そのいずれの道をも取らず、独身の道を選ぶかは各人の自由に委ねられている。司祭の道を選び最後までその望みを捨てない者はおるでんのさからめんとを受ける。修道士、修道女の道を選ぶ者はそれぞれの修道会に入り、習練期を経た後に従順、清貧、貞潔の誓願を個人として神に立てる。これらの人々は各人の望みと神の選みによってそういう身分になれる。世間にあって独身を貫く人はおるでんもまちりもうによのさからめんとをも受けないが、しかしだからといって神のがらさが他の人より少ないということでは必ずしもない。  すべてのキリスト者が必ず授からねばならないさからめんとはばうちずもとぺにてんしやである。ただし臨終にあってばうちずもを授かり亡くなる場合や、幼児洗礼を受けてぺにてんしやの時期に達する前に亡くなる場合にはぺにてんしやの必要がないことがあり得る。

 えうかりすちやのさからめんとは分別がつく年齢に達するまでは受けない。初聖体の年齢は時代や国によって多少の差があるが、教会の規定でその年齢に達すれば初聖体を授かる。最後のこんひるまさんとえすてれまうんさんのさからめんとは後生のために絶対必要とまでは言えないが、授かることができる幸せを持つ者、授ける人(司祭)がおられる場合には授からなければならない。

 その人の生涯にただ一度しか授かることができないさからめんとはばうちずも、こんひるまさん、そしておるでんであり、これらのさからめんとはその人に生涯消えないしるしを与える。

みぜりこるぢや
Weblog / 2006-07-10 20:27:45

どちりなきりしたん 第十一 此外きりしたんにあたる肝要の条々

 みぜりこるぢや(Misericordia=慈悲、哀憐)のしよさ(所作)

 色身にあたる七の事。
 一には、うえたるものにしよく(食)をあたふる事。
 二には、かつ(渇)したる人にのみものをあたふる事。
 三には、はだへかくしかぬるものにいるいをあたふる事。
 四には、びやうにんと、ろうしや(籠者=囚人)をいたはりみまふ事。
 五には、あんぎや(行脚)のものにやどをかす事。
 六には、とらはれ人の身をうくる事。
 七には、人のしがいをおさむる事これなり。

 すぴりつ(Spiritu=霊魂、精神)にあたる七の事
 一には、人によきいけんをくはふる事。
 二には、むち(無知)なるものにみちををしふる事。
 三には、かなしひある人の心をなだむる事。
 四には、とがある人をいさむる事。
 五には、ちじよく(恥辱)をゆるす事。
 六には、ぽろしも(Proximo=隣人)のあやまり、ふそくをかんにんする事。
 七には、いきたる人、死たる人と、われらにあた(仇)をなすもののためにでうすをたのみ奉る事これなり。

 信仰と愛の実践としての隣人愛・慈善の行為が肉体に関わることと精神・霊魂に関わることに分けられて挙げられている。肉体に関わることはマテオ聖福音書の「わが餓えしに汝ら食せしめ、わが渇きしに汝ら飲ましめ、わが旅人なりしに汝ら宿らせ、裸なりしに着せ、病みたりしに見舞い、監獄にありしに来り」(25:35-36)の箇所とトビアの書1:17(屍の埋葬)から取られている。肉体に関わることになぞらえて精神的な慈善の行為としてやはり七つのことが挙げられている。きりしたんは「みぜりこるぢやの組」なる慈善団体を組織して、きりしたん同士ではもちろんのこと、そうでない人々にも慈善の行為を行った。

 神を愛するがゆえに、他人をもおのれのごとくに愛することはキリストの命令である。他人にそのようにする人はキリストにすることであると、マテオ聖福音書は教えているのである。



てよろがれすのびるつうです
Weblog / 2006-07-11 21:56:34

どちりなきりしたん 第十一 此外きりしたんにあたる肝要の条々

 ○てよろがれすのびるつうですという三の善あり。
 
 一には、ひいです(Fides=信仰・信徳)とてでうすの御をしへをまことにしんじ奉る善なり。
 二には、えすぺらんさ(Esperanca=望徳 c はフランス語のセディーユ)とて後生のたすかるべき事をたのもしく思ひ奉る善なり。 
 三には、かりだあで(Charidade=愛徳)とてばんじにこえてでうすを御大切にぞんじ奉り、ぽろしも(Proximo=隣人)をもでうすにたいし奉りて大切に思ふ善これなり。

 てよろがれす(Theologales=神を目的とする)のびるつうです(Virtudes =徳)とは対神徳のことである。信・望・愛の三つで、聖寵によって与えられ「注入された徳」とか「神学的徳」とも言われる。つまり人間に本性的に具わる、あるいは人間の能力によって獲得される自然的徳に対して、天主を直接の目的とし、天主の聖寵を注入されることによって得られる超自然的な徳である。公教会祈祷文では信徳唱、望徳唱、愛徳唱として以下の祈りを載せている。

 信徳唱:真理の源なる天主、主は誤りなき御者にますますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。

 望徳唱:恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終りなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。

 愛徳唱:愛の源なる天主、主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽し力を尽して、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。

 これらの対神徳は救霊のために最も必要な徳である。これらの徳によって人は天主に一致することができるからである。信徳は人間の理性的な働きに関わる徳であり、望徳と愛徳とは人間の意志に関わる徳であるが、自然的なものを対象にする理性・意志の習性ではなくて、誤りのない真理にまします天主が公教会を通じて教え給うた事柄を、人間の自然的理性が把握できないとしても、誤りなき真理として受け取る、つまり信じるという知性の習性、そして全能、全善にまします天主の聖寵の受領と救霊の御約束の成就を望み、また限りない善にまします天主を万事に越えて愛し、天主を愛するがために他人をもおのれのごとくに愛する意志の習性である。

 これらの対神徳に背くのは、信ずべきことを疑い、信じないこと、信仰を失わせる危険に故意に近づくこと、異端に走り信仰を捨てること、天主の救霊について失望すること、天主に依り頼まずにおのれの力を信じて罪を犯す危険に近づくこと、天主を愛さず、天主のために他人を愛さないことである。

かるぢなれすのびるつうです
Weblog / 2006-07-12 20:01:53

どちりなきりしたん 第十一 此外きりしたんにあたる肝要の条々

 ○かるぢなれすのびるつうですといふ四の善あり。

 一には、ぷるでんしや(Prudentia=賢明。賢慮)とてけんりよの善。
 二には、じゆすちしや(Iustitia=正義)とてけんばう(憲法=正義)の善。
 三には、ほるたれざ(Fortaleza=剛毅)とてつよき心の善。
 四には、てんぺらんさ(Temperanca=節制。c はフランス語のセディーユ)とてしきしんのうへに中庸をまもる善これなり。

 これはラテン語で Virtutes cardinales, 英語で the cardinal virtues で
基本的徳、枢要徳と言われるものである。どちりなきりしたんではほるたれざとてんぺらんさがポルトガル語になっているが、ラテン語の prudentia, iustitia, fortitudo, temperantia、英語の prudence, justice, fortitudo, temperance がそれに当たる。これらはギリシャの四つの基本的徳で、キリスト教はこれに先回取り上げたキリスト教的超自然徳である信徳、望徳、愛徳を加えて七つの徳としたのである。

 聖トマス・アクィナスによれば、prudentia 賢慮の徳は intellectus 知性のうちにあり、 iustitia 正義の徳は voluntas 意志のうちにあり、fortitudo 剛毅の徳は人間の irascibilia 怒りの部分に関係して困難な問題に立ち向かうことをひるませる恐れを克服する能力・性向である。最後の temperantia 節制の徳は人間の concupiscibilia 欲望の部分に関係して諸感覚の快楽を抑制するように働く能力・性向であるとされる(Summa Theol., I-II, Q. lxi, aa. 2 and 4)。

きりしたんはこのように西欧の伝統的な道徳的・宗教的な徳の概念をどちりなきりしたんを通して吸収していた。ソクラテス・プラトン・アリストテレスや聖アウグスティヌス・聖トマス・アクィナスの名は出なかったかも知れないが、それらの哲学者や神学者の教えを原語を同時に学びながら、道徳の基本的な概念として学び実践していたのだ!

すぴりつさんとのだうねす
Weblog / 2006-07-13 20:42:25

どちりなきりしたん 第十一 此外きりしたんにあたる肝要の条々

 ○すぴりつさんとのだうねす(Dones=賜物)とて御あたへは七あり。

 一には、さぴえんしや(Sapientia=上智。叡智)とてげんぜの事を思ひさげ、ごしやうのぎをふかくおもんじ、あぢはひにもとづかせ玉ふ御あたへなり。
 二には、えんてんぢめんと(Entendimento=悟性。聡明)とて、ひいですのうへよりしんずることはりをよくわきまふるためにふんべつをあきらめ玉ふ御あたへなり。
 三には、こんしいりよ(Consilio=考慮。賢慮)とてごしやうのけらくにいたらんためにたよりとなる事をよくえらびとる御あたへなり。
 四には、ほるたれざ(Fortaleza=剛毅)とて、ぜんじのさまたげをけんごに防ぎ、其道にとどく力と、たのもしき心をおこさせ玉ふ御あたへなり。   五には、しえんしや(Scientia=知識)とて、ごしやうのたよりとなる事と、障となる事をよくわきまへさせ玉ふ御あたへなり。
 六には、ぴえだで(Piedade=敬虔。孝愛)とて、でうすを御大切にうやまひ奉り、ぽろしもの便となるべき事をつとむる心をすすめおこさせ玉ふ御あたへなり。
 七には、ちもるでい(Timor Dei=敬畏。敬神)とて、でうすを御大切にぞんじ奉るうへより、そむき奉るべき事をふかくそれさせ玉ふ御あたへなり。

 6月26日のこんひるまさんの項ですでに見たように、教会はその秘蹟を授けることによって完全なキリスト信者とならせるよう、聖霊と聖霊の賜物を豊かに受けさせる。聖霊の賜物は、聖寵の勧めにたやすく従わせるように、智慧を照らし、心を強める超自然的な恵みなのである。

べなべんつらんさ
Weblog / 2006-07-14 20:25:18

どちりなきりしたん 第十一 此外きりしたんにあたる肝要の条々

 ○べなべんつらんさ(Benauenturanca=祝福。浄福。c はフランス語のセディーユ)は八あり。

 一には、すぴりつのひんじやはてんのくにそのひとのなるによりて果報なり。
 二には、にうはなるものはちをしんだいすべきによてくはほうなり。
 三には、なくものはなだめよろこばせらるるによてくはほうなり。
 四には、じゆすちしやとてごしやうと、善のきかつある人はばうまんさせ玉ふべきによてくはほうなり。
 五には、じひある人は御じひをうくべきによてくはほうなり。
 六には、心きよき人はでうすを見奉るべきによてくはほうなり。
 七には、ぶじある人はでうすの御子とよばるべきによてくはほうなり。
 八には、じゆすちしやとてごしやうと、ぜんにたいしてせばめらるる事をしのぐ人はてんのくにその人のなるによてくはほうなり。

 以上はマテオ聖福音書第五章冒頭の有名な山上の説教における真福八端と言われるイエズスの教えである。

 一、幸いなるかな心の貧しき人、天国は彼らのものなればなり。
 二、幸いなるかな柔和なる人、彼らは地を得べければなり。
 三、幸いなるかな泣く人、彼らはなぐさめらるべければなり。
 四、幸いなるかな義に飢えかわく人、彼らは飽かさるべければなり。
 五、幸いなるかな慈悲ある人、彼らは慈悲を得べければなり。
 六、幸いなるかな心の清き人、彼らは神を見奉るべければなり。
 七、幸いなるかな和睦せしむる人、彼らは神の子どもととなえらるべければなり。
 八、幸いなるかな義のために迫害を忍ぶ人、天国は彼らのものなればなり。

 くはほう(果報)なりと言われた幸運な人のあり方、真の幸福として八つのことを述べられた後で、イエズスは御自分のために人々があなたがたを呪い、迫害し、偽ってあなたがたに対してあらゆる悪声を放つと予告しておられる。その時こそ喜びおどりなさい、天における報いが大きいからだと言っておられる。

 迫害を目前に控えてあるいは迫害のさなかでこのべなべんつらんさを聴いたきりしたんは身を引き締めると同時に、喜びおどって「てんのくに」を待ち望んだであろう。現代におけるわれわれにはそういう喜びがあるのだろうか?この世の平和の追求と偽りの対話ムードの中でわれわれは「地の塩」「世の光」であることを忘れてはいないだろうか?あるいは塩の味を失い、灯をますの下において、世間と摩擦なく仲良く平和にやって行っているのだろうか?

あやまりのおらしよ
Weblog / 2006-07-15 17:15:17

どちりなきりしたん 第十一 此外きりしたんにあたる肝要の条々

 ○あやまりのおらしよ。

 万事かなひ玉ふでうすをはじめ奉り いつもびるぜんのさんたまりや さんみげるあるかんじよ さんじよあんばうちすた たつときあぽすとろのさんぺいとろ さんぱうろ もろもろのべあと 又御身ぱあてれに こころ、ことば、しはざをもて おほくのとがををかせる事をあらはし奉る これわがあやまりなり これわがあやまりなり わがふかきあやまりなり これによてたのみ奉る いつもびるぜんの さんたまりや さんみげるあるかんじよ さんじよあんばうちすた たつときあぽすとろのさんぺいとろ さんぱうろ もろもろのべあと 又御身ぱあてれ わがためにわれらが御あるじでうすをたのみ玉へ。あめん。

 公教会祈祷文 告白の祈

 全能の天主、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人に向かいて、われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白し奉る。これわがあやまちなり、わがあやまちなり、わがいと大いなるあやまちなり。これによりて、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、および諸聖人に、わがためにわれらの主なる天主に、祈られんことを願い奉る。
 [願わくは全能の天主、われらをあわれみ、われらの罪を赦して終りなき命へ導き給え。アーメン。
 願わくは全能にして慈悲なる主、われらをあわれみ、罪の赦しを与え給え。アーメン。]

 どちりなきりしたんのあやまりのおらしよには、もろもろのべあと(諸聖人)の後に又御身ぱあてれとあるのは、司祭・神父のことを指している。これは、ラテン語ミサの階段祈祷の時、侍者が司祭の告白の祈りに引き続いて自分の告白の祈りをするとき司祭にも告白し、神に祈り給えと願うために加えられているものである。

 以下に侍者の告白の祈りをラテン語で挙げてみよう。

 Confiteor Deo omnipotenti, beatae Mariae semper Virgini, beato Michaeli Archangelo, beato Joanni Baptistae, sanctis Apostolis Petro et Paulo, omnibus Sanctis, et tibi, pater: quia peccavi nimis cogitatione verobo et opere: mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa. Ideo precor beatam Mariam semper Virginem, beatum Michaelem Archangelum, beatum Joannenm Baptistam, sanctos Apostolos Petrum et Paulum, omnes Sanctos, et te, pater, orare pro me ad Dominum Deum nostrum.

この侍者の告白の祈りに対して司祭は次のように祈る・

 Misereatur vestri, omnipotens Deus, et, dimissis peccatis vestris, perducat vos ad vitam aeternam.* Amen.

Indulgentiam, absolutionem, et remissionem peccatorum nostrorum tribuat nobis omnipotens et misericors Dominus.* Amen.

これは公教会祈祷文の[ ]で括った部分に当たる司祭の祈りである。公教会祈祷文では「われらを憐れみ....われらの罪を...」となっているが、ミサの時の司祭の祈りは「あなたたちを憐れみ...あなたたちの罪を...」と侍者および侍者が代表している信者たちのことを指している。

 現代の公教会祈祷文およびラテン語の告白の祈りと並べて見ると、どちりなきりしたんのあやまりのおらしよがいかに正確に当時の言葉に訳されているかが分かる。

 公教会祈祷文が廃止になって「祈りの手帖」が出ているが、そこには告白の祈りではなく、「悔い改めの祈り」が載せられている。

 「神よ、わたしは罪を犯し、悪を行い、あなたに背きました。御子イエス・キリストの救いの恵みによって、私の罪を取り去り、洗い清めてください。救いの喜びを与え、あなたのいぶきを送って、喜び仕える心を支えてください。わたしはあなたの道を歩みます。」

 またミサ式次第の回心の項では次のように祈られる。

 司祭:皆さん、神聖な祭りを祝う前にわたしたちの犯した罪を認めましょう。
 司祭:全能と神と、
 会衆:兄弟の皆さんに告白します。わたしは思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。
 司祭:全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。
 会衆:アーメン。

 また、「ゆるしの秘跡」における「悔い改めの祈り」はこうである。

 信者:神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、豊かなあわれみによってわたしのとがをゆるしてください。悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めてください。

 祈りの簡素化と平易化ということであろうが、伝統的な告白の祈りがいつの間にか消え去ってしまうことに何か割り切れないものを感じるのは私だけであろうか。

貴きくるす
Weblog / 2006-07-16 21:23:27

どちりなきりしたん 第二 きりしたんのしるしとなる貴きくるすの事。

 先回まででどちりなきりしたんの第六という途中から始めたこのブログも最後の第十一まで来てしまった。第三、第四、第五についても簡単に見たので、残っている箇条は第一と第二だけとなった。順序不同でしかも不十分な紹介であったが、カトリックの信仰が戦国時代末期の日本にこういう形で受け入れられ、一人ひとりの信者によって実践されていたことがよく分かった。考えてみれば、きりしたんの時代はイエズスの時代からすでに千六百年以上経っていたのであり、その時代から現代まではまだ四百年少々に過ぎないのであるから、きりしたんとわれわれの間の方が、イエズスの時代・使徒の時代ときりしたんの時代よりずっと近いのである。彼らきりしたんは千六百年以上も変わらずに受け継がれてきた信仰とその実践とを受け継いで守ったのである。それから四百年余りの時代を経たわれわれの信仰とその実践もまた彼らの信仰・実践と変わらないものとして受け継がれていて当然である。人間が建てたものであれば古くなり、新しく建て直さなければならないであろうが、神がお建てになった教会は永遠に変わらないし古くなることはないから、従って新しくする必要はないのである。

 さて、きりしたんのしるしとは貴きくるす(Cruz=十字架)である。きりしたん(Christan=キリスト教徒)はわれらの御主ぜずきりしとがくるすの上でわれらを自由になし給うたがゆえに貴きくるすに対して深き信心を捧げ貴ぶのである。これはキリストが悪魔の奴隷とされた人間を御自分の貴き十字架の死によって解放されたということである。どちりなきりしたんは悪魔のことをてんぐ(天狗)と表現している。人祖アダムの原罪により神に叛逆する罪の傾きを持った人間は悪魔の誘惑に負けて神に対する叛逆、罪に幾たびも陥る。ばうちずもはすでに見たように原罪と生まれて以来犯したすべての罪を赦し洗い清める秘蹟である。洗礼以後に犯した罪はこんひさんによって赦されるが、これも御主キリストのくるすの御功力によるのである。その御恩の大きさはいかばかり大きなものであろうか。

 どちりなきりしたんではくるすのもん(文)を唱える仕方を次のように説明している。右手の親指でくるすのもんを額と口と胸に唱える、と。額に十字架のしるしをしながら「われらがでうすさんたくるすの御しるしをもって」と唱え、口に十字架のしるしをしながら「われらがてきを」と唱え、胸に十字架のしるしをしながら「のがしたまへ」と唱える、と。額は妄念を、口は悪口や嘘を、胸は心から起こる悪しき仕業を、神が除き給うようにと、悪魔が人間を襲う箇所に貴い十字架のしるしをして、われらの敵である悪魔を恐れさせるのである。悪魔は十字架を恐れるが、悪魔に近づこうとする人間に対しては仇をする。つまり罪を犯すとき人間は悪魔に近寄り、罪を捨てるとき悪魔から遠ざかる。これがキリストの十字架上の死の御功力により人間が自由にされる理由である。

 くるすのもんのもう一つの唱え方は右の手で額から胸まで、左の肩から右の肩まで十字をきりながら、「いんなうみねぱあちりす、えつひいりい、えつすぴりつさんち。あめん」と唱える。もっと詳しく言えば「いんなうみねぱあちりす」と唱えるとき右手を額に指し、「えつひいりい」と言うときに胸を指し、「えつすぴりつ」と言うとき左の肩、「さんち」と言うとき右の肩に右手を持って行くというやり方である。

 このくるすのしるしは御自分に似せてわれら人間を創造なさった父と子と聖霊の三つのペルソナが御一体の神であることを表し貴ぶためである。さらにわれらの主イエズス・キリストが十字架上でわれらを救い給うことを表し敬うためである。このくるすのしるしはことを始めるとき、朝家を出るとき、聖堂へ入るとき、食事のはじめと終り、特に難儀に遭うときに唱える。くるすのしるしを度々唱えるのはでうすがわれらを敵から逃れさせてくださるためである。われらの敵とは何か、どちりなきりしたんははっきりと「せけんと、てんぐと、しきしん」すなわち、世間、悪魔そして肉体だと述べる。なぜ敵と言うのか、それはこの三つがあにま・霊魂に悪を勧め、悪の道に引き傾けるからである。悪へと誘惑し悪を犯させる原因となるものが三つ、世間、悪魔そして肉体である。悪の原因、悪に関わる事柄をどのように防ぐか、それから遠ざかること、おらしよをすること、よい教化を受けよい書物を読むことである。



きりしたん
Weblog / 2006-07-17 14:36:20

どちりなきりしたん 第一 きりしたんといふは何事ぞといふ事。

きりしたんになる者はその教えのうち基本的な重要な事項として次の五箇条を理解しなければならない。

 一には、でうすが無から天地万物を創造され、諸善万徳の源にましまし、測り知ることのできない智慧の持ち主にましますこと、自由自在の方にましますことを理解しなければならない。
二には、でうすがわれらの現世・後世を配慮なさり、善悪に対して正しく御返報になる御主にましますことを理解しなければならない。
 三には、でうすがぱあてれ(Padre=父)とひいりよ(Filho=子)とすぴりつさんと(Spiritu Sancto=聖霊)という三つのぺるさうな(Persona=位格。ペルソナ)にましますけれども、すすたんしや(Substantia=実体)においてはただ御一体にますますことを理解しなければならない。
 四には、ひいりよなるでうすがすべての人間のとが・罪を贖い給い、うまにだで(Humanidade=人性)というわれらと等しい霊魂と肉体を受けられ、びるぜんまりや(Virgen Maria=童貞女マリア)から真の人として生まれ給い、遂にくるすにかけられ、人にまします点において亡くなられたことを理解しなければならない。
 五には、ごしやうのみち、すなわち死後の救霊はきりしたんの教えのみによって得られるからして、きりしたんにならなければ死後の救霊を得ることが決してあり得ないということを理解しなければならない。

 第五に挙げられた点は、「教会の外に救いなし」(Extra Ecclesiam nulla salus est)というカトリック教会の荘厳に決定された(不可謬の)教義のことである。現代のカトリック教徒の中にはこの教義を否定して、救いはどの宗教によっても可能であるかのように考える者が多くなっているが、それはカトリックの真理の否定であり、そのように考える者はもはや真のカトリック教徒ではないということになる。

 ところで、人間とは何か、人間は肉体だけではなくて、不滅のあにま(Anima=霊魂)を持っている。あにまは肉体に命を与え、たとい肉体が滅びても、あにまは土や灰になることなく、終わることがない。ただ生前の善悪に従って、後生の苦楽に与ることになる。

 きりしたんになるのは、父母や被造物の力によるのではなく、でうすのがらさ(Garaca=聖寵。c はフランス語のセディーユ)をもって、すなわち、でうすの御慈悲によって御主ぜずきりしとの御功力をもってである。きりしたんになるということはばうちずもの御授けを受け、でうすの御養子となり天の御譲りを受け奉る身となるということである。きりしたんでない人はばうちずもを授からないから、でうすの御養子とされることはなく、天の御譲りを受けることができないのである。

 きりしたんとは何か、御主ぜずきりしとの御教えを心中よりひいですに受け、言葉と身もちをもって表す人のことである。きりしたんはそうでなければならないだけでなく、肝要なる時はたとい死ぬことがあるとしても、言葉と身持ちにも表すべきだという覚悟を持っていなければならない。これは日常の何事も起こらない平穏の中だけで信仰が守られるのではなく、一旦緩急あれば命をかけて信仰を言葉と行いによって示す覚悟がなければならないということである。

 きりしたんは何をかたどっているのか、きりしとをかたどり奉った名である。きりしととはどのような御主にましますか、真のでうす、真の人にまします。真のでうすにましますとは、全能の御父でうすの真の御ひとり子にてましますがゆえにそう言うのである。真の人にましますとは、貴き御母びるぜんまりやの真の御ひとり子にてましますということである。きりしとは天において御母を持ち給わない点ででうすにましまし、地において御父を持ち給わない点で人にまします。

 きりしととは油を塗られ給うた方という意味である。油を塗られ給うのはその昔は帝王、させるだうて(Sacerdote=司祭)、ぽろへえた(Propheta=預言者)たちであった。御主ぜずす・きりしとは人にまします点において帝王の上の帝王、させるだうての上のさせるだうて、ぽろへえたの上のぽろへえたにましますからして、油の代わりにすぴりつさんとのがらさを満ちみちて持ち給うがゆえにきりしとと唱え奉るのである。

どちりなきりしたん 序
Weblog / 2006-07-18 20:11:23

 御主ぜずきりしとがこの世にましました間に弟子たちに言われたことの中に特別に教え給うたように、すべての人間に来世において救いを得る真の道を広めよということがあった。これは学者たちが言っているように、三つの点に要約できる。第一は信じ奉るべきこと。第二は希望し信頼すべきこと。第三は務め行うべきことである。

 信じ奉るべきことは人智の及ぶ道理を超える超自然の事柄であるから、ひいです(Fides=信仰)という善に相当する。これらの事柄を知らなければ来世の救いを得る道に迷うことが多い。

 希望し信頼すべきことはえすぺらんさ(Esperanca=望徳。cはフランス語のセディーユ)という善にあたる。でうすの御約束をもってきりしたんに与え給うべき来世の救いを待ち望むことである。望徳がなければ危険や困苦に遭うと力を落として信頼を失う。それは霊魂にとって大きな障碍である。

 務め行うべきことはかりだで(Caridade=愛徳)という善に関わることである。この愛徳なしにはでうすの掟にたびたび背くことになる。

 これら信・望・愛の三つの善はきりしたんにとって是非必要な善であるから、学者たちはこれらについて多くの書物を書いてきた。それらの中から必要不可欠なものを選んで出版し、迷いを照らす鑑とする。イエズス会の上長の命令でこの書物を編纂しどちりいなきりしたんと名づける。つまり、きりしたんの教えという意味である。上下万民に容易くこれらの教えを知らせるために、言葉は俗の耳に近く、意味内容はでうすの高遠な道理を表している。これらの道理を速やかに理解させるために師と弟子との問答形式にして示してある。これはすべてのきりしたんの智慧の眼を明らかなものとする教えであるから、誰でもこれを習い理解し知ることによって、迷いの闇から逃れ、真の道に基づかなければならない。

 以上がどりりなきりしたん冒頭の序のおおよその下手な訳である。われわれはすでに60回にわたってその内容のあらましを見てきた。利用させていただいた「どちりなきりしたん(吉利支丹文学集 下 新村出 柊源一 校注 朝日新聞社刊」の編纂者・校注者たちと出版社に対してここで厚く感謝を申しあげる。

丸血留の道 (1)
Weblog / 2006-07-19 20:24:31
 第一 キリシタンの上にペルセギサン(Perseguicao=迫害。cはフランス語のセディーユ)あるようにでうす計らい給う子細のこと。

 「どちりなきりしたん」から「丸血留の道」へ移るることにする。以下で用いさせていただくのは「H.チースリク、土井忠生、大塚光信校注 丸血留の道 日本思想大系 25 キリシタン書 排耶書 岩波書店刊行 p. 323-360 」である。ただ原文をそのまま載せるわけにはいかないので、拙いながら私なりに口語に直してみた。

 丸血留はもちろん当て字であり、原語は Martir(ポ)、ラテン語では Martyr、殉教者のことである。殉教はMartirio(ポ)、Martyrio(ラ)である。元々はギリシャ語のμαρτυs から来ており、その意味は証人である。証人は裁判所で真理のために証拠を立てる。キリストはマテオ聖福音書において次のように言われた。「人に警戒せよ、そは汝らを衆議所に渡し、また、その諸会堂にてむち打つべければなり。また、わがために汝ら官吏、帝王の前に引かれて、彼らおよび異邦人に証となることあるべし」(マテオ10:17-18)。キリストはこのように弟子たちと信徒がキリストの証人となるべきことをお求めになった。日常の生活において証人となるだけでなく、迫害の時には命をかけて証人となることがキリスト者に求められるが、この後者の場合が殉教ということである。

   * * * * *

 「そもそも御扶け手ゼズ・キリシトがこの世におられた間にたびたび言われたことは「われにつきてつまずかざる人は幸いなり」(マテオ11:6)ということである。ゼズ・キリシトが誕生された本当の意味は悪魔の働きと地獄への道となる悪・罪を赦し給い、でうすを尊び奉る天の道である諸々の善を教え導き給うためである。それゆえ、諸悪の根元は三つある。一に貪欲、二に驕り高ぶる心、三に好色である。この三つが根本となって悪が生まれる。御主ゼズ・キリシトは来世の道を教え給い、この三つの根元に救済の方法を示された。それは貧と謙と難行である。貧の善をもって貪欲の悪を服従させ、謙遜をもって高慢を滅ぼし、難行をもって肉体的快楽追求の罪悪とそれから出てくる邪妄の悪を断ち給う。」

 「世人は異教徒の幸福、高い身分、栄華を見聞きすると、巡り合わせのよい人だと言って敬うのが常である。またゼズ・キリシトの御貧賤、御パシヨン(御受難)のことを聞いてでうすにまします御扶け手の御威光には相応しくないと見、不審に思い、軽んじ奉る者がいる。たといキリシタンとなっても、ものの道理をよく弁えない者は罪を問われ、迫害を受けるようになると自分の宗門にしばしばこの災難があるのはなぜか、ひょっとして真実の教え、来世の救いに至る道ではないのではないかと迷うことも多い。それゆえ、ゼズ・キリシトが上に挙げたように「われにつきてつまずかざる人は幸いなり」と宣うたのはまったくその通りである。なぜなら、御主ゼズ・キリシトの御貧賤、御謙遜、御受難の御苦難は表面的に考えれば恐ろしくまた見苦しく、天地万物の御主でうすには似合わないと見えるけれども、御貧賤の下に深い御善徳、御名誉が隠れて輝いているからである。」

   * * * * *

 以上が冒頭の二小節である。キリスト教はキリストが「われにつきてつまずかざる人は幸いなり」と言われるように、キリストに従わないすべての人間の躓きとなる宗教である。世が高く評価する富や高い地位や快楽,特に性的快楽が悪への誘いの重要な役割を果たすことを教える宗教は世間から疎まれる。貧しさ、謙り、苦難は人が避けたがるものである。その成立以来間もなく迫害が始まり、歴史を通じて止むことなく続き、現在も世界中で迫害が起こっているのはキリスト教に特有の事情であると言ってもよい。現世をすべてと見る人々がますます増えている。来世?そんなものは無いさ、だから来世の魂の救いを説くキリスト教は世間から、特に無神論国家から嫌われるのだ、というわけである。

丸血留の道(2)
Weblog / 2006-07-20 15:19:48
 丸血留の道 第一 キリシタンの上にペルセギサン(Perseguicao=迫害。cはフランス語のセディーユ)あるようにでうす計らい給う子細のこと。

 「御主ゼズ・キリシトがこの世におられた間にお受けになった御艱難、十字架上での御死去はすべて人間を救い給わんがためである。もちろん御主でうすは全てが可能である御知恵の源にましますがゆえにすべての人間を救い給うべき道は多いけれども御パシヨン、御受難の道を選ばれ、その愛、仁徳その他の善徳をことさらに示し給うためであった。この御受難の道より勝る道はないのでわけてもこの道を取り給うたのである。それゆえにこの御受難の道を卑しめ、軽んじる理由はさらさらない。例えばしもべである者が道に迷い、その上深い穴に落ち土泥にまみれて半死半生になっている時、周りの人々からの対策もなくて難儀がぎりぎりの状態に達したときに、その主人が僕を引き上げようとして、自分自身でそこに降り、土泥によごれてしもべを助けたならば、誰がこの主人を譏ったり卑しめたりするであろうか。かえって憐れみ深く愛のある人かなと誉め崇めなければならない理由がある。これと同じように、すべての人間が善の道に迷い、罪の淵、悪の不浄に汚れて、助けるべき対策がないところに、有り難いことに主君にまします御主ゼズ・キリシトがこの汚れた谷底まで降りて来られ、さまざまの難儀や恥辱に会いながら、われらを引き上げ給うのである。そのような時には尊び崇め奉り御恩の御礼を絶えず申し上げるべきことが本来のあり方である。」

 「上の教えのように、きりしたんに関して迫害があることはものごとの筋道からはずれているように見えるけれども、そのことから生じる利益は非常に大きく計り知ることができないからして、でうすはそのように計らい給うのである。であるからきりしたんの上に心配や難儀があるとき、少しも驚き騒ぐことなく、たじろがない心で最後まで教えを守り通す人のことを、ゼズ・キリシトは「されど終りまで堪え忍ぶ人は救わるべし」(マテオ10:22)と宣うたのである。そのようにまたひいです(Fiedes=信仰)の事柄に関して心を乱し疑いを生じて、ついに転びキリスト教を棄てる者は幸運の尽き果てたしるしである。そうであるから、宗門の上にたびたび妨げがあるようにでうすが計らい給う五つの事情があるということを理解しなければならない。」

 「一には、真実のきりしたんと偽りの、偽善のきりしたんがはっきりするためである。人によっては信仰に熱心に心を傾けず、うわの空で世間並みにきりしたんになるために、でうすを信じ奉るひいですの基礎が安定していない。でうすに対する御奉公のことをよく理解していないので、御恩を感じず、来世のことも心にかけず、掟を守らず、えけれじやの命令を軽んじてそれに背き、コンヒサンをしミイサを拝むことは自分のためでなくて他人のためであるかのように不本意に思い、表向きはきりしたんとして取り繕っているが、善いことを怠るだけでなく、悪い鑑となって他人の妨げになるからして、その偽りが露見するようにでうすは計らい給うのである。使徒行録にあるように、でうすに対して不信の念がたまっている人の心をでうすは甚だ嫌い給うのである。アナニヤとサフィラの夫婦はその証拠である。使徒行録によれば彼らは神を偽りその罰としてペトロの足許に倒れて死んだ。聖ペトロは「このような者は言葉ではでうすを貴ぶが行動ではでうすを否定する」と言われた。太陽が出ると星は見えない。虎狼狐の類は山中に隠れている。そのようにきりしたんも無事である時には善の光も蟠った悪も見難い。追求され迫害されて、ひいですの光も消えるかと思う時に多くの星に喩えられる善行、ひいですの光がますますはっきりと顕れるのである。また狼狐に喩えられる蟠りをもった悪人も日頃はその実態が分からないけれども、その時に臨んでついにその姿を顕わす。これがペルセギサン・迫害のあらましだと知るべきである。ゼズ・キリシトの御誕生より遙か前にでうすがかねてこのことを告げ給うた御言葉がある。「御主でうす万民を金銀のごとく練り鍛え給うべし」と。聖ルカ福音書第三章に「彼の手に箕ありて、その打ち場を清め、麦は倉に納め、殻は消えざる火にて焼き給うべし」 (17)とある。麦とは善ききりしたんのこと、殻とは悪しききりしたんのことである。またここに一つの徳がある。悪しききりしたんが顕れることによって善ききりしたんはますます信心に近づくのである。例えば病人が一度のみ下した食物を胃から口に逆行させるようなものである。内臓がばらばらになるような苦しみがあるけれども、諸病の根本になる痰水を吐き出すことによって身体は危険を逃れることができる。妨げをもって常に悪い模範となる悪人がえけれじやを去るから、残ったきりしたんはますます信仰を固め無事を得るのである。」

   * * * * *
 キリスト教が主イエズス・キリストの御受難を通しての罪人なるわれら人間の贖い・救いの道であることがまず説かれている。主人がしもべを身を挺して窮境から救い出す喩えが語られている。キリスト教徒に迫害があることは神の深い計らいである。まずその第一の点が考察される。われわれキリスト教徒にとって真剣に考えるべき点であると思う。キリスト教徒となった者がフリーパスで天国に行けるのではないことは明らかである。善ききりしたんと悪しききりしたんは同じ教会の中にいる。丸血留の道の筆者はペルセギサン・迫害の時にそれが顕れて来ると言う。普段は見分けのつかない善きキリスト教徒と悪しきキリスト教徒とはこのペルセギサンあることによって篩い分けられる、神はそのように計らい給うて迫害のあることを許容しておられるというのである。ペルセギサンは麦と殻とを篩い分ける篩の役割を果たす。「終りまで堪え忍ぶ人は救わるべし」という言葉はキリスト教徒にとって恐ろしい言葉である。終りまで堪え忍ぶ力を与えてくださるがらさを絶えず祈り求めなければならないと思う。

丸血留の道(3)
Weblog / 2006-07-21 15:51:22
 丸血留の道 第一 キリシタンの上にペルセギサン(Perseguicao=迫害。cはフランス語のセディーユ)あるようにでうす計らい給う子細のこと。

 「二には、でうすは御自身の力の程を顕わし給わんがために妨げがあるように計らい給うのである。そのわけは何の妨げもない時でも、これほど人間の自然に反対する掟が広まり、崇敬され、栄えるのは人間の力の仕業ではないから、非常に不思議なことであるといえども、偽りの宗教ですら平穏な時には栄えることもあるのが世の常であるから、特に優れていないとも言える。そうだとしても、きりしたんの教えだけがこの世界の悪王、悪守護に責められ、キリスト教の妨げをする魔王の妨げの中においても絶えることなく栄えるとき、これはでうすの御力が際だって顕れることではないか。それゆえ、聖イラリヨ(Hilarius310頃-367)はこう言っておられるのである。「えけれじやとキリシタンダデ(Christandade=キリスト教信徒団)は迫害を受ける時に栄え、苦しめられる時に広まり、賤しめられる時になお誉れがある」と。喩えを言うならば、猛火に風を送るようなものである。サン・理庵(聖レオ教皇440-461在位)が言われるように「えけれじやは... ペルセギサンをもって衰えず、かえってなお栄える」のである。その理由は丸血礼数(Martires(ポ)=殉教者の複数形)の御血はキリシタンダデの種子のようなものだからである。上に論じたように、悪人どもがこのキリシタンの教えを退治しようとしてキリシタンを丸血留にすれば、あるいは一人の丸血留を見て、真に千人二千人そしてなおその上にもキリシタンになるのである。でうすが守り給うえけれじやは、ある限りの悪王・悪守護、インヘルノ(Inferno=地獄)の悪魔に至るまでが力を尽くして仇をなすといえども、ついに勝利を得ることはできないのである。この第一の証拠はユダヤ人たちである。その理由は、御主ゼズ・キリシトがこの世におられたとき、ユダヤ人たちに真理を教え給い、教えを広め給うたけれども、彼らは心を堅くして聴き入れず、逆に憎む心を起こして御教えが広まるのを憎み、キリシトに害を与えるならば、教えの広まることが止むであろうと思ってついに苦留子(Cruz=十字架)にかけて殺したが、御死去の後直ぐに世界中にゼズ・キリシトの名は聞こえ渡った。さてユダヤ人たちはついに天罰をこうむって惨めな境遇になりはてた。「でうすに敵対する悪人たちの談合は益なし」と詩編(2:1)に言われている通りである。キリシタンダデは弱くてすっかり無くなってしまうように見えるけれども、最後にはひいですの強いきりしたんの心中にひいですはなおのこと重なり、信心も強くなるのである。その上その時はキリシタン宗門も衰え、御教えも弱り行く様子であるけれども、強いキリシタンの手柄を見る時、これは人間の力ではなく、キリシトの御掟は私事ではないと異教徒の者までも理解するのである。このことは今日本において眼前に歴然としていることであるから、詳しく論じるには及ばないとはいえ、よく注意して見なさい。このペルセギサンがあるからこそ、キリシタンたる者はますます信心に近づき、異教徒の者どもが、あるいは説法を聞き、貴きばうちずもを授かり、あるいはキリシタンに成りたいとの深い望みを顕わし、またはまだキリシタンになっていないのに、早くも自分の名を記帳して取り調べの場に出る者もある。それだけではなくて、エワンゼリヨ(Evangelho(ポ)= 福音)の広め手である宣教師が多数おられて宣教が行われた時よりも、このペルセギサンのために、貴き丸血レス(殉教者たち)の道をもって、隣国近郷のことは言うに及ばず、日本国の隅々まであまねく有名となった。その時、これは異教徒たちがキリシタンになるきっかけではないだろうか。例えば、春に生じて来る草木の種子は、冬の寒苦に責められて、土中に隠れているのはなおその根を深くして後に栄えるためである。このようにして時至り太陽が輝く時になれば一粒が数万倍に増えるのである。キリシタンの潜伏もこれと同じだと考えなければならない。」

   * * * * *

 キリシタンの上にペルセギサンが降りかかるのは、でうすの御力を顕わし給うためである、と言われている。ここでははっきりとキリスト教が唯一の真の宗教でありその他のすべての宗教が偽りの宗教であることが確認され、偽りの宗教も栄えることがあり得ると認められる。しかしこの世のどんな迫害においてもキリスト教が消滅しないどころかむしろ迫害においてかえっていよいよ栄えるということはでうすの御力の顕れなのである。きりしたんはぱあてれからこのような迫害に対する心構えを聴いてどう感じたであろうか。1549年にザビエルが日本に宣教を開始して40年も経たない1587年(天正15年)には秀吉の禁教令が出ている。平穏な時の宣教よりも迫害や殉教の中で信者が数千倍になるということ、キリスト教が人間の建てた宗教ではないこと、この「丸血留の道」という書物を読んでいるきりしたんに対して今日本であなたの眼前に展開されている事態は非常にはっきりしているからよく注意して見なさいと事実を指摘していること、草木の種子が冬の寒さを土中で堪え春に芽を出すようにきりしたんの迫害はやがて千倍の実を結ぶことなどが非常に分かりやすく述べられている。明治になって禁教令が解かれ、宣教が自由になった日本ではもはやこういう殉教の覚悟をさせながらの宣教ということはなくなった。現代は信仰を直接圧迫したり、禁教にするといった迫害やそれに伴う殉教というのは、信教の自由という人権思想によって起こり得なくなっている。共産主義諸国での迫害も宗教を理由にはせずに、国家に対する叛逆、法律違反、サボタージュその他の理由でキリスト教を初めとする宗教が弾圧、迫害される。

 一方で、自由諸国と言われている西欧やアメリカ、日本その他の諸国においても無神論的自由主義が信教の自由を逆手にとってキリスト教が唯一の真の宗教であることを否定し他のすべての偽りの宗教と同列に扱うことで一致している。悲しいことにカトリック教会自体も1965年以降エキュメニズムの路線を推し進めて無神論的世俗国家の政策や国連の世界政府構想に同調しつつある。迫害や殉教は過去のもの、みんな平等仲良く一緒にやりましょうというわけである。成立以来連綿と続いてきた迫害とそれに伴う殉教が起こらないとすればそれはキリスト教そのものが変質しつつある証拠ではないのだろうか?キリスト教が世俗国家に吸収併合されて「地の塩」「世の光」であることを止めようとしているのではないだろうか?誰しもおのれに害を加える迫害を望む者はいないであろう。しかしキリスト御自身が「わが名のために、汝らすべての人に憎まれん」(マテオ10:22)と予告しておられるのであるから、憎まれない者になることを警戒しなければならないのではないだろうか?

丸血留の道(4)
Weblog / 2006-07-22 21:28:25
 丸血留の道 第一 キリシタンの上にペルセギサン(Perseguicao=迫害。cはフランス語のセディーユ)あるようにでうす計らい給う子細のこと。

 「三には、でうすは、キリシタンの教えは真実であるということを顕わし給うために、妨げがあるように計らい給うたのである。元来偽りと真とは問いを出して確かめることによってその真実であるか真実でないかがなお明らかに顕れるものである。偽りは追及すればするほどその初めと終りがだんだんと違って来るが、真はどこまでも調べてみるとその正しい道がいっそう明らかに見えるものである。例えば、匂いの悪いものも、香ばしいものも実際にそれにさわることによってその香りがますます明らかになる。昔の丸血礼子(Martires=殉教者たち)は責め苦を受ければ受けるだけその心中のひいですがなおいっそう強くなった。きりしたんの御掟の道がもし真の教えでなかったならば、どうして多くの丸血礼子、特に若者やかよわい女性たちがキリシタン宗門のために故郷を捨て、友人を離れ、財宝・威勢・位を捨て命まで棄てるのか、その後に終りのない幸福があるというひいですなしにはそういう行動になるはずがないのである。真にこれらのことに注目することが大きなひいですの光を得る基礎となるのである。」

   * * * * *

ペルセギサンがあるのはキリシタンの教えが真実であることを明らかにするための神の計らいである、と。偽りの宗教の首尾一貫性の無さと真の宗教であるキリスト教の真実で正しい結果の明証性が対比されている。キリスト教が真の宗教でなかったならば、人間が青年や女性も含めてなぜこの世のすべてのものを捨て、なお自分の命まで棄てるのか、これはこの世のはかなさに比べて、あの世での永遠の幸せが格段に大きいからである。このことは信仰なしには受け入れられないことであろうから、信仰の光を得る恵みを得なければ理解できないことであろう。

丸血留の道(5)
Weblog / 2006-07-23 20:40:48
 丸血留の道 第一 キリシタンの上にペルセギサン(Perseguicao=迫害。cはフランス語のセディーユ)あるようにでうす計らい給う子細のこと。

「四には、すべてのキリシタンがでうすの御恩をよく弁えないがゆえに、懲らしめとしてペルセギサンがあるように計らい給うのである。その御恩というのは、キリシタンの御法を広めて、来世の救いを与えるために大勢のぱあてれを異国から危険な海の遠路を乗り越えて日本にまで遣わし給い、その他にもエワンゼリヨの導師を多数与え給うことである。これらの人々は自己の利益のためではなくて、ただ他の人々の救霊のために来られたのである。しかしながら異教徒によってはキリシタンの御法の道理をも聞き入れず、あまつさえさまざまの妨害をなし、御法を罵り誹るのである。キリシタンの中にも救霊の援助と善行の導き手が多くあることを御恩とも弁えずに善事を行い悪事を断ち切るようにという勧めに従わない者がいるのでその懲らしめとして、こういう人々があちこちに居ないように計らい給うのである。キリストはエルザレムの都へ上り給うた時、町を見給うて、その町のために泣いてこう宣うた。「汝も、もし汝のこの日においてだも汝に平和を来すべきものの何なるかを知りたらば幸いならんに」(ルカ19: 42)と。御主は三カ年の間ユダヤ人たちの前でさまざまの奇跡を行い、説教をし、宣教なさったけれども、その御恩をも弁えずかえって害をなし奉ったので、天罰としてことごとく滅亡させ給うのである。罰が下るのは結局のところ御恩を弁えないからである。」 

   * * * * *

 異教徒やユダヤ人の例によって御恩を弁えない者に対して天罰が下されることを述べながら、キリシタンもまたでうすの御恩をよく弁えないがゆえに、その懲らしめ、天罰としてペルセギサンがあるという議論である。旧約の時代から神は御自分の選ばれた民であるユダヤ人たちを幾たびも彼らの敵を使って懲らしめて来られた。キリスト教の時代になってもそれは同じなのである。迫害があることはそういう意味ではキリスト教を浄化する神の御計らいの一つである。神の恵みを御恩と感じない者に対する厳しい裁きのことをわれわれは忘れてはならないと思う。

丸血留の道(6)
Weblog / 2006-07-24 19:58:39
 丸血留の道 第一 キリシタンの上にペルセギサン(Perseguicao=迫害。cはフランス語のセディーユ)あるようにでうす計らい給う子細のこと。

 「五には、キリシタンがさまざまな仕方で責められ、数々の艱難によってゼズ・キリシトの生前になし給うた御仕業を学び、その道からパライゾ(Paraiso(ポ)=天国)のグラウリヤ(Gloria(ラ・ポ)=栄光)の高殿に至らせるために、ペルセギサンのあるようにでうすは計らい給うのである。御主ゼズ・キリシトが「キリストは、これらの苦しみを受けて、しかしておのが光栄に入るべきものならざりしか」(ルカ24:26)と宣うたようにこのことは重要なことである。真に御主ゼズ・キリシトは天地の御主にましますからしていずれの道からも天国に入り給うべきであり、思し召しのままであるにもかかわらず、このような難儀辛労の道を選び取り給うたのであるから、いわんや悪人の身であるわれわれがどうして栄華栄耀の身でパライゾに到達しようと思うのか。この世においてさえ、辛労なしに徳を求めることはない。喩えをいうならば、農夫は耕作の辛労によって秋に収穫し、また商人は渡海の難儀を凌ぎ、辛労の汗によって売買の利益を得、武士は戦場に命を捨て、危険を省みないことによって所領を求めるのである。ましていわんや天国においてをや。」

  * * * * *

 ペルセギサン・迫害によるマルチリヨ・殉教は天国へ行くための最高の道である。あるいはもう少し一般化すれば、キリシタンはキリストの御苦難に倣ってわが身に喜んで苦難を引き受けることを厭わない者である。ペルセギサンはその典型的な道である。

丸血留の道(7)
Weblog / 2006-07-25 21:24:26
 丸血留の道 第二 キリシタンに障碍[迫害]を成す人の上に、御罰の顕れざる子細の事。

 「それゆえにキリシタンの中にも人によってはこう思って:すなわち、キリシタンを責め滅ぼそうとする人々の上に天罰も下されず、殊に栄え行くことを見聞きして、さてはキリシタンの拝み奉るでうすはましまさないのではないか、もし真にましますならば、キリシタンを守り給い、御自分に敵対する者どもに罰を与え給わないのはどうしてか、と疑いを抱く人もあるはずである。この疑いは前に述べた理由で大体は疑いが解けた。その理由は第一で述べた五つの道理によってペルセギサンがキリシタンのために利益が大きいとでうすは思し召し、迫害を加える人々を厳しく責め苛むことを先へ延ばし給うということである。そうは言うものの、この大切な理由をもっとよく理解すべきであるから、でうすがこのように計らい給う事情をここで検討してみよう。」

 「まず上の疑いは愚かな疑いである。喩えをもって顕わせば、冬の寒い時節には太陽が世界に陽の気を与えるとはいっても、寒気が甚だしいのを見て、太陽が世界を照らすことがないのかと疑うようなものである。真にこれよりも愚かな愚痴があろうか。カテキズモを習った時に、天地の創造主でうすがましますことを聴いて理解し、中でも頭のよい人は確かによく理解して、目に見えることよりもずっと確実であると理解しておきながら、卑しい心の迷いに引かれてそのことを疑うなどというのは愚かさの極みである。このような疑いを抱く者は己を知らず、かえってわが身の上にでうすの罰を招く者である。なぜならでうすに敵対する者に直ちに罰が下されることを願う場合には、人間としてでうすに背かないということはあり得ないからして、あなたをはじめとして罰を蒙らずに済むという人は一人もないということを忘れているのである。詩編129:3に「主よ、汝もしもろもろの不義に目をとどめ給わば、誰かよく立つことを得んや」と言われている。しかしある人は『通常の罪とキリシタンを迫害する罪は同じ罪ではない』と言うであろう。その答えはこうである:『でうすを知らない異教徒の罪とでうすをよく知っているキリシタンの罪は同じではない。でうすを知らない異教徒さえでうすに従うキリシタンを滅ぼそうとすることによりその罰を蒙るのであるから、益のない疑いを抱いてでうすを疑い言葉で言いごまかそうとするあなたの罪はどうして天罰を免れることができようか。』これは恐れてもなお余りあることである。」

  * * * * *

 キリシタンを迫害する人にすぐに天罰が顕れないことについての検討である。この事実からあるキリシタンはカテキズモででうすのことをよく学んだくせに卑しい心の迷いによって天地の創造主なるでうすを疑うようになる。でうすが人間の不義に目を留められるならば誰一人立つことのできる人はいないのであるが、でうすを知らない異教徒とでうすをよく知っているキリシタンでは、その知らないことと知っていることとの大きな差によって両者の罪の重さは格段に違うのである

丸血留の道(8)
Weblog / 2006-07-26 16:01:26
 丸血留の道 第二 キリシタンに障碍を成す人の上に、御罰の顕れざる子細の事。

 「おそろしくでうすの罰の遅いことと、また人によっては現世で罰に遭わないその理由を明らかにすれば、まず一つには、でうすが人間が弱くて悪に傾き易いことをよく御存知だからである。二には、敵の上に限りない御慈悲を顕わし給うため、三には、御堪忍と御力の程度を知らせ給うためである。例えば、世間の主人がその場で即刻責め苦を与えるのは気が短いためか、あるいはその場で即刻罰を与えなければ後になってはもう罰を与えることができないのではないかと思うために少しの間も急ぎたいと考えるからである。しかしでうすは御心がゆったりしておられ、全能にましますがゆえに、罰を免れさせることなしに、いつ罰を与えるべきかについて思し召しのままであるから、急ぎ給う理由はないのである。四つには、人々が罪を犯したその瞬間に罰を与え給うときにはそれを受ける人も見聞きする人も、もう少し罰をお延ばしになれば、後悔するものを、と思う心の恨みを取り除き給うため、罰の時期を先に延ばし給うのである。五には、来世における苦しみを恐れさせ給い、その道をもってしてでも人を善に引き入れ給うためである。例えば、ここに正義感の強い人がいて、大罪人に罰を与えないのを見れば何と思うであろうか。ああ、恐ろしいことである。今これを見逃し給うのはその後に大きな罰を与える給うためであると、見聞きする人は大いに恐れるはずである。でうすが現世において悪人の上に罰を与えるのを延ばされるのもこれと同じことである。上に述べた理由によってでうすが罪人の上に罰を与え給うことを延ばされる道理は明白である。このことについて聖アウグスティヌスは『このような者を生きながらえさせ給う理由は、後悔をさせ善の道へと引き入れ給うためか、または善人たちにその障碍をもって功労を得させ給うためである。』と言っている。そうだとすればどのような悪人も生きている限りでうすの御力添えと自己の勉励によって行いを改め、善に立ち帰ることができる。しかし、でうすが悪の状態に陥った者を即時に地獄の火の穴に抛り込み給うならば、どうして悪を退け、善を修めることができるであろうか。昔聖パウロはえけれじやを迫害していたときに、その場で直ぐにでうすが罰をお与えになっていたなら、どうしてキリスト教徒になり、あぽうすとろ(Apostolo (ポ)=使徒)にもなられたであろうか。またコンスタンティヌス(ローマ皇帝、306-337在位)を異教徒の時に地獄に落とし給うたならばどうしてキリスト教徒になり一天四海には...(脱文あり)。アウグスティヌスはキリスト教徒になる前から大学者で、キリスト教の教えを論破しようとしておられたけれども、御主は忍耐深くましますがゆえに、彼の寿命を延ばされ、そのことによって彼はキリスト教徒になられ、司教の位に任命され、教会博士としてえけれじやを支える強い柱となられた。もちろん即時に厳しい罰を与え給う場合には御威力の徳だけが顕れる。しかし懲罰を延ばし給い、このような悪人をも善人の中へ引き入れ給うことによって、その御勢力をますます顕わし給い、その上御慈悲が広大である点も、最上の御知恵も、その他数々の御善徳をも顕わし給い、えけれじやに並ぶもののない飾りとなる使徒・教会博士、その他の善人たちを与え給うのである。」

  * * * * *

 「神の計らいの大なることかくのごとし」と言う以外にない。神は罰を与え給わないのではなくて、いつ与えるかを測り給うということである。これは人間には到底知り得ないことであるから、それを当てにして悪を重ねるならば、善に立ち帰る機会をなくして地獄の火に陥ることになる。われわれは回心を待ち給う神の御憐れみと御慈悲に縋らなければならない。「主よ、汝もしもろもろの不義に目をとどめ給わば、誰かよく立つことを得んや」(詩編129:3)。

丸血留の道(9)
Weblog / 2006-07-27 15:13:09
 丸血留の道 第二 キリシタンに障碍を成す人の上に、御罰の顕れざる子細の事。

 「さてまた、キリシタンを迫害する人々が長い間命を保つけれども、行動を改めずいよいよ悪い状態になるのをでうすがそのままにしておかれるのは、天国の栄光のために選び出し給う人々に彼らが障碍を二つのものをつなぐものとして功徳の力を求めさせ給うためである。そのしるしとして、でうすはイスラエルのすべての人々に約束なさった国の所有権を認めさせ給うた時、その隣国の敵どもを追い払われることは容易であったけれども、そのまま多数の敵どもをお残しになった。その理由は戦うべき相手がいない時には万事に怠りが多く、勝利を得る手段をも忘れるから、このように計らい給うのだと聖書に書かれている。それゆえ、キリシタンにも油断をさせることがないように、あるいはこの比べるもののない手柄を顕わさせ給うために妨げをする悪王どもを生きながらえさせ給うのである。もしネロ皇帝がいなかったならば、聖ペトロや聖パウロは丸血理与[殉教]の冠を戴かれたであろうか。デキウス(ローマ皇帝。249- 260在位)やダシアノ(イスパニア総督)がいなかったならば、聖ラウレンティウス(258年8月10日にローマで殉教)や聖ヴィンセンティウス(304 年イスパニヤ、サラゴサ市で殉教)は貴き丸血留になられたであろうか。ヘロデ大王(前73-後4年)がいなかったならば、ベトレヘムの無辜の幼児たちが殉教者の地位に就くことはなかったであろう。国々に数々の悪王がいない場合には数万人の丸血礼数[殉教者たち]はどこの国から出て来られるであろうか。その上悪逆非道なユダヤ人たちの仕業によって救い主ゼズ・キリシトの御功徳がすべての人間の救霊の道を達成なさったのである。上の道理によって御主でうすが悪王に罰を下すのを延ばし給うという事情は明白である。」

 「それゆえにでうすは人々に恐れを抱かせ給うために現世においても罰を下され給うたこともある。それというのは、丸血礼例数[殉教者たち]の事績に顕れているように、えけれじやを責め滅ぼそうとした悪王どもが、ある者の場合には悪魔に責められて自害した者もあり、あるいは猛獣に喰われて死んだ者もある。このことは皆代々の悪王どもの上に起こったことである。でうすはこのような罰を特に御教えを広め始め給うときに顕わし給うのである。例えばこの世の大名たちが国や郡あるいは天下を取ろうとする最初にとりわけ万民の恐れを持たせようとして厳しい処罰をするのと異ならないと考えなければならない。

  * * * * *

 神が悪を通じて善を達成し給う一つの例であろうか。迫害という悪を通して殉教という善を達成される神である。ローマやサラゴサの迫害とそこから生まれた殉教者の例が引かれており、またイエズス誕生の後のヘロデのベトレヘムの嬰児大量虐殺が述べられている。悪が悪であることを止めることはないが、悪が行われるときに善が生まれるというわれわれ人間には素直に受け入れがたいことを神は実現なさるということである。現代の奸悪さは悪を悪でないと言いくるめることである。迫害という宗教的なものを法的処罰として処理する共産主義者たちや中絶という嬰児虐殺を母胎の安全とか人口増加に対する措置として容認する現代国家の政治家たちはここで言われている代々の悪王どもの末裔である。

丸血留の道(10)
Weblog / 2006-07-28 20:24:49
 丸血留の道 第二 キリシタンに障碍を成す人の上に、御罰の顕れざる子細の事。

 「このことについて昔の善人の御事跡にあったことを聞きなさい。ある山籠もりの帰依者の師匠と弟子がいたが、何らかの理由があって弟子が里へ下ったが、その折りも折り、金銀珠玉をもって棺と棺を入れる箱を飾り、僧侶が大勢集まって目を驚かすほどの葬儀を執り行っているのに行き会った。この山籠もりの弟子はあたりの人に近づいて『これはいったいどういう方の葬礼ですか』と尋ねてたところ、その人が答えて言うには『この死人というのは七珍万宝、あらゆる宝物を有り余るほど持ち、栄華も数限りなく隣郷近里に肩を並べる人も無く、他の人を越えて罪も犯した人たる道に背く人でしたが、誰も死を逃れることができない世の常で死んだのを、親族が多かったのでこのような葬儀をしているのです』と細かく語った。あの山籠もりの弟子はこのことを聞いて、そのような悪人をこのような葬礼に逢わせ給うでうすの御計らいは不可解であると奇異の念を抱いた。さて日も傾いたので山中に帰り、残っておられた師匠にこのことをはっきりと話そうと探してまわったが見つからない。いったいどうしたことか、とあちこち探してみると、師匠が猛獣に食われて殺されておられるのを見つけた。『何とまあ不思議なことかな、私の師匠は善人であられたのにこのように惨めに亡くなられ、一方あの里で見た死人は悪人なのに多数の僧侶の葬礼に逢わせ給うとは、でうすの真に不思議な計らいであることかな』と不審に思っているところに、天使が現れて言われるには、『不審に思ってはいけない、あの金持ちは悪人なので罪の報いとして地獄に落とされた者である。しかし、悪を極めたその中に僅かの善いことをしたことによって正しい裁きの上からその褒美をなし給うために、現世にてこのような葬礼に逢わせ給うたのである。またあなたの師匠は善人であったためにパライゾ・天国へと召し上げ給うた。しかしつまらない人間の常で僅かの不足を持っていたので、現世であのような償いをさせ給うたのである。このことをもって広大無辺のでうすの御意志の上から計らい給うたことを決して不審に思って疑ってはならない』と。そう言って天使は去って行かれた。見よ、見よ、最上の御知恵、御裁きの根源から計らい給うでうすのなさり方を愚かな人間の知恵で探ろうとすることはこの上もなく愚かなことであるということを。このような例は古今に多くあるけれども、ここでは省略して載せないことにする。」

  * * * * *

 現世において神が人間を処遇なさる仕方と来世で処遇なさる仕方が異なることをこの節では述べている。現世での最期が来世でのその人のあり方を必ずしも表さないということである。神の裁きは公正であり、現世でどのように他人の目には幸せに見えてももしその人が神の前で正しくなければ来世では必ずその罰を受けるし、その逆もまた真なのである。きりしたんが世人の目にどのように惨めに見える死に方をしても、でうすは殉教の冠を与えて彼を天国の上席に座らせ給うであろうし、また迫害者がいかに世間的に地位もあり栄華を誇っていても地獄に落とされるであろうということを教えようとしたと思う。

丸血留の道(11)
Weblog / 2006-07-29 15:26:00
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「それゆえに御恩を知らないことさえ深い罪であるのに、狼藉の数を尽くし、御掟を投げ捨てでうすを否定し奉ることがどれほどに大きな罪であることか。真の道を知った後に棄教する者は進退を改めないならば、御掟を知らない者よりもその地獄の苦しみはもっと深いものであるはずだ。御主イエズス・キリストはルカ聖福音書第12章でこう言っておられる:『主人の意を知りて用意せず、主人の意に従いて行わざるしもべは、鞭打たるること多からん。しかれども、知らずして鞭打たるべきことをなしたる者は、うたるること少なかるべし』(47-48)と。御掟を知りながらそれを棄てた者を指して旧約聖書集会書の第41章にこう言われている:『災いなるかな、汝らいと高き主の法を棄てし不敬なる人』(11)と。真にこの上もなく憐れむべきことである。キリシタンを転ぶ者は悪魔の奴隷、いんへるの(Inferno =地獄)の薪となり、果てしなく他の人よりもむごい仕方で焼かれることになるからである。この罰は来世の苦しみだけとは限らない。現世において早くも霊魂と肉体の上に数多くの損失を受け始めるのである。その災いはおよそ十ある。一つにはキリシタンになって以来の断食や鞭打ちの苦行によって求めた功徳が全部無駄になってしまう。二にはばうちずも(Bautismo=洗礼)の時でうすから与えられたがらさ(Graca=恩寵)かりだあで(Caridade=愛)をはじめとしてすぴりつさんと(Spiritu Santo=聖霊)より与え給う[七つの]賜物を失い、その上すぺらんさ(Speranca=望み)と言って来世の救霊を得ようと望みを持つ望徳やひいです(Fides=信徳)までも次第に弱くなり、人によっては悉く失うこともある。三にはえんてんぢめんと(Entendimento=理性)も乱れ、をんたあで(Vontade=意志)は善い事をする力が弱くなり、多数のあぺちとす(Apetitos=欲望(複数形)の邪な望みが強くなり、傷ついたなつれざ(Natureza=自然本性)は肉体の言うままになって、繋いでいない荒馬のようになる。四には心が平静さを失い、こんしえんしや(Consciencia=良心)の虫すなわち良心の咎めが日夜喰らいつく。もし誰かがこんしえんしやには苦しめられないというならば、これは尚もって大きな罰である。これはまったく動いたり働いたりしない死骸に異ならないということを知るべきである。五にはてんたさん(Tentacao =誘惑)を防ぐために力がないことである。六には棄教した悪い手本をキリシタンは言うにおよばず異教徒までが誹謗する題目となり、強いキリシタンが善の種子となるように棄教したキリシタンは悪の種子となるのである。七にはキリシタンの教えを棄てるために心中の臆病が顕れ、皆の嘲りを逃れることができない。八には棄教することによってでうすの人数の内から放り出され、悪魔の奴隷となる。九には諸々のあんじよ(Anjo=天使)・べあと(Beato=聖人)、とりわけ守護のあんじよに嫌われ疎まれるのである。十にはでうすから離れ奉るのである。もちろん、後悔するならば許し給うであろうが、そうでない場合は天上から地獄の底まで落とされたるしへる(Lucifer=ルチフェル)のように天国を失い、地獄の苦しみを受けなくてならない身となるのである。それゆえに御主イエズス・キリストは以上のようなさまざまの罰を与え給いその罪の深さを思い知らせ給うのである。」

  * * * * *

 知った上で犯す罪は知らずに犯す罪よりも重いというのは世間の常識でもある。キリシタンになるということは幼児・子どもを除けばよく理解した上で洗礼を受けることであるから、事情がどうであれ、棄教することは重大な罪であり、その罰もまた異教徒に与えられる罰よりも当然重いのである。その罰は来世の地獄の罰だけのことではなく、すでに現世において肉体と精神の上にさまざまの損害をもたらすとされ、その損害が十ヶ条にわたって述べられている。

 現代のわれわれはこのようなことを教えられているか?信者はこのような覚悟で自分の信仰を守る決意をしているか?信仰と実践とがこのような厳しい選択の上に成立しているのだということを自覚しているか?迫害もないのにせっかく与えられた恩寵を感謝しないどころか簡単に投げ捨て自覚症状もなしに離教する人が結構いるのではないか?そもそも現代のカトリック教会では愛とか平和とか自由とかが声高に語られるが、罰とか苦しみとか、ましてや地獄のことはタブーになったかのように語られない。キリシタンが教えられたことがなぜ現代では教えられないのか?時代や場所が変わっても変わらないのがカトリックの教えではないか?

丸血留の道(12)
Weblog / 2006-07-30 15:54:58
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「聖書にあるように、ニコマソという人がひいです(Fides =信仰)のために糾問に逢い責め苛まれたとき、その苦しみに堪えかねて棄教した。それゆえたちまち悪魔が彼に憑き祟り、声を上げて次のように言わせた:『なんとまあ不幸なニコマソだなあ。苦しみを逃れたのではなくて、もっともっと厳しい苦しみに替えたのだ。』そう言って彼は直ぐに死んだ。このことによく心を留めて見なさい。彼は苦しみが耐えられなくて棄教したのであるが、それでさえたちまち天罰を蒙ったのであるのに、何の苦しみをも受けないのにただ言葉の勢いに恐れて棄教する者はどれほどの恐ろしい罪となることであろうか。あの者は肉体の命を惜しんで棄教したがそれでさえたちまち天罰を与えられたのだから、僅かな財宝に目をつけて棄教する者はどうなるであろうか。棄教して直ぐにでうすが罰を与え給わないからといってそれを見逃し給うはずだと思ってはならない。後に延ばし給うほどそれだけ罰はますます厳しくなると考えなければならない。聖アントニオ[251頃-356]は棄教した者を大変嫌われ、言葉をかけることは言うに及ばず、途中で出会っても顔を背けて通られたということである。その理由は浅ましい悪魔の味方となり、でうすに従う人々の仲間から外され、でうすの敵となったからである。例えば、武士が戦場で臆病になり、その上大将の旗の下から逃げ去って、敵に寝返るなどということは、主君に対する謀反の心が度を超えていると言わなければならないのではないか。さらにその上に他人をもその謀反の心に勧誘するならば、なおそれ以上に重罪である。このような者は主人をはじめとして上下万民に憎み疎まれるのは極めて当然のことである。そのようにキリシタンの上に妨害があるとき、でうすに対して悪魔の企てるところを思いめぐらせば、それは戦場での手柄と同じである。ひいですの戦いが起こるとき、欲心に引かれ、または欲深くなり棄教する者は、でうすの貴い十字架の御旗の下を逃れ去って、悪魔に心を合わせる者である。その上、親類・知人・仲間に空しい愛をもって同じ謀反を進める者は悪魔の使い、仲立ちであり、また悪魔のしもべであることは明白である。それゆえにキリシタンが妨害がある時に棄教する理由はおおよそ四つある。一には領地の支配、財宝に目をつけて棄教すること、二には妻子と知人のために棄教すること、三にはこの世での主人のために棄教すること、四には難儀・苦しみ・罰などを恐れて棄教することである。これらの迷いについてあらまし以下に説明することにする。」

  * * * * *

 ニコマソは解説によれば聖書の人物として挙げられているが不明、とある。信仰のゆえに追求されて責め苦を受けその苦しみに堪えかねて教えを棄てたけれど、苦しみを逃れたのではなくてそれをもっと大きい苦しみに替えたに過ぎないと説明される。苦しみを受けて棄教する場合でさえ天罰が下るのであるから、ただ言葉の勢いを恐れて棄教する者の罪はもっと大きい、とはきつい言葉である。武士の主君に対する謀反が例に出されているが、これは戦国時代のキリシタンに対して説得力のある例であろうが、キリシタンだけでなく現代のわれわれだって戦う教会の戦士であり、主君であるでうすの臣下であるわけであるから、主君の敵である悪魔の下に走ってでうすを裏切ることは人間の主君に対する反逆とは較べものにならない重い罪であるのは理の当然なのである。


丸血留の道(13)
Weblog / 2006-07-31 15:14:11
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「一には所領地や財産に目を向けて棄教することは真に嘲笑に価することである。なぜなら値のつけようもないほどに貴重ながらさやあにまの多くの飾りと後生のために求め集めた功徳などを空しい宝のために捨てることは決して知恵のある行いとは言えないからである。これは価値の高い金銀や透明な珠玉を価値のない花などと交換する子どもと変わらない。それゆえに後生に替えて持つほどにそのように大切だと思う財宝を最期まで持ち続けることができる年数がどれくらい残されているかは人には分からないのである。数年の辛労によって求め集めた宝を盗人に取られたり、あるいは主人から力ずくで没収されたり、ついにはいろいろの災難に遭って失うことは珍しいことではない。たとい命のある限りその宝を最後まで持ち続けるとしても、死ぬときには必ず捨てないわけにはいかない。そうであるのに、ひいですと自分のあにまのためにでうすに捧げ奉らずには済まない財宝を惜しむのは真にいんへるのの苦しみを重ねる基である。そうしてまた命の根元となるあにまを打ち捨て、朽ち果てるべき領地や財宝を持つことが何の益になるのか。御主の御言葉に「人全世界をもうくとも、もしその魂を失わば何の益かあらん」(マテオ16:26)とある。海上で暴風に遭うとき、命を保とうと思えば、船中の財宝を省みず、うち捨てるのが世の常である。あなたは不滅の命を保つために僅かな宝をでうすに捧げ奉らないのか。ところで、あにまの助かりについてはそれはそれとして、捨てた財宝のために果てしのない天の御国を賜るのである。また財宝のために棄教する者を喩えてみれば、海上で大風に遭いながら財宝を惜しんで船を沈め、わが身を海底に投げ捨てる者と同じである。このような人々はあにまと財宝との二つを両方とも失うことになるのである。」

  * * * * *

 物質的な宝と精神的な宝、はかない現世と永遠の来世との対比によって前者のために後者を失う者の愚かさが述べられる。「人全世界をもうくとも、もしその魂を失わば何の益かあらん」という主の御言葉をよく噛みしめるべきである。

丸血留の道(14)
Weblog / 2006-08-01 09:45:10
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「二には妻子と友人のためにキリシタンを棄教することは第一の迷いに劣らぬ迷いである。なぜかと言えば、死ぬ時に財宝を後に残して行くのと同じように、妻子と知人にも離れずにいるわけにはいかないからである。死んだ後まで見捨てず確実であるあにまの友人というのは、でうすから下されたがらさと善行をもって求めた功徳のことである。この友人こそ最後の審判の時まで伴って行き、でうすの御前で天国を与えてくださるようにいろいろと執り成しをしてくれるものである。一大事の時に及んで私のあにまをお見捨てにならないでうすのがらさと、善い行いをもって求めた功徳を振り捨ててあまり頼りにならない妻子や友人のために棄教することは本当に喩えを言う方法もない。それだけでなく、上に述べた友人となるがらさ、功徳をはじめとして限りなく大きな御恩を残らず与えて御自分のあにままでも与え給い、敵となる筈のわれらのためにその御命までも捨て給うた御主イエズス・キリストに似せられた友人すなわちあにまはどこの国にいるであろうか。それなのに棄教してイエズス・キリストと自分のあにまを捨てよと勧める悪人をあなたの友人と思うのか。これは真に愚鈍の至り、嘆きの中の嘆き、まったく言いようのないほどけしからぬことである。ほんとうにこのような者はあなたにとって古くからの敵、現在の敵、恐ろしい悪魔である。マテオ聖福音書において「汝ら偽預言者を警戒せよ、彼らは羊の衣服を着て汝らに至れども、内は荒き狼なり」(7:15)と言われているのは、このような者を指してのことであると心得なければならない。このように悟ったならば、その意見を聞き入れてはならない。そうしてまた、キリシタンを棄教しないと言って親類や友人を捨てた代わりに天において数万の天使や聖人たちと一緒になるであろう。諸々の天使、聖人の清浄潔白なこと、その人を感服させる力、その威厳のこの上なく大きいこと、あなたのために尽くされるその憐れみや愛の程度は真に言葉や喩えでは表現できない。その大きな愛情の千万分の一でさえ誰が詳しく述べ得ようか。でうすに対する奉仕のために親類・友人を捨てる場合には、忝ないことに天地の御主があなたの親類・兄弟となり給うのである。主御自身の言葉に「誰にもあれ、天にましますわが父のみ旨を行う人、すなわちこれわが兄弟、姉妹、母なり」(マテオ12:50)とある。御父のみ旨を行う人を御自分の兄弟となし給うというのであるから、ましていわんや、御掟に背くまいとして親類・友人さらに自分の命までも抛つ者をそうなさるのは言うまでもないことである。」

  * * * * *
 棄教の第一の理由の物質的なもののためであるが、棄教の第二の理由は人間関係のためである。妻子・親類・友人のために棄教する、すなわち、人間を選んで神を離れるということである。このこともまた、現世のはかない人間関係と永遠に続く神との親しい関係のどちらかを選ばなければならない状況に立ち至ったときにどちらを選ぶべきかは明らかであるということを示すものである。ただこれらの二者択一は来世を信じない人々には無意味であろう。この世がすべてで死ねば無に帰すと思う人には較べるべき神や来世や霊魂が視野に入って来ないからいずれを取るかという選択もない。信仰自体がすでに神の恩寵なのであろう。しかしカルヴィンのような予定説を取ってはならない。神はすべての人の永遠の救いを望んでおられ、そのためにこそ御子イエズス・キリストをこの世に遣わされ、御子は十字架の苦しみを御父に捧げ給うたのである。キリストはそのことを世に伝えるために使徒をお選びになり宣教の使命を与え給うた。聞く耳を持つ人は聞けということである。

丸血留の道(15)
Weblog / 2006-08-02 15:02:16
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「三にはこの世の主人のために、その名が重いといって棄教しでうすに背き奉ることは迷いの上の迷いである。前者は愚かな主人であり、後者は天地の主君にまします。前者は現世の主人、後者は現世と来世の御助け手、前者はわれらと同質の人間、後者は御威勢・御威光の御主でうすにまします。前者は少しの恩賞を与え、後者は無限の御恩の御与え手にまします。この御恩の数々を誰が数え尽くすことができようか。まず何も無いところから万物を創造なさり、御手を放し給うことなく守り給い、御養育し給うために五穀をはじめとして万物を創造して置かれた。そうであるのに人間の方からはその御恩を理解せずにさまざまの狼藉を尽くしたにもかかわらず、でうすは御堪忍深くそのことを見逃し給うたのである。眼を開いてよく見なさい。この世の主人に使われる者は昼夜絶え間なく奉公していても少しでも怠りがあれば、あるいはその職を取り上げられ、あるいは支配する土地を没収され、または牢に入れられる身となり、ついには命を失うことも多い。御主でうすは犯した罪を真実に後悔しさえすれば容易く赦し給うのみらならず、あまつさえ御子の位にお召しになるのである。そうしてまた御恩の上の御恩、御愛の上の御愛と申し上げるものは御ぱしよん(Passion=御受難)にまで行き着くのである。御自分に対して謀反を企てるいやしい人間のあにまを助け給うために、悪人どもの手に御身を渡し給い、数々の誹謗・讒言を受けられ、数限りない苦しみを堪えられ、この上なく貴い御血を流し給い、ついにはくるす(Cruz =十字架)の上でお亡くなりになったことはどれほどの御恩、どれほどの有り難い愛と思うのか。この世で悪逆無道な家来のために命を捨てる主人がいるであろうか。前代にもまだ聞いたことがないが後代にもないであろう。そうであるから、これほどの御恩の御与え手、愛深くまします御助け手をかりそめのこの世の主人に替え奉る者を思慮分別のある人間とはまったく言うことはできないのである。」

  * * * * *

 現世の主人と現世と来世の助け手なるでうすとは必ずしも敵対する関係にはないけれども、ペルセギサンにおいてはどちらかを選ばなければならないことが生じる。現世の主人がでうすの敵である場合にそのことは生じる。その時にでうすを選ばない者はもちろん救霊を放棄するという重大な誤りを犯したことになる。でうすの敵の側に走ることによって自らをでうすの敵とするからである。現世の主人の酷薄さに対して来世の主人にして助け手であるでうすの慈悲深さが示される。家来のために命を捨てる主人は現世では稀というか皆無である。でうすは御子イエズスを遣わして人間を救うために命を捧げさせられた。キリスト教は武士道に通じるものがあると思う。そのよい例は高山右近であろう。彼はでうすの敵である秀吉の棄教命令を拒否して真の主君であるでうすに忠誠を尽くした。

丸血留の道(16)
Weblog / 2006-08-03 15:06:09
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「四には、苦しみと処罰を恐れてキリシタンを棄てることはこの上もなく臆病なことである。昔コンスタンテという悪王がいたが、キリシタンになった兵士たちをひいですについて問い糺したときに、彼らからいずれも強い心を顕わされたが、人によって命令に応じて棄教した者もいた。そのようなときに、悪王が心中に思ったことは敵に強い者は味方にも強い者であるということである。彼は臆病で棄教した者どもは何の役にも立つはずがないといってことごとく家来としての俸禄を取り上げて追放し、強いキリシタンは合戦の時にも役に立つはずだといって皆俸給を与えて雇っておいた。俗世間のことでさえこの通りである。いわんや後生にとって、現世で最後には捨てなければならない命を無限の後生と取り替えるなどということは考えるまでもない愚かなことである。」

 「このことはこれ以上詳しく述べるには及ばない。世間のきまりをよく見なさい。武家奉公をする者たちは少しばかりの恩賞を受けることによって命を捨てても主人の用に立たなければならない。それゆえばうちずも(Bautismo(ポ)=洗礼)を授かったとき、がらさ・善徳・さまざまのさからめんと(Sacramento (ポ)=秘蹟)、数限りない御恩は非常に大きな領地と同じようなものであるから、キリシタンたる者は御主イエズス・キリストの御奉公人であると理解しなければならない。このように大きな領地にも匹敵する御恩をただ関係もないのに与え給うのだと思ってはならない。キリシタンの取り調べに遭い、ひいですの戦いに参加するときにイエズス・キリストの御名誉を高く掲げるために、上に述べたような無限の御恩の数々をお与えくださったのだと考えなさい。ゆえに、戦うべき理由が出て来たときには、討ち死にの覚悟をもっぱら心がけなければならないのである。」

  * * * * *
 キリスト教と武士道との比較が続く。苦しみや罰を恐れてキリシタンの信仰を棄てることは武士が戦から逃亡すること、あるいは降伏すること、寝返ることにあたる臆病なこと、卑怯なことである。

丸血留の道(17)
Weblog / 2006-08-04 20:10:48
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「ここにまた心得なければならないことがある。世間の奉公人は命を省みず役に立つけれども僅かな恩賞にさえ与らないことも多い。しかしあなたがイエズス・キリストのために命を捧げ奉る場合には、でうすは天において広大無辺の御慈悲によっていつまでも変わらないぐらうりあ(Gloria=栄光)の寿命を与え給うのである。また『首を切られたり磔にされることなどであるならば簡単に御奉公に命を捧げ奉るけれども、いろいろの苦難や残忍な苦しみに逢うことは耐え難いものである』と言う人が多い。ああ、ひいです弱く愛の少ないキリシタンであることよ。御主イエズス・キリストはあなたのために御命を捨て給うたばかりでなく、数限りない責め苛み・鞭打ちを受け給い、御恥辱の限りを尽くしてお亡くなりになった。そうしてまたまるちりよ(Martirio=殉教)に逢わなければならないとき、人間の力ばかりを頼りにしているならば、どうして残忍な苦しみに堪えることができようか。しかしながら丸血留になることは自力ではなくて、ただでうすの御力を頼り奉らずしては不可能なことである。御奉公の道には命を捧げ奉ると思い切って、イエズス・キリストのお助けを頼み奉ればどうしてでうすは見離し給うであろうか。この望みさえあるならば、耐え難いと思う苦しみはないはずである。古今の丸血礼子(Martires=殉教者たち(複数形))を見なさい。彼らの処置の様子は世の常ではなかった。彼らは悪魔の企みと人間の知恵をもってありとあらゆる言うに言われぬ苦しみを集めて責め苛まれたが喜びをもって堪え忍ばれた。男は言うまでもなく、いかにも弱そうな女や童たち、激しい風にも当たられたことがないような弱い姫御子たちもおられるのである。このような人たちさえ苦しみの数々を喜んで堪え忍ばれたのに、同じ身体をもったわれわれであれば、同じでうすの御力添えによって責め苦を堪え忍ぶことができないということがあろうか。糾問と苦しみを恐れることがないように、御扶け手であるイエズス・キリストの御言葉を聞きなさい。『身を殺して魂を殺し得ざる者を恐るることなかれ、むしろ魂と身とを地獄に滅ぼし得る者を恐れよ』(マテオ10:28)と。真に世間にある限りの苦しみを一つにしてもあの永遠のいんへるの(Inferno =地獄)の苦しみに較べれば大海の一滴と同じである。そうであれば御主のために僅かの苦しみを耐え難いと思うならば、棄教して地獄に落ちそこでの終わりのない苦しみをどのように堪えなければならないであろうか。地獄に落ちてから考えを変えることはできないからして、今よくよく思案をめぐらして土台をしっかり据えることが大切である。」

  * * * * *

 論理は簡単明快、世間の奉公人とでうすの奉公人ではその恩賞がけた外れに違う。そしてその主君は世間では奉公人のために命を捨てるなどということはないのに、でうすは奉公人であるわれわれのために限りない苦しみを堪え忍ばれ命までも捨てられた。古今の殉教者たちは男子だけでなく、女性や子どもまでがでうすのために喜んで苦しを堪え忍ばれた。要するに現世でのどんな苦しみも地獄での永遠の苦しみに比べれば大海の一滴と同じ、身を殺すだけの現世の処罰を恐れず、魂と身とを地獄に落として滅ぼし給うでうすを恐れなければならないということに尽きる。

丸血留の道(18)
Weblog / 2006-08-05 21:31:38
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「ここにまたぺるせぎさん(Perseguisao(ポ)=迫害)の時、キリシタンの宗旨を替える者の見せかけの口実を聞きなさい。まず一つには、『キリシタンの宗旨を替えないと言って遠国や海上の孤島へ流されるならば、こんひさん(Confissao (ポ)=告解)をして教えや導きを受けることもできない。今だけまず棄教して後にまた戻った方がよい』と言う者がいる。これは理非の区別のつかない甚だしく愚かなことである。これを喩えをもって顕わせば、ある人が『これから先病気になったとき医者に遭えるとも限らないからただ今自害して死ぬべきだ』と言うに至っては知恵のない畜類にも劣った者だと、この人を笑わない者が誰かいるであろうか。また『これから先病気になることもあり得るから、その時心安く療治して貰うために、今無病であるときその医者に対して乱暴を加え仲違いをしなければならない』と言う者がいるならば、この人は真に嘲笑に値する者である。医者がある人から乱暴や恥辱を受けながら、その後にその人の病気に療治を加えるというようなことがあろうか。今キリシタンの教えを替える者もこれと同じであると知りなさい。それゆえ天の医者にましますイエズス・キリストまたその代理者であるさせるどうて(Sacerdote(ポ)=司祭)に、その後容易に療治せられる道があると思って、御掟に背き、自分のあにまに大きな傷を負った者はその後で直すようにしようとしても、よい機会を得られずに結局いんへるの(Inferno(ポ)=地獄)に落ちた証拠は古今に多い。そういうことであるからにはそのような迷いを諦め、でうすの御慈悲と御力添えに頼ってひいですが堅固であるならば、たといどのような遠国や海上の孤島に流されても、でうすはいつまでもあにま・身体をもろともに壮健・無事に守り給い、わずかの御奉公も広大に報い給い、ついには永遠の命を与え給うであろうと思って勇み喜ばなければならない。」

 「これについて駿河の丸血留、道寿如庵(1614年3月28日(慶長19年2月18日)駿府安倍川の川原で殉教)のことを聞きなさい。人々が上に述べたことについて談じ合い、評決しているのを聞いてこう言われた:『みなさんは何事を噂しておられるのですか。遠国や海上の孤島に流された場合にでうすへの御奉公ができないとでもお思いですか。でうすの御奉公を勤め奉ると言ってキリシタンとなった人々が相共に考えなければならないでしょう。このようにお考えになられる場合にはお望みの通りにならないと言う理由はありません。他人はともかくとして、私はでうすがどのように計らい給うても御奉公の道を最後まで守り通します』と言われたそうである。でうすもまたこの志をお褒めになって、そのご褒美として彼を丸血留の位に召し上げ給うたのである。」

  * * * * *

 道寿如庵についてレオン・パジェス「日本切支丹宗門史」(岩波文庫、上357-358頁)に次のように述べられている:「彼等は、偶像の寺の附近にある『安倍』川の岸に引立てられ、両手の指を、片方づつ、つまり六回で切落された。そして突転がされて脚膕を痛められた。かくて彼等は、地面に倒されたままで放置され、而も誰も彼等を庇うことは禁ぜられ、傷の手當をすることさへ禁ぜられた。然し夜になると、キリシタンが、この榮ある難教者を引取って、癩病者の巌窟に導き、傷を洗ってやった。ヨハネ道壽は、その夜の中に息を引とり...」パジェスのこの書物は岩波文庫で今も入手可能(上中下3巻クリセル神父校閲 吉田小五郎訳)と思うのでキリシタンについて、特にその迫害と殉教について知りたい方は是非読まれることをお勧めしたい。


丸血留の道(19)
Weblog / 2006-08-06 20:34:19
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「二には、人によっては『心中は少しも格別の事情はない。ただ、今は世間を渡るために、表面的にだけ棄教すると言ったまでである』と言う者がいる。このような人はやはり明らかな欺き謀る人である。元来心と言葉が違うのが謀反人の習いである。このようなことででうすの御罰を免れ、後生の助かりに与ろうと思うのか。上に述べたように、キリシタンを棄教した者の重い罪、損失、下される罰は本当に棄教した者も、表向きだけ棄教する者も罰においては差異があるはずがない。このことについてイエズス・キリストの御言葉を聞きなさい:『されば、すべての人の前に、われを宣言する人は、われもまた天にましますわが父のみ前に、これを宣言すべく、人の前に、われを否む人は、われもまた天にましますわが父のみ前に、これを否むべし』(マテオ10:32-33)と。また御言葉に『たれも二人の主に、かね仕うることあたわず、そは、あるいは一人を憎みて一人を愛し、あるいは一人に従いて一人をうとむべければなり』(マテオ6:24)とある。その理由は一人を敬えば、今一人は賤しむべきだからである。御主イエズス・キリストは人間のあにま・肉体の主君にましますからして、心と行動とをもって敬い尊み奉らなければならないのである。」

 「その他、表向きだけで棄教することも、キリシタンのために大きな悪い手本となり、異教徒のためにはでうすの御法の深い欠点となるものである。それゆえに、ぺるせぎさんの時、強いキリシタンがひいですのために呵責を受けてもたじろがず、かえって喜びをもってその苦しみを受けるのを見るとき、心ない異教徒も『さてはキリシタンの宗門にだけ後生の助かる道があることがはっきりしている。確かな道を見つけていないならば、どうしてこのような行いができるだろうか。これほどに厳しい責め苦をあのように喜んで受け堪えているのは、ひとえに人間の力でなく、ただでうすの御力である』と理解するのである。また多くの人は表向きだけ棄教するのだと言っても、異教徒はその心中の臆病を知らずに貴いキリシタンの御宗門を浅いものと見なすのである。もしこのキリシタンの宗門において確かな後生の助かりを見つけたのならば、この僅かな現世に替えることがあってはならない。彼らが棄教を見るときには、自分の宗旨と変わりはないと思うにちがいない。そのような時には表向きだけ棄教するキリシタンでもその御法に大きな恥辱を与え、イエズス・キリストの御名を汚し奉る重い罪を今更逃れることはできないのである。旧約聖書マカベ書第6章[第18節以下]にエレアザルという善人が異教徒の帝王の命令として『御掟を破って肉食をせよ』と勧められた時答えて『少しでもそうはできない』と言われた。それで帝王は大いに怒り、『死ぬまで打ち叩け』と命令を下したその側から親しい友人たちが現世的な愛をもって苦しみを逃れさせるために『ただ肉を食べる振りをしなさい』と意見をしたがその返事は『肉を食べる振りをすることは私の生活の仕方に似合わない。なぜなら、90歳にもなったエレアザルが御掟を破って肉食をしたと若い人たちに悪い手本を与えるに違いない。私が命を惜しんでキリストの御教えに傷をつけるよりは、どんな苦しみであってもそれを受け、乗り越え、命を捨ててイエズス・キリストの御誉れを掲げるべきである。たとい一旦人の手を逃れてもでうすの御手を逃れることは現世でも後生でも決してあるはずがない。少しばかりの苦しみを受けそれを乗り越えて、永劫に変わらない[地獄の]苦しみを逃れるべきである』と言って喜び勇んで打擲の場へ出られたのであった。」

  * * * * *

 本心そうでないのにそうであるかのように「振りをする」ことは人を欺くことであり、同時に神を欺くことである。心と言葉とは一致しなけれならない。厳しい掟である。キリシタンのひいですはけれど(Credo =使徒信条)として人々と神の前に公に宣言されるものであって、内心で密かに信じられるものではない。表面的に、一時的に信じていることを放棄しても内心では、あるいは後にまたそれを保持し続けられると考えることは欺瞞である。キリシタンは現代のわれわれよりもずっと詳しくそして厳しく教えられていたということがこの「丸血留の道」を読んでもよく分かる。特に来世の苦罰について現代では殆ど教えられていないのではないだろうか。

丸血留の道(20)
Weblog / 2006-08-07 20:15:27
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「三には、人によっては『キリシタンの禁令も一時吹く大風のようなものでやがて収まる。厳しい責め苦は堪えられない。まず風を通すため、いったん棄教してもやがてまたキリシタンに戻るのがよい』と言う者がいる。ああ、つまらない人間の企てることよ。明日の命を誰があなたに約束したのか。悪人が真実の後悔をさえする場合には.....(脱落)御約束はされないのである。何とまあ偽善の心の企みであることよ。人を欺くことはできても、でうすを欺き奉ることはほんの僅かでも思う通りにはならないのである。この迷いを明らかににするためにここに言うべきことを聞きなさい。例えば、夜中に大風が荒々しく吹いて来て家を吹き倒しそうであるのに、その家の主が『起きるのも面倒だし働くのも辛い。家は崩れても放っておこう。崩れたらまた後で建て直そう。安心して寝て風を通そう』と言うようなことがあろうか。

 「また商人が遠国に船で出かけて、種々の難儀に堪えてたくさんの宝を船に積み、すでに本国の港に着こうとしている時に俄に大風が吹いて来て、逆巻く波に船を難破させるかと見えるところに、船中の者どもが『これほど雨風の激しいのに苦労してもどうなろう。たとい船は沈んでも、命の助かる道はあるだろう。心配するには及ばない。船底に体を横にしてこの大風をやり過ごせ』と言うならば、彼らは真に狂人と言うべきではないか。それゆえ、この喩えを解釈してみれば、商人とはキリシタンのこと、船に積んだ宝とは一生の間にさまざまの難儀をしてあにまに蓄え置いたがらさと功徳である。大風とは迫害のこと、港に近づく船を沈めようとするというのは、丸血留の道よりぱらいぞ(Paraiso(ポ)=天国)の本国に到着しようとしているキリシタンを棄教させて、いんへるのの海底に沈めようとする意味である。僅かばかりの苦しみを逃れようとして、迫害の風に心を服従させるに至っては、長い間の望みをもって求め集めた功徳の宝をすべて失うことになるのである。さらに船を破損して後悔の板切れに取りつき、悪の海底から浮かび上がるなどということをあなたは確実に知っているのか。大風が激しく吹いて来て船を転覆させるときに、あなたはどうして死を逃れることができようか。殊に悪魔は鱶や鯨のように、棄教した者のあにまを呑み喰らおうとして、その人が死ぬのを今や遅しと待ちかまえているのである。ああ、何人の人があなたのように、すぐにキリシタンを棄教して後に再びキリシタンに立ち戻ると思っているであろうけれども、その望みを果たすことができずに、いんへるのに落ちたか、その数は計りしれないほど多いのである。あなたは永遠の地獄の苦しみを受けるよりも、ぺるせぎさんの短い苦しみを、快く丸血留の道よりぱらいぞの港へとまっすぐに到達するように希望し、御主の御恩と、とりわけ御ぱしよん(Passion=御受難)においてお示しになった比類のないキリストの愛に対してどのような激しい御奉公をも勤めなければならないと平常覚悟をしておくことが大切である。」

  * * * * *

 禁教令のことをすでに念頭においてきりしたんに迫害の来るべきこと、棄教の誘惑が起こることを教えているこの書物は丸血留の道を通ってぱらいぞへ至るよう勧めている。それは繰り返し説かれるように、現世のはかない生と来世の永遠の命とを取り違えてはならないということを理解させるためである。

丸血留の道(21)
Weblog / 2006-08-08 21:03:11
 丸血留の道 第四 ひいですに届くことは如何程の面目、亦深き功力ぞと云こと。

 「でうすの御奉公として、ひいですに届くこと、すなわちひいですを最後まで持ち続けることはその功徳が甚だ大きいということは前に述べた理屈によって大体分かるけれども、なおそれを徹底的に明らかにすべきことがここにある。ひろぞほ(Philosopho(ポ)=哲学者)である異教徒の学者が言っていることがある。『例えば、黒白の二つを並べるとき、その色はいっそう明らかに距たりがある』と。この道理を頼りに今ここに詳しくその理由を説明しよう。」

 「御主イエズス・キリストは弟子たちにひいですの力を加え給うて『汝らはわが患難のうちにおいて絶えずわれに伴いし者なれば、わが父のわれに備え給いしごとく、われも汝らのために国を備えんとす』(ルカ22:28-29)と宣うた。今キリシタンの上に迫害が来るべき時、ひいですを動揺させないで、イエズス・キリストの愛とその御受難に対してどのような難儀・辛労をも堪え通し、イエズス・キリストを離れ奉らない場合にはこの忠誠の功徳の御褒美も使徒[聖パウロ]に為し給うた御約束に等しいものであることは疑いのないところである。大切な時節にこそ、真実の友人は顕われるものである。弓矢を取って戦う戦のときにこそ、武士の手柄も見えるものである。合戦の時の忠義によって大将の褒美を受けることは定まった法である。イエズス・キリストの友であるひいですの戦士は迫害の時にこそその善悪がはっきりする。正義の源にましますでうすが彼らの忠・不忠に対して賞罰の返報をなさることは尤も至極の道理である。臆病な戦士に対してはいんへるのの御成敗、すなわち地獄に落とすという罰をお与えになり、ひいですを堅固に守り通したキリシタンには天の国を与え給う筈である。」

 「天国においてはその位に順序がある。愛の多少によってべあと(Beato(ポ)=福者、聖人)たちはぐらうりや(Gloria(ラ・ポ)=栄光)を受けられるのである。第一に優れたかりだで(Caridade(ポ)=愛)はでうすのために命を捧げ奉ることである。このことを指して言われた御主イエズス・キリストの御言葉がある。『たれもその友のために生命を捨つるより大いなる愛を持てる者はあらず』(ヨハネ15:13)と。これがすなわち丸血留の位である。その次に来るのは、ひいですのために妻子・眷属・財宝などをでうすに捧げ奉る人々である。この御奉公の忠節の非常に大きいことは人間の言葉では言い尽くし難い。ただ天使の弁舌に頼る以外にはない。旧約聖書にあるように、御主でうすはアブラハムの従順・ひいですを試し給うために『アブラハムよ、私のためにお前の一人子イサクを山上で犠牲として捧げなさい。』と宣うと、アブラハムは強いひいですをもって御言葉の通りに若い一人子イサクを連れて山上に赴き、剣を抜き振り上げてまさに打とうとされたときに天から御声を掛けられて留められた:『そのことを止めなさい。あなたの従順をでうすは見給うた。その忠節のためにあなたは言うに及ばず、子孫末孫に上にもべんさん(Bencao (ポ)=祝福)である御憐れみと御助けの目をおかけになるであろう。それだけでなく、あなたの子孫の中から世界の救世主が出給うであろう。』ところで、聖なるアブラハムが一人子を捧げようとしたのに対してさえこのような莫大な御褒美を受けられたのであるから、ひいですを最後まで持ち続けるために妻子・一族と家来・財宝をすべて捧げ奉った人の天上の位はどれほど高いことであろうか。このような忠節の御返報は来世まで待ち給わずに現世においてもお与え下さることは必定である。マテオ聖福音書(19:29)にあるように『すべてわが名のために、あるいは家、あるいは兄弟、あるいは姉妹、あるいは父、あるいは母、あるいは妻、あるいは子ども、あるいは田畑を離るる人は百倍を受け、かつ永遠の生命を得べし』ということである。聖ヒエロニムス(331頃-420)はこれを注釈してこう言われた:『御主のために妻子・財宝を捨てた者はあにまの宝を受けるであろう。このすぴりつ(Spiritu (ポ)=霊)にある宝においては比べるべきものは何もない』と。それゆえ、聖マルティヌス(316-397南フランス、トゥールの司教)がまだ俗人であったときに貧しい人から慈悲を乞われたときたまたま与えるものがなかったので着ていた上着を半分切り取らせた。そうしたら翌日の夜半に御主イエズス・キリストが多くの天使たちと共に聖マルティヌスに現れ給い、天使たちに『私の家来であるマルティヌスがこれを私に着せたのだ』と晴れやかな顔で仰ったのである。」

  * * * * *

 このような話はわれわれの時代よりもキリシタンの時代にいっそう分かり易かったであろう。迫害の時に信仰を棄てずに持ち続けること、命を捨てても守り通すことを彼らは聖書からの引用や聖人たちの事跡からしっかり教えられ、このような書物を通して学んでいたのである。現代のわれわれはわれわれの敵がどこにいるか、誰であるかを教えられていない。すべては連帯すべき仲間であるかの如くである。信仰を棄てずに持ち続けることがどういうことであるかさえ分からなくなっているのではないか。臆病な戦士には地獄が、勇敢な戦士には天国が待っているという論理は打算的なものとして嫌われるが果たしてそうなのか?世の習いとキリスト教信仰とはこういう論理においては通底している。われわれはキリスト御自身が確約なさっている賞罰をないがしろにしてはならないのである。

丸血留の道(22)
Weblog / 2006-08-09 15:29:04
 丸血留の道 第四 ひいですに届くことは如何程の面目、亦深き功力ぞと云こと。

 「いやどうも、少しの慈悲に対してもこれほどまで天使の前で御褒美をなし給うのであるから、持っているものを全部でうすとひいですのために捨てた人々になし給うはずの御報謝はどれほど大きなものであろうか。このような人々こそ万事を抛ってでうすを愛し奉るキリシタンであると言うべきである。その理由は御主イエズス・キリストがわれらのために裸の体を十字架の上で御父なるでうすに捧げ給うたのを学び奉るために、持っているものをさきりひいしよ(Sacrificio(ポ)=犠牲、献げ物)とされるによるのである。」

 「兄弟よ、どのように真に勇み喜ばなければならないことか。その理由はあなたがひいですのために捨てた程度のものを、でうすは悉く天の宝となし給いて、ぱらいぞの御蔵に納め置き給うからである。ほんの少しでも損をしたと思ってはならない。あなたが捨てた父母の代わりとして、現世と来世いずれにおいてもイエズス・キリストとサンタ・マリヤを持ち奉り、子孫親類の代わりに諸々のあんじよ・べあとを持ち奉り、僅かな所領の代わりに広大無辺な天の御国を受け取るであろう。あなたの最期にはイエズス・キリスト、サンタ・マリヤ、諸々のあんじよ・べあとが天下り給い、ぱらいぞの高殿を用意し給うであろう。そこではイエズス・キリストがあなたを腕の中に迎え入れ、『よし、善にして忠なるしもべよ、汝いささかなるものに忠なりしにより、われ汝に多くのものをつかさどらしめん、汝の主人の喜びに入れよ』(マテオ25:21)と宣うであろう。それゆえ、でうすの御奉公に最後まで忠実であることは、でうすのぐらうりや、イエズス・キリストの御教えの御名誉、宗門の面目、御法の広まる基礎である。この道をもって大敵を滅ぼして勝利を得るがゆえに、悪魔は敗北して長く悲しみ、異教徒までも舌を巻き、肝を潰し、諸々のあんじよ・べあとは天より御見物なされ、喜び祝われて、あなたの功徳・ぐらうりやはますます大きくなるのである。これに比べて棄教した者は人前にも出られず、世間に対する体面や外聞もつぶれ、いんへるのの人数に加えられるから、その惨めなことはこれ以上言葉に言い表せない。御奉公に忠実であった人々はしばらくの間の難儀を堪え、あるいは僅かな財宝を捨てたために、心中の喜び、楽しみはこれ以上喩えることもできないほど大きいであろう。」

  * * * * *

 信仰を棄てずに最後まで持ち続けることが如何に大きな名誉でありまた功徳であるかということについて述べられた。現世の幸福とは比較にならない程大きな来世の幸福を得るためには唯一の真の神の信仰に立脚し、他のすべてのものをそれに従属させることこそが肝要であることを筆者は繰り返し述べている。永遠と束の間、栄光と悲惨、名誉と不名誉とは信仰とその貫徹の如何にかかっているのである。

丸血留の道(23)
Weblog / 2006-08-10 20:28:49
 丸血留の道 第五 でうすに対し奉て命を捧、丸血留に成ことは如何程の位ぞと云こと。

 「さて、丸血留の位についてダヴィドの言葉に『丸血礼数の死去はでうすの御前に優れて値高し』(『主の聖者の死は、そのみ前にて尊し』(詩編115:15))とある。でうすの御前に最上の御位とある時には、この世界においては喩えて言うべき位はもう無い。この丸血礼数というのは別の訳があるのではない。すべての人間の救い主が御主イエズス・キリストであるということを世界に知らせるための確実な証人なのである。なぜなら、彼らは数々の苦難を凌ぎ給い、強いひいですをもって命を惜しみ給わす、キリストの御掟に血判を押された方々なのである。

 「それからイエズス・キリストの証人となられる人々の位はどれほどのものであろうか。ある時洗者聖ヨハネは御主イエズス・キリストを指しながら、すべての人に向かって声高に『これこそ世界の罪を除き給う真の救世主にまします』(ヨハネ1:29)と言われて、イエズス・キリストの証人と成られた。このことによって洗者聖ヨハネの位は非常に高いのである。また、聖ペトロもイエズス・キリストの御前で『汝は生ける神の子キリストなり』と言うと、イエズス・キリストはその強いひいですを御覧になり、御褒美の言葉として『汝は幸いなり、われ汝の上にわが教会を建て、同じく天国の鍵を汝に与えん』(マテオ16:15-19参照)と宣うた。また、洗者聖ヨハネと聖ペトロが人の前で救世主の証人となられたのを、御主イエズス・キリストがこれほどまでに御褒美なされたのであるから、数々の打擲・呵責を受けてそれを堪え、数万人のうちで、ひいですが堅固で、イエズス・キリストの証人となられる丸血礼数の御位とお受けになる御返報はどのように大きいものであろうか。聖パウロの言葉に『神がこれを愛する人々に備え給いしこと、目をこれを見ず、耳もこれを聞かず、人の心にものぼらざりき』(1コリ2:9)とある。世の常の善人さえこのようであるからして、ましてや愛の極限を顕わし給う丸血礼数の上においておや、と言わねばならない。それゆえ、丸血礼数についてはなお考えるべきことがある。御主でうすが天地万物を創造なさったのは御自身の栄誉のためである。イザヤ書に『御主でうすが万物を創造なさったのは御自身の善徳を顕わし給うためである』(イザヤ40:26参照)とある。まず天に具わった日・月・星の三つの光をはじめとして、世界に存在する万物を見よ。空を翔る翼[ある鳥]、山野を走る蹄[持つ獣]、河川に住む鱗[ある魚]、その大小の生き物、潮の干満、四季の移り変わり、昼と夜の差、千草万木が春は生え出、夏は茂り、秋は実り、冬は枯れる有様に、これらは無心無念の動植物や無生物といえども、創造主の御定めを越えず、御禁制を守り、その務めを怠らずに創造主の証人となってでうすを尊び御栄誉を顕わしているのである。」

  * * * * *

第五のテーマはでうすのために命を捧げる殉教者の位がどれほど高いものであるかについてである。信仰のゆえに迫害を受け殺されるとき殉教者となる。信徒であっても信仰以外の理由で殺されれば殉教者とは言われない。キリシタンの武将であったが関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ死刑になった小西行長は殉教者ではない。天地万物、有情無情のものがその存在によって創造主なる神の証人であり、神をそれぞれの仕方で賛美しているのであるが、キリシタンはその信仰と行いとによってさらに神の証人となる。その中でも信仰のために命を捨てて神の証人となる丸血留・殉教者は最も純粋な仕方で神の証人なのであり、神の御前での彼の位は高いのである。

丸血留の道(24)
Weblog / 2006-08-11 15:51:45
 丸血留の道 第五 でうすに対し奉て命を捧、丸血留に成ことは如何程の位ぞと云こと。

 「さてまた存在する被造物の中で何物にもましてでうすを崇め給うのは、もろもろのあんじよ(Anjo(ポ)=天使)である。しかしながら、あんじよの場合は丸血礼数がでうすを貴び給うようにではない。なぜなら、あんじよは御辛労や御苦難を凌ぎ給いてでうすを貴び給うのではなく、ただ謙遜によって御恩の有り難い御礼を申し上げてでうすを貴び敬われるのである。それに対して丸血礼数はさまざまの苦しみを受け、囚人となり、飢えを堪え忍び、寒熱の辛苦をこらえ、水火の責めを受け、海や川に沈められ、ずたずたに切られ、最後に一命を果たし給うて創造主なるでうすを貴び奉るのである。そうであるならばでうすを貴び奉る道は多いのである。人によってはおらしよに専念し、またある人によっては行いを正しくし、御掟を確実に守り、御奉公を怠らず、またある人は苦業の荒行によってでうすを貴び奉る者もいる。これらは皆善いことであるけれども、最高最上の御奉公というのはでうすのために命を捨てることである。ゆえに丸血礼数がでうすを崇め貴び給う道はすべての被造物よりも優れているのである。このことを指してイエズス・キリストは『たれもその友のために生命を捨つるより大いなる愛を持てる者はあらず』(ヨハネ15:13)と宣うたのである。」

 「さてまた、丸血留の位が高いことを喩えをもって言ってみよう。帝王の御前に身分の高い臣下が着座しているときにその中で末席の人に帝王が杯をくださるならば、一座の人々は驚くであろう。そのように、御主イエズス・キリストは御ぱしよん(Passion=御受難)の時にあのゲッセマニの園で黙想とおらしよの途中で御父でうすからのぱしよんのかりす(Caliz(古ポ)=杯)を弟子たちに示し給うた。それからまたイエズス・キリストは天のあんじよを差し置いて末座にいるこの世界の御弟子たちと古今の丸血礼数にそれを示し給うのである。このことによって丸血礼数の位がどれほど高いものかということを知りなさい。この位は余りにも高いので御母サンタマリヤがこの位からはずれ給わないように、でうすは計らい給うたのである。このことについて聖アウグスティヌスは『御母サンタマリヤもくるすのもとで諸々の丸血礼数の受けられた苦しみよりももっとひどい苦しみを堪え忍び給うた』と言った。洗者聖ヨハネも母の胎内にある時からさんちひかど(Santificado(ポ)=聖とされたもの)として善人となられたけれども、首を刎ねられて丸血留になられた。またぽろへえた(Propheta(ポ)=預言者)エレミアもさんちひかどであったが石礫で打ち殺されて丸血留になられた。要するに御主でうすは、御自分が特別に愛しておられる善人たちを大概は丸血礼数に為し給うのである。」

  * * * * *

 イエズス・キリストの御受難と御死去がそもそも御父の御旨を果たし、御父の証人となられることであったのであるから、キリスト教徒の受難と死もまたイエズス・キリストに倣う証人としての殉教を最高の愛だと見なすことは当然のことであろう。殉教は神によって特別に愛された人々にのみ与えられる一つの特別の恩寵であるという考えが力強く述べられている。

丸血留の道(25)
Weblog / 2006-08-12 16:24:32
 丸血留の道 第五 でうすに対し奉て命を捧、丸血留に成ことは如何程の位ぞと云こと。

 「このように大いに優れ、功徳も深く...(脱落?)でうすの御心に適う御奉公であることをよく知っておられるので、丸血礼数は大きな喜びをもってまるちりよの苦難を堪えられ、命を捧げられるのである。それゆえに、尊いあぽうすとろ(Apostolo(ポ)=使徒)である聖ペトロは悪王の命令によってくるすにかけられるときに『御主イエズス・キリストと同じ仕方でくるすにかけられて死ぬことは私のためには似合わない高い位である。どうか逆さまにかけてくだされ』と高官たちに頼まれた。同じくあぽうすとろ・聖アンデレを悪人どもがくるすにかけるとキリスト教徒がこれを見て、是非ともくるすからおろし奉ろうと嘆くのを聖人は聞かれて『私をくるすからおろさないでください。そのような処置をちょっとでもとらないでほしい』と人々に頼まれたということである。またあぽうすとろである聖パウロをシラスという人と同じようにユダヤ人たちが投獄したときに、牢番の者が逃がそうとしたが、少しも同意されなかったのである。」

 「丸血礼数、あぽうすとろすはすべてこのまるちりよをいつも願っておられるので、責め苦を与える人々を少しも憎み給わなかった。ただ大切な友人のように思っておられた。人によってはもっと強く責められようとして彼らを罵り嘲ることもあったようである。これほどの心持ちでおられるから、囚人となられても狭くて暗い牢獄の苦しみをもこれこそ天国と思われれるのである。この例は特にあぽうすとろの場合に見られた。高官の前で罵られ誹謗され、数々の恥辱を受けられても、イエズス・キリストのために快く堪えられた。あぽうすとろ聖パウロはイエズス・キリストのために囚人となられたことをどれほど喜ばれたと思うか。聖パウロは『わが縄目に会えることのキリストのためなるは...』(フィリッピ1:13)と書いた。聖クリゾストモスはこれを注釈して『女性が指輪を大切に用いるように、聖パウロは縛られた鎖を願われた』と言っている。聖ハヒラスという丸血留は最期の時の遺言として『私が死んだ後、棺桶に入れるとき、縛られた鎖も一緒に納めて欲しい』と頼まれた。何と驚くべき遺言であることよ。生きておられる時も天の賜物と思われた御自分の責め道具となった鎖をさえ、死んだ後までも離そうとされないほどであるから、イエズス・キリストのために責め苦・打擲に堪えて死ぬことをどれほどめでたいことと喜ばれたかを考えなさい。」

  * * * * *

 殉教者は自分を迫害し殺す者を憎まず自分に与えられる苦しみを喜んで堪え忍ぶ。彼らは自分が苦しめられた人ばかりでなく、それによって苦しめられた責め道具までをいとおしむ。彼らは自分たちを迫害し殺す者のために彼らの救いを神に祈る。宗教の名を名乗るテロリストたちの「いわゆる殉教」は、キリスト教の殉教とは正反対であり他人を憎み殺すために自分の命を同時に捨てる犯罪者の死である。彼らを使嗾する者の罪はなおさら重いと言わなければならない。

丸血留の道(26)
Weblog / 2006-08-13 21:14:08
 丸血留の道 第五 でうすに対し奉て命を捧、丸血留に成ことは如何程の位ぞと云こと。

 「真に丸血礼数のこの上もない善なる香り、百苦千難の辛苦をもって求められた位の高さを少しでもよく考えてみなさい。真につまらない鉄の鎖であるけれども、丸血留の御身に触れられたコンスタンチイナ・アウグスタ皇妃から聖ペトロと聖パウロの遺骨を所望されようとしてぱつぱ(Papa(ポ)=教皇)に勅使を立てられたが、ぱつぱ聖グレゴリウス(590-604在位)は『御信心のために御所望なさることは真に感動します。しかしながら、遺骨を差し上げるわけには参りません。せめて御望みを叶えるために聖パウロを縛った鎖の擦り屑を少しだけ差し上げます』と返事をされた。ああ、貴い丸血礼数の位であることよ。ほんとにまあ有り難い鎖の貴さかな。まことにこのように貴び敬うことは道理至極のことである。なぜなら、悪魔に憑かれた者にあの鎖を掛けるとたちどころに悪魔は堪えかねて直ちにその者から立ち去るからである。それゆえ、古より今に至るまで学者たち、こんへそれす(Confessores (ラ・ポ)複数形=証聖者)、善人たちがあの丸血礼数を崇敬なさることはどれほどであると思うか。善人たちが丸血留になりたいと思われるその望みはこれ以上言葉に尽くしがたい。それゆえこのような善人たちは自分たちがその位に及ばないことを考えて貴い丸血礼数の遺骸を貴び敬い、少しなりともその御善徳にあやかろうと願うのである。パドゥアの聖アントニオ(1195-1231 フランシスコ会士)という聖人の郷里に悪人が一人いたが、どのような御奉公がでうすのお考えに叶ったのか、その悪人を丸血留の道をもってぱらいぞへお召しになるとの御告げを、聖人になし給うた。それでこの御告げを受けられた後、聖人はその悪人に会われると深い敬いと謙りをもって礼を尽くされ、その足跡を吸い給うた。そうすると、その悪人と思われた人が間もなくひいですのために異教徒からずたずたに切られて、丸血留になられたのである。」

 「学者たちが論じたように、丸血礼数は持っている限りの罪を赦されることは言うに及ばず、ぷるがたうりよ(Purgatorio(ポ)=煉獄)の苦しみまでをもすべて免れ給うのである。これほどでうすの御心に叶う位となられるがゆえに、天国においても一段と優れたあうれよら(Aureola(ラ)=光背)という貴いしるしを戴かれるのである。また身体に受けられた傷の跡も際だって輝くのである。その上聖書にあるように、丸血礼数は身には白衣を着、手にはぱるま(Palma(ラ・ポ)=棕櫚の葉)を持ち、歓喜の歌を歌い、でうすの御側を離れず、でうすを貴び給うのである。(黙示録7:9-10参照)」

  * * * * *

 カトリック教会には聖人・殉教者の聖遺骨・聖遺物を尊崇する伝統がある。世人はこれを誤解して被造物を礼拝する誤った行為であると非難する。そうではない。カトリック教徒は聖人・殉教者の遺骨そして彼らに属した遺物を神のように礼拝するのではなくて、彼らがまさに神の聖人・殉教者として最もよく神を礼拝賛美したがゆえに、神を礼拝賛美するためのわれわれのよき模範として尊敬し崇めるのである。聖遺骨や聖遺物はその彼らの記念であり、彼らを尊敬するがゆえにまたそれらもまた尊敬の対象とされるのである。

丸血留の道(27)
Weblog / 2006-08-14 20:04:52
 丸血留の道 第五 でうすに対し奉て命を捧、丸血留に成ことは如何程の位ぞと云こと。

 「さてまた世間においてもまた丸血礼数は数多くの奇蹟を現し給うがその数は限りない。最初の丸血留である聖ステファノはユダヤ人たちから礫で打たれたとき、最期と思って跪き天を仰いで祈られると、直ちに天が開けて御主イエズス・キリストが現れ給うた。まだ死ぬ前で苦しみの最中であったにもかかわらず、イエズス・キリストが早くもこれほどの御愛情をお示しになったのであるから、天に行かれたならばどれほどに尊重なさることであろうか。諸々のあんじよ・べあとの御祝いは言葉では言い尽くせないほどであろう。」

 「丸血留によっては、火焔を消したり、また数々の傷を治療を施さずに癒したり、牢内の暗い所を光り輝かせたり、あるいは縛られた鎖の手枷・足枷を外して自由になったりする方がおられる。また猛獣をおとなしくさせて害を加えることがないように計らったり、ある時は牢の中へ天使を遣わして天上の音楽をもって慰めたり、苦しみを受けられる間にさまざまの奇跡を現わされて、多くの異教徒がキリスト教徒になるように計らい給うこともある。また人によっては苦しみの途中に天を開いてぐらうりや(Gloria=栄光)を見せ給い、数々のあんじよをその丸血留のお迎えとして遣わされることもある。このようにでうすは丸血礼数を愛され心遣いをお示しになるのである。」

 「でうすのなお優れた御尊重と言うのは丸血礼数の遺骸をあんじよをもって御棺に収め給うことである。サンタ・カタリナ(310年頃没)の遺骸はあんじよたちによってアラビアのシナイ山という高い山まで運ばれた。聖ディオニシウス・アレオパギタは斬首されたとき、自分の首を持って棺のある所まで持って行かれると、多くのあんじよが祝いの歌を歌ってこの聖人のお供をされた。また聖クレメンス(第三代ローマ教皇)の上には不思議な奇蹟があった。この聖人はひいですのために悪人どもから首に鉄の碇をつけて海に沈められたが、あんじよをもって石棺を調え収めさせ給い、そのまま海底に置き給うたが、毎年その日になると御遺骸のある所が三里ほど干潟となって、聖人の遺骸を多くの人々が崇敬できるようにでうすは計らい給うのである。また悪王によっては丸血礼数の遺骸をキリスト教徒に敬わせないために、焼いて灰にして海や川に流したのであるが、その灰が少しも無くならず、汀に打ち寄せられたのを御棺に収めたこともあった。マテオ聖福音書第十章に『汝らは髪の毛までも、みな数えられたり』(30)とあり、またルカ聖福音書第二十一章には『しかれども汝らの髪の毛の一すじだも失せじ』(18)と言われている。これはじゅいぞ(Juizo(ポ)=審判)の日に成就し給うことについて宣うたのである。何と有り難い御約束の御保護であろうか。世界を恣に支配する帝王といえども丸血礼数の持っておられる位の千分の一の位にも及ばないのである。丸血礼数の道によって彼らが深く敬われること、またでうすが丸血礼数に対して持っておられる愛の大きさを以上のことから理解しなさい。」

  * * * * *

 聖人や殉教者による奇蹟の話を単なる伝説あるいは迷信として退けるのが現代人の風潮である。奇蹟はしかし実際に起こるのであり、多数の人々がそれを目撃して証言する。人々は自分が目にしたり経験したりしなければなかなか他人の証言を信じようとしない。奇蹟を自然的な事象あるいは心理的な現象に還元してしまう人がカトリック信徒の中にさえ見られるようである。しかしそれは奇蹟の定義に反する。奇蹟とは「常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象...」(広辞苑)である。聖書に出て来る多くの奇蹟をすべて合理的に解釈し去ろうという態度は信徒の取るべき態度ではないと私は思うのだが、現代の神父様の中にはそういう人が結構おられるようである。これも合理主義・近代主義の教会への侵入の一つの例なのか?

丸血留の道(28)
Weblog / 2006-08-15 14:48:22
 丸血留の道 第五 でうすに対し奉て命を捧、丸血留に成ことは如何程の位ぞと云こと。

 「ここにまたでうすと丸血礼数との競争がある。丸血礼数はでうすに対して御忠節を尽くそうと一生懸命になられ、でうすはまた丸血礼数に愛情を注ごうと思っておられると見える。このことを指してダヴィドはその詩編の中で『でうすが善人たちに顕わし給う御憐れみは不可思議である』(詩編67:36参照)と述べている。このことに注意してよく見なさい。誠にどのような田舎者であろうと、御主のために責め苦、打擲、水火の責めを受け、ずたずたに切られ、卑しめられた[丸血留の]肉体が今は金銀珠玉の器に収められ、帝王・将軍もこれを戴き、諸々のキリスト教徒の御守となられるのである。でうすが丸血礼数の髪の毛、あるいは遺骨をもってさまざまの奇蹟を行い給うことは言葉で述べ尽くすことはできない。天の星を数え尽くすとしても丸血礼数の御功徳の物から顕わし給うた奇蹟の数を誰が数え尽くすことができようか。聖アウグスティヌスは聖エステアンの遺骸の上に起こった奇蹟のことを数多く書いて『この奇蹟を全部書くと大部の書物になってしまう』と言われた。」

 「世間の奉公人は誠に僅かの俸給のために主人に使われること昼夜の区別なく辛労も多く恐れを抱いて主人の機嫌を損じないように心配している。ひいですの少ないキリスト教徒はいかに自分がでうすの御奉公に精を出していないかということを恥ずかしく思いなさい。なぜならでうすの御恩をよく考えるならばご奉公の道に何事を惜しみ奉るべきであろうか。われらのあにま、肉体をはじめとしてでうすがお与えになるもので何か洩れているものがあるだろうか。たといまた下さったものをほんの少しも残さずにお捧げするとしても、誠にそれはものの数ではないと思うからして、戴いた御恩に対して御礼を申し上げたとは到底言うことはできない。けれども、一命・財産・一族家来・親族をでうすのために捨てるならば、でうすはその広い御心でその御返報として天国を下さり終わりなき命ぐらうりやの台を備え給い果てしなく尊重なさるのである。」

  * * * * *

 「ひいですの少ないキリスト教徒はいかに自分がでうすの御奉公に精を出していないかということを恥ずかしく思いなさい」ときりしたんは教えられていたことがこの文章から分かる。われわれもこのように教えられているだろうか。天国の栄光を得るために御奉公に精を出す恵みを乞い願おう。

丸血留の道(29)
Weblog / 2006-08-16 20:17:27
 丸血留の道 第六 丸血留の覚悟のこと。

 「また上に述べたように丸血留の位は言語を絶したことであるから、その位につけられるためにはそれ相応の基礎となるものを準備しておくという覚悟が大切である。聖シプリアヌスは丸血礼数に遣わされた手紙の中で『でうすが各人をこれほどの高い位に召し上げ給うことはただわずかの時間の善の力によるのではない。彼らが常日頃いつもそのことを心にかけて深く望んでいたためである』と書かれた。もちろんこの位に選び出し給う御方はでうすにましますけれども、われらの方からもその力を合わせ奉り、真実の望みにをんたあで(Vontade(ポ)=意志)の同意を加えなければ丸血留になることは到底不可能である。聖アウグスティヌスは『汝の望みなしに汝を創り給うでうすは、また汝の嘆願なしには助け給わないであろう』と言われた。それゆえに、丸血留になるためには自分の意志によってその方向へ向かうことがなければその位を得ることは到底不可能である。このことを聖ベルナルドは『誰も無理矢理に丸血留になることは不可能である』と言われたのである。それゆえ丸血留になるべき人が誰かということを知ることは人間の分別ではできないけれども、各人がその覚悟をすることは最も大切である。ゆえにその覚悟の道を知らなければならない。まず丸血留の覚悟のために次の五つのことが重要である。」

 「一には謙遜の善である。すなわち、ひいですのために命を捨てることは人間の力ではない。でうすの御力添えなくしては丸血留になることは不可能である。聖書に言われているようにでうすは傲慢な者に逆らい給い、謙る者にがらさを与え給う(ヤコボ4:6 参照)のである。また御主イエズス・キリストの御言葉に『われを離れては汝ら何ごとをもなすあたわず』(ヨハネ15:5)とある。まことに僅かの善事でさえ行い難いときに、一大事である丸血留の功績がどのようにして可能であろうか。ゆえに丸血留の望みを持つほどの者はでうすの御前で、われは悪人なり、殊に際だって弱い者なり、ただ今御奉公の忠節を尽くそうと思うが自力では到底不可能ゆえひたすら御力添え、御慈悲に縋りつき奉ると納得することが大切である。」

 「上に述べたように、丸血留に選ばれるために、前もって善事・善業を行っておくことは当然のことである。しかしながら、各人が行った善事だけを頼りとして傲慢になってはならない。このことについて御主イエズス・キリストは『汝らも命ぜられしことをことごとくなしたらん時、われらは無益のしもべなり、なすべきことをなしたるのみ、と言え』(ルカ17:10)と宣うた。なぜかと言えば、諸々の善を残さずなしたとしても、際限の無い御恩賞に比べるならばまことに物の数ではないからである。」

  * * * * *

 「丸血留の道」も最後の節になった。ここでは殉教者の覚悟について述べられる。殉教者はもちろん神の選びによるのであるが、その人の日頃の行いや覚悟も関係してくる。その人の望みと意志の同意と日頃の行い、それに神の御力添え・御慈悲に縋る謙遜さが揃って殉教者となるのである。殉教者の覚悟のための第一の要件は謙遜である。自力を頼む傲慢な者には殉教の恵みはないのである。

丸血留の道(30)
Weblog / 2006-08-17 15:51:44
 丸血留の道 第六 丸血留の覚悟のこと。

「ここにまた承知しておくべきことが一つある。丸血留の位は限りなく高い位であるから上下万民が尊ぶので、そのことに引かれて丸血留の位を望む者は必ず丸血留からはみ出るか、あるいは棄教することになる。なぜならそのような望みは傲り高ぶる心に相当するからである。このことを聖アウグスティヌスは『強い善は謙遜に基づき、弱い善は傲慢に基づく』と言われた。それゆえ、位にも名誉にも関わり合うことなく、ひたすらでうすの御奉公・御名誉のためにと志して自分はこの功徳には達しないと深く謙遜することによってあにまを清浄に磨くことが肝要である。特に大罪を犯した場合にはこんひさん(Confissao(ポ)=告解の秘蹟)を受けなければならないという掟がある。ただどうしてもそういう機会がない場合には、力が及ばなかったのであるから、犯した罪を深く痛悔し、機会を得ればこんひさんを受けるべきである。また再びこの罪に陥ることがないように、固い決心をしなければならない。」

 「丸血礼数はすぴりつさんと(Spiritu Santo(ポ古)=聖霊)の御堂・神殿であられるがゆえにその功徳をえけれじや(Ecclesia(ラ)=教会)は深く敬い尊ぶのである。それゆえに自分のあにまにすぴりつさんとを宿し奉るべきであるためこんしえんしや(Consciencia(ポ)=良心)を清いものとすることが大切である。あにまを汚すすべての大罪、とりわけ貪欲・傲慢・淫乱の罪を深く慎まなければならない。なぜなら、貪欲な者は領地や財産をすべてでうすに捧げ奉ろうとは容易にしないであろうからである。また淫乱の罪を犯さないで清らかさを保つことはすぴりつさんとの御訪問を蒙り奉り、丸血留の下地を調えることである。聖アンブロシウス(340頃-397)は『びるぜんだで(Virgindade(ポ)=童貞)の功徳のゆえに多くの人が丸血留になられることもある』と言われた。男女の交わりをしない身でない場合にはせめて夫婦としての決心[他人の妻・夫を望まないこと]を守るべきであることは当然である。」

 「三には、をらしよ(Oratio(ラ)=祈り)をすることもまた大切である。でうすは御慈悲の源にましますから、謙遜に乞い奉ればがらさの御助力を必ずお与えくださるのである。イエズス・キリストの御言葉に『願え、さらば与えられん、探せ、さらば見出ださん、たたけ、さらば[戸を]開かれん』(マテオ7:7)とある。ここに理解すべきことが一つある。御父なるでうすにをらしよを申し上げるときに、イエズス・キリストの御名とその御ぱしよん(Passion(ポ)=御受難)に対して、わが願いを叶え給えと乞い奉るべきである。イエズス・キリストの御言葉に『汝らもし、わが名によりて父に求むるところあらば父はこれを汝らに賜うべし』(ヨハネ16:23)とあるからである。」

  * * * * *

 第二と第三の覚悟もまたわれわれ普通のキリスト者が持つべき覚悟であって、昨日言われたように丸血留の「基礎となるものを準備しておくという覚悟」であり、われわれ現代のキリスト教徒にとっても有益な助言である。

丸血留の道(31)
Weblog / 2006-08-18 15:55:04
 丸血留の道 第六 丸血留の覚悟のこと。

「四には、自分の妻子・家来をはじめ周りに居合わせる人々に善とひいですについて屈しない強い心を勧めなさい。これはまた丸血留のよい機会となり、大きな功徳である。本来主人の思うところを支持する家来は必ず愛情を受けるものである。それと同じように、イエズス・キリストに対するひいですの上に愛と謙遜の心を持つように勧める人をでうすは深く愛し給うのである。慈悲の行いのうちで何よりもでうすの御旨に叶うのは、悪人を善の道へと導き、善の義務を教えることである。もしまたこのような善い行いのために害を受けるならば、それはすなわち丸血留となるべき者である。洗者聖ヨハネは悪人であるヘロデが兄弟の妻を奪ったことを諫められたことのために害を蒙り丸血留となり給うたのである。」

 「五には、丸血留になる人々の意向はさまざまである。人によっては、丸血留の道より、いんへるののことは言うに及ばず、ぷるがたうりよの苦しみをも逃れ、直ちにぱらいぞに至り、天上において優れた位の冠を戴き、また比類のないぐらうりやを望まれて、丸血留になられる人もある。人によっては、自分の救いよりもでうすの御誉れ、御名誉をもっぱら心がけて、それに対してあるだけの苦しみを乗り越えたいと思う方もおられる。もちろん後生を助かり、天国ででうすを拝み奉りたいと思って命を捨てる人々に、でうすは御褒美をくださり、丸血留の位に上げ給うのであるけれども、わが身を愛するよりもでうすを愛する心に動かされてその御奉公・御名誉を目的とする人々をよりいっそうお受け入れになり、より高くより大きなぐらうりやを用意し給うのである。」

 「でうすのこの愛にせき立てられるために特に二つの考えを主として頼みとするのがよい。一つには、でうすの善徳である。誠に全能の御力、最上の御知恵・御慈悲・御威光などの善をよくよく考えてみれば、今直ぐ御奉公したいという望みが起こるはずである。二つには、われらに与え給う御恩のことである。この御恩は上に論じたように数限りないのである。その上この御恩は御威勢・御威光の源にましますでうすが与え給うものであるから、その一つひとつがみなその広大で際限のないことは人間の知恵やあんじよの天才の及ぶところではない。でうすの御恩はいずれも計り知ることのできないことではあるといっても、特にイエズス・キリストの御ぱしよんは他のもの以上に、特別に優れた御恩である。これほどの御恩・愛に報いるために、忍耐できないような苦しみはないはずである。ゆえに丸血留になる機会に遭遇するときには、特に御主イエズス・キリストのくるすにかかり給う御姿を間近に拝み奉る気持ちで次のように申し上げるべきである。『ああ、御主イエズス・キリストよ、われは御前において少しの功徳もなく、心卑しい罪人なりといえども、数限り無く与え下されたるよろずの御恩の御礼を申し上げんとするに、心も言葉も絶え果てしなり。特に御ぱしよんの御礼を何と申しあぐべきか。御身、すなわちでうす・ぱあてれの御独り子、万物の御主にてましましながら、われらのあにまを救うために、人間の世界を愛し給い、御言葉と御行為とをもって天の道を教え給うために、御生涯の間御難儀・御貧苦を乗り越え給えり。また有り難くも数々の打擲・責め苦を受け給い、貴き御体を赤き血潮に染め給い、くるすの上で御血をしたたらせ給い、ついにつまらなく身分低きわれらのために御一命を捨て給うなり。かくも有り難く忝なき御恩賞、心も言葉も及ばぬ御愛なるかな。これほどの御恩の数々を何をもって報い奉るべきか。たとい御身のために千度百度命を捧げたとしても、御恩の万が一にも報い奉ることにはならじ。かと言いて、他になすべき方法も無きゆえ、御奉公としてわれが持ちたる領地・財宝と妻子・眷属をすべて捧げ奉る。たとい全世界をわが手に握るとも、みなすべて御身に捧げ奉らん。御身への愛と御身の御名誉のために多くの苦難を乗り越え、命を保つこと叶わずば、ただ御身の限りなき御憐れみによりすがり、ひいですを堅固に保ち、心を強くして死ぬまで御奉公を貫き通すべく御助力を願い奉る。願わくは、この献げ物を喜びて受け給え、この望みを遂げるために豊かながらさを与え給えと、ひとえに願い奉る。あめん。』」

  * * * * *

 以上で「丸血留の道」の拙い紹介は終わりである。日本思想大系25「キリシタン書 排耶書」p.323-360 のH. チースリク、土井忠生、大塚光信三氏の校注による原文の味わいのある雰囲気を伝えることはとてもできなかったので、是非原文に当たられることをお勧めしたい。チースリク師の解説によれば、「丸血留の道」は村上直次郎博士が長崎県庁で発見された古い写本から殉教に関する記録を「マルチリヨの栞」として発表された。その中の第一書を「マルチリヨの鑑」、第二書を「マルチリヨの勧め」、第三書を「マルチリヨの心得」と名づけられた。「丸血留の道」はこの第二書を校注者らが名づけられたものである。原著者の名は不明。ルイス・デ・グラナダの「教理提要」を参考にした著作だろうと考えられている。

 1590年遣欧使節が帰国したとき一緒に持ち帰った日本最初の活字印刷機が加津佐のコレジヨに設置され最初の活字印刷本として印刷発行されたのが『サントスの御作業』(1591年)という聖人伝であり、それは殉教者の伝記に重点を置いていた。秀吉の禁教令がすでに1587年(天正15年)に出されていたから、宣教師も信徒も迫害と殉教に関して単に遠い歴史的な記憶としてではなく、自分たちの身に迫る現実的なものとしてその心構え・覚悟を教え・学ぶ書物だったわけである。6年後の1597年には二十六聖人殉教が起こっている。

丸血留中浦ジュリアン神父
Weblog / 2006-08-19 21:07:20
 チースリク神父様の書かれた『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004 の中の「教皇に会った殉教者 中浦ジュリアン」から中浦ジュリアン神父様の殉教を簡単に見てみよう。

 天正遣欧少年使節団はローマ教皇に会うため1582年2月20日ヴァリニャーノ神父と共に長崎を出発した。伊東マンショ、千々石ミゲル、中原ジュリアン、原マルティノの4人である。ローマへ到着したのは3年後の1585年3月22日であった。彼らは翌日教皇グレゴリウス十三世に謁見する。4月12日に教皇が亡くなられ、4月24日には新教皇シクストゥス五世が選出され、彼ら使節団は5月1日の教皇戴冠式に出席した。彼らは二人の教皇に謁見したわけである。ヴァチカン図書館にはその日の行列に参加した4人の少年たちが洋服騎馬の姿で壁画に描かれているということである。この4人の少年使節のうち中原ジュリアンだけが殉教の冠を得ることになった。

 1590年7月21日8年5ヶ月ぶりに彼ら使節団はヴァリニャーノ神父と共に帰国。出発した時12歳の少年であった中浦ジュリアンは二十歳の青年となっていた。1591年7月25日彼ら4人はイエズス会に入会する。1593年7月25日修道誓願を立て、天草河内浦のコレジヨでその後も勉学に励む。 1601年から1604年までマカオで神学の過程を修めた。1606年9月に副助祭、翌年助祭となる。1608年9月伊東マンショ、原マルティノと共に司祭に叙階された。千々石ミゲルは修道誓願を立てて間もなく修道会を離れ、信仰も棄てた。1614年2月1日幕府はキリシタン禁教令を発布、教会は閉鎖された。中浦神父は司祭叙階後博多で1613年まで司牧していた。1614年11月7,8日に宣教師全員が5艘の船でマカオ、マニラへ追放されたが、中浦神父は密かに残留組として残り以後20年間潜伏活動を続ける。口之津を拠点に九州各地で弾圧下の活動をつづけた。1624年には筑前と豊前へ出かけ、博多、秋月、小倉などのキリシタンに秘蹟を授けた。1633年すでに六十二歳になっていた中浦ジュリアン神父は小倉で捕縛され長崎へ送られた。10月18日にイエズス会のジョヴァンニ・マッテオ・アダミ神父、アントニオ・デ・ソウザ神父、ペトロとマテオの両修道士、ドミニコ会のルカス・デル・エスピリツ・サント神父と日本人修道士フランシスコ、イエズス会のクリストヴァン・フェレイラ神父と共に中浦ジュリアン神父はあの悪名高い「穴吊るし」の刑を受けた。この時クリストヴァン・フェレイラ神父が拷問に屈して棄教した。他の人々は最後まで堅固であった。中浦ジュリアン神父は老体にもかかわらず、この穴吊るしの責め苦を四日間も耐え忍び10月21日にその生命を神に返した。「あなたがたはわたしの証人となるであろう」(使徒行録1:8)「さればマルチレスの合戦には、天命を重んじ、身命を軽んじ、その幸運を開き給ひしことを誰か言ひあらはすべきや」(『サントスのご作業』)。

丸血留岐部ペドロ・カスイ神父(1)
Weblog / 2006-08-20 21:37:38

 チースリク神父様の書かれた『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004 の中の「岐部ペドロ・カスイ神父」を参考にして神父様の殉教までの足跡を簡単に見てみよう。

 岐部ペドロ・カスイ神父、父はロマノ岐部、母はマリア波多で豊後の国東半島浦部に1587年に生まれた。1593年大友氏没落後岐部一族は国東半島を去り、肥後や豊前、京都、駿河に移り住んで散り散りになった。ロマノ一家は肥後、次に長崎へ移った。ペドロ少年は1600年頃有馬のセミナリヨに入学した。卒業は1606年頃。1614年幕府の宣教師追放令でペドロは同宿として宣教師たちと共にマカオへ送られた。マカオに来た50人もの同宿たちはラテン語や神学の講義を受けた。ローマに留学していた荒木トマス神父がマカオに着き、同宿たちにローマへ行くよう勧めた。セミナリヨで勉強していた同宿たちは鎖国していた中国政府を刺激しないために外出を禁じられ不安になり騒ぎ出した。マカオのセミナリヨの長上たちはこのことに理解を示さず同宿たちを傲慢で不従順だと非難し、1618年にラテン語の授業を中止した。このため同宿たちは司祭への道を閉ざされ、或る者は日本へ帰り、ある者はマニラでドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会へ入った。他のグループはインドへ行き、それからローマまで行くことにした。

 岐部ペドロは美濃のミゲル、小西マンショと共にインドに行きそこからローマに向かった。ペドロはアフリカ回りの海路で行った二人とは別に陸路をとった。記録がないので分からないらしいが、ペドロは現在のパキスタン、イラン、イラク、ヨルダンなどのイスラム諸国を通って1920年にはローマに到着したらしい。彼は聖地パレスチナを訪れた最初の日本人だったと言われている。岐部ペドロ・カスイは1620年11月15日このようにしてローマで14年前の念願が叶い、司祭に叙階された。同年11月21日にイエズス会習練院に受け入れられ、神学の勉強を続けた。

丸血留岐部ペドロ・カスイ神父(2)
Weblog / 2006-08-21 16:10:12
岐部ペドロ・カスイ神父がローマにいる間に1621年1月28日に教皇パウロ五世が亡くなられ、2月9日その後継者としてグレゴリウス十五世が選出された。おそらく岐部ペドロ・カスイ神父は荘厳な葬儀と厳粛な新教皇戴冠式に列席したであろう。岐部神父がいた聖アンドレア修道院で同じ年の8月に有名なロベルト・ベラルミノ枢機卿が亡くなられた。この枢機卿は1930年にピオ十一世によって列聖され、教会博士の称号を受けた方である。さらに「1622年3月 22日、サン・ピエトロ大聖堂で、イエズス会の創立者聖イグナチオと東洋の使徒聖フランシスコ・ザビエルの列聖式が盛大にとり行われた。その式には岐部神父も仲間のイエズス会員と一緒に参列したことであろう。そして、聖フランシスコが七十年前にキリスト教の最初の種子を播いた遠い日本では、今やキリシタン迫害が勃発し、殉教者の血があふれていた。祖国日本の代表者として列聖式にあずかる神父は、聖人の努力で播かれ、殉教者の血でうるおされた種子がいつか立派に実を結ぶようにと祈っていた。それとも自分も、祖国で殉教をとげる覚悟をしたであろうか?」(『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004 p.280)

 岐部ペドロ・カスイ神父はその後間もなく祖国日本に帰れるよう総長ヴィテレスキ神父に嘆願しその許可を得た。1622年6月6日にローマを発ってポルトガルに向かった。海路でスペインに渡り、そこから陸路でマドリドを経てリスボンへ行った。1622年11月21日、聖母マリアの奉献の祝日に、清貧・貞潔・従順の三誓願を立て正式にイエズス会員となった。1623年3月25日ローマで一緒に修練をした四人の同僚の神父と一緒に岐部神父はリスボンを出港した6隻のインド艦隊の一隻に乗船した。多難な航海の後9月22日にアフリカ東海岸のモザンビクに到着した。長い航海の間船内では病気が生じ、岐部神父も2ヶ月以上病臥した。1624年5月28日やっとのことでゴアに着いた。リスボンを出帆して1年2ヶ月かかった。岐部神父は四人の同僚の神父に別れを告げ、一人で東への旅を続けた。1625年にはマカオに滞在していて日本への渡航の機会を待っていた。当時マカオ政府が幕府に刺激を与える行為を避け、特に宣教師の渡航を禁じていたので、イエズス会も日本への渡航を正式に許すことができず、岐部神父は1622年にシャム[現在のタイ]に行き、そこから日本の御朱印船なり、中国のジャンク船なりにあたって帰国の機会をつかむことにした。1627年2月にマカオを発ち、マラッカへ行く船に乗った。シンガポール海峡でオランダの海賊船団に攻撃され、ポルトガル船は掠奪を受けた。岐部神父は船員と共に海岸に逃げ、命拾いをした。一行はマラッカ半島の海岸沿いに2週間ジャングルの中をさまよいながら、半死半生の状態でマラッカにたどり着いた。マラッカのイエズス会員から親切に迎えられたが、衰弱が甚だしくて数日間は生と死の境をさまよった。

丸血留岐部ペドロ・カスイ神父(3)
Weblog / 2006-08-22 10:35:39
 岐部神父がアユタヤに着いた頃そこには日本から移住したキリシタンが400人ほどいて、西修道士が世話をしていた。岐部神父はしかしそこで宣教・司牧するためではなく、日本渡航の機会を得るために来たのであった。2年以上も彼は水夫に変装して日本人町に暮らし日本に渡ろうとしたが成功しなかった。理由は貨物船の船長が長崎での厳しい検査を恐れて船客にキリシタンでないことを誓わせたからである。神父にとって、自分の信仰を否定することはできない相談であった。1629年7月2日聖母マリアの御訪問の祝日に岐部神父はアユタヤを出発しマニラへ向かった。マニラに到着してイエズス会のコレジヨに迎えられた。中国で捕らえられその後釈放された松田ミゲル神父に会い、彼と一緒に帰国の準備を始めた。マニラ政府も日本との交易が禁止されないように努力しており、マカオと同じように、宣教師の渡航を阻もうとしていたので、イエズス会の長上たちの理解と援助を得て二人の神父は一艘の中古船を買い入れ、キリシタンの水夫を集めて1630年3月2日にマニラ湾の沖にあるルバング島まで行った。島の主任司祭マルティン・デ・ウレタ神父が彼らを精神的・物質的に援助してくれた。3ヶ月ほどして出発の4,5日前に中古船の木材がシロアリに喰われて大変なことになっていることが判明した。そこで内側から板で目張りをするという応急措置を施してルバング島からプリナンまで航行することにした。「応急手当を施したボロ船に乗って、人間の腕よりも神の恩寵に信頼していた一行は、航海を続けることを決心した。六月の季節風で順調に進み、東シナ海を横切って、祖国日本へ向かった。奄美大島などを無事に通り過ぎ、薩摩の南にある七島という列島に着いた。」(『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004、p.306)

 しかし、七島海峡は急流の上、台風の季節であったので、岐部ペドロ・カスイ神父の乗ったボロ船はここまで来て、難破の憂き目に遭った。七島の岸壁に打ちつけられたが、住民に助けられて助かった。彼らは二重の意味で幸運であった。もし彼らが直接九州のどこかに無事ついていたら、間違いなく厳しい詮索を受けて逮捕されていたであろう。七島に打ちつけられ、そこで元気を回復した上で、島の住民が出してくれた船で薩摩半島の坊津に向かった彼らは大した検査を受けることもなく祖国の土を踏むことができたのであった。

 「岐部神父にとって十年間のさすらいの旅は終わり、キリスト教徒や異教徒、教会や政府からの反対にも屈せず、陸の難、海の難に挑戦し、風や嵐、疲労と病気、猛獣や白蟻からきた百苦千難を乗り越えて、彼はあこがれの祖国にたどり着いた。そして、これからこそ、新しい使命、新しい艱難が彼を待っていた。」(『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004、p.306)

丸血留岐部ペドロ・カスイ神父(4)
Weblog / 2006-08-23 15:07:12
 岐部神父と松田神父は坊津に上陸後長崎へ赴いた。長崎で他の宣教師に会って今後の活動方針について相談するつもりであった。幕府はキリシタンの牙城である長崎と隣接する諸地方のキリシタンを根絶しようと力の限りを尽くしていた。岐部神父らが長崎に着いたとき長崎奉行に任命されていたのは竹中釆女であった。竹中釆女は1629年から1633年まで奉行を勤めた。石田アントニオ神父が大村で逮捕され、日本人司祭がいなくなっていたので、管区長のコウロス神父は二人の到着を知って大いに喜んだ。松田神父が長崎に残ったが1632年9月キリシタン詮索で宿主が神父を泊めるのを拒み、台風の最中松田神父は三日間風雨の中をさまよい倒れて亡くなった。岐部神父の消息は詳しく分かっていない。9年ほどの間彼は完全に「地下」に潜ってしまった。司祭としての活動は極秘のうちに行われていた。

 1638年の末か1639年の初めに岐部神父は密偵に見つけられ刑吏の手に落ちた。仙台藩の長三郎という人が東北地方の水沢(伊達藩の所領)の夫婦ともキリシタンだった三宅藤右衛門宅に神父が宿をしていることを密告した。仙台藩では幕府の懸賞金よりも上乗せした懸賞金をつけて藩内の捜索を強化した。幕府の高札では訴人への賞金は伴天連銀二百枚、いるまん百枚、きりしたん五十枚あるいは三十枚であったが、仙台藩では伴天連の訴人には黄金十枚、いるまんの訴人には黄金五枚、きりしたんの訴人には黄金三枚であった。訴人となった者はたとえキリシタンであっても転びを申し出ればその罪を赦すという裏切りの奨励である。

岐部ペドロ・カスイ神父は鎖で縛られたまま江戸へ送られた。「岐部神父が穴吊るしの苦しみの最中、ともに拷問にかけられた二人の同宿を励まし、信仰に強めているのを見て、役人は、彼を直ちに殺してしまった。時は一六三九年七月。だが日時は明らかでない。場所は、おそらく江戸小伝馬町の町牢の中庭であったろう。」(チースリク神父、『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004、p.321)

 『平戸オランダ商館日記』永積洋子訳の中に岐部ペドロ・カスイ神父の壮絶な最期についての記述があるがここでは引用しないことにする。ローマで1620 年イエズス会に入った時三十三歳であった岐部神父はそれから十九年後五十二歳の時祖国日本で壮烈な殉教死を遂げた。われわれはこのような神父様を先輩として持っていることを誇りとすると同時に、そのような生き死にを可能とさせるキリスト教信仰が何であるかをもう一度問い直してみる必要があると思う。

丸血留木村セバスティアン神父(1)
Weblog / 2006-08-24 15:30:03
  1550年の秋、ザビエルが鹿児島を発ってミヤコへ行く途中、平戸に二三ヶ月滞在していた。領主松浦隆信はザビエルに宣教を許し、ザビエルは約百人に洗礼を授けた。ザビエルが泊まっていた宿の主人が木村セバスティアン神父の祖父であった。セバスティアンは1565年頃生まれ、バルタザール・ダ・コスタ神父の手から洗礼を受けた。1582年セミナリヨ出身の最初の五人がイエズス会に入会を許されたとき木村セバスティアンはその一人であった。1584年イルマンとしての誓願を立てミヤコへ送られた。1587年に秀吉は伴天連追放令を出した。ミヤコで働いていた司祭と修道士は平戸へ集合した。イルマン木村は有馬領へ赴任し、1589年島原の近くの三会(みえ)へ送られた。才知と経験に優れていた木村セバスティアンは日本人司祭養成のために天草のコレジヨに送られ、ラテン語、国語、基礎神学の講義を聴いた。1594年マカオのコレジヨに送られた。1598年山田ジュリアン、にあばらルイス、木村セバスティアンの三名が副助祭に叙階された。1600年彼らは日本に帰国、8月13日長崎に到着した。9月助祭に叙階、翌年1601年9月四季の斎日に、にあばらルイスと共に最初の日本人として司祭に叙階された。山田ジュリアンは司祭叙階を前に結核のため亡くなった。日本人司祭をというザビエルの夢がこうして半世紀後に実現された。

 二人の新司祭は弾圧を受けたキリシタンの司牧を命ぜられ、木村神父は天草へ、にあばら神父は有馬から肥後と薩摩へ出かけた。1606年には木村神父は豊後におり、1607年から12年までは島原半島の加津佐にいた。1612年に有馬直純の背教で有馬領内に迫害が起こり、島原、有馬、口之津で最初の殉教者たちが出た。有馬にあったセミナリヨは長崎へ移され、各地の教会は閉鎖され、宣教師たちは長崎へ集められ、一人だけキリシタンの世話をするために領内に残った。その年木村セバスティアン神父は不動山(現佐賀県嬉野町)のレジデンシヤで説教師と聴罪師を勤めた。ポルトガル人アントニオ・フェルナンデス神父が責任者、その他に日本人修道士アレイショ進士が説教師、ほかに数人の伝道士がいた。木村神父は忠実な神の僕としてキリシタンの司牧にあたり、控えめな言動をとりながらも、重大な責任を果たしていた。

丸血留木村セバスティアン神父(2)
Weblog / 2006-08-25 15:57:00
  1614年2月1日江戸幕府はキリシタン禁令を発布、これ以降三百年にわたる弾圧と迫害が続くことになる。司祭・修道士・伝道士は全員長崎へ送られた。木村神父のいた不動山のレジデンシヤも破壊された。ここでは五十人以上の成人が洗礼を受けた。祝日にはミサと説教に多数の人が訪れた。教会の閉鎖後も木村神父はしばらくそこに残り、また二度も長崎から密かに帰った。1614年11月7,8の両日長崎港外の福田港から三隻がマカオ、二隻がマニラへ向けて出航した。65年にわたる日本の宣教は最期を遂げたかに見えた。しかし十八人の神父、九人の修道士、かなりの数の伝道士は留まり潜伏した。木村セバスティアン神父も留まり、長崎で活動した。行動をともにしていた平林マンショ神父が1615年病死したので、長崎にいる日本人神父は木村神父だけになった。1619年に石田アントニオ神父、その後伊予シスト神父が加わり、三人で分担して働いた。彼らは弾圧と迫害で苦しんでいるキリシタンたちを訪れて力づけ、秘蹟を授けた。1620年2月9日木村神父は修道者としての最終誓願を許された。

 1622年6月29日、聖ペトロと聖パウロ両使徒の祝日に、裕福なキリシタンの屋敷に隠れていた木村神父はそこに住んでいた韓国人女性がキリシタンであったにもかかわらず、訴人に与えられる賞金に引かれて奉行所に密告し、一緒にいた同宿とともに逮捕された。宿主も逮捕され財産は没収された。取り調べの後大村の
鈴田のキリシタン牢へ送られた。

 その牢はカルロ・スピノラ神父がスケッチを添えてローマの総長へ送った手紙の中で「鳥籠」と呼んだもので、長さ約5m、幅約4mの、竹で囲われ藁で葺いた粗末な小屋であり、最終的に総人数33人が押し込まれ、身動きもできないものであった。キリシタンたちが、ミサ聖祭のために必要なものをひそかに牢に送りこむことに成功し、囚人たちは毎日ミサを捧げた。スピノラ神父の指導で聖務日祷・黙想・読書・休憩といった日課が作られ、修道院の生活さながらであった。
七人の同宿がこの牢で誓願を立てた。

 1622年9月9日金曜日に二十四人の囚人は鈴田の牢を出て、海岸から船で大村湾を渡り、長与から陸路浦上まで連行された。一行の両側には三百人の警護の武士がついた。9月10日の朝、浦上から西坂まで、殉教への最後の道を歩いた。刑場についてから執行まで二時間近く待たされた。長崎で神父たちをかくまったキリシタンとその家族三十三人も一緒に処刑されることになり、その到着を待つためである。西坂の裏山の中腹には三万人もの見物人が集まっていた。

 スピノラ神父が「もろもろの民よ、神を誉めたたえよ」という詩編の賛美をとなえはじめ、死刑囚一同これに和した。神父は死刑執行役の長崎奉行代理助太夫に、次いで居合わせたポルトガル人に、そしてすべての見物人に短い説教をした。その後まずはじめに三十二人のキリシタンが斬首され、次いで火刑の処せられる二十五人の薪に火がつけられた。火刑の薪はかなり離れたところで燃やされ、最初に亡くなったスピノラ神父が息絶えるまで一時間かかった。それから他の人々も次々と倒れた。木村神父はまる二時間、熱火が彼の内部にゆっくり浸みわたる間、常に動くことなく、真直ぐに身を保った。地上に跪いたまま頭を深くさげて亡くなった。ローマのジェズ教会にはこの時の殉教の様子が描かれた絵がある。 1867年7月7日教皇ピオ九世は彼らを福者の列に加えられた。

丸血留石田アントニオ神父(1)
Weblog / 2006-08-26 09:59:53
 チースリク神父様の書かれた『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004 の中の「優れた説教家 石田アントニオ(福者)」(pp.139-192)を参考にして神父様の殉教までの足跡を簡単に見てみよう。

石田アントニオ神父は1570年頃島原に生まれた。最初洗礼名アマドールで呼ばれていた。1585年有馬のセミナリヨに入学、院長はベルシオル・デ・モラウ神父であった。有明海とその水平線に見える天草諸島の雄大な景色を目の前にしながら、毎日、ラテン語の勉強を続け、これに音楽と洋楽器の練習を行っていた。1587年秀吉の伴天連追放令で、大阪のセミナリヨが閉鎖され、生徒たちが有馬へ移り、生徒数は七十人、教師その他で総勢九十人になった。そのためセミナリヨは有馬から雲仙の山村の八良尾へ、さらに一年後1589年4月には加津佐にあったコレジヨに移った。アマドールは既にその年の1月に天草河内浦のイエズス会修練院に修練者として受け入れられた。イルマン・アマドール石田は1591年1月に修練を終え、修道士としての誓願を許された。コレジヨに移り、文学の勉強を続けた。1599年山口にイエズス会のレジデンシヤが創設され、ナヴァッロ神父のもとでイルマン・アントニオ石田は周防と長門の両国に散らばっていた約五百人のキリシタンを世話したり、宣教活動をした。

 巡察師ヴァリニャーノ神父は日本人司祭養成を促進させるため神学生をマカオに送ることにした。1604年のマカオのコレジヨの名簿に「イルマン・アントニオ、日本人、高来出身、三十四歳、イエズス会に入会して十六年、三年間倫理神学を勉強した」と記述されている。1604年4月石田アントニオとその同級生は帰国した。石田は広島の教会へ送られた。その後の十五年間、石田アントニオは伝道者、説教師、司祭としてこの広島で活動する。広島の教会は福島正則の支援もあって1604年には神父一人、修道士一人、同宿一人、翌年には神父二人、修道士一人、同宿二、三人で宣教と司牧に当たった。中心となったのはマテウス・デ・コウロス神父である。1606,7年の名簿では石田はイルマンとしてあげられている。司祭に叙階されたのは1609年か1610年であったと思われる。1613年の名簿では、石田は司祭としてあげられている。石田アントニオは福島正則やその一族と親しい間柄にあり、安芸と備後の二国では宣教の実りが大きかった。1607年には広島で1250人が洗礼を受け、1609年から11年の三年間に武士だけで720人の洗礼があった。

 1614年幕府の禁教令が出され、11月にはすべての宣教師の国外追放が実施され、マカオとマニラにほとんどすべての者が追放された。幕府の命令により、広島藩主福島正則も教会を閉鎖し、神父たちを長崎へ送るよう指示した。石田神父は一人の日本人修道士とともに広島に残ったが、後にやはり長崎へ移らねばならなかった。ところが一人の有力な身分の婦人が長崎と連絡して一人の神父を派遣してもらうことに成功した。その派遣された神父が石田アントニオ神父である。そういうわけで石田神父は安芸と備後をはじめ中国地方の国々を歩きまわって、キリシタンたちの司牧にあたった。大阪夏の陣のときに、城内から脱出したジョヴァンニ・バッティスタ・ポッロ神父は福島勢のキリシタン武士に助けられ、佃又右衛門の配慮によって広島へ行きそこで石田神父と会った。二人は中国地方の担当を分け合い、ポッロ神父は播磨を拠点に東部の諸国を、石田神父は広島から西の諸国を担当した。ところが、1617年に「佃事件」が起こり、石田神父が逮捕された。幕府が大阪方の武将明石掃部ジョアンの嫡男明石内記パウロを追求する中で彼を匿った佃又右衛門の屋敷に住んでいたからである。佃一家と、同宿のシモンおよび二人のキリシタンは処刑され、石田神父は牢屋に入れられた。牢屋からの石田神父の手紙によれば彼は九人の囚人が同室であり、部屋が狭いために二階に住んでいるが、その天上の低いことは机の小さな抽斗に押し込まれたとでも想像してほしいと言っている。いつも体を腕で支えなければならず、肘が固くなった。悪臭や害虫にも悩まされたが、そのすべてを神の特別な慈愛のしるしとして受け取り、御主に感謝していると述べている。彼は牢屋の小窓を通して数人の人に洗礼を授け、二百人以上の人に告解の秘蹟を授けた。1619年8月11日、殉教の栄冠を待っていた石田神父は、突然牢から釈放された。福島正則が改易され、町奉行が更迭されたためである。これから後十年神父は迫害下に宣教・司牧を続けることになる。

丸血留石田アントニオ神父(2)
Weblog / 2006-08-27 16:25:13
 広島の牢を出ると石田アントニオ神父はすぐ長崎へ赴き、長上たちの指示を仰いだ。管区長は広島でまだイルマンであったアントニオと一緒に働いていたマテウス・デ・コウロス神父であった。長崎地区の長上はファン・バウティスタ・デ・バエサ神父、その他バルタザル・トレス神父、ベント・フェルナンデス神父、そして石田アントニオ神父が働いていた。マテウス・デ・コウロス神父と彼の秘書ならびに管区会計係であったクリストヴァン・フェレイラ神父は、時に長崎、時に有馬に行って司牧に携わった。

 迫害下の司牧はチーム・ワークで、南の薩摩から北の平戸まで広範囲に行われた。1623年三代将軍になった家光はキリシタンの取り締まりを一段と強化、組織化した。12月4日には江戸芝の札の辻で五十人のキリシタンを火刑に処して見せしめとした。1629年長崎では竹中釆女が奉行になり残酷な迫害を行った。因みに言えば、彼は汚職と悪政のために1633年に解職され翌年切腹を命ぜられた。

 1629年11月14日、石田アントニオ神父は大村で遂に竹中釆女の手下によって逮捕された。宿主久兵衛ディオゴと共に奉行所へ引かれ、奉行所の片島五郎右衛門から命を助けてやるから信仰を棄てろと命令されたが、石田神父はもちろん拒否した。牢屋に入れられ、足枷と首にも鉄の輪をはめられた。片島五郎右衛門は神父を自分の家に呼びつけたので、石田神父は彼にキリストの聖なる教えの真理を説き聞かせた。また竹中釆女も神父を自分の家に呼びつけ、宣教師から取り上げた祭服について彼に質問をしたり、彼にそれを着せたりした。釆女に高座に坐らされた石田神父は釆女に説教し、「厳しい迫害が始まって以来、その時初めて、私は公然と説教を行った」と書簡の中で述べている。釆女は最後に「お前たちは何と勇敢なのだろう。お前たちこそ将軍の真の部下で、われわれは皆盗賊の群れにすぎない。われわれはただ大きな俸禄を貰うためにだけ、命を捧げると主君に約束するが、重大な時には主君に背を向けて離れ去るのだ」と石田神父に言った。石田神父はこのように権力者の前で公然とキリストのためのあかしを立てたのである。その後石田神父は大村の鈴田牢へ送られた。石田神父の他、アウグスティノ会のグティエレス、シメオンス・ビセンテ・デ・サン・アントニオ(ヴィセンテ・カルヴァリヨ)、フランシスコ・デ・ヘススの三神父と、フランシスコ会のガブリエル・デ・ラ・マグダレナ神父が牢にいた。彼らはこの牢で二年間過ごした。唯一の慰めは毎日のミサであった。

 1631年11月彼らは突然長崎へ呼び出された。竹中釆女が心身共に弱ったであろうと見込んで神父たちを棄教させようと御用学者の斉藤権内を使って説得させた。石田神父はこの儒学者を討論によっても打ち負かしたので、権内は表面だけでも教えを捨てるべきであり、心の中では望む通りに信じてもよいではないかと迫ったが、神父は「そのようなごまかしを教えも自分の理性も許さない。心の中で信じている教えを私は外面的にも奉じ、宣言する」と述べた。釆女の別の部下が釆女が神父の命を助けたがっており、表面的だけ教えを捨てれば、奉行からの俸禄と褒賞との約束があると説得したが何の効き目もなかった。結果は同じ、石田神父は「釆女が持っている限りの富を与えるとしても、いや自分を世界の主にするとしても、自分は絶対に神に背かず、教えを表面的なりとも棄てない」と宣言した。こうして論争と説得は終わり、次に拷問が来る。

丸血留石田アントニオ神父(3)
Weblog / 2006-08-28 14:58:39
竹中釆女奉行が採用した拷問の方法は雲仙の地獄責めであった。百度に近い硫黄の熱湯が激しく湧き出てその飛沫が1mも跳ね上がり、荒れ狂う急流のような音がするまさに地獄の釜のようなところである。釆女は上記の五人の修道司祭たちを地獄へ連れて行き、彼らが信仰を否定するまで熱湯によって拷問すること、ただしそれによって彼らを死なせることがないように命令した。彼は12月3日五人の修道者とポルトガル人アントニオ・ダ・シルヴァの妻ベアトリセ・ダ・コスタとその娘マリアを一緒に雲仙へ送った。その日の夕方、彼らは雲仙の麓にあたる、高来の小浜港に着き翌日山に登った。七人は一人ずつ別々に小屋に入れられ、お互いに会ったり、話したりすることは許されなかった。昼も夜も足枷と手錠をかけられ、護衛に取り囲まれていた。12月5日拷問が始まった。七人は一人ずつ煮えたぎる池の縁に連れて行かれ、熱湯を浴びる前に教えを棄てるよう説得された。しかし七人とも説得に応じる者はなかった。服を脱がせ、両手両足に縄をくくりつけてそれを四人が抑えた。柄杓で熱湯をすくい、一気にではなく、ゆっくりとそれを三杯くらい注ぐのである。彼らは勇気と堅固さでそれに堪えた。娘のマリアだけは苦痛のために気を失って倒れたので、「転んだ」とされ、小屋に運び、翌日長崎に帰された。少女は「転んだ」のではないと否定したが聴き入れられなかった。残りの六人は山に留まり、三十三日間、各人の回数は異なるが、熱湯の拷問を受けた。殺すためではなく棄教させることが目的であったので彼らの傷の手当をするために医師が同行していた。誰も拷問に屈しなかったので、彼らは1月5日に長崎へ連れ戻された。この時の拷問の状況を記録にとどめたクリストヴァン・フェレイラ神父がその2年後に穴吊るしの拷問に堪え切れずに棄教したことは前に触れた。

 彼らはクルス町の牢屋に入れられた。8月の終わりに江戸から死刑の命令が届いた。雲仙地獄で拷問を受けた二人の女性、ベアトリセ・ダ・コスタと娘マリアは国外追放にされ、その代わりに聖フランシスコ第三会に入っていた教区司祭の城ジェロニモが死刑囚のグループに加えられた。死刑執行の前に竹中釆女は、9月1日に西坂の刑場に火刑の準備を済ませ、翌2日にもう一度、彼らに対して背教を説得しようと努めたが、皆は断固これを拒否した。石田神父は背教者の助右衛門アントニオと対面させられたが、彼に対して「あなたが棄てたその信仰のために私の血と命をイエズス・キリストへの信仰のために捧げるというあかしを立てることはふさわしいことではないか。私はあなたが謬ちを捨て、神なる牧者の羊小屋に戻ることを勧めたい」と呼びかけた。1632年9月3日六人の神父たちは牢屋から出され、刑場に行く途中で「もろもろの民よ、主を讃めたてまつれ」という讃美歌を歌った。刑場では火刑のための薪に海水がかけられ、火が長くくすぶり、煙によって苦痛がいっそう激しくなるようにされていた。受刑者は指一本だけで軽く柱にくくられ、燃え上がる火から逃げ出して、信仰を棄てることができるようにされた。火がつけられ、六人はもう一度「キリストの信仰、万歳!」と声をあげたが、炎と煙に包まれた。奉行の命令で、焼け残りや灰はすべて袋に詰められ海に投じられた。石田アントニオ神父、享年六十三歳、四十三年間を神の奉仕に捧げた。1867年教皇ピオ九世は彼と、彼と一緒に殉教した神父たちを福者の列に加えられた。

丸血留結城ディオゴ神父(1)
Weblog / 2006-08-29 14:35:00
 チースリク神父様の書かれた『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004 の中の「ラテン文学から殉教へ 結城ディオゴ」(pp.193-219)を参考にして神父様の殉教までの足跡を簡単に見てみよう。

 結城ディオゴは1575年頃生まれ、1586年十二歳の時大阪のセミナリヨに入学した。1587年7月24日秀吉の発した伴天連追放令の影響でセミナリヨは閉鎖され、同年12月有馬のセミナリヨに生徒たち十九人が移った。1588年のセミナリヨ生徒名簿には「六十一番、結城ディオゴ。河内国出身、十四歳」と載せられているが、後のイエズス会名簿には「四国阿波国出身」ともなっている。その後セミナリヨは有馬から雲仙山中の八良尾、加津佐、再び八良尾そして有馬有家と転々とした。結城ディオゴは1595年に学生生活を終えイエズス会への入会許可を得て修練院に入った。修練院は天草河内浦にあり、ディオゴと同時に入会した十四人の若い会員たちは修練を続けながらコレジヨの授業も受けた。1597年2月5日宣教師を含むキリシタン二十六人が捕縛され長崎西坂で殉教した。同年秋にコレジヨは閉鎖され全員長崎へ引き上げた。1597年10月おそらく長崎で修道誓願を立てた。1601年結城ディオゴは数人の神学生と一緒にマカオへ送られ、三年間の倫理神学を修得した後1603年か1604年に帰国した。ディオゴは語学の才能に恵まれ、有馬のセミナリヨのラテン語教師に任命された。1607年2月には修道士ディオゴは京都下京の修道院におり、10月には伏見のレジデンシヤにいた。京阪地区で宣教に従事していたのである。1608年には伏見のアンジェリス神父と共に阿波国へ宣教旅行に行った。

 しばらく京阪地区で宣教活動に従事した後、ディオゴは再び有馬のセミナリヨで教鞭を執った。1612年6月有馬直純の棄教に伴い領内で流血の迫害が始まったので、セミナリヨは長崎のトードス・オス・サントスの修道院へ移された。ディオゴはここで人文学の教師としてラテン語の古典を中心にする文学および哲学を教えた。「彼のラテン語は実にキケロや聖アウグスティヌスの前でも恥ずかしくないほどのクラシックな文体で、しかも語彙が豊富で、調和のとれた文章になっている。現代人のなかに、ディオゴのようなすばらしいラテン語が書ける人は、世界でも数えるほどしかいないだろう。」(pp. 208-209)

 1613年秋副助祭に叙階された結城ディオゴは1614年2月1日の幕府によるキリシタン禁令で国外追放となり、数人の日本人修道士と共にマニラへ行った。高山右近もこの時マニラへ追放された。マニラでは一行は信仰の証し人として大歓迎を受けた。

 1615年の春結城ディオゴはマニラで司祭に叙階された。マニラにおける十五人の修道士と十五人の同宿(伝道士とセミナリヨの生徒)の住宅と「就職」との問題を解決するためディオゴはマニラで日本人のためにコレジヨを設置してくれるように長上たちに頼んだ。この計画をローマの総長に提案し、援助を依頼する書簡を書き送った。日本でのセミナリヨのかつての教師であった結城ディオゴ神父はマニラで教育事業を持続するために努力していたのである。「しかし、結城神父の使命は学問の分野ではなかった。司祭になった彼は祖国へ帰り、迫害を加えられ、弾圧下にさらされていたキリシタンたちのために働くべきであった。」(p.213)

丸血留結城ディオゴ神父(2)
Weblog / 2006-08-30 16:27:27
結城ディオゴ神父は1616年二人の日本人修道士、天草アンドレ(松岡アンドレ)とバルトロメウ・リョウセイと一緒に祖国へ戻った。7月11日か12日に三人とも無事に長崎に上陸した。結城神父は幕府が禁教令を秀吉の時のように次第に緩めると楽観していたが、1623年家光が三代将軍になると、キリシタンに対する取り締まりは苛酷さを増し、根絶政策が取られるようになった。

 長崎に到着した結城神父は「上」の宣教地区へ送られ、京都を根拠地にして、京阪から北陸、中部地方、東北地方を巡回した。1617年には津軽へ追放されたキリシタン武士を見舞った。随分と広い活動範囲である。弾圧が厳しくなり宣教師、司祭の動静を知らせる書簡をローマに送ることも困難で、日本に帰国してから殉教までの結城ディオゴ神父についても詳しいことは分からないことが多い。1625年末にディオゴ神父がローマに送った書簡の後の十年間はまったくの沈黙に包まれている。1633年竹中釆女の後を継いだ曽我又左衛門、今村伝四郎両奉行はその年の間に九州に潜伏していた宣教師を逮捕・処刑し、イエズス会員だけでも二十四名が殉教した。1636年ポルトガル人の子孫や彼らに協力的であった日本人の男女二百八十七人がマカオに追放されたが、その中の一人の婦人が結城ディオゴ神父の殉教について報告した。巡察師ディアス神父が調査の結果をローマの総長へ送った書簡によれば、「結城ディオゴ神父が大阪で逮捕されたことを知らされたとき、奉行は神父を大阪で死刑に処するように命じ、その処刑の証人および執行人として九郎兵衛という役人を派遣した。九郎兵衛は長崎へ戻ってから、私に結城ディオゴ神父は逆さまに穴に吊るされて死んだ、と報告した。そして神父は、他の者の一人についてさえも白状しなかった。神父は大阪地方に滞在していた二十年間、宿主を持たず、常に森林のなかで生活し、野生の草や木の実を食べてきた、と言った。」(p.218)レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』によれば、「1636年2月25日、大村[大阪]で、イエズス会の結城ディオゴ神父が、穴のなかで殺された。彼は、大村[大阪]から程遠くない、森のなかで捕らわれたのであった。奉行が、誰が彼をかくまい、養っていたかと訊くと、神父は『二十年来、私は人に迷惑をかけないために、野や森のなかをさまよい、野の草や実で命をつないでまいりました』と答えた。彼は三日間、穴吊るしの拷問に耐えた。時に六十歳で、イエズス会にあること四十一年であった。」(p.219)

 以上中浦ジュリアン、岐部ペドロ・カスイ、木村セバスティアン、石田アントニオ、結城ディオゴの五人のイエズス会の神父様たちの殉教について見てきた。チースリク神父様はその書物のなかで教区司祭12名、イエズス会司祭23名、フランシスコ会司祭1名、ドミニコ会司祭3名、アウグスティノ会2名の合計41名の日本人司祭を取り上げておられ、その中でも「最も史料が残っている十四人を選んでその伝記を書」いて紹介されている。私が見た五人はもちろんその十四人のうちに入っているが、ただ僅かの事実をなぞっただけである。機会があればぜひ「キリシタン時代の日本人司祭」を繙かれることをお勧めしたい。「丸血留の道」で説かれていた教えがわれわれ日本人の大先輩である神父様方によって見事に実践されていたことに改めて敬意を表したい。日本の貴き殉教者われらのために祈り給え!

パジェス「日本切支丹宗門史」から(1)
Weblog / 2006-08-31 16:00:06
1599年2月から9月までの八ヶ月間に約四万人の未信者が洗礼を受けた。ドン・アウグスチノ小西行長の領分たる肥後でヨハネ・バプチスタ・ポッロ神父らが三万人余の人に洗礼を授けた。宇土の町には洗礼を受けた者が六千人、矢部には二千五百人いた。有馬晴信は博多で自ら伝道に従いその結果千五百人が改宗した。豊後には信者が一万二千人いた。八代では二万五千人のひとびとが洗礼を受けた。1599年の年末に小西行長は志岐に来て、有馬候の面前で堅振の秘蹟を受けた。降誕祭は異常の熱心さをもって厳粛に行われた。

 1600年(慶長5年)の初め数ヶ月は、深い平和の中に過ぎた。家康は漸次独裁的となり、御門(ミカド)から内府様の称号を下賜せられ、爾来この称号を用いた。この帝国の情勢が、むしろ宗門に対して好都合になった。天主堂は津々浦々に再興され、新しい信者はいや増した。当時日本にはイエズス会の司祭・修士合わせて百九人いた。彼らの肝煎りで五十箇所の天主堂が再建され、五万人の新しいキリシタンが洗礼を受けた。長崎教区の大駐在所には、伝道所の教師を加えて三十人の宣教師がいた。そこには、一つの神学院が付属しており、九十人の少年が読み書きや修辞学を学んでいた。ドン・プロタジオ有馬晴信が領主であった有馬には十四人の伝道士がおり、人口七万人全部がキリシタンであった。八代と野津はヤコボ小西美作の命令で十四の天主堂が建てられた。領主ドン・シメオン黒田孝高の豊前には二人の司祭と一人の修士、二千人のキリシタンがいた。

 ザビエルの宣教からちょうど半世紀の日本のカトリックの情勢の一部が上記のことからも窺える。1597年には二十六聖人の殉教があり、1598年9月には秀吉が亡くなっている。1600年関ヶ原の戦いで家康の支配権が確立。この年長崎の後藤宗印トメが金属活字で印刷されたキリシタン版「どちりなきりしたん」を販売した

パジェス「日本切支丹宗門史」から(2)
Weblog / 2006-09-01 14:54:05
1601年(慶長6年)- 家康は保護を願いに来たヨハネ・ロドリゲス神父を厚く遇し、キリシタンや宣教師たちの邪魔をしないようにという長崎奉行寺澤廣高に宛てた命令を出した。家康は神父たちが京都、大阪、並びに長崎に居住することを許した。黒田長政の領地である筑前博多は千人以上のキリシタンがいた。この年日本には百七人のイエズス会員と二百五十人の同宿がいた。長崎のコレジヨとレジデンシヤには五十余人のイエズス会員がいた。セルケイラ司教はこの年八千人の信者に堅振の秘蹟を授けた。司教は9月にイエズス会の二人の日本人司祭を叙階した。その一人は1622年に殉教した木村セバスティアン神父である。神父たちは長崎から肥後、薩摩、佐賀、筑前、筑後へ宣教に出かけた。佐賀の城下龍造寺で二百人、筑前の秋月と博多で百六十人が洗礼を受けた。筑後では四百人の受洗者があった。五島の島々に二回宣教が行われた。同地のキリシタンは二千人でみな百姓か漁夫であった。ここで百五十人が洗礼を受けた。大村のレジデンシヤにはイエズス会員が十一人いて二百三十人に洗礼を授けた。住民はみなキリシタンで、二万二千回の悔悛の秘蹟と二千三百回の聖体の秘蹟が授けられた。有馬のレジデンシヤには十五人の修道者がいて、これに付属した五つの伝道所には十一人の修道者がいた。三百人の異教徒が洗礼を受けた。有馬の新しい天主堂が落成し、次いで有馬領内に十八箇所の天主堂ができた。大阪と京都の二箇所のレジデンシヤには司祭六人、修士八人合計十四人のイエズス会員がいた。大阪ではオルガンチノ神父と三人の修士で五百人の洗礼を行った。近江の大名京極萬吉の妻京極マリヤは改宗者の増加に努めた。

 豊後のフランシスコ大友宗麟と肥後一部のアウグスチノ小西行長の没後、彼らの家臣は離散したが、この両国に留まっていたキリシタンたちは迫害に遭った。肥後守加藤清正は法華宗の頭目となってからキリシタンに転び証文に署名することを命じた。清正は剣や礫をもってすれば殉教者を出すばかりで棄教者を出すことはないと考えて拷問で痛い目に会わせるか、食糧責めにすることにした。奉行たちはキリシタンに少なくとも表面だけでも折れることを勧めた。本当に転んだ者もいた。ある者は自身は応じないが、奉行たちのなすに任せたので、奉行たちが夥しい署名を偽造した。加藤清正はこの政策を続け、信者が領内から出ることを禁じ、身内の者を人質に取り、財産収入の全部を没収した。無一物となったキリシタンは家族と共に藁小屋の下に逃れた。彼らは領内を出ることを死をもって禁じられていた。清正は一般の人々に対して、キリシタンに家を貸すこと、食糧を売ること、彼らから何かを買うこと、商取引をすることを重刑を課して厳禁した。「勇敢なイエズス・キリストの兵士は、唯忍耐の外には身を守るべき武器もなく、かうした總ゆる迫害を勇敢に受けた。彼等は、互に慰め合ひ、共に殉教に對する覺悟を語り合っていた。司教と巡察師、並に、その他の神父達は、手紙や聖教書類を送って、彼等を勵ました。日本人の司祭ルイスは、百姓の姿をして、彼等の慰問に出かけた。彼が出発して傳道したお蔭で、多數の轉宗者が立返った。」(レオン・パジェス 日本切支丹宗門史 (上)p.76)

パジェス「日本切支丹宗門史」から(3)
Weblog / 2006-09-02 17:57:19
1602年(慶長7年) - 徳川家康はイスパニヤとの貿易を求めて、ヒエロニモ・デ・イエズス神父の書いた書簡を託してフィリピンの総督の許に使節を派遣した。総督は使節を優遇し、かつ使節に家康への贈り物を持たせて帰したが、使節は台湾付近で難破し船もろとも沈んで死んだ。二度目の使節が送られ、フィリピン総督の使節が日本に向かったが悪風のためマニラに引き返し、もう一隻の船は台湾近海でやはり難破した。ヒエロニモ・デ・イエズス神父はルイス・ゴメス神父、ペトロ・デ・ブルギロス神父と共に旅を続けて平戸に上陸した。ヒエロニモ神父はそこから京都へ行き、家康に面会した。家康は喜び彼に口頭でレジデンシヤ用の敷地を与える旨を伝えた。

 一方、薩摩の大名は喜左衛門をマニラに送り、ドミニコ会管区長宛ての書簡を託した。喜左衛門は二十人の宣教師が来てもよいと言った。フィリピン総督はマニラで聖俗二つの会議を招集し、諸修道会の宣教師を遣わすことを全会一致で可決した。ドミニコ会からはフランシスコ・デ・モラレス神父、トマス・エルナンデス神父、アロンソ・デ・メーナ神父、トマス・デ・マラガ神父、トマス・デュ・エスピリットサント神父それにデ・ラ・アパディア修道士が薩摩に派遣されることになった。フランシスコ会からは八人の修道者を指定し、アウグスチノ・ロドリゲス神父が長となって長崎に赴任することになった。アウグスチノ会はディエゴ・デ・ゲバラ神父とエスタシオ・オルティス修道士を豊後に送ることにした。

 ドミニコ会の人々はこの年6月に出帆し薩摩の甑島に上陸した。数日後宣教師たちは城下に召され、歓迎されたが、領主が仏僧たちの反対に遭い、天主堂と住宅のために約束していた土地を与えず、補助金も幾度か中止した。彼等は三ヶ月の間陋屋に住み衣食にも事欠いた。領主は改宗したが、家康の機嫌をそこねることを恐れて約束を無視したので彼等は甑島に引き上げた。フランシスコ会の人々は到着後家康を表敬訪問しイスパニヤ総督の書簡と進物を献上した。多数の修道者が家康の許可なしに日本に来たことに憤慨したが、機嫌を取り直した。八人の修道者のうち、四人は許可を得て江戸で天主堂の側に修道院と病院を建てた。京都にも修道院を建てた。アウグスチノ会の人々は8月12日平戸に着き、デ・ゲバラ神父は京都に行ってヒエロニモ・デ・イエズス神父を訪ねた。ヒエロニモ神父は豊後に修道院を建てる許可を家康から得た。デ・ゲバラ神父は豊後に引き返し、修道院と天主堂とを建てた。

 イエズス会員十一人が来日した。五人の司祭と六人の神学生でカルロ・スピノラ神父もその中の一人であった。長崎のコレジヨ、レジデンシヤには六十人のイエズス会員、すなわち二十人の司祭、十六人の修練者などがおり、この人々が九百五十人の未信者に洗礼を授けた。また彼らは、日本語日本字で印刷された「ギヤ・ド・ペカドル」を読み、また注釈した。長崎付近では子どもたちが往来でキリシタンの教えを口ずさみ、異教徒にさえそれに親しませた。大村の領内では五人の司祭と六人の修士で二万二千人のキリシタンを世話していた。聖体を拝領する者は夥しかった。有馬には三十六人のイエズス会員がいた。コレジヨの百余人の生徒と伝道士たちは信徒の間で教えを説いた。司教が一万人の信者に堅振の秘蹟を授けた。子どもらは毎日教えを聴きにきた、彼らは重要な点は日本語ばかりでなく、ラテン語でもこれを学んだ。肥後では加藤清正による迫害が六ヶ月近く続いたが最終的には家臣が国外に出ることを許したので多くの者は長崎や有馬に出た。八代や豊後でも迫害が起こり転び証文を書く者もでたが、後に有馬に行って立ち返った。豊前のレヂデンシヤには四人の宣教師がおり、三百人の人に洗礼を授けた。筑前博多では四百人が受洗した。博多の宣教師たちは久留米と柳川のキリシタンの世話もした。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(4)
Weblog / 2006-09-03 22:47:25
 1603年(慶長8年) - 諸侯がキリシタン宗を奉ずることを禁じた秀吉の命令は公然と取り消されてはいなかった。しかし徳川家康は一般のキリシタンの信仰を自由に任せて黙認していた。そしてイエズス会の神父たちの要求には援助を与えた。この年新たに一万人の受洗者があった。この時イエズス会の宣教師は百十九人で、内司祭五十三人、修道士六十六人が二箇所のコレジヨ、二箇所のレジデンシヤ、十九箇所の伝道所に分かれていた。住民のほとんどがキリシタンであった長崎にはイエズス会員は三十三人しかいなかった。この神父たちの天主堂の他に、市内に三つの天主堂があった。祝日はどこも満員であった。コレジヨに付属して三人の司祭と三人の修士のいる三つの伝道所があった。十二の天主堂がその付近に建てられた。有馬のコレジヨとセミナリヨには二十人のイエズス会員がいた。有馬のコレジヨには八つの伝道所が付属していて、十四人のイエズス会員が住んでいた。大村のレジデンシヤと伝道所には十一人のイエズス会員がいた。住民はすべてキリシタンで驚くほど熱心である。四つの天主堂が建てられた。このように長崎、有馬、大村の三地方では宗教は自由で隆盛であった。カトリックの典礼はこれらの地方では非常な光彩を放ち、無限の幸福を生んでいた。至聖の秘蹟の会、聖母の会、お告げの会、慈悲の会が盛んであった。二つのコレジヨでは日本人の青年が三百人以上勉強していた。イエズス会の費用で約八百人の同宿や伝道士が支援されていた。

 肥後では加藤清正が城下熊本市内で再び迫害を開始した。彼は熊本、八代、宇土を巡り、キリシタンの役人を奉行に命じて召捕らせた。商人や職人は市の寂れることを案じてそのままにした。八代ではキリシタンの役人たちが表向き棄教してその魂を失ったが、十四人は最初転ばなかった。しかし後にそのうちの十二人が転びヨハネ南五郎左衛門とシモン竹田五兵衛だけは最後まで屈しなかった。ヨハネ南五郎左衛門はイエズスとマリヤの御名を唱えつつ斬首されて殉教した。 12月8日聖母の御宿りの祝日であった。妻マグダレナは南が転ぶようなことがあれば家を出て行くと言って夫を励ましたが、もちろんその必要はなかったのである。シモン竹田五兵衛は翌日12月9日彼の母ヨハンナと妻イネスの目前でやはり斬首されて殉教した。彼ら二人の殉教そしてその家族の殉教の詳細は是非ともパジェスの「日本切支丹宗門史(上)」第五章でお読みいただきたい。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(5)
Weblog / 2006-09-04 21:27:32
 1604年(慶長9年) - 家康は平和を愛し、また宣教師たちが慎重に改宗や教会の管理に当たっていたために日本のキリシタンは真に平和を楽しみ、神の御力によって多くの改宗者が生まれ、この年新たに四千五百人が受洗した。ヨハネ・ロドリゲス神父は長崎のアントニオ村山東安(あるいは等安)を伴って伏見に家康を訪問し、種々ヨーロッパから持参した贈り物を携えて行った。この年日本にいたイエズス会員は百二十三人であった。有馬には十三人のイエズス会員がいた。一人の神父が四十人の聖徒に、将来の説教師や伝道師に必要な教育、日本語で書かれた信仰の大綱を教えた。大村には十二人のイエズス会員がいた。新たに二つの天主堂が建てられた。長崎ではコレジヨと修練所にイエズス会員が四十二人いた。市内にはイエズス会の天主堂とそのほかに天主堂が四つあった。筑前博多には四人の宣教師がいた。この年、秋月、博多その他の地方において約八百人の成人が洗礼を受けた。豊前の小倉には三人の修道者がいた。七千戸あるこの町で四百人の成人が洗礼を受けた。キリシタンは、支那船の難破のために宣教師が困らないように、米千六百俵の喜捨を集めた。京都には司祭六人と修道士十一人計十七人のイエズス会員が住んでいた。司祭一人修道士一人とで北国のキリシタンを訪問し、八十人の成人に洗礼を授けた。ドミニコ会のヨハネ・デ・ルエダ神父が日本に派遣された。 1604年10月31日マニラのアウグスチノ会の会議でオルチス神父がペトロ・デ・オロッコ神父とディエゴ・ペレナ神父と共に日本に派遣されることが決まった。臼杵の市内に第二の天主堂の建立に着手し、この天主堂を聖母の御宿りに奉献した。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(6)
Weblog / 2006-09-05 21:44:59
 1605年(慶長10年) - この年台風のために五十の天主堂が倒壊した。日本には七十五万人のキリシタンがいた。この年新たに洗礼を受けた者は五千五百人あり、長崎だけで千二百人以上もあった。1605年に初めて盛大な聖体行列が行われた。ドミニコ会のトマス・デュ・サン・エスプリ神父とアロンソ・デ・メーナ神父が大村の伝道のために来日した。彼らはさらに平戸に渡った。アウグスチノ会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が臼杵に来てキリシタンを世話した。長崎のコレジヨと深堀、古賀、内海、外海の四箇所の伝道所には、三十四人のイエズス会員がおり、うち二十人は司祭であった。彼らは五島の島々に伝道した。有馬は住民すべてがキリシタンであった。十三人の司祭と同数の修道士がコレジヨと若干の伝道所に住んでいた。天草の志岐と神津浦の伝道所には五人の司祭と二人の修道士がいた。毛利輝元は安芸の三入城主であったベルシオール熊谷元直を千人の兵を遣わして家を囲ませた。ベルシオールは切腹を命ぜられたが、キリシタンであるため自殺を拒み、斬首されて殉教した。この四日後琵琶を弾じる盲人ダミヤンもまた召喚され奉行と議論して雄弁に答弁し最後に死刑を宣告された。山口の刑場で斬首され、遺骸は千々に切り刻まれ、川や森の中に投げ棄てられた。豊前の小倉には一人の司祭と二人の修道士がいた。ここでは六百人が受洗した。豊後には二人の司祭と一人の修道士がいて、二つの天主堂を建てた。八百人の受洗者があった。この年既に棄教して出羽の秋田に流されていたドン・コンスタンチノ大友義統が、熱病を病み、死を前にして聖なる秘蹟によって信仰を取り戻して死んだ。上京下京、伏見、大阪、北国の五箇所のレジデンシヤに七人の司祭と十人の修道士がいた。京都では改宗する者は少なかったがそれでもこの年成人の受洗者が三百七十人あった。京都の新天主堂が竣工し、降誕祭には聖なる歌ミサが捧げられた。伏見で六百人、大阪では二百六十人の受洗者があった。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(7)
Weblog / 2006-09-06 13:24:43
 1606年(慶長10年) - 1月20日金曜日巡察師アレキサンドル・バリニヤニ(アレシャンドロ・ヴァリニャーノ)神父がマカオで亡くなった。七十歳少し前であった。イエズス会に四十年を過ごし、アジアの伝道に三十年間従った。日本では彼の管下にコレジヨ、レジデンシヤ、伝道所が三十一箇所建てられ、三百の天主堂が建てられた。同神父の最も重要な事業の中に、印刷機械をヨーロッパから日本に持って来て日本字の活字を作るために職工を連れてきたことが挙げられる。この印刷機械によってラテン語から翻訳され、あるいはポルトガル語で作った数多くの著作が印刷された。もちろん日本で初めての活版印刷の書物である。ドミニコ会の修道者デ・メーナ神父が肥前国深堀に遣わされたが、肥前の大名はドミニコ会の神父が在住しレジデンシヤを設け天主堂を建てる許可を与えた。デ・メーナ神父は深堀にはイエズス会の天主堂があったのでここには天主堂を設けず、濱町にロザリオの玄后の聖母マリヤ天主堂を建てた。第二の天主堂を鹿島に建て聖ヴィンセンシオに奉献し、第三の天主堂を佐賀に建て聖パウロに奉献した。アウグスチノ会ではアロンソ・ムノス神父が五人の修道者と共に来日し、佐伯の城下に修道院を建て、聖ヨゼフの保護の下においた。その後日向に天主堂を建て二千人のキリシタンの団体を作った。イエズス会のデ・セルケイラ司教は家康を伏見に訪問し歓迎された。この機会に司教は夥しいキリシタンに堅振の秘蹟を授けた。帰途セルケイラ司教は豊前小倉に細川忠興を訪ねて敬意を表し、大名は宗門と宣教師の保護を保証した。この年も肥後の加藤清正は依然キリシタンの迫害を続けていた。慈悲役のヨアキムは八代の獄中で重病にかかったが、有馬から派遣された一人の日本人神父が牢内に忍び込み罪の告白を聴いた。ヨアキムは8月26日信仰の告白者として息を引き取った。彼の遺骸は八代の公衆墓地に埋葬され、三日目にひそかに有馬に移された。

   * * * * * * * *  * *

戦国時代その地を支配する大名たちのあり方次第でキリシタンが信仰を許容されたり迫害されたり殉教したりしているのが見て取れる。それにしても宣教師の活動の何というもの凄さであろう。宣教師だけでなく1601年に日本人司祭二名(木村セバスティアン神父とにあばらルイス神父)が出て以来多くの日本人司祭もその中に入っているが、彼らのどんな苦労をも厭わない宣教・司牧活動を見ると現代の宣教・司牧活動は何なのかと思ってしまう。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(8)
Weblog / 2006-09-07 21:22:41
 1607年(慶長11年) - 家康は秀吉の命令を継承し宣教師たちを依然追放人と見なしていた。大名や重臣たちがキリシタンになっていいという許可はおりなかった。しかし大がかりの迫害は行われなかった。イエズス会管区長フランシスコ・パエス神父は5月12日京都の修道院長モレホン神父、他の司祭一人、それに日本人の修道士三人を同伴して駿河の府中で家康を訪問した。家康は管区長に伊豆の国で近頃発見された銀坑を訪問するよう勧めた。家康はこの銀坑を大いに尊重していて外国人に見せたがっていたのである。管区長の代わりにヨハネ・ロドリゲス神父がその銀坑を訪問することにした。パエス管区長はキリシタン訪問のため八日間江戸に滞在した。その後相模の小田原に行き、また清洲の町にいた尾張のキリシタンを訪問した。京都ではレジデンシヤに伏見、大阪、堺のキリシタンが集まり荘厳な儀式に与り聖体を授かった。大阪城に豊臣秀頼を表敬訪問し、彼の前でセミナリヨの少年たちにハープ、ヴィオル、管付オルガンでセレナーデを演奏させたが秀頼はこれに大いに満足した。パエス神父は安芸の広島を通り、豊前の小倉に行き、同地のキリシタンと領主細川忠興が彼を優遇した。越中殿(忠興)はパエス神父に米四百俵を贈った。神父はさらにそこから筑前博多に行き、筑前守黒田長政から銀二十枚を贈られた。長政の叔父である秋月のミカエル黒田惣右衛門を訪問し、同地で新しい天主堂の献堂式を行った。パエス神父はさらに筑後の柳河に行った。領主田中吉政は神父を大いに歓迎した。豊後のフランシスコ大友宗鱗の女婿で久留米城主であり自らもキリシタンである毛利秀包は神父を自邸に招いて歓待した。次の日曜日にはミサ聖祭に与り、その際に銀二十枚を神父に贈った。パエス管区長は有馬を経て長崎に到着し、無事に五ヶ月の旅を終わった。1607年の末頃、日本在住のイエズス会員は約百四十人で内六十三人が司祭であった。 1606年と1607年の二年間に改宗した者は一万五千人に上った。肥後では加藤清正の下で相変わらず迫害が続いていた。筑前では大名がキリスト教に好意を持ち、異教徒の改宗は夥しかった。筑後の大名田中吉政もまたキリスト教に好意を示し、家来の多くが洗礼を受けた。豊前小倉の細川忠興も同じくキリスト教に自由を与え、三男の忠利を父に劣らず好意を示した。この国ではヨーロッパのカトリック教国でそうであるように教会の聖務は厳粛に実施されていた。四旬節には毎金曜日に鞭打ちの苦行を行った。山口では迫害が続いた。毛利殿は領内のキリシタンを絶滅する決心であった。すでにベルシオール熊谷元直と盲人ダミヤンとを死刑にした毛利殿はさらにジュスチノ與五郎を火刑にそしてその妻女を磔刑に処した。大阪には四箇所の癩病院があり患者は約四百人収容されていた。キリシタンの慈善事業は未信者を感心させ大いに説教の助けとなった。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(9)
Weblog / 2006-09-08 15:53:47
 1608年(慶長13年) - この年もまた薩摩、肥後、および山口の領内で迫害が起こった。薩摩の大名島津義久はキリシタンに棄教を命じ、それを拒絶した者を追放した。すべてのキリシタンに天主堂に行くこと、神父をその住居から外出させること、神父に食料その他を入れることを厳禁した。武士のレオ七右衛門は棄教を迫られ三日間の猶予を与えられたが、自分の最後の目的は永遠の生命であると言って拒否し、死刑の宣告を受けた。平佐で11月17日切腹を命じられたがそれを拒絶し首を刎ねられて殉教した。彼はドミニコ会伝道の最初の殉教者であった。遺骸はマニラに送られドミニコ会の礼拝堂の中に納められた。

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パジェスは記していないが、この年「天正遣欧少年使節」であった伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンの三人が長崎で司祭に叙階されている。他の一人千々石ミゲルは1600年より以前にイエズス会を出て信仰からも離れた。伊東マンショ神父は1612年11月13日長崎で病没、原マルティノ神父は1629年10月23日にマカオで帰天。中浦ジュリアン神父は1633年10月21日長崎で穴吊るしの刑に処せられ殉教した。日本人司祭が叙階され、天主堂が建設され、各地で数千人が受洗する一方で、領主の一存で武士や庶民が迫害され殉教するこの時代をわれわれは事実を並べられてもなかなか想像できない。信仰がこれほどに真剣さを要求されると現代のわれわれは思っているだろうか。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(10)
Weblog / 2006-09-09 16:12:05
 1609年(慶長14年) - 教会の一般の状勢は隆盛であったが、宣教師たちは窮迫に悩まされた。特にミサ聖祭用のぶどう酒の不足を感じた。キリシタンは気前がよく伝道者を養うために食事を抜いた。この年イエズス会は三人の宣教師を失った。フランシスコ・カブラル神父、オルガンチノ・ソルヂ神父、それにフランシスコ・デ・パイバ神父である。また筑前秋月の領主ミゲル黒田惣右衛門直之は病中「コンテムツムンヂ」や「ぎやどぺかどる」を絶えず読ませ、聖なる死を遂げた。肥後の加藤清正は四年来投獄していた慈悲役ミカエル三石彦右衛門とヨハネ服部甚五郎に死刑の宣告をくだした。十二歳になるミカエルの子トマスと六歳になったばかりのヨハネの子ペトロも共に死刑となり、父たちの後をついで斬首された。奉行は最初の三人の殉教者の遺骸を細かに切りきざませたが、幼いペトロの遺骸はそのままにした。キリシタンはこれら貴重な遺骸をそっくり埋葬することができた。ヨハネとミカエルの首級は四本の槍に刺されて町の東門に曝された。この年オランダ船が平戸に入港しオランダ商館が設置された。平戸の大名松浦鎮信は彼らを厚遇した。平戸に属していた生月の家老ガスパル西玄可はその夫人ウルスラおよび長男ヨハネ西又市と共にキリシタンの廉をもって死刑を宣告され殉教した。夫妻は共に五十四歳、息子のヨハネは二十五歳であった。キリシタンは彼らの遺骸を墓地に埋葬し、教会の儀式を行った。アウグスチノ会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父は平戸でキリシタンの勢力を支持していた。

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 1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号が豊後に漂着した。その船員であったスコットランド人ウィリアム・アダムスは家康から知行地をもらって三浦安針と名乗り日本に住んでオランダ・イギリスに日本貿易の道を開くことに成功した。プロテスタントのオランダ・国教会のイギリスとカトリックのスペイン・ポルトガルとは日本貿易のライバルとなり、家康はアダムスの讒言・中傷によってスペイン・ポルトガルの日本征服説を信じるようになり、その先兵とみなされたカトリック教会に対して厳しい態度を取るようになる。これはやがて1614年1月31日の(慶長18年12月22日)の禁教令と伴天連追放令へとつながって行く。こういう世界史的な流れの中でこの年平戸にオランダ商館が開かれ、1613年にはイギリス商館が開かれた。地方の諸大名もまた家康にならってキリシタン迫害に乗り出すことになるのである。キリシタン弾圧はそういう意味では宗教の問題というよりは政治・経済的要因が大いに絡んでいたと思う。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(11)
Weblog / 2006-09-10 21:30:51
 1610年(慶長15年) - 家康は年をとるにつれてキリシタン宗門に対して反感を抱くようになったが、しかし迫害を加えることも、また教会の増加を妨げることもなかった。若干の大名は公然キリシタン宗門に好意を寄せていた。とりわけ安芸および備後の領主福島正則は宣教師たちに対して保護者となることをイエズス会の管区長に約束した。また豊前と豊後一部の大名細川忠興も宣教師たちに並々ならぬ好意を示した。その子内記利忠は中津に居住し、司祭一人と修士一人いる伝道所の費用を負担した。彼は年々生母ドンナ・ガラシヤの記念ミサを立てることを忘れなかった。有馬の大名ジョアン(元プロタジオ)有馬晴信は家康がポルトガル船マードレ・デ・デオス号を積み荷もろとも没収せよと命令したので、千二百人以上の兵を積んだ多数の小舟で包囲した。船長ペッソアは最後に船の火薬に火をつけて爆沈させた。このときスペイン人でアウグスティノ会のヨハネ・デ・アモリノ神父が惨殺された。百万エクスの価値ある積み荷はほとんど全部波に呑まれた。イエズス会は二カ年分の補助金を失った。セミナリヨは解散し、大勢の生徒を家に帰さなければならなかった。有馬晴信と嫡男ミカエル直純は家康に報告のため伺候し家康の寵を得た。その後家康の曾孫の国姫を直純に娶すという申し入れを受け入れて小西行長の姪マルタと結婚していた直純がマルタと離婚し国姫と再婚した。これはカトリック教会が厳に禁じている行為であった。

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 背教とは「キリスト教信仰の全体的な拒否」(1983教会法#751)であるが、このような形式的および公的な信仰の拒否を指すばかりでなく、もっと広い意味では信仰を見捨てることをも指す。後者の広い意味では「神の掟に対して精神において叛逆することによって神を捨てる」人もまた背教者である。つまり神の掟、天主の十戒に反して大罪を犯した者はその時点で背教しているのであり、告解の秘蹟によって罪を許されないで死ぬならば永遠の生命に達することは不可能である。洗礼を受けてキリスト者となれば救いが自動的にずっと保証されているわけではない。パウロがヘブレオ書(11:6)において「信仰なくしては神のみ心にかなうことあたわず」と言っているのはこの広い意味における背教のことを指しているのである。主よ、われらに信仰を保たしめ給え!

パジェス「日本切支丹宗門史」から(12)
Weblog / 2006-09-11 15:50:31
 1611年(慶長16年) - 有馬の大名ドン・ヨハネ有馬晴信はパウロ岡本大八というキリシタンと関係を結んだ。晴信が大八にたくさんの贈り物をし、大八は晴信に空々しい約束をした。贈収賄事件であった。翌年この件は決着をつけられる。三月肥後の加藤清正が亡くなりキリシタンは平和を得た。日本ではこの年五千人の新しい受洗者があった。イエズス会の創立者イグナチオ・ロヨラが列福され、またイエズス会総長によって日本および支那の教区が設置され、バレンチノ・カルバリオ神父が管区長兼巡察師に任命された。日本には百二十七人のイエズス会員がいて、司祭は六十四人、修士六十三人であった。アントニオ・コルデイロ神父、ペドロ・ライモンド神父、ペトロ・ロドリゲス神父、グレゴリオ・デ・セスペデス神父が亡くなった。デ・セスペデス神父の死によって豊前の大名越中殿細川忠興を立ち返らせようとい希望は潰れた。忠興は天主堂の破毀を命じ、新たな司祭を中津に追放した。長崎のコレジヨには四十二人のイエズス会員がおり、中二十人が司祭であった。長崎の町には他国から来た者で洗礼を受けた者が千百人あった。イエズス会の修道者たちは長崎に至聖の聖体の会を作り、信徒はこの厳粛な秘蹟に対して最も大きな愛を持っていた。教会の数は十一あった。聖ミカエルの会が設立された。八月ドミニコ会のアロンソ・デ・ナパレテ神父とドミンゴ・デ・バルデラマ神父が日本に到着した。アウグスチノ会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父は豊後の臼杵の修道院長に任命された。

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 この年もまた有馬晴信が話題になっている。今度は岡本大八というキリシタンとの汚い関係で出てくる。彼らはキリシタンであるけれども、キリシタンとしてではなく、いわば犯罪者として処罰されることになる。罪の値は死である。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(13)
Weblog / 2006-09-12 15:37:33
1612年(慶長17年) - ドン・ヨハネ有馬晴信とパウロ岡本大八の贈収賄事件によって晴信は領地を没収され夫人ジュスタと共に甲斐に追放され、大八は火あぶりの刑になった。家康は晴信の嫡男ドン・ミカエル直純に晴信の領地を受け継がせた。晴信は厳重に監視されていたが、救主の御受難に関する書物や修養書類に読み耽っていた。自分の罪を思い起こし、息子ミカエルが迫害者とならぬように祈っていた。しかし後に領地を回復したいとの淡い望みをもって交渉したことが嫡子ミカエルをして家康に訴えさせることになり家康は晴信に切腹を命令した。晴信は自殺はキリシタンにとっては禁止された事柄であるとして家来に命じて自らを斬首させた。家康はこの機会に家臣の中のキリシタンたちの全財産を没収し、妻子たちを追放した。この贈収賄事件が迫害の第一の原因であった。

 家康は知行を与えていないキリシタン、すなわち庶民を放任していたが、武家や自分に仕える者たちに対しては厳しく棄教を迫った。六千石の禄を食んでいた二十四歳のディエゴ小笠原權之丞は財産没収と追放を宣告され夫人と二歳になる女の子を連れ亡命した。家康の小姓であったヨハキム梶十郎兵衛と弟のバルトロメオ梶市之助も受洗が最近のことで名簿に載っていなかったのを名乗り出て信仰を告白し、喜んで没収と追放の宣告を受けた。追放された十四人の侍の大部分はその信仰において勇敢であったが、家康の寵臣の一人榊原加兵衛は洗礼を受けていたのに追放の宣告を受けて信仰を棄てたため、家康から物質的利益のために信仰を棄てたことを軽蔑され、破廉恥漢、賤民として待遇され、隠れ家も収入もなく、面目もなくなって人前に出られなくなった。家康や幕府の人に人望があった朝鮮人ジュリヤ[おたあ]は棄教の説伏に応じず、伊豆大島に流された。一ヶ月後に新島に移され、そこからさらに遠い神津島に移された。彼女はそこで心静かに「サントスの御作業」や殉教者伝などを読んで過ごした。「追放者達は、皆天主の特別のお計らひによって、何處ででも眞理の傳達者となった。」(p.296)

 迫害の第二の原因はアダムスおよびオランダ人のイスパニア人に対する中傷であった。イスパニア人による日本近海の測量の許可は前年与えられていたが、アダムスは家康に測量はイスパニア王による征服の意図であると思いこませた。家康はアダムスの暗示によって、上方(カミ)の地方(近畿地方)の天主堂を悉く破毀せよ命令した。既に将軍職を嗣いでいた秀忠も同じ禁令を出していた。諸侯も大方主権者に倣ってキリシタンの武士を追放しその財産を没収した。当時日本全土でイエズス会は八十六箇所の天主堂またはレジデンシヤを失った。それでも日本の教会ではこの年なお四千五百人の成人の受洗者がいた。イエズス会会員祭は百二十二人、うち六十二人が司祭、司祭の中の六人は日本人であった。修道士は十二人がヨーロッパ人、他は日本人であった。この年二人の日本人イエズス会員が亡くなった。平戸のガルパル西修道士と日向のマンショ伊東神父である。その他フランシスコ会員十四人、ドミニコ会員九人、アウグスチノ会員四人、そして七人の在俗(教区)司祭がいた。長崎の町は人口四万六千人でみなキリシタンであった。この年他の地区から来た日本人の中に千三百五十人がイエズス会の修道者によって、五百五十人が他の修道会員から洗礼を受けた。有馬ではミカエル直純が家康の棄教命令に従い浄土宗に改宗し、キリシタン宗の根絶を計った。彼は三人の背教者を吟味役に選び人々に棄教を迫らせた。ある者は転んだが大部分の者は依然として信仰を守り喜んで没収や追放に応じた。直純は指導的なキリシタンを処刑して家康に忠誠を示そうとした。ミカエル伊東(五十歳)とマチヤス・コイチ(三十歳)が斬首された。遺体は長崎に運ばれた。彼らを処刑することによってキリシタンを恐れさすことを望んでいた直純や奉行の長谷川佐兵衛はキリシタンたちに逆に勇気を与えることになった。直純はなお奉行佐兵衛の命令に従うために有馬の武士レオ北喜左衛門を血祭りに上げることにした。奉行は出し抜けに宣告を実行せよとの命令を受け、これを実行するためにレオの友人二人を指名した。彼らは狭い通りをレオに先に歩かせ後ろから袈裟懸けに斬った。レオは「イエズス!イエズス!」と叫び、右手で剣を抜いて遠くに投げ、なお右手で十字を切ろうとしてこときれた。享年五十歳であった。彼の遺骸も長崎へ移された。有馬直純の離婚された妻マルタは再婚を勧められたが拒絶し、長崎の山間に追放され、藁葺きの小屋に監禁された。肥後では加藤清正の息子廣忠が後を嗣ぎキリシタンの迫害を続行した。多くのキリシタンが熊本、宇土、川尻、小川などの地で飢餓や財産没収や追放の運命にさらされた。博多、甘木、柳河ではキリシタンは大目に見られ、この年柳河で二百人が受洗した。また豊後の野津と志賀では五百人の受洗者があった。安芸と備後の領主福島正則は修道者たちの味方であった。大阪では十年前に博多で洗礼を受けたレオ嘉右衛門が主君に棄教を迫られたがきかなかったので三十五歳で斬られ殉教した。江戸のフランシスコ会の天主堂は家康の許可で建てられたのであるが、この年破壊された。ドミニコ会の修道者たちは肥前を追われた。アウグスチノ会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父は長崎に会の修道院と天主堂を建てた。その管轄下には四千戸に一万人余のキリシタンがいた。

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 片岡弥吉氏の『日本キリシタン殉教史』によれば、有馬直純は晴信の先妻ルチアとの間に生まれたが、晴信の後妻であるジュスタの子フランシスコ富蘭(七歳)とマテオ於松(五歳)、つまり直純の異母弟を幽閉し、数日後寝ているところを殺させた。これは1613年4月25日のことであったという。人それぞれであるとしか言いようがない。父に対し妻に対し異母弟に対する何という振る舞いであろうか。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(14)
Weblog / 2006-09-13 22:05:06
 1613年(慶長18年) - 日本の全般的な状況を見ると以下のとおりである。家康の教会に対する憎悪は年々高まっていたが、彼はマカオやフィリピンとの通商を継続したいために教会に対する憎悪を抑えていた。それでなお彼はポルトガル人やイスパニヤ人を優遇し、若干の宣教師を黙許していた。その結果京都、大阪、伏見、堺では修道者たちは無事に伝道を続けた。イエズス会の修道者たちはこれらの都市に住み、またフランシスコ会の修道者たちは大阪と伏見に住んでいた。イエズス会の神父たちは長崎だけでなく、安芸の広島、肥前、肥後に属する志岐、神津浦の島々で自由に伝道していた。ドミニコ会の修道者たちは肥前で活動していた。アウグスチノ会の神父たちは臼杵で活動し四万人の住民はほとんど全部がキリシタンであった。安芸と備後の大名福島正則は常に好意ある態度を示し、安芸在留のイエズス会の神父に多大の喜捨をした。広島に癩病院が建てられた。日本の他の諸国では迫害が多くなった。

 最も残酷な迫害は有馬領において行われた。領主ミカエル有馬直純は聖堂を壊し、宣教師たちを追放した。しかし宣教師たちは有家と金山に住み、有馬にも命を賭して伝道に来た。直純は佐兵衛の助言で迫害を追放から始めて処刑で終わらせた。しかし片っ端から刑場送りにしていると領内の人口が減るので領主はこの命令を取り消さなければならなかった。それでも領主はトマス平兵衛と弟マチヤス、兄弟の母であるマルタ、それにトマスの子どもジュストとヤコボの首を順番に刎ねさせた。この処刑は一月二十八日であった。トマスは四十一歳、マチヤスは二十八歳、マルタは六十一歳、ジュストは十一歳、ヤコボは九歳であった。殉教の会の会長ガスパル弥太夫は彼らの遺骸を引き取って伝道所に運ばせた。

 八月江戸で迫害が始まった。フランシスコ会のルイス・ソテロ神父ら二十七人が逮捕され、火炙りの宣告を受けた。伊達政宗はソテロ神父の宣告の取り消しを取り計らい彼を仙台に連れ帰り、支倉六右衛門常長と共に大使として教皇とイスパニヤ王の許に送ったので、ソテロ神父の殉教は1624年まで延ばされることになる。日本人は全部次々と殉教した。八月十六日に八人のキリシタンが首を刎ねられ、首級は七日間曝された。翌八月十七日浅草で十四人が棄教から立ち返ったという理由で斬首された。有馬直純はキリシタンの頭分を火炙りにする決心をし、重臣八人を呼び出し、表面的にでも信仰を否認せよと迫った。五人は折れて阿弥陀を祈願したが、三人は耐えて死ぬ覚悟をした。アドリヤン高橋主水とその妻ヨハンナ、レオ林田助右衛門とその妻マルタおよび二人の子、マグダレナ(十八歳)とヤコボ(十歳)、レオ武富勘右衛門とその子パウロ(二十七歳)の三家族八人である。彼らは聖母の会という信心会の会頭から贈られた晴れ着を着て腕を十文字に縛られて刑場へ向かった。片手に灯のついた蝋燭、片手にロザリオをもって、先頭が聖母の連祷を歌った。レオ勘右衛門は「われわれは天主様のために、また信仰の証しのために死んで行くのです。わが兄弟たちよ、皆様方も信仰をお守りくだされ」と言った。キリシタンは皆「クレド」と「パーテル・ノステル」「アベ・マリヤ」とを歌った。火が点ぜられた。十歳のヤコボの縄目が最初に切れ、子どもは母の方に向かって行ったとき、母は「ごらんよ、天を」と言った。ヤコボは母にすりよったかと思うと息絶えた。キリシタンたちは遺骸を持ち去ることができ、長崎へ送った。有馬直純はなおもう一人、かつて肥後に住んでいたトマス川上に死刑を宣告した。捕手たちは彼の寝込みを襲い、右手を切り落とし、半殺しにしたまま引き揚げ、再び戻って来てとどめを刺した。

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 十一歳のジュストと九歳のヤコボが一緒に殉教できないで悲しんでいる母ジュスタに「母さま、私たちはただお前様より先に行くだけです。お前様も追っつけおいでなさる。私たちは、父様と一緒に天で待っています」と言うと、母が「死ぬ時には嬉しそうにしているのだよ、さすが父の子だけあるという所を見せてやれよ」と励ます場面は感動的である。二人の子どもは喜びに溢れ、唇に微笑を湛えて出かけ、首を刎ねられるとき、イエズス・マリヤの御名を三回を唱えた。彼らが喜びに溢れて証ししたものをエキュメニズムという宗教無差別論によって無意味なものとしてはならないのではないか?

パジェス「日本切支丹宗門史」から(15)
Weblog / 2006-09-14 16:37:42
 1614年(慶長19年) - 仏僧たちはキリシタン宗の殲滅を延ばしたら国家の神々の天罰を受けるぞと家康を脅した。彼らは二人の泥棒の間に挟まって磔になった悪人イエズス・キリストの礼拝者は誰も恐れねばならぬ、キリシタンは掟によって罰せられた者を礼拝する輩であると言った。また家康の寵臣長谷川佐兵衛たちはキリシタンたちはヨーロッパの宗教に改宗し、その財産、名誉、生命さえも異国の主のために犠牲にする、国家の制度に対して敬念がないと、キリシタンを殲滅すべき理由を家康に暗示した。またポルトガル人、イスパニヤ人たちがその君主の名において約束した通商上の利益は約束よりも少なく、他方でオランダ人やイギリス人たちがそれ以来もっと大きな利益を提供するであろうと言った。さらにイギリス人とオランダ人はウィリアム・アダムスを介して家康に、異国の宣教師は大勢の人に洗礼を施した後自国の軍旗を掲げ帝国を乗っ取ろうとする征服者の先鋒であり、イスパニヤ大使ビスカイノが沿岸を測量したのは敵対の準備行動である、と言わせた。イスパニヤが宗教を通じてフィリピン諸島、モルッカ諸島などを侵略征服してきたこと、そしてカトリック宣教師は西洋諸国の若干の国で禁止されていることも付け加えた。これらの不実な忠告と中傷の上に、京都にいたフランシスコ会の修道者たちの並はずれて荘重な儀式の執行、熱心な活動が家康の疑惑を深めた。

 一月二十七日キリシタン禁令が京都で発せられた。諸侯はその領内にいる修道者たちを長崎に送り、天主堂を破却し、キリシタンを棄教せしめよという内容である。長谷川佐兵衛は宣教師たちを国内から根絶し棄教をしないキリシタンを死罪に処することによって宗門を絶滅するつもりであった。京都のキリシタンは名簿に登録された。登録は三十日間続き、四千人が登録されたが、所司代は家康の機嫌をそこなうまいと千六百人しか留めておかなかった。実際は京都には七千人のキリシタンがいた。二月十一日京都のイエズス会の神父たちは七日以内に長崎に向けて出発し長崎から本国に向けて帰国せよと命令された。伏見、大阪にも同じ命令がくだった。京都のイエズス会の司祭八人、修士七人、伏見のフランシスコ会の人たち、大阪でイエズス会およびフランシスコ会の信徒の一団など船は全部で七隻。彼らは三月十一日長崎に到着した。長崎には諸侯が追放した他の宣教師たちが諸方から集まった。追放された大名ジュスト南坊こと高山右近も来た。宣教師たちと追放人たちは船の準備が整わなかったので家康の決断で出発は十月まで延期された。セルケイラ司教が重病にかかり亡くなった。宣教師たちの乗船の後天主堂はすべて破却された。若干の宣教師が潜伏した。

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 仏僧たちとは「排吉利支丹文」を書いた京都南禅寺金地院の僧で幕府に用いられて僧録司となり、外交文書を司った崇伝をはじめとする承兌、元估らであり、彼らは家康の独裁強権政治における側近としてキリシタン禁制に大きな影響力を行使した。「排吉利支丹文」では崇伝は日本は神国、仏国、仁義の国であるのに、キリシタン宗門は神仏信仰と人倫を破壊する邪教であると断じている。キリシタン禁制による思想統制、南蛮貿易の抑制による経済統制によって徳川幕府の鎖国政策が根拠づけられ貫徹されることになる。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(16)
Weblog / 2006-09-15 16:33:21
 1614年(慶長19年)続き - 京都の所司代板倉勝重は家康の命令に従い相模守大久保忠麟に命じて天主堂を破却し、キリシタンに対して棄教し各自勝手な宗旨を選択させることにした。若干のキリシタンは信仰が弱って信者名簿からその名を消したが、大部分の者は確固たる信仰をもって甘んじて追放を受けた。ジュリア内藤(ジョアン内藤飛騨守忠俊の妹)他十四人の誓願を立てた婦人たち(日本最初の女子修道会)は辱めを受けた後長崎に連れて行かれ、国外追放されることになった。大阪では三百人のキリシタンが集められ、その中五十八人が俵につめ込まれて引きまわされ恥辱を与えられた。京都から四十七人、大阪から二十四人のキリシタンが津軽に流され、百姓の荒仕事に就かせられた。彼らは喜んでこれを承認した。伏見のキリシタンの支柱であったマルコ孫兵衛は妻のマリナと娘と共に長崎に追放された。安芸と備後の領主福島正則は宣教師たちに好意を寄せていた。この年後半百六十人の成人が洗礼を受けた。二月正則は江戸から神父たちに長崎へ行くよう命じる書を送り、家康には命令を実行したと報告した。役人たちは若干のキリシタンを投獄し、他を俵につめて曝した。数日後正則は迫害を中止させた。豊前および豊後一部の領主細川忠興も江戸から家老に書を送り、家康の命令を実行するよう命じた。城下の小倉では多くのキリシタンが転んだ。しかし武将のディエゴ加賀山隼人は夫人アガタと共に抵抗した。筑前では帳簿を示され署名を命じられたが、トマス渡辺庄左衛門と聖イグナチオの聖なる信心の会の会頭ヨアキム進藤はこれに反抗し投獄され、市外の松林で逆さに吊され三日三晩放置された後、縄を外されて首を刎ねられた。首級は曝され、遺骸は埋められた。数日後首はキリシタンに引き取られて長崎に送られた。筑前秋月ではマチヤス七郎兵衛が信仰の故に斬首された。遺骸は長崎の諸聖人の駐在所に移された。筑後にも迫害はあったが、殉教者は出なかった。イエズス会の管区長は筑前、筑後のキリシタンを激励するために神父一人と修道士一人を送った。未信者が四十人受洗した。豊後では高田、野津および志賀の三箇所に伝道所があった。宣教師たちが長崎へ出発した後迫害が始まり、七人の信者のうち一人が殉教し他の六人は長崎に追放された。直入の三人のキリシタンも二人が火炙り、一人が斬首によって殉教した。長崎奉行長谷川佐兵衛は有馬直純の領地有馬の譲渡を迫り、直純は日向に追われ二十六代続いた有馬の領有は終わった。志岐でアダム荒川という善良なキリシタンが斬首された。遺骸は網に入れて大きな石を結びつけられ海中に投棄された。長崎では奉行佐兵衛がコスモ峯とルイス峯の兄弟を斬首させ首と胴体を一緒にして大きな石を結びつけ海中に投げこませた。長崎代官村山東安の子アンデレア徳安はキリシタンの中でも熱心であった。キリシタンはフランシスコ会、ドミニコ会およびアウグスチノ会の指導により、信仰を固めるために団結した。それぞれの会の人々は行列を行い、代官アントニオ村山東安も妻子とともに行列に加わった。例えばイエズス会の行列はトードス・オス・サントス(諸聖人)の会の会員たちからなり、全市を巡回し、天主堂を全部訪問した。十一月七日あるいは八日三隻の船に追放される人々を乗せ出帆した。マニラに渡った修道者たちはイエズス会員二十三人(司祭八人、修士十五人)、ドミニコ会司祭二人、フランシスコ会司祭四人、教区司祭二人であり、マカオに渡ったのはイエズス会司祭三十三人、修士二十九人であった。日本に残った者、イエズス会司祭十八人、九人の修士、ドミニコ会司祭七人、フランシスコ会司祭七人、アウグスチノ会司祭一人、教区司祭五人である。長崎の天主堂は佐兵衛の指揮のもとすべてが破壊された。十一月十五日すべての破壊が完了した。佐兵衛はキリシタンを懲罰するために有馬で三十四人を捕らえ両足を板の間に挟んで締めつけ、上から踏みつける拷問を行わせた。十一月二十二日最も信仰の堅い者十七人を選んで斬首した。有家ではアドリヤン城戸半右衛門がまず右手の指を一本、次いで左手の指を二本、二度鋸で引かれ、さらに鼻を殺がれ着物を全部剥がれてひどい寒さの中を曝された。十一月二十三日アドリヤンは六十一歳で首を刎ねられ殉教した。まだまだ拷問と殉教が行われたが、このあたりで止めよう(パジェス「日本切支丹宗門史」第十六章一六一四年を参照のこと)。奥州伊達政宗によって支倉常長と共に遣わされたソテロ神父はこの年十二月二十日マドリッドに到着した。

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 家康の権力が確立し諸大名に対する統制が厳しくなって行くにつれて、キリシタンに対する処置も一元化してくる。なるべく殉教者を出さないで棄教させる方針もうまく行かず迫害や殉教が激化して行くことがこの年の出来事からも見てとれる。大名、武家に限定されていた禁教が庶民にも及ぼされて来たことは体制の維持のためにキリシタン宗門の持っている絶対神信仰が危険視されたのであろう。
仏僧たちが主張した外国の宗教であるという非難は仏教にだって当てはまるではないか?

パジェス「日本切支丹宗門史」から(17)
Weblog / 2006-09-17 16:16:08
 1615 - 1616年(元和元年 - 2年) - マニラで一月二十日イエズス会修士で画家の日本人マンシオ・タイチコが、一月二十四日同じく日本人修士マチヤス三箇が死んだ。そして二月三日高山右近が息を引き取った。二月二十八日日本人修士アンデレア斉藤、三月十二日ポルトガル人アントニオ・アルバレス神父が死んだ。享年六十三歳、イエズス会にあること三十八年、日本で十五年伝道した。三月二十日長崎でイエズス会のマンシオ平林が死んだ。享年四十四歳、イエズス会で二十年働いた。大阪夏の陣で豊臣秀頼が敗北し豊臣氏は滅亡。秀頼の側に多くのキリシタン武将がいた。ヨハネ明石掃部はその一人であった。アウグスチノ会のエルナンド・サン・ヨゼフ神父、フランシスコ会のペドロ・バプチスタ神父、アポリナリオ・フランコ神父は大阪の火災の中を通って退去した。バルタザール・デ・トルレス神父やヨハネ・バプチスタ・ポルロ神父も火災の中を脱出した。家康は慶長の年号を改めて元和に変えた。1616年7月家康が亡くなった。家康が死ぬまでの戦争の間教会は静穏であった。諸侯は両軍のいずれかに属して常に戦場にあった。彼らはキリシタンに対して眼を閉じていた。イエズス会員二十九人、ドミニコ会員六人、フランシスコ会員六人、アウグスチノ会員一人が日本に留まっていた。彼らの多くは長崎とその付近に住んでいた。。北国地方と大阪にも若干の宣教師たちがいた。彼らは各地で司牧と伝道に励んだ。しかし一方で殉教者も出た。口の津ではルイス久住とミカエル石田が拷問の後殉教した。肥後ではパウロ八十太夫が殉教した。伏見でやはりパウロという一人の武士がもう一人のキリシタンと共に斬首された。豊前でロマン八十右衛門が殉教し、玖珠では九人のキリシタンが野獣の餌食に供せられて殉教した。駿河では原主水他六人の名門出のキリシタンが熱鉄で額に十字架を烙印され、指先を切られ、腿の筋を切られる拷問を受けた。伊達政宗の使わした支倉常長とソテロ神父は1615年1月30日フィリップ三世から拝謁を受けた。2月17日支倉は洗礼を受けた。八ヶ月マドリッドに留まり、それからローマに出発した。11月3日に教皇の親謁が行われた。

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 家康が亡くなり、秀忠が実権を握った。彼は「性もと非道残忍で、常にキリシタンの敵を標榜していた。」キリシタンたちはますます厳しい迫害に遭遇し、日本の教会は殉教者の血にまみれるであろう。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(18)
Weblog / 2006-09-18 22:19:01
 1616年(元和2年) - 将軍となった秀忠は江戸に住みここが帝国の首都となった。9月彼は禁令を発し1614年の禁令を復活した。日本人は宣教師などと関係を持つこと、彼らに宿を貸すことを厳禁され、これを犯した者は財産を没収されて火炙りの刑を科されることになった。この刑罰は妻子およびその家の近所両隣五軒に及ぶとされた。諸侯はキリシタンを召し抱えること、キリシタンを領内に置くことを禁ぜられた。江戸や京都で猛烈な迫害が始まり、諸侯も幕府の命令に従った。長崎は全町キリシタンであったが、司祭を留め、天主堂を置き、公然と礼拝することが厳禁された。貿易を断たないためにポルトガル人に対しては自由を残したがそれでも始終脅かされることが多かった。このような状況の中でイエズス会三十三人、ドミニコ会七人、その他の修道会九人の司祭それに教区司祭七人が留まって活動していた。

信者に殉教の栄誉を与えずに人間らしさを無くすような刑罰として、時間がかかって苦しく、彼らを不具、廃人にするような刑、例えば、鼻や手足の指をばらばらに切ったり、脚の腱を切断したり、額に熱い鉄で十字架の烙印を押すといった刑が考え出された。財産を没収した上に廃人のようにして彼らを路頭に迷わすやり方、人間の品位を貶めるやり方である。しかしキリシタンは面目を失わず、苦しみに耐えて天主に一身を捧げた。しかし殉教は起こった。十月筑後で貧しい百姓マルチノが信仰ゆえに斬首。肥前ではロザリオ会の会頭太郎助が死刑となった。十一月二十六日に備前の平島で若い武士ドミニコ勘蔵が磔刑になり、津軽では六人のキリシタンが火炙りになった。周防荻で四人のキリシタンがやはり火炙りになった。

 八月メキシコから帰った伊達政宗の船は浦賀に着いた。支倉常長がその中にいたがソテロ神父は一緒ではなかった。

 十二月明石掃部の息子内記を捜索するために長崎に二人の役人が遣わされたが彼らは内記殿を見つけることできなかった。町中を捜索した結果イエズス会の神父がいることを知り、この神父の代わりに修士レオナルド木村を捕らえ、拷問にかけた。役人たちは夥しい宣教師が長崎に踏みとどまりあるいは帰ってきていることを老中に報告した。これがいっそう厳重な迫害の端緒となった。

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 迫害をする者は迫害を受ける者に自然的なレベルでは害を与えるが、しかし超自然的なレベルでは益を与えることになる。迫害を受ける者が迫害をする者を赦し祝福し感謝することによって迫害を受ける者は神から祝福を受けるからである。受ける迫害が死に至るものであるならば、迫害を受ける者は殉教の栄冠を勝ち取る。国禁を犯した者が死刑になるのは当然という議論があるが、その国禁の内容が問題であると思う。天主の十戒に反する罪は場合によって死刑を課されるであろう。しかしキリシタン禁制はその禁制そのものが天主の十戒に反するものである。為政者の都合で天主の十戒の第一の掟を禁止することはできない。天主の十戒の第一の掟を守る者が国禁を犯す者とされる国は悪しき国である。これは人権の問題ではなくて神権の問題である。人権を楯にして信教の自由を唱えたり信教を抑圧することは神権と人権との混同であると思う。人権は神権を認めた上でしか成り立たない。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(19)
Weblog / 2006-09-19 20:35:00
 1617年(元和3年) - 将軍秀忠は亡くなった家康のために日光に壮麗な殿堂を建て墓所とし家康に「日の本大権現」の称号を奉った。新年に諸大名が将軍に謁見した折り、秀忠は長崎に多数の宣教師が潜伏しているという密告を受け、大村の大名ドン・バルトロメオ大村純頼を厳しく責めた。純頼は大勢に屈服して教会の迫害者となった。

当時、日本にはなお三十四人のイエズス会員、五人のフランシスコ会員、五六人のドミニコ会員、一人のアウグスチノ会員、五人の日本人教区司祭がいた。その大部分が長崎に隠れていた。五島ではマチャード神父、大村ではセバスチヤン・ビエイラ神父とディエゴ・カルバリオ神父、有馬と肥後にはフランシスコ・パシェコ神父、ヨハネ・バプチスタ・ゾラ神父、ヨハネ・ダ・フォンセカ神父、中浦ジュリアン神父、豊後ではペトロ・パウロ・ナバロ神父、フランシスコ・ブルドリノ神父、中部諸州ではヨハネ・バプチスタ・ポルロ神父、石田アントニオ神父、上方ではバルタザール・トルレス神父、ベント・フェルナンデス神父、クリストファー・フェレイラ神父、結城ディエゴ神父が活躍していた。

 大村で布教していたフランシスコ会のペトロ・デ・ラスンプション神父が四月八日肥前諫早領喜々津で捕らわれた。背教者の奉行が神の赦しを請うやに見せかけて逮捕したのであった。神父は捕らわれるや、跪いて神の恩寵を感謝した。大村に送られ、既に捕らわれていたイエズス会のヨハネ・バプチスタ・マチャード神父と一緒にされた。大村殿が減刑を期待して幕府に報告し指令を仰いだところ、期待に反して死刑の宣告が五月二十一日に届いた。二人の神父は聖霊降臨祭より処刑の日である聖三位一体の祝日まで毎日ミサ聖祭を捧げることができた。ペトロ神父は一撃で首を刎ねられたが、マチャード神父は三撃を要した。二人の殉教者は別々の棺に納められ、一つの穴の中に僅かの間隔をおいて埋葬された。夜間しばしば二個の星が墓の上に現れたそうである。キリシタンたちはこの殉教によって新しい力を得、改宗者や背教者の立返る者も多かった。この殉教から五日目にドミニコ会代理管区長のアロンソ・ナパレテ神父とアウグスチノ会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が公然とイスパニヤの服で出かけ、デ・ラスンプション神父およびマチャード神父の神父の墓に詣でた。その後公然と説教を行い、告解を聴き、多数の未信者をキリシタンにし、背教者たちを立返らせた。彼らは日曜日に野外に祭壇を設けミサを捧げ、エルナンド神父は熱烈な説教をした。大村殿は二人に死刑を宣告した。マチャード神父の宿主であり、伝道士であるレオ田中も同行した。大村付近の高島で彼ら三人は首を刎ねられ殉教した。六月一日木曜日のことであった。大村殿の不在中彼に代わってペトロ・デ・ラスンプション神父の殉教を指図したリノ朝永次郎兵衛がその殉教者の祈りによって改宗し、単に立返っただけでなく熱心に未信者を改宗させ、背教者を立返らせた。領主大村喜前は仏僧たちの告訴を聴き、リノに真実を確かめたところリノがそれを認めたので喜前は彼に死刑を命じ、リノはイエズスとマリアの御名を唱えながら、役人の一人に斬殺された。十二月二十五日、仏僧たちの告発によってヨハネ三右衛門が大村における本年最後の殉教者として刀の三撃で殺されたが、大村喜前は彼の面目を潰し、キリシタンたちの目に、彼が殉教の光栄を得たと見えさせないために、キリシタンとしてではなく、借金が返せない債務者として罰せられたと公表した。

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 歴史は繰り返す:最後に挙げたヨハネ三右衛門の殉教と為政者である大村喜前の処刑の理由の公表を読むと、共産主義中国でのカトリック信者の迫害を思い起こす。この国には信教の自由があって宗教的迫害はないことになっており、カトリック信者がもし刑罰を受けているならば、それは法律違反による正当な刑罰以外ではないということらしい。人間は場所と時代が変わっても同じようなことを考えるものである。迫害が存在すると見えさせないためには、法律違反による正当な刑罰であると言わざるを得ないのである。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(20)
Weblog / 2006-09-20 16:27:04
 1617年(元和3年) - 続き この年長崎にはイエズス会のスピノラ神父がおり、フランシスコ会のフランシスコ・ガルベス神父とリカルド・デ・サンタ・アンナ神父が追放先から戻った。上方では、バルタザール・デ・トルレス神父、ベネディクチノ・フェルナンデス神父、クリストファー・フェレイラ神父、ヤコボ小市神父が伝道に当たり、丹波、摂津、四国をも歴訪した。讃岐では七月十六日アントニオ石原孫右衛門という熱心なキリシタンが城下町高松で殺され、翌日四歳の息子フランシスコが同じく殉教した。筑前と筑後ではフランシスコ・エウゼニオ神父の訪問があった。筑前の領主黒田長政はその縁者の一人を逮捕し、両肩の間にどろどろに溶かした鉛を注ぎこませた。三月十九日には博多で武人ヨハネ明石次郎兵衛が棄教を迫られたがその堅い信仰のゆえに首を刎ねられて殉教した。彼の遺物は長崎に送られた。フランシスコ・エウゼニオ神父は武家のヨハネ治辺五左衛門を訪問したが、五左衛門は妻のルフィナと共に逮捕され殉教の運命を共にする幸いを得た。五左衛門の母マリヤは彼の殉教を果たさせるために、ロザリオを千たび唱える誓いを立てた。筑後では熱烈なキリシタンのパウロ酒井太郎兵衛がヨハネ明石掃部を宿した廉で江戸に召喚されその理由を述べて柳河に帰った。着いて直ぐに奉行の石崎若狭殿が棄教せよと命じたが彼はこれを拒絶して投獄され財産を没収された。投獄中の食糧は少量の米と一杯の水であった。彼の殉教に先立って彼の霊的な子どもペトロとパウロという二人の若者が十一月二十五日に仏僧たちによって半身穴に埋められ石の雨を浴びせられて落命、殉教した。津軽ではディエゴ結城神父が途中の警戒を押し切って流人を慰問することができた。彼は難教者たちを教会の秘蹟に与らせた。結城神父は津軽にキリシタンの五団体があるのを知った。流人たちは人々を改宗させていた。かつて京都のイエズス会セミナリヨの生徒であった医者のマチヤスと妻アンナ、レオ・ドーティとマリヤ夫婦、レオ・ジョースシ、武士ミカエル二兵衛らは津軽の領主によって火炙りの刑を宣告され、八月四日聖ドミニコの祝日に殉教した。出羽の領主佐竹義宣は殉教者を出すことを望まず二十人のキリシタンを追放した。江戸ではディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父と共に、牢内にあったキリシタン四人が、まちまちに召し捕られてから四年後に殉教した。二月四日日本人ルイスが斬首され、三月八日ディエゴ神父の伝道士であった説教師トマスが剣を試すために二つに斬られ、三月十日フランシスコ会のヴィンセンシオが斬首、そしてフランシスコ会のロレンシオが牢内で癩病で死んだ。

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 1614年および1616年の禁教令が全国的に実施されていく中で殉教者の数が増えて行く。このような状況の中で異教からの改宗者がぞくぞくと出るということは宣教師が公然と活動できない中でキリシタン信徒の信仰と行動が異教徒たちに改宗をさせるだけの力を持っていたということを示している。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(21)
Weblog / 2006-09-21 15:25:01
 1618年(元和4年) - 豊前の大名細川忠興はキリシタンに対して長い間好意を示してきたが、政治的利害と傲慢からキリスト教とその宣教師の敵と変わった。この年六ヶ国に三十七人の殉教者が出た。毛利秀就は城下の荻でイエズス会の伝道士ビンセンシオ遠甫、神父たちの宿主パウロ木村、大友宗麟の旧臣で伝道士となったもう一人のビンセンシオを火炙りにし、秀就の二人のキリシタンの家臣を自宅で斬首した。筑後柳河ではパウロ太郎兵衛が首を刎ねられた。豊後ではペトロ太郎作が三月六日に斬首された。長崎では代官長谷川佐兵衛が死に、アントニオ村山東安に代わったが東安は元和二年に処刑されその後を平蔵が代官となった。駿河に滞在中の大村純頼はルイス北野の斬首を命じた。長崎には多くの宣教師が潜伏していたが、その上ドミニコ会のアンゼロ・オルスッシ神父、ヨハネ・デ・サン・ドミニコ神父、アウグスチノ会のバルトロメオ・グチエレス神父、ペトロ・デ・ズニガ神父、フランシスコ会のディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父、アントニオ・デ・サン・ボナベンツーラ神父、マルチノ・デ・ピネダ修士たちが八月十二日に新たに到着した。フランシスコ会のディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父は到着するとすぐにフランシスコ・ガルベス神父にソテロ神父からの書簡と贈り物を持たせて伊達政宗のところに遣わしソテロ神父がマニラに到着した旨を知らさせた。政宗は神父を優遇し城下で説教することを許した。京都では三年前から獄中にいたヨハネ・デ・サンタ・マルタ神父に死刑の宣告が下され、八月十六日に執行された。遺骸は寸断され犬や猛禽の餌食として与えられ、首級は罪状の貼札をつけて杭の上にさらされた。長崎代官の平蔵と権六は修道者を匿うこと、信心の会の会合をもつこと、1614年に破壊された天主堂跡に行って祈ること、聖画や聖像を所有することを禁止した。キリシタンたちは用心していたが裏切者が方々の住居を告発し潜伏していた司祭たちと宿主たちが逮捕された。十二月十三日アンゼロ・オルスッシ神父、ヨハネ・デ・サン・ドミニコ神父と彼らの宿主朝鮮人のコスメ武谷が投獄された。他のレジデンシヤでイエズス会員のカルロ・スピノラ神父、修士アムブロジオ・フェルナンデスそれに宿主のポルトガル人ドミンゴ・ジョルジが逮捕された。修道者たちは権六の前で将軍秀忠の意向を伝えられたが、彼らは自分たちは地上の君主よりも優れ給う全能の天主にましますもう一人の君主の指図によって行動した、と権六に答えた。

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 キリシタン時代にキリシタンでない犯罪者、特に重罪人の刑罰の仕方がどうであったのか知りたい気がする。磔刑はキリシタンのためだと分かるが、火炙りもキリシタン以外の人にも適用されていたのだろうか?それから処刑後の遺骸の処置などもどうであったろうか?首級をさらすことは一般に敵方の武将などに行われたと聴くが、寸断して犬や猛禽の餌食にするとか、海に沈めるという方法は一般に行われたのであろうか?

パジェス「日本切支丹宗門史」から(22)
Weblog / 2006-09-22 16:07:07
 1619年(元和5年) - 安芸備後五十万石の領主福島正則はキリシタンに対して余りにも好意を示したために所領を没収され追放された。長崎では奉行の命により制札が立てられ「盗賊ならびに伴天連を密告せし者」に銀三十枚を附与すると記された。宣教師は公安を害する者と見なされ、盗賊と同列に置かれたわけである。これは二人の盗賊の間に十字架につけられた主キリストの屈辱にあやかる幸福を彼らに与えることになった。神父たちは宿主を殺したくないために山中に退いて洞窟や藁小屋の中を避難所とした。このころイエズス会の司祭三十二人、他の修道会の修道者が若干名日本におり、その大部分は長崎付近にいた。イエズス会巡察師ビエイラ神父は日本全土を歴訪し、イエズス会神父二十三人と連絡を取った。宣教師たちは艱難の中で人々の改宗をはかり洗礼を授けた。イエズス会員だけで千八百人の未信者に洗礼を授けた。一月三十一日聖ロザリオ会員アンブロジオという盲人が長崎で逮捕され在獄四ヶ月の後悲惨な死を遂げた。三月十四日ドミニコ会のアロンソ・デ・メーナ神父が一キリシタンに売られ、宿主ヨハネ吉田秋雲、連座の隣人四人と共に逮捕され、すでにズマラガ神父、フランコ神父のいた大村の牢舎に送られた。翌日同じくドミニコ会のフランシスコ・デ・モラレス神父がアンデレア村山徳安の家にいるところを逮捕された。徳安は不在であったが妻マリヤの知らせで帰宅しモラレス神父の仲間入りをした。彼らはアロンソ・デ・メーナ神父が入っていた牢舎に一緒に入れられた。大村の牢舎には六人の修道者がいた。ヨハネ・バプチスタ・ポルロ神父は「この牢舎の苦しさは、火炙りよりも酷かった」と語っている。ドミニコ会のヨハネ・デ・サン・ドミニコ神父は四ヶ月の苦しみの後三月十九日力尽きて亡くなった。十月十七日五十二人のキリシタンが徳川秀忠の命令で火炙りの宣告を受けた。彼らは加茂川の近くの刑場で殉教した。男衆と子ども、女や乳呑児もいた。異様な光と火を発して天に彗星が現れ、この殉教の象徴だと考えられた。この奇蹟はキリシタンだけでなく、未信者から証明された。十一月秀忠は江戸の近くで先の長崎代官村山東安を斬首せしめ、京都の近くで息子の一人ヨハネ長安を斬首させた。豊前では十月十五日ディエゴ加賀山隼人がキリシタンであるために小倉の近くで首を刎ねられ殉教した。五十四歳であった。豊後の日出城で領主の収入役であったバルタザールというキリシタンが信仰のゆえに斬首された。息子のジャコモは四歳であったが父と共にキリストのために死んだ。長崎代官長谷川権六は四人の宿主、すなわちドミニコ会のデ・モラレス神父の宿主村山徳安、同じくドミニコ会のデ・メーナ神父の宿主吉田秋雲、オルスッシ神父とヨハネ・デ・サン・ドミニコ神父との宿主コスメ武谷、スピノラ神父とアンブロジオ・フェルナンデス修士との宿主、ポルトガル人でサン・ドミニコの第三会のドミニコ・ジョルジを犠牲者として選んだ。イエズス会の修士レオナルド木村は最初若者の殺害に関係した嫌疑で広島で逮捕され牢に入れられていたがその嫌疑が晴れ、今度はキリシタンであるという理由で五人目の犠牲者として選ばれた。奉行は彼らを信仰の面で屈服させようとしたが彼らは屈服せず、新たにとろ火による火炙りを宣告された。直ぐに死なないように薪や柴束を少し遠くに離して苦痛を長引かせるのである。処刑は十一月十八日であった。骨は灰と共に沖に投棄された。権六は他の十一人を宿主の連帯責任者として斬首させた。遺骸は海に投棄されたが、全部キリシタンによって引き上げられた。この年の降誕祭の頃大村の領主大村純頼が改悛もせずに逝去した。

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 キリシタンたちが生命を賭して宣教師を匿う宿主となったのはなぜか?彼らが司祭なしにはキリスト教がないことを知っていたからである。つまり主イエズス・キリストに対する信仰のみによってキリスト教が存続し得るならば、司祭が居なくなっても信仰を伝えることはできるであろう。しかしキリストはペトロの上に教会をお建てになったのであり、ペトロとその後継者である司教そしてその下で働く司祭を通して秘蹟が執行されることによって教会が生命を保つようにお定めになったのである。秘蹟の執行者である司祭を守ることは自分たちの生命を守ることであったからである。


パジェス「日本切支丹宗門史」から(23)
Weblog / 2006-09-25 12:34:43
 1620年(元和6年) - 一月七日大村の囚徒たちのうちイエズス会のアムブロジオ・フェルナンデス修道士が六十九歳で中風を病み息を引き取った。イエズス会に入って四十三年であった。他の修道士たちは「諸人挙りて主を讃め奉れ」を歌って感謝の印とした。生き残った人々は無限の苦痛を忍んだ。しかし彼らは常に聖なるミサの慰めを受けた。聖体の秘蹟のパンとぶどう酒とは彼らの精神と肉体とを生き生きさせた。

 長谷川権六はキリシタンから最後の礼拝堂を取り上げるために、ミゼリコルディヤの天主堂や長崎の七つの病院を破壊させた。三つの墓地に埋葬されたキリシタンの死体が掘り出されて辱めを受け、骨は市外に投棄された。1597年に二十六聖人が殉教した西坂に飢えられた桜の木と記念の石が権六によって引き抜かれ、散らばされた。その場所に仏寺を建てさせた。

 巡察師マテオ・デ・コーロス神父、駐在所長ヨハネ・バプチスタ・デ・パエサ神父、セバスチヤン木村神父、アントニオ石田神父は無限の危険にとりまかれながら長崎に留まっていた。デ・コーロス神父の伝道士有馬のマチヤスは毎夜神父の命令で信者を訪ねて励ましていた。ある夜神父管区長の修道服を持っているところを逮捕され神父の居所を告げるように拷問を受けた。しかし彼は代わりに転び伴天連のトマス荒木が平戸に居ると代官に答えた。彼は強い日本酒を飲まされ、正気を失って舌が唇が出たところを頭を殴られ、舌が歯に食い切られて絶命した。七月二十四日長崎でアンデレア東安の遺児二十四歳のマノエル、十五歳のディエゴ、十二歳のミカエル、それに孫のアントニオが斬首された。八月十六日豊前の城下町小倉でシモン清田朴斎と妻のマグダレナ、宿主トマス源五郎と妻マリア、その子ヤコボの五人のキリシタンが越中殿細川忠興の命令で殉教した。彼らは倒磔の刑に処せられた。殉教者たちの遺骸は灰にされて海中に撒き棄てられた。

 イエズス会の駐在所長フランシスコ・パシェコ神父、ヨハネ・バプチスタ・ポルロ神父、ベント・フェルナンデス神父、ディエゴ結城神父は五畿内とその付近の町を歴訪した。大阪や堺のキリシタンたちは長崎の殉教者のことを聴いて競って宣教師たちを保護したいと申し出た。ベント・フェルナンデス神父は近江、美濃、尾張、伊勢、三河、遠江、駿河、相模、三島などの諸国を歴訪して江戸に至りそこに五十日滞在した。彼はさらに上野、信濃、越後、越中、加賀を歴訪し、金沢では伝道のために三ヶ月留まった。

 奥州ではヒエロニモ・デ・アンゼリス神父、ディエゴ・デ・カルバリオ神父、ヨハネ・マテオ・アダミ神父、マルチノ式見神父が千人ほどの未信者に洗礼を授けた。伊達政宗はじめ奥州の大名は迫害を己の義務としていた。支倉常長一行を派遣した伊達政宗は幕府から嫌疑をかけられ、身の潔白を証明しようとして領内のキリシタン根絶を決意した。棄教を拒否したある村人は木に逆さに吊された。ある村では聖母の会の会員三百人が全員一致で強硬に抵抗することを申し合わせたが、土地が耕作されずじまいになるのを恐れた役人は何もできなかった。十一月六日奥州水沢でヨアキムとアンナ夫妻、トマスという名の二人のキリシタン、名の不明の二人のキリシタン計六人が石母田大膳の臣但馬殿の命令で斬首されて殉教した。この時五百余人のキリシタンは皆絹の着物に大小を帯びず、首に遺物筺を掛け、手にロザリオを持ち、正規の行列を作って道々声高らかに祈祷をしながら、殉教者の後について刑場に行った。

 ディエゴ・デ・カルバリオ神父はデ・アンゼリス神父によって年々奥州より津軽に遣わされ流人たちを慰問していた。秋田と仙北地方の久保田(現秋田)さらに蝦夷に行った。1616年頃蝦夷で豊かな金山が発見され1619年には一万五千人、1620年には八万人の坑夫が働いていたがその中に若干のキリシタンがいた。カルバリオ神父は松前で八月五日雪のサンサ・マリヤの祝日にミサを捧げた。キリシタンは二年前にデ・アンゼリス神父から洗礼を受けた人々であった。彼はさらに鉱山の近くの隠れ家のある村でミサ聖祭を捧げた。二人の旧伝道士が神父の仕事を助け、神父は大勢の病人の告解を聴き、秘蹟に与らせた。松前から津軽に戻り長い間告解ができなかった南部のキリシタンの告解を聴き、未信者や嬰児に洗礼を授けた。カルバリオ神父は最後の伝道地として仙北地方の院内の銀山を訪問しそこに三ヶ月間滞在した。

 長崎の近くの喜々津でフランシスコ会のペトロ・ダビラ神父とビンセンシオ・デ・サン・ヨゼフ修道士がキアラという婦人の宿主の許で発見され捕縛され大村の牢舎に入れられた。またペトロ三甫、ミカエル春甫、アントニオ・キユニ、ゴンサロ扶斎というイエズス会の伝道士で宿主たちが逮捕され大村の牢舎に収用された。奉行はもし彼らがキリシタンを世話することを止めれば牢から出してやると言ったが彼らはこの条件を拒絶した。彼らが自分たちだけでキリシタンであり他の人々を改宗させないということで満足すれば釈放してやるという再度の提案をも拒否した。彼らのうちペトロ三甫の言い分は傾聴に値する。「もし日本国に伝染病がはびこり良薬があるのに、自分の家族と自分が全快するだけで満足し、他の人を構わない医者であったらどうか?イエズス・キリストの教えを告白しないすべての人々は死に瀕しているのではなくて死に包まれているのだ。私は永遠の死から彼らを甦らせたい。もし私が生命の危険を冒しても効き目のある薬を盛らないならば私は人間ではない。イエズス会の神父様方は心の悩んでいる病人の薬を持っておられ、それを不幸な日本人に与えるために祖国や家族その他一切のものを打ち捨て、海を渡り、またあらゆる悲惨、迫害にさらされておられる。このような尊敬すべき神父様方のために尽くすのは当然である...」

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 宿主は火炙りの刑に処せられることを百も承知の上で多くの勇敢な人々が宣教師たちの宿主となっている。彼らの理屈は宿主の一人上述のペトロ三甫の言葉によって明瞭である。それは自分だけが救われればそれでよいという利己的な愛ではなくて同胞に対する真の愛ではなかろうか。彼らの精神とエキュメニズムは相容れないと思う

パジェス「日本切支丹宗門史」から(24)
Weblog / 2006-09-26 15:52:55
 1621年(元和7年) - イエズス会の会員は三十七人、そのうち十八人が四誓願をした司祭であった。二人は大村の牢に入れられていた。宣教師たちは伝道所を持っており、長崎、有馬、大村、豊後、中国、奥州、出羽、さらに首都の京都市内にさえ、身を隠すに足る隠れ家を持っていた。夜になるとミサ聖祭の用具だけを携えて他の地方に出かけ伝道した。険阻な山々や厳寒も彼らの大事業を制する訳には行かなかった。奥州で最も酷い迫害が行われた。伊達政宗は夥しいキリシタンをあるいは追放しあるいは死刑に処した。筑前でも信仰のために監禁されていたキリシタン五人が餓死した。有馬や大村、長崎では長谷川権六の下で多数の殉教者が出た。しかし、この年なおイエズス会の人々だけで約二千人の人々が洗礼を受けた。二月十四日フランシスコ会のペトロ・ダビラ神父とビンセンシオ・デ・サン・ヨゼフ神父の宿主で百姓のドミニコ松尾が喜々津でとろ火による火炙りの刑で一時間苦しんだ後一撃の下に処刑されて殉教した。ドミニコ会のオルファネル神父と伝道士、従僕ドミニコの三人が諫早矢上の隠れ家で逮捕され長崎に送られた。彼らはさらに長与に連行されて乗船させられ大村の鈴田牢に入れられた。またオルファネル神父の宿主マチヤス又右衛門と妻、母、十歳になる息子ミカエルともう一人の子どもが逮捕され、彼らを入れるために矢上に牢舎が建設された。六月二十九日イエズス会のセバスチヤン木村神父と従僕のアントニオが長崎で逮捕され大村の牢舎に送られた。八月十七日ドミニコ会のヨゼフ・デ・サン・イヤシント神父は伝道士アレキシスと共に逮捕されて大村に送られた。ディエゴ結城神父は近江、美濃、尾張、伊勢、紀の国、阿波の諸国を歴訪した。またマルチノ式見神父は江戸、北国並びにその付近の国々を伝道した。奥州では伊達政宗の迫害があったが四人の司祭と一人の修士がキリシタンの団体を司牧していた。出羽に多数の信者がおり、神父たちは彼らのため、また蝦夷の松前のキリシタンのために伝道所を建てた。そこで二百人の受洗があった。仙台にいたデ・アンゼリス神父はキリシタンたちを激励するために身を危険に曝し、変装し、駕籠に乗ったり歩いたりしながら告解を聴いて江戸まで行った。

 この年の始め、大村の牢舎にはイエズス会のカルロ・スピノラ神父、聖フランシスコ会のアポリナリオ・フランコ神父、ペトロ・ダビラ神父、ビンセンシオ・デ・サン・ヨゼフ神父、聖ドミニコ会のフランシスコ・デ・モラレス神父、アロンソ・デ・メーナ神父、トマス・デ・ズマラガ神父、アンゼロ・オルスッシ神父、教区司祭トマス荒木神父の九人がいた。秋になるとイエズス会のセバスチャン木村神父、フランシスコ会のリシャール・デ・サンタ・アンナ神父、ドミニコ会のイヤシント・オルファネル神父が加わった。各修道会の若干の修士や第三会員も入って来た。十二枚の畳の敷ける場所に三十人あるいはそれ以上の囚人が詰め込まれていた。身動きできず、足を組合わしていなければならなかった。しかし彼らは聖体を拝領することができた。この神聖な食物は彼らを不退転にし、殉教の覚悟をさせる不思議な力を与えた。暮れにはイエズス会のペトロ・パウロ・ナバロ神父が有馬高来で逮捕された。

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 司祭、修道士など宣教師とその宿主の逮捕監禁が全国的に続行されその数も増して行く。その中で受洗者があるということは信じられないほどである。宣教師たちとその協力者たちは「汝ら行きて万民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ」(マテオ28:19-20)というイエズスの命令を実行し、「身を殺して魂を殺し得ざる者を恐るることなかれ、むしろ魂と身とを地獄に滅ぼし得る者を恐れよ」(マテオ10:28)というイエズスの言葉を実践したのであった。エキュメニズムはイエズスのこれらの言葉に反していないだろうか?

パジェス「日本切支丹宗門史」から(25)
Weblog / 2006-09-28 21:40:35
 1622年(元和8年) - この年だけで火炙りや斬罪に処せられた殉教者百二十人。ドミニコ会司祭八人、イエズス会司祭四人、フランシスコ会司祭三人、アウグスチノ会司祭一人、諸修道会修道士二十人が殉教した。殉教者たちの血は無数の改宗者を芽ぐませ、その中からまた若干の者が殉教者となった。イエズス会の神父たちだけで二千余人の成人に洗礼を授けた。告解が頻繁に行われた。

 八月十九日、長崎においてドミニコ会のフロレス神父、デ・ズニガ神父、ヨハキム平山の三名が火炙り、十二人の日本人水夫が斬首の刑で殉教した。さらに九月十日、長崎西坂においてドミニコ会のフランシスコ・デ・モラレス神父、フランシスコ会のリシャール・デ・サンタ・アンナ神父、イエズス会のカルロ・スピノラ神父ら二十五人が火炙り、諸修道会の修道士や宿主など三歳や五歳の子どもを含む三十人が斬首の刑を受けて殉教した。この殉教には異教徒を別にして三万人のキリシタンが立ち会っていた。陸も地も丘も海岸も見物人で溢れていた。元和の大殉教と言われるものである。ローマのイエズス教会にはこの殉教の時の絵がある。翌九月十一日にも同じ西坂でガスパル籠手田とその子十二歳のフランシスコ、前日斬首されたバルトロメオ七右衛門の子で七歳のペトロが斬首されて殉教した。九月十二日大村の牢にいたドミニコ会のトマス・デ・ズマラガ神父、フランシスコ会のアポリナリオ・フランコ神父その他の人々が火炙りの刑で殉教した。九月十三日には長与でトマス源左衛門の子マンチオ岩永九兵衛が、十五日には平戸でドミニコ孫作、ルイスが斬首、時津でペトロ多田が斬首、ルイスが山間のある村で斬首された。さらにイエズス会のカミロ・コンスタンツォ神父が平戸で火炙りの刑で殉教した。九月二十三日肥前の矢上でマチヤス又右衛門と妻のマリヤ、母のマリヤ、二人の息子ドミニコとミカエルの五人が死刑、マチヤスと妻と長男は火炙り、他の二人は斬首された。九月末カスチル語、ポルトガル語を話すオランダ通詞のガスパル中村と書役のヨハネ五郎兵衛がフロレス神父とズニガ神父の脱走に力を貸したとして逮捕されたが証拠がなく、信仰の堅固さを理由として死刑に処せられ、前者は長崎で、後者は矢上で斬首された。ルイス弥吉と四人の水夫が平戸から長崎に移され、ルイスは十七通りの拷問にかけられた。水責め、日本酒に水と塩を混ぜて飲ませ二枚の板の間に挟んで二人の人間がその上に乗ると口や鼻、耳から水を吐き、腕を吊して関節をはずし脱臼させる、溶かした鉛を肩や脛や陰部に注ぐ、鉄の銛で同じ所をつつくというような拷問である。最後に弥吉は火炙りを宣告された。処刑の前に彼は妻ルシヤ、八歳のアンデレアと四歳のフランシスコが斬首されるのを目撃しなければならなかった。十一月一日島原でペトロ・パウロ・ナバロ神父とその伴侶たち三人が火炙りの刑を執行され殉教した。遺骸は三日間その儘に曝され、後灰にして海中に投棄された。

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 秀忠の将軍職最後の年は殉教者が多く出た年であった。彼は宣教師とその宿主そして子どもを含むその家族を処刑し、場合によっては処刑の前に拷問を加えるよう命じた。殉教者は処刑者、処刑の命令者を恨まず憎まずに、彼らのために祈り、彼らに改宗を勧める。神への愛が人への愛を要求するからである。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(26)
Weblog / 2006-10-06 15:09:41
 1623年(元和9年) - この年秀忠の子家光が第三代将軍となった。宣教師たちの数が逮捕、処刑によって減り、秘蹟の執行や説教に不足が生じたので、監禁されていた彼らはフィリピン、マカオ、ヨーロッパに宣教師を送るよう檄を飛ばした。しかし将軍の命令は異常に厳しくなり、宣教師たちの入路を閉ざす悪辣な手段が規定された。長崎に居住し多数いたイスパニア人とポルトガル人全部を追放すべしという命令が出された。宣教師を火炙りにするだけでなく、宣教師を送って来た者も火炙りにするという命令も出された。

江戸には二十年来日本で伝道し、最も遠隔の地方に使徒として活動したイエズス会のヒエロニモ・デ・アンゼリス神父と彼に劣らず古くから伝道してきた聖フランシスコ会のフランシスコ・ガルベス神父がおり、また1615年の迫害の折、将軍の命令で手足の指全部を切断され、額に十字架の烙印を押されたヨハネ原主水がいた。十二月四日彼らは江戸高輪で火炙りの刑に処せられることになり、その処刑の前に四十七人のキリシタンたちが同じく火炙りの刑で殉教した。その後原主水が最初に、次ぎにデ・アンゼリス神父、最後にガルベス神父が息を引き取った。さらに十二月二十九日、三十七人がある者は火炙り、ある者は磔刑になり、ある者はずたずたに斬られた。その中には子どもが十六人いた。三十七人のうち異教徒が十三人いたが、彼らは家にキリシタンを匿ったとか、連帯責任を取らされての処刑であった。この年殉教者の数は天領だけっで四五百人と見積もられたがその記録は全部残っていない。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(27)
Weblog / 2006-10-20 22:13:48
 1624年(寛永元年) - 年号が元和から寛永に変わった。伊達政宗が仙台で迫害を行い、イエズス会のディオゴ・デ・カルバリオ神父はヨハネ後藤寿庵の封土三分(みわけ)に降誕祭を祝いに来たところを捕縛された。神父は二人のキリシタン、マテオ孫兵衛とパウロ金助と共に手を縛られて水沢に遣られた。雪道で終日風に吹きさらされ、休みなしに氷のような風を受けながらの道中であった。政宗の重臣沢岡備後と橋本豊後は神父とキリシタンを召し出し、神父に極刑にすると威嚇した。神父は「私の切なる望みは、わが天主様のために参って、皆に教えたことを証明するために、煙草の如くずたずたに切り刻まれ、粉微塵にされることである」と答えた。二月十日彼らは囚人たちを仙台の家老茂庭周防の許に送った。仙台で周防は九人の囚人たちを公儀の牢にぶちこんだ。二月十八日神父とその伴侶たちは午後二時川の方へ連れて行かれた。着物を剥ぎとられて流れの水を引き込むように掘られた水たまりの凍った水の中に三時間杭にしっかり縛られて漬けられ坐らされた。死なないようにまた引き上げられた。神父の宿主であった二人の殉教者が引き上げられた砂の上で先に息を引き取った。家老は神父に転ぶことを勧めた。神父は「そんなことはできることではない。人の命令が、神の掟と食い違うとき、人の命令に従わぬのは聖なる義務である」と答えた。先に死んだ二人の死体は首を切られ、遺骸はずたずたに切られて、川の中に棄てられた。生き残った他の人々は二月二十四日まで牢にぶち込まれた。彼らは時に裸にされて氷の張った水牢に膝まで水が来る中を立たされ、また胸のあたりまで水に漬かって坐らされた。この二通りの姿勢を代わる代わる取らされた。寒さと疲労のためにレオ佐藤今右衛門が最初に息を引き取り、二番目にアントニオ高橋左衛門、三番目にマチヤス小山正太夫が息を引き取った。その後間もなくアンデレア野口二右衛門、マチヤス安間孫兵衛、マチヤス若杉太郎右衛門が続いた。デ・カルバリオ神父は彼らの死に際に「福者よ、幸いあれ」とか「行けよ我が子、天主様の平安の中に」という言葉をかけて励ました。夜の五時であった。神父は最後まで生き残りキリシタンたちの最期を看取って不動のままであった。最後に彼は真夜中に息を引き取った。この殉教は伊達政宗の命令により家老の一人茂庭周防の手で行われた。デ・カルバリオ神父は四十六歳、イエズス会にあること三十年であって、日本および交趾支那の伝道に十五年を過ごした。

奥羽の各地で迫害の嵐が吹き荒れた。蒲生飛騨殿は主君の気に添うために迫害を始め領内に多数の棄教者を出した。それは近頃の改宗者で信仰がまだ固まらない人々であった。秋田の佐竹義宣は江戸の迫害に倣ってキリシタン武士二十一人を含む四十二人を投獄した。七月十八日久保田に三十二本の柱が建てられ、名門の出身である犠牲者たちがとろ火の火炙りで殉教した。七月二十六日久保田で五十人のキリシタンが斬罪になった。八月四日仙北の寺澤から来た十四人のキリシタンが斬首された。八月十六日に仙北の善知島のキリシタン十三人が横手で斬首された。九月十八日薄井の百姓四人が同じ場所で斬首された。出羽ではこの年だけで百九人が殉教者に数えられたが成人の洗礼も三百人あった。 

上方(かみ)の地方にはイエズス会の司祭六人と修士二人が中国や西国を訪問し、約千二百人の成人が彼らによって洗礼を受けた。ヨハネ・バプチスタ・ポルロ神父は播磨、備前、中国および四国の教会でキリシタンたちの困苦を祝聖した。備前の領主池田氏はキリシタンを全部追放したが、キリシタンたちは喜んで一切のものを棄てて、岡山の祖国を選んだ。二月十六日安芸の城下広島では領主の従僕フランシスコ遠山甚太郎が年二十四歳で斬首されて殉教した。二十七日には領主の命令でマチヤス塩原四左衛門が磔刑になった。伊予国で二月十四日ヨハネ柳屋九兵衛が死刑の宣告を受け、素裸にされて地上に横たえられ、体の真中から両断された。

六人の司祭と一人の修士が伝道者たちの応援を得て長崎の教会を管理していた。彼らは薩摩、五島、大村、肥前の各所にも伝道に出かけた。肥前の大名鍋島勝茂は領内のキリシタンに棄教を迫り、従わない者は裸にして鼻と耳を殺ぎ、額に十字架の烙印を押し、妻子と共に諫早候に渡して奴隷にすると伝達させた。喜々津、伊木力、大草などの百姓の村々に手がいれられたが、キリシタンたちの壮烈な信仰に押されて領主は調査の中止を命じた。ドミニコ会のエルキシア神父はキリシタンたちに、もし彼らが宣告を受けたら、自分も来て一緒に死ぬと約束していた。平戸では肥前守松浦隆信は将軍の寵と所領の安堵を望んで、キリシタンに対する猛烈な迫害を始め三十八人の殉教者を出した。五島で一人、大村では二人のキリシタンが斬首された。大村の牢内には聖ドミニコ会のペトロ・バスケス神父、聖フランシスコ会のルイス・ソテロ神父、ルイス・笹田神父、伝道士ルイス馬場、イエズス会のミカエル・カルバリオ神父などがいた。ソテロ神父は大使として再来日したのであるが、国法では保証されなかった。八月二十五日彼らは刑場に引いて行かれた。刑場で彼らは連祷を唱え、間もなく「テ・デウム」を歌った。彼らは柱にゆるく縛られ火炙りにされた。馬場修士がまず息を引き取り、笹田神父とカルバリオ神父がこれに続いた。バスケス神父とソテロ神父は苦闘三時間の末息を引き取った。豊後の領主竹中筑後守重信はキリシタンたちを虐めた。五月二十八日、レオ三崎新右衛門はアンデレヤ、トマス、ヨハネという三人の子どもと共に水責めを受け、脛を竹に挟んで締めつけられて殺された。府内では六十六歳のオルガンチノ・タンシューが六十歳の妻ルシヤと共に餓死の宣告を受け、その後海岸で焼き殺された。十一月五日には長崎でディエゴ小市と朝鮮人のカイオが火炙りになった。ディエゴはバスケス神父の宿主であった。朝鮮人カイオは朝鮮から日本人に捕らわれて日本に連れて来られ、対馬で難船し、死にそうになって京都に連れてこられたが、救済を得ようとして仏僧の間に入り込み、京都の大寺院の一つを選んでそこで尊敬された。しかしもっと高い真理を求めていたとき、一改宗者が彼をイエズス会の天主堂に連れて行き、公教要理を聞かせた。彼はキリシタンになって、神父の従僕になろうとして1600年頃その許可を得、伝道士として大阪、堺、北国でモレホン神父を助けた。彼は愛をもって癩患者の世話をした。1614年高山右近と同じ船でフィリピンに追放されたが、二年後に日本に帰り伝道を続けた。彼は小使徒と呼ばれた。彼は自宅でイエズス会の神父たちを歓待した。彼は囚人たちを慰問に出かけたところを捕らわれたのであった。

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イエズス会のディオゴ・デ・カルバリオ神父の言葉:「人の命令が、神の掟と食い違うとき、人の命令に従わぬのは聖なる義務である」は熟読玩味すべき言葉である。キリシタンの時代も現代も神の掟は永遠不変である。人の命令は色々に変わるが神の掟は変わらない。神の御言葉、掟を現代に合わせて変えようとするのは間違いである。現代化は人間の領域に関してはあり得ようが、神の領域に関してはあり得ない。天主の十戒の第一の掟はキリシタンの時代も現代も少しも変わらずに神の掟の第一位にある。エキュメニズムはこれに反している人間の命令ではないか?

パジェス「日本切支丹宗門史」から(28)
Weblog / 2006-10-21 21:49:27
 1625年(寛永2年) - この年将軍家光自身は殉教者を出さなかったが、諸侯は若干の犠牲者を出した。イエズス会では千百人の未信者に洗礼を授けた。この年なおイエズス会の司祭は二十人、修士が四人いた。他の修道会でも不退転の熱意をもって働く人々がいた。長崎には六人のイエズス会司祭が隠れて滞在しており、そこから肥前の唐津、諫早、大村、有馬、高来に伝道を行った。筑後とその教会は一神父から訪問を受けた。彼はなお豊前や筑前の地方にも行った。殊に筑後では伝道はほとんど自由であった。上方の教会には六人の司祭と一人の修士がいた。彼らは上方、中国、四国、奥州および出羽を司牧していた。上方全部が前年の迫害の影響を受け、夥しいキリシタンが追放された。それでも大阪の地方には六十人の新しい受洗者があり、堺には八十人あった。ディエゴ結城神父は僅か一回の旅行で行きに十ヶ国、帰りに八ヶ国を訪問し、二百人の成人に洗礼を授けた。中国と四国ではポルロ神父が成功を収め播磨で百十人の成人に洗礼を授けた。奥州と出羽では迫害が厳重であったにもかかわらず、二百七十八人の受洗者があった。津軽の城下町高岡ではトマス助左衛門が津軽越中守信牧の命令で火炙りになった。
イエズス会の管区長フランシスコ・パシェコ神父は口ノ津で転びキリシタンの密告により捕縛され、ガスパル定松修士、ヨハネ喜作、宿主マンシオおよびマチヤス、二人の妻も捕らわれた。二人の宿主の財産は没収された。ヨハネ・バプチスタ・ゾラ神父は秘かに島原に住い、そこから付近を訪問していた。神父はヨハネ長井内膳の許に隠れていたが密告によって、伴侶であった賀兵衛修士、宿主ヨハネ内膳、内膳の妻子と共に捕縛された。他のキリシタンたちを合わせて囚徒の数は二十五人となった。ゾラ神父はパシェコ神父と一緒にされた。

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 迫害や殉教が起こっている中で宣教が行われ、迫害や殉教にもかかわらず受洗する人々が後を絶たないということをどのように考えればよいであろうか?宣教する司祭や修道士たちの他人の魂の救済への熱意と財産や生命さえも捨てなければならないような状況の中での受洗者たちの自分たちの魂の救済への願望とが合致したということであろうか?この頃になると大名の受洗ということはもはや考えられない。外国貿易による利益というような世間的、経済的な利点も問題にならない。御利益宗教というようなことは全然言えない。司祭が潜伏するということはその潜伏を助ける宿主なしには不可能である。その宿主を引き受ける人々が後を絶たない。見つかればもちろん火炙りの刑が待っている。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(29)
Weblog / 2006-10-22 22:35:49
 1626年(寛永3年) - イエズス会の神父十八人がまだ生き残っていた。その他は既にあるいは殉教し、あるいは苦労の末、命を終わっていた。残っていた働き手がなお大収穫を収め、僅かなその人たちで二千人の未信者に洗礼を授けた。他の修道会では非常に少なくなり、これはほとんど全部殉教の運命を担った。

 奥州と出羽では、イエズス会の司祭三人と修士一人が九百四十人の異教徒に洗礼を授けた。一月十日イグナチオ茂左衛門が津軽信牧によって奥州の高岡で火炙りとなった。一月二十五日にはコスモ林主計が会津若松で斬首された。

 イエズス会のバルタザール・デ・トルレス神父は彼の伝道士ミカエル藤蔵と共に捕縛され長崎に連行され、次ぎに大村に連行された。五月七日ヨハネ・バプチスタ・バエサ神父が帰天した。イエズス会にあること四十七年、享年六十八歳、同日有家で帰天したガスパルド・デ・カストロ神父はイエズス会にあること四十七年、日本在留二十四年、享年六十歳であった。将軍家光の親戚である水野河内守守信は六月十八日島原や大村の奉行に囚徒を長崎に送れと命令した。イエズス会の管区長フランシスコ・パシェコ神父、ヨハネ・バプチスタ・ゾラ神父、ガスパル定松修士、ペトロ・リンセイ修士、ビンセンシオ・カワン修士、パウロ金助修士、ヨハネ喜作修士らが引き出され、日見村に送られた。大村からはバルタザール・デ・トルレス神父とミカエル藤蔵修士から長崎へ送られ浦上で最後の夜を明かした。日炙りのために柱が十三本建てられたが犠牲者は九人であった。火炙りの最中彼らはイエズス・マリアの聖名を唱えた。十五分経たぬうちに全部が息を引き取った。神父管区長は六十一歳で修道生活四十年であった。デ・トルレス神父は六十三歳、修道生活四十六年、日本在住二十六年であった。ゾラ神父は五十一歳でイエズス会にあること三十三年であった。一切のものが灰にされ、俵につめ込まれた灰は海中に投棄された。七月十二日にはイエズス会の神父たちの宿主である九人の日本人キリシタンが殉教した:四年間管区長パシェコ神父の宿主をしていたマンシオ荒木広左衛門とマチヤス荒木喜左衛門は有馬の牢にぶち込まれていたがマンシオは七月八日にはすでに死んでいた。彼の遺骸は行李につめて有馬から長崎まで棒杭に縛って運ばれ、兄弟マチヤスと同時に七月十二日に火炙りになった。二人の血縁であるペトロ荒木庄兵衛とその妻スザンナはデ・カストロ神父の宿主であった。ペトロは火炙り、スザンナは斬首であった。ヨハネ田中美濃とその妻カタリナはデ・トルレス神父の宿主であった。ものすごい拷問を受けて六ヶ月間監禁された後ヨハネは火炙り、カタリナは斬首された。ヨハネ長井内膳とその妻モニカはゾラ神父の宿主であった。彼らも酷い拷問を受け、一度は帰されたが我に返って奉行を訪問し非を悔いたので再び牢にぶち込まれ、当日ヨハネは火炙り、妻と六歳の子どもルイスは斬首された。刑場では全員が跪き、聖母の連祷と讃美歌「諸人こぞりて天主を讃めまつれ」Laudate Dominum, omnes gentes を歌った。殉教者たちの遺骸は焼いて、灰は海中に投棄された。

 ペトロ荒木庄兵衛の妻スザンナは恐ろしい拷問を受けたが、それは、日本では未曾有のことであるが、裸にされ、髪の毛で木に吊され、次いで二本の横木に磔にされるというものであった。彼女は三歳になる娘を、女中が自分の子だと言うのを聴いて、役人に「いいえ、あの子は私の子です。そうお書きくだされ」と叫んで、役人を激怒させた。役人たちは子どもを裸にして母親の足元に縛らせた。こどもは寒さのために泣き出した。スザンナは役人に向かい、武家の出であり女である自らが、ただキリシタンだという一事で、こんな取り扱いをする事を、殿様方御恥じにならないとは、実に驚きましたと言った。彼女は娘と共に八時間放置された。斬首される前に首に鉄の輪をはめられたまま六ヶ月間納屋に押し込められていた。

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 絶句...

パジェス「日本切支丹宗門史」から(30)
Weblog / 2006-11-04 16:02:27
 1627年(寛永4年) - 「斬新でしかも途方もない」とパジェスが言う拷問 - 裸にされ木に結わえられた男女が灼熱の鉄器で陰部を焼かれ体が寸断される - が長崎奉行水野河内守守信によって行われている。その他家の戸口を釘づけにして中にいる人間を餓死させることも行われた。河内守の息子二人が束の間に病死したとき、世の人は皆そこに神の罰を見た、とパジェスは言う。有馬・島原の領主松倉豊後守重政が作り出した新しい責道具は「切」「支」「丹」という三つの極印で火で赤く焼いた鉄器でキリシタンの額や頬に刻みつけるものであった。ここでこのような拷問を受けた者の個人名を挙げることはやめるが、島原山寺では八十人のキリシタンがそのような拷問を受けている。額や頬に極印を押された上、下帯を取られて辱めを受け、頭上の札には「泥棒の切支丹」、何ら窃盗の罪あるに非ざるも処刑するものなり、と書かれた。豊後守の拷問・刑罰は手の指切り、熾で炙るもの、炭火の上に横に並べた棒の上を転がしながら、脇や腹や背中を焼いていくものなどもある。火が体の内部に入り口からほのかな煙が出たほどだという。火で真っ赤にした陶器の壺を手で掴ませられた十三歳の子どももいる。島原の十六人のキリシタンたちは雲仙岳の硫黄泉噴出口に連れて行かれ、首に縄を結わえられ、淵に何度も投げ込まれたり引き上げられたりした。刑罰の種類も多様であったが、殉教者の数もこの年は多かった。豊後守が手づからキリシタンの指を切ったこともあった。

 ベント・フェルナンデス神父は1627年の殉教の確実な報告を書き、またカステレット神父も若干の殉教の目撃の報告をマニラに送った。9月14,15の両日、教皇ウルバノ八世は毎年2月5日に、1597年に殉教した二十三人のフランシスコ会員と三人のイエズス会員のミサを捧げ、聖務を唱えることを許可した。

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 肉体的な苦痛をどれほど加えても信仰を棄てない殉教者の数の多さに圧倒される。もちろん、多くの棄教者が出たであろうし、棄教しただけでなく、密告者あるいは迫害者に転じた者もいたであろう。殉教者を強者、棄教者を弱者とするのは常識的であるが、それはまたまったく人間的な見方でしかないとも思われる。肉体的に弱いとされる女性や子どもたちが肉体的な苦痛を堪え忍ぶ一方で、肉体的に強い筈の男が苦痛を免れるために棄教する。人間的な観点をまったく無視することはできないが、かと言ってそれですべてを割り切れるものではない。信仰はそういう意味で超自然的な秩序の問題、恩寵のレベルの問題なのである。弱い人間が信仰の恵みによって強くなれるということを殉教者は証明していると思う。現今のエキュメニズム的な信仰の考え方は殉教という歴史の真実を隠蔽するものではないか?

パジェス「日本切支丹宗門史」から(31)
Weblog / 2006-11-06 21:17:41
 1628年(寛永5年) - この年多くの宣教師が日本に潜入する途中台風に遭って海上で亡くなった。イエズス会日本人司祭ミカエル・ミノヨ神父、ポルトガル人司祭マノエル・ロドリゲス神父、イタリア人司祭オッタビオ・フルカニオ神父などである。

 この年迫害は猖獗を極めていた。9月8日、聖フランシスコ会のアントニオ・デ・サン・ボナベンツーラ神父、聖ドミニコ会のドミンゴ・カステレット神父、フランシスコ会の日本人平修士ドミニコ・デ・長崎、ドミニコ会の日本人平修士トマス・デ・サン・イヤシント、同じくドミニコ会の修士アントニオ・デ・サン・ドミニコ、カステレット神父の宿主であった八十歳のルシヤ、水夫ミカエル・カラファチ、大村のヨハネ戸町、船頭ヨハネ今村、水夫パウロ相原三太夫、日本人マチヤス・アルバレスの十一人が長崎で火炙りになった。戸町の子、ドミニコ、ミカエル・トマス、およびパウロ、ミカエル山田の子ロレンシオ、ルイス東とその子フランシスコとドミニコ、ロマンとその子ディエゴ林田の聖ドミニコ会第三会員たちは斬首された。火炙りの宣告を受けたヨハネ戸町はわが子四人が斬首され、その首が自分の火炙りになる柱にくくりつけられるのを見た。殉教者の遺骸は皆灰にされ、袋につめられて海にまきちらされた。同じ9月8日大村でアントニオ・サン・ボナベンツーラ神父の宿主トマス、その妻ルイザ、息子ヨハネ・アンデレヤ五右衛門と妻マルタ、パウロ山崎、シモン次右衛門、妻ルフィナが斬首された。翌日、同所でミカエル新右衛門が斬首された。9月10日大村でロザリオ会の会頭ドミンゴス九郎兵衛が火炙りになった。妻のベアトリス、マンシオ立石、マノエル富永、寡婦マリヤ、トマス与三右衛門が斬首された。9月11日同じ大村でドミニコ会第三会員のヨハネ左兵衛、妻ベアトリス、息子ヨハネ小坂、その妻イサベラ、シモン清田三吉、マグダレナ、カタリナ、アンデレヤ山田が斬首された。9月12日、大村でアントニオ由左右衛門、その子リネ・ニゾーと外二人の四人のドミニコ会第三会員が火炙りになった。9月15日長崎でドミニコ会第三会員の滑石町のシモン、江ノ島町のアンデレヤが火炙りになった。 10月の末頃下関でイエズス会の日本人ミカエル:シュッカン修士が火炙りになった。12月25日雲仙岳で肥後のイエズス会平修士ミカエル中島と彼の俗人の二人の伴侶ヨハキム・ケンドとヨハネが手足の関節をはずされ、水を張った桶の中に投げ込まれ、日のかんかん照る処に曝され、最後に雲仙の硫黄泉で責められた。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(32)
Weblog / 2006-11-07 20:36:27
 1629年(寛永6年) - 外部との交通は次第に困難となった。ドミニコ会員トマス・デ・サン・イヤシント神父は11月10日日本に上陸した。同じ頃イエズス会ノミカエル松田神父とペトロ糟井神父が薩摩坊津港から商人として入国した。

 奥州米沢で甘粕右衛門信綱とその家族その他の人々二十九人のキリシタンが殉教した。米沢の近くの糠山、新藤ケ臺、花澤村などでキリシタン二十人がが捕縛され、北山原で斬首された。高札には「この者どもは、日本の掟に背き、切支丹たりしをもって、十二月十八日刑せられたるものなり」と書かれて首級が曝された。

 天草の領主寺澤志摩守は棄教者かつ熱烈な迫害者である三宅藤兵衛を使ってキリシタンの棄教を迫らせた。家長たちが簡単な言葉と威嚇とで攻撃を受け、ある者は下ったが、他の者は頑として動じなかった。婦女子が監禁され、その数は二百三十人になった。日に一回だけその夫たちが妻と子どもたちのために食物を運んで行くことを許された。妻や子どもが夫の前で拷問を受け、大勢の家長が次々に転んだ。彼らが棄教すると、妻や子どもは返された。崎の津でも同じことが行われ多くのキリシタンが弱った。

 豊後の竹中釆女正重義が長崎奉行に任命され、七月の末に到着した。牢内には死刑になる者はいなかったが、彼は刑場に柱を立て、周りに束柴を並べさせて、キリシタンを恐怖させる示威運動を行った。奉行はキリシタンは屍さえも容赦せぬということを宣言するために墓をあばき、焼かれた若干の遺骸を掘り返すことを命じた。その後将軍から渡された人名簿に基づき男三十七人、女二十七人計六十四人のキリシタンを召し捕った。彼らは五組に分けられ雲仙へ送られた。八月三日第一隊が連れ出され、男は着物を剥ぎ取られ、首に大きな石を吊され、背中に侵蝕性の熱湯を注がれた。三十七人のうち一人二人を除き他の人々が転んだ。夫の悪例はその妻をも弱らせた。

 浦上のキリシタンたちは森林の中に隠れていた。竹中釆女は彼らの捜索を命じ、次いで茨の藪に火をつけさせた。このようにして夥しい信者が召し捕られ、哀れな人々の大部分が棄教した。

 原始会則のアウグスチノ会員バルトロメオ・グチエレス神父がヨハネ・デ・サン・アウグスチノ修士と共に捕らわれ、鉄の鎖で縛られて長崎に移された。イエズス会のアントニオ石田ピント神父も捕縛された。長崎の牢で彼はグチエレス神父と出逢った。フランシスコ・デ・イエズス神父は同宿ペトロ九兵衛と共に召し捕られ長崎に連行された。彼らもグチエレス神父、石田神父と一緒になった。十二月十二日に四人の神父は大村の牢舎に移された。

 迫害者の所を逃れていた多くの修道者の宿主は、連坐したキリシタンと共に、次々に捕縛されその数は七十三人に上った。彼らは翌年9月死刑になった。アントニオ金谷市右衛門が斬首、トマス作兵衛が火炙り、その妻のカタリナはまだ生きている夫の目の前で柱に縛られたまま剣で殺された。大村ではエルキシヤ神父の宿主ゼローム・ヤゴエモンが斬首された。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(33)
Weblog / 2006-11-09 07:25:14
 1630年(寛永7年) - 1629年11月以来大村には原始会則のアウグスチノ会のバルタザール・グチエレス神父、跣足のアウグスチノ会員フランシスコ・デ・イエズス神父、ビンセンシオ・カルバリオ神父、イエズス会のアントニオ石田神父がいた。イエズス会の管区長マテウス・デ・コーロス神父は有馬にいた。ヨハネ・ダ・コスタ神父とベント・フェルナンデス神父は長崎付近にいた。ドミニコ会のドミンゴス・デ・エルキシヤ神父は長崎におり、トマス・デ・サン・イヤシント神父はそこで一緒になる筈であった。江戸にはドミニコ会員のルカス・デュ・サン・エスピリット神父とイエズス会のアダミ神父およびポルロ神父がいた。牢舎の外には、最早アウグスチノ会員はいなかった。他に若干のイエズス会とフランシスコ会の宣教師がいた。

 迫害はあらゆる地方に猖獗を極め、あらゆる刑による幾多の犠牲者を出した。1月24日、肥後でイエズス会の神父の伝道士トマス・サユンがその子らの目の前で領主の手で斬首された。1月24日、江戸でベントゥラ左伝次と他九人が氷のはった池の真中の杭に縛られ、朝の10時から日没まで生きていた。同日将軍の臣中川清左が胸まで埋められ、三日間竹鋸で首をひかれた。3月長崎近郊で七人のキリシタンが胴の真中から鋸でひかれた。三人は四日間、他の一人は七日間生きていた。他の三人は五日目に棄教した。しかしその三人は七日目に悔悟して斬首された。殉教者たちの首級は竹にさして曝され、それには「謀反人切支丹」の貼札がしてあった。

 5月19日有家のキリシタンたち二百八十人が仏僧の家に連れて行かれ、そのうち五十人が頑張った。彼らは島原に連行され、そこで残虐極まる拷問を受けた。ある者は細縄で手足を縛られ、しかも縄が肉の中に食いこんでちぎれるまでに締めつけられた。ある者は水責めを受けた。他の者には硫黄や猛烈な臭気を発する物をつめた竹をとり、これを鼻孔の先の一方に押しあて、無理に口を閉じさせて顔に潰瘡を生じさせ、他の鼻に灰をさし込んだ。このようにして犠牲者の息の根をとめ顔を爛れさせるのである。別の拷問は竹を尖らし、錐のようにして肉の中に突き刺し、時には傷の中で竹を折った。また、火縄に火をつけたのを体中ところきらわず押しあてる。手足を縛って吊しておいてひどく撲つ。嬰児の頭で母親の顔を撲つ。十三歳の女の子は耳や手を竹で刺された上で火炙りにされた。十歳と十二歳の子どもたちは両親の目の前で掌に熱い熾を載せられ、六歳の子どもは体を火箸でちぎられ、唇を切られた。5月24日七人のキリシタンが次の拷問を受けた。レオナルド作右衛門は右腕を切断され、首の筋を開くために竹鋸でひかれ、肉をさばいて傷を大きくし、最も苦痛多く、最もゆるゆると殺すために歯をつけた木か竹の鋸で引かれ、第一日目に三箇所、続く六日に二箇所切り口をつけられ、その傷口に塩を詰め込まれた。気絶すると生き返らされた。三日目と四日目には他のキリシタンたちが水責め、空洞の竹、尖った葦、火のついた火縄などあらゆる方法で拷問を受けた。八十歳になるミカエルを除いて、六人のキリシタンが転んだ。

 8月5日ディエゴ鈴木と外十一人のキリシタンが北国で斬首された。同じ日ロレンシオ太右衛門と外四人のキリシタンが磔刑になった。8月大村で一婦人は火で真赤にした火箸で指を焼かれ、口に小石をいっぱい詰め込まれ、全部の歯が折れるほど鉄拳を食わされて傷を負った。9月20日九人の殉教者が首を竹鋸でひかれ、数日後に死んだ。9月28日、大村で聖アウグスチノ会に修道者三人、二十三人の第三会員、四十六人の帯の会員が死刑になった。さらに10月28日大村の近くの放虎原でアウグスチノ会の修道者九人が斬首されて殉教した。遺骸は裸にされて千々に斬りさいなまれ、火にくべて灰にされ海に投棄された。10月 29日イエズス会の神父たちの宿主ベネディクト太郎助、ヨハネ榎浦伊兵衛、ディエゴ中島九兵衛が火炙りになった。ディエゴの母六十五歳のマリアは斬首された。11月2日ディエゴの子、九歳のヨハネ、五歳のミカエル、二歳のイグナチオ、当歳のレオが死刑になった。ディエゴの妻アガタの父レオ・フィナト弥助も斬首された。アガタは全家族の中一人だけ生き残った。

 秋田の地方では五十人のキリシタンが死刑になった。最上では三十五人が殺されたが、その中九人は火炙り、他は剣によるものであった。

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 拷問の種類の多様さ、残虐さもさることながら、子どもに対してもこれらの拷問、刑罰が公儀によって執拗に繰り返されたことは日本の歴史の暗黒面の最たるものであろう。そしてその拷問・刑罰を受けた者たちはただただキリシタンであるというその一事によってのみこのような迫害を受けたのである。パジェスは、神とその信者に対する戦争の最中、そこでキリシタンを最も狂暴に取り扱った雲仙岳の麓にある高来の小濱の温泉で、豊後守松倉重政が高熱に冒され、絶望的な苦悶に襲われて息を引き取ったことを報告している。長崎代官末次平蔵もまたこの年10月江戸で、悪霊にとりつかれ狂乱に陥り皆を呪って死んだ。パジェスの言によれば、「彼も亦、迫害者としての罰を受けに行った」と。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(34)
Weblog / 2006-11-11 09:44:44
 1631年(寛永8年) - 迫害は多数の殉教者を出していた。将軍は何としても修道者たちの召捕を願っていた。彼らを死刑にし、かくて宗教の生きた源を根絶するためであった。

 竹中釆女はかつて1929年、雲仙の湯によって数多の棄教者を出したことを思い出し、その効果を宣教師たちに試してみたいと考えた。彼らを棄教させれば、宣教師の信用とイエズス・キリストの教えの信用をなくすことができ、また将軍の寵を得たいと思ったからである。彼は11月25日にアウグスチノ会のバルトロメオ・グチエレス神父、フランシスコ・デ・イエズス神父、ビンセンシオ・カルバリオ神父、イエズス会のアントニオ石田ピント神父を長崎から大村に移した。釆女はアントニオ石田神父を二度その面前に呼び出した。斉藤権内という仏僧が表面だけでもキリシタンの教えを棄てるように説得したが効果はなかった。もう一人の仏僧も大なる名誉と豊かな富とをもって生命を助けると申し出たがやはり効果はなかった。釆女は雲仙の拷問を用いることにした。12月5日神父たちの他にポルトガル人アントニオ・ダ・シルバの妻ベアトリス・ダ・コスタとその十八歳の娘マリヤ・ダ・シルバが小丘に連れて行かれた。彼らは着物を剥がれ、首と手足をしめつけられて大きな石の上に立たされた。彼らの肩に毒気のある熱湯が器の底にあけた穴から一滴ずつ注がれたので肉は痛み、全身が傷だらけになった。異教徒たちは彼らに向かって「イエズス・キリストを拒め、そうすれば赦してやるぞ」と叫んだが、彼らは毅然たるものであった。拷問の後彼らは着物を着せられ、小屋に返された。酷暑から厳寒への移り変わりが彼らに耐え難い苦しみを与えた。医者が生命を永らえさせるため、新しい刑のために、腫物の手当をした。次の拷問まで彼らは足と手に鎖をつけられて、藁の上に横たわっていた。一日に一度食物として一椀の飯と鰯が与えられた。フランシスコ・デ・イエズス神父、石田神父、ベアトリス・ダ・コスタは六度拷問を受けた。カルバリオ神父は四度拷問を受けた。グチエレス神父とガブリエル修士は二度拷問を受けた。娘のマリヤ・ダ・コスタは第一回目の拷問で気を失って倒れたので、役人たちは「彼女は転んだ」と叫んで彼女を長崎に送った。彼らは肉体をひどく苦しめられ、いわば耐えざる殉教を受けて、山の上に三十三日間留まった。傷ゆえの苦痛に加えて虫の腐乱があった。犠牲者たちは、生々とした方法で、聖人ヨブの試練を描出した。釆女は自分が負けたことを見て彼らを一月五日に長崎に連行させた。修道者たちは公儀の牢に入れられ、二人の婦人は町の人々の家に預けられた。

 マニラでは、大村と長崎の七十八人の殉教者の教皇庁調査が、ゼブの司教でマニラの大司教のフライ・ペトロ・デ・アルツェ卿の前で始められた。


パジェス「日本切支丹宗門史」から(35)
Weblog / 2006-11-14 14:41:23
 1632年(寛永9年) - 前年の暮れに第二代将軍秀忠が享年五十二歳で亡くなり、彼の息子家光が三十歳で第三代将軍職を引き継いだ。彼の治下に、三十三人のイエズス会の修道者、六人のアウグスチノ会員、六人のドミニコ会員、二人のフランシスコ会員、二人の在俗司祭が殉教した。

 この年の初頭から多くの殉教があった。一月十三日、大阪でイエズス会の神父たちの宿主パウロ山本彦太夫とその妻、子ども二人が火炙りとなり、娘二人が斬首された。同日江戸では六人のキリシタンがとろ火で焼かれ、一人の子どもは斬首された。一月三十一日、奥州白河で十三人のキリシタンが火炙り、あるいは斬首された。二月八日、奥州の諸方で五十六人のキリシタンが大人は火炙り、子どもは槍で殺された。二月十二日、各地で十三人の他のキリシタンが火炙り、斬首、あるいは生きながら海に投げ込まれた。八月八日、他の二人が斬首された。

 この年には随分前から言って、一ばん多くの宣教師が帝国内に入り込んだ。セバスチアン・ビエイラ神父、マンシオ小西神父、パウロ斉藤神父、その他聖ドミニコ会のジョルダノ・ディ・サン・ステファノ神父と日本人ディエゴ・デ・サンタ・マリヤ神父の二人、聖アウグスチノ会員のフランシスコ・デ・ガルシヤ神父と日本人ミカエル・デ・サン・ヨゼフ神父の二人、アウグスチノ会の隠修士ベルシオール・デ・サン・アウグスチノ神父とマルチノ・デ・サン・ニコラス神父、フランシスコ会のジネス・デ・ラ・ケサダ神父とヨハネ・トルレラ神父の二人刑十一人であり、これは迫害が始まって以来行われた最も著しい遠征であった。

 竹中釆女は前年に捕らえていたベアトリス・ダ・コスタとその娘マリヤ・ダ・シルバに追放を言い渡した。彼女らは、1634年に出発してマカオに行き、そこで二人はベアトリスの夫である船長アントニオ・ダ・シルバと共に、聖クララの修道院で、フランシスコ会に入り、その修道院で聖人のようにその生涯を終わることができた。

 九月三日、フライ・ビンセンシオ神父、フライ・グチエレス神父、フライ・ガブリエルがとろ火の火炙りで殉教した。翌日、聖フランシスコ会の第三会員、十字架のヨハネ・ヒエロニモの宿主が火炙りになった。

 十一月一日、跣足のアウグスチノ会員ベルシオール・デ・サン・アウグスチノ神父とマルチノ・デ・サン・ニコラス神父が長崎で捕らわれ、公儀の牢に入れられた。十二月十一日輿を閉じたまま刑場に連れて行かれた。銘々の輿には「この者共は、イエズス・キリストの教えを説きたるにより、火刑に処するもの也」と記した旗がつけてあった。二万余の人々がこの刑に立ち会った。同日、長崎では、二人の宣教師の宿主であった四人の日本人が斬首された。十二月十三日頃、二人のフランシスコ会員が捕らわれ、間もなく彼らは焔の中に息を引き取った。


パジェス「日本切支丹宗門史」から(36)
Weblog / 2006-11-16 14:26:47
 1633年(寛永10年) - この年、日本で、各会の修道者三十四人と土着のキリシタン四十六人とが落命した。中、二十四人のイエズス会員、三人のドミニコ会員、二人のフランシスコ会員、三人のアウグスチノ会員が数えられた。

 三月二十七日、長崎で日本人ドミニコが斬首され、日本人ペトロが火炙りになった。七月四日ドミニコ会のディオゴ・デ・サンタ・マリア神父が逮捕され、十四日まで大村に留め置かれ次いで長崎に移された。七月二十二日長崎でイエズス会のトマス西掘修士、ドミニコという二人の日本人、トマスの宿主のもう一人のドミニコとその子どもが奉行今村伝四郎および曽我又左衛門の命令によって火炙りとなり、日本人フランシスコが斬首された。七月二十八日、慈悲会の監督ミカエル薬屋が火炙りになった。

 暴君たちは新奇な刑罰を考案した。犠牲者は血行を悪くするために、綱で体をぎりぎりにしめつけられ、次いで深さ二パール、直径一パールの穴の上に吊され、底まで下ろされた。真中を三日月形に切り込んだ板で体をおさえ、真中で合わされるのであった。大きな石で臺を支え、囲中を狭めていた。この刑で殉教者たちは口や鼻や耳から血を流していた。七月三十一日、長崎で、この苛酷な刑罰が、イエズス会の修士ニコラス福永慶庵に対して行われた。彼は二十八日、木曜日の夕方三時から三十一日日曜日朝九時まで、穴の中にいた。

 この頃、大阪の手前の、ある船中で、イエズス会の代理管区長セバスチャン・ビエイラ神父が発見された。彼は長崎の牢舎に移され、そこからさらに大村の牢舎に移された。間もなく、マノエル・ボルゲス神父が二人の伝道士と共に、豊後で捕縛されて長崎に連行された。

 八月十三日、長崎で七人のキリシタンが火炙りになった。八月十五日、同市で、日本人の一フランシスコ会員が刑を受けてから三日目に穴の中で絶命した。八月十六日、イエズス会のマノエル・ボルゲス神父が穴吊しで絶命した。神父と共に修練者ヨゼフ・レオイム、ディエゴ進藤修士、外三人の日本人も十三日に吊され、次々と息を引き取った。八月十五日アウグスチノ会のフランシスコ・デ・ガラシヤ神父、ドミニコ会の日本人ディエゴ・デ・サンタ・マリヤ神父、ドミニコ会の二人の修士ミカエル喜兵衛とヨハネ与兵衛、アウグスチノ会の二人の修士フランシスコとヨハネが穴の中に吊された。他の日本人の中、五人は火炙りとなり、一人は斬首された。彼らは八月十七日、十八日、十九日にその霊魂を天主に返した。有馬の付近で、二十四年間日本にいたヤコボ・アントニオ・ジャノネ神父とその伴侶であるヨハネ木寺修士は八月二十七日島原で吊され、八月二十八日と二十九日に死んだ。八月二十七日に島原でその大部分が宣教師たちの宿主であった十一人のキリシタンが火炙りになった。八月二十九日ドミニコ会のドミニコ・デ・エルキシヤ神父、フランシスコ神父が長崎で吊され、穴の中で落命した。九月八日ドミニコ会のルカス・デル・エスピリット・サント神父とイエズス会のアントニオ・デ・ノーザ神父が捕縛され、フランシスコ会の神父と一緒にされた。彼らは他の九人の囚人たと共に大阪を発って兵庫、小倉を経て九月二十四日に長崎に着いた。そこにはイエズス会の神父たち、クリストファル・フェレイラ神父、ヨハネ・マテオ・アダミ神父、ジュリアノ・デ・中浦神父たちが監禁されていた。

 九月の末頃、志岐の牢舎で修士として入会したパウロ斉藤神父の伴侶である日本人ディエゴ・タクシマが火炙りになった。同時に小倉で、ジュリアノ・デ・中浦神父と共に捕らわれたトマス了寛、ベント・フェルナンデス神父の伴侶ルイス・カフク、ヨハネ・ダ・コスタ神父の伴侶ディオニジオ山本が火炙りになった。同じ頃江戸で、イエズス会の古い日本人修士ヨハネ・ヤマが穴の中で死んだ。長崎の付近でイエズス会の日本人ミカエル・ピネダ神父が嵐の夜、その宿主から返され、死病にとりつかれて、三日目に死んだ。

 七月三十日二十七年前から日本に潜入していたイエズス会のベント・フェルナンデス神父が長門で捕縛された。九月二十五日に彼は同じくイエズス会の日本人パウロ斉藤神父と共に穴の中に入れられた。フェルナンデス神父は二十六時間穴の中にいた後出されて番人の家に移された。パウロ斉藤神父はまる七日間穴の中にいた。七日間何も食べずに過ごし、最後に息を引き取った。その通知を受けてフェルナンデス神父は「私はパウロを待っていた」と言って息を引き取った。十月二日のことであった。二人の遺骸は剣で寸断され、火中に投ぜられて焼棄てられた。フェルナンデス神父は五十四歳、イエズス会にあること三十八年、日本滞在二十七年であった。斉藤神父は五十六歳、イエズス会にあること二十六年であった。彼らに宣告を与えた奉行は今村伝四郎と曽我又左衛門であった。十月八日、九日、十日に、長崎で、ポルトガル人のヨハネ・ダ・コスタ神父と日本人の斉藤徳雲が穴吊しで死んだ。二人ともイエズス会員であった。その他聖フランシスコ会の第三会員ヨハネ宮崎、イエズス会の修士ダミヤン深江、イエズス会の従僕ロレンシオ・フシ、イエズス会の修士で日本人のルイス、外二人の日本人が穴に容れられて死んだ。一人は拷問の七日後に投獄され、斬首された。十月十八日長崎でイエズス会の管区長ポルトガル人クリストファル・フェレイラ神父とイエズス会日本人神父ジュリアノ・デ・中浦神父が穴の中に入れられた。又イエズス会のヨハネ・マテオ・アダミ神父、イエズス会のアントニオ・デ・ソーザ神父、聖ドミニコ会のルカス・デル・エスピリット・サント神父、イエズス会の日本人ペトロ修士とマテオ修士、聖ドミニコ会の日本人フランシスコ修士が穴の中に吊された。この時フェレイラ神父が転んだ。十月二十九日イエズス会のマテオ・デ・コーロス神父が殉教によってでなく、種々苦しみの末に落命した。六十三歳、イエズス会にあること四十八年、日本滞在四十三年であった。

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 この一年間で何と多くの司祭、修道士たちが殉教したことであろう。また彼らの宿主たちもほとんどの人々が火炙りになった。フェレイラ神父の棄教という暗いニュースもあったが、修道士、司祭、信徒の多くは恩寵に助けられて殉教の冠を得た。心優しき日本人の誰かが、特に宗教者たちが、信仰の故にのみ殺されるこれらの人々に対して、何らの反対の動きを示さなかったことは不思議なことである。高名な仏僧の中にはむしろ迫害を煽った者もいたと言われている。彼らの言う慈悲心とは何だったのか?

パジェス「日本切支丹宗門史」から(37)
Weblog / 2006-11-19 07:19:42
 1634年(寛永11年) - 四月十七日、長崎で至聖三位一体修道会のアルベルト・デル・エスピリット・サント神父が長いこと熱鉄で悩まされ、最後に動悸する心臓を抉りとられて殉教した。六月六日、イエズス会員セバスチャン・ビエイラ神父、フランシスコ会員ルイス・ゴメス神父と両修道会の修士六人が穴に入れられた。ゴメス神父と修士たちは皆ビエイラ神父よりも先に息を引き取った。三日後の六月九日にビエイラ神父はまだ生きていた。彼は、穴の中では死なず、焔で死ぬと預言していたのであった。果たして家来たちは彼の息を引き取るのが待ち切れず、柴束を積重ねて、点火した。この火炙りにあって、ビエイラ神父は労苦と艱難に満ちたその四十五年の使徒的生涯を終わった。ビエイラ神父の殉教の報に、マカオの総督ドン・マノエル・デ・カマラ・イ・ノローニャは、大祝祭を挙行し、これは十三日間続いた。

 武家で、有徳の両親により、長崎で生まれたマリヤ・マグダレナの殉教の話は原典を読まれることをお勧めする。彼女の両親と兄弟も殉教者であったが、彼女は十八歳の若さで数々の拷問を受けた後、穴の中に入れられ、雨のために半分水の入った中で溺死させられた。

 八月四日ドミニコ会のジョルダノ・ディ・サン・ステファノ神父とトマス・デ・サン・イヤシント神父が捕縛され四ヶ月と七日牢に入れられた。その間彼らは水責めにあい、ジョルダノ神父は六十杯の手桶の水を飲まさ、トマス神父はそれよりやや少なかった。次ぎに彼らは火で尖らせ固くした竹を爪の下に突き刺された。彼らは十一月十一日に火刑場で火を点けられ、倒れた後、しっかり縛られ足を吊され穴の中に突っ込まれて大きな石のついた板につけられた。ジョルダノ神父は七日間、トマス神父は数時間生きていた。この時、六十七人のキリシタンも一緒に牢舎から引き出され、大多数の者が斬首され、若干の人々が穴吊し、火炙りで殉教した。時日は不明であるが、日本人のアウグスチノ会員ミカエル・デ・サン・ヨゼフ神父が長崎で捕らわれ、穴吊しで殉教した。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(38)
Weblog / 2006-11-21 12:49:36
 1635年(寛永12年) - 七月二日、大阪と江戸との間に、台風が恐ろしい禍を招来した。米その他の貨物を積み、各々十二人から十五人の乗組員の乗込んでいた千九百二十隻の船が呑込まれた。

 八月十六日ポルトガル人たちは奉行から厳重な命令を受けた。その中で、キリシタン宗門に関して次のような条項があった:ローマ今日の行渡れる地方では厳重に吟味すること、ローマ教徒の住居を通告した者は銀百枚を得ること、ローマ教徒であるイスパニヤ人はその訴訟の判決まで大村の牢舎に入ること、ローマ教徒の捜索に全力を尽くすこと。この年もう一つの勅令が出たが、それは隣人の連帯責任を重くし、あらゆる人は例外なく、自らがキリシタンでなく、日本人であることを保証するために、僧侶が誰であるか、檀那寺は何寺であるかを証明する二つの証文を出さなければならなかった。

 一月二日、マカオで司教ドン・フランシスコ・ダ・セナの前にカルディム神父はベント・フェルナンデス神父、パウロ斉藤神父並びにニコラス慶庵修士の殉教の調書を提出した。マニラで、アウグスチノ会の大司教ドン・フランシスコ・エルナンド・ゲレイロの前で、日本の大勢の殉教者に関する報告があった。

 布教聖省では、五月二十八日、前々から日本に行くことになっていたドミニコ会員のアウグスチノ・デ・ラス・シャーガス神父は、秘かに司教に挙げらるべし、同会の総長が彼をこの道を通って日本に行き、彼の受けた品級秘蹟の授与権によて、日本の他の司教をつくるべく、彼をアルメニヤ管区の管区長とし、また同会の東インドにおける修道院の巡察師にしたいとの希望を述べた。

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 現代の教会の問題の中でエキュメニズムの問題は大きな問題の一つである。エキュメニズムとは何か?私はこの問題について説教壇から神父様によって説明がなされたのを聞いた記憶がない。神父様が口になさるのは「第二バチカン公会議の精神」というような漠然とした言い方であり、その精神が何であるかの説明もなかったと思う。かつてカトリック教会が教えてきたこととかなり異なった教えが信徒にははっきり説明されることなく、教えとしてでなく、実践として浸透している。"We Resist You To The Face" の著者たちは第二バチカン公会議以来のエキュメニズムの考え方は、その原理として宗教的多元主義、「キリストの教会」と「匿名のキリスト教」という見方を根底に据えている、と言っている。

 宗教的多元主義はカトリック教会がずっと主張してきた一つの正しい「啓示」と一つの正しい解釈が存在するということを否定して、他の諸宗教が彼ら自身の啓示とそれについての彼ら自身の正当な解釈を持っているということを承認する。どの宗教も人間の救いに通ずるということが原理的に承認されるので、宣教の意味はなくなることになる。内容的に相反することも等しく真理として尊重される。しかし、十戒の第一である「われを唯一の天主として礼拝すべし」という掟は被造物を崇拝する宗教を容認できるであろうか?


パジェス「日本切支丹宗門史」から(39)
Weblog / 2006-11-22 09:40:13
 1636年(寛永13年) - 二月十五日、大村から程遠からぬ森の中でイエズス会のディエゴ結城神父が捕らわれた。宿主は誰かと訊かれて神父は「二十年来、私は人に迷惑をかけぬために、野や森の中をさまよい、野の草や実で生命をつないで参りました」と答えた。三日間穴吊しの拷問に耐えた後殉教した。六十歳、イエズス会にあること四十一年であった。四月七日、長崎で在俗のポルトガル人ヒエロニモ・ルイスが、マカオの一司祭の書簡を所持していたという理由で火炙りになった。

 四月十二日、将軍は老若の跛や盲、八十三人の不具者をキリシタンという理由で集めさせた。これらの不幸な人々は町外に導かれ、囲いはあるが吹きさらしの畠の中に押し込められた。将軍の命令は彼らがそこで飢え死にしなければならず、また彼らの中の誰も、全部が息を引き取らぬ中は、埋葬してはならないというものであった。

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 現代エキュメニズムの第二の特徴は「キリストの教会」という概念の導入である。かつては「キリストの教会」はカトリック教会と同一であった。分離した東方教会や反旗を翻したプロテスタント諸派は「キリストの教会」すなわちカトリック教会から離反した集団である。従って、カトリック教会は、キリスト教の一致はそのように離反した人々のカトリック教会への帰正以外にはあり得ないと考えていた。しかし現代エキュメニズムは「キリストの教会」はカトリック教会よりも範囲が広いと主張する。つまり、ローマ・カトリック教会から離反したギリシャ正教やロシア正教も宗教改革によって無数に分裂しているプロテスタント諸派もすべて「キリストの教会」に属すると。しかし、これはキリスト教の「一致」であろうか?カトリック教会が宣言してきた「教会の外に救いなし」はその教会をカトリック教会ではなくて「キリストの教会」であると拡大解釈することによって、すべてのキリスト教徒が救いに参与するということになる。カトリック教会への帰正は無意味となる。ロシア正教やギリシャ正教、プロテスタント諸派に対するカトリック宣教も意味をなさない。宣教活動は麻痺に陥る。現にロシアではロシア正教徒に対するカトリック教会の宣教は違法行為とされている。


パジェス「日本切支丹宗門史」から(40)
Weblog / 2006-11-24 15:46:09
 1637年(寛永14年) - 長崎では殉教者が増加しつつあった。九月一日、十七人のキリシタンが穴の中で絶命した。うち三人は婦人であり、いずれも聖アウグスチノ会の第三会員あるいは会員であった。その他夥しい会員がやはりこの年に殺された。1636年中にドミニコ会のアントニオ・ゴンサレズ神父、グリェルモ・クールテー神父、ミカエル・デ・オツァラツァ神父、日本人のビンセンシオ・デ・ラ・クルス神父が琉球に着いたが逮捕され薩摩に連行され、薩摩から長崎に連れて行かれた。奉行所で背教伴天連のトマス荒木がオツァラツァ神父にラテン語で話しかけた。オツァラツァ神父はこれに答えて「貴殿は、ラテン語を話されるから、棄教者であろう。貴殿は言葉の方はお上手だが、教理の方は駄目だ」と言った。トマス荒木は狼狽して席を外した。三人は水責めにあい、めいめい二百樽の水を注がれた。漏斗で水を注ぎ込まれ、水を吐かされ、また注ぎ込まれた。地面に横たえられ、その上に板をのせられ、足で踏みつけられた。オツァラツァ神父は死刑執行人から「なぜ君たちは死を求めて日本に来たのか」と問われてこう答えた。「われわれが日本に来たのは、死ぬためではなく、天主様の信仰を伝え申さんがためである。すなわち、日本人に真に唯一の神なるイエズス・キリスト様の教えを説き、救済の道を教えんがためである、そしてわれわれは、その証拠としてわれわれの生命をも悦んで犠牲にするのである」と言った。九月二十一日にゴンサレス神父と二人の俗人の伴侶が上陸したが捕らえられ、九月二十三日水責めを受けた・ゴンサレス神父は水から上げられると多量の血を吐いた。再び牢舎に入れられたが翌日亡くなった。九月二十七日生き残った癩病の日本人、混血児ロレンシオ・ルイス、ビンセンシオ・デ・ラ・クルス神父、グリェルモ神父、ミカエル神父が刑場に連れて行かれ、穴に吊された。二日後役人たちはその場所を立ち去りたくなり、犠牲者の首を刎ねて、処刑を終わるように命令した。二人の俗人は息が絶えていた。三人の神父が首を刎ねられ、遺骸を焼かれて海中に棄てられた。

 フェレイラ神父の背教のニュースがヨーロッパに知れ、イエズス会その他の修道会の中に非常な苦痛を与えた。イエズス会の修道者たちは自分たちの血でフェレイラ神父の罪を洗うために、皆競って日本に遣られることを望んでいた。1635年イエズス会の神父三十四人がリスボンで乗船した。その長はマルセル・フランシスコ・マストリリ神父であった。奇蹟的な生涯を送ったマストリリ神父は九月十九日薩摩に上陸したが捕らえられ長崎に連れて行かれた。十月五日彼は役人の前に出頭した。証人たちは、深い感動をもって彼の頭をめぐる大きな光を見た。最初の二日マストリリ神父は水責めと梯子責めの二つの拷問に遭った。三日目に素裸にされ、真赤に焼けた焼鏝で陰部を焼かれた。この拷問の後また水責めが始められた。その後牢舎に連れて行かれ、死刑の宣告を受けた。番人と、彼を訪ねて来た奉行さえも、彼が空中に浮かび、後光がさしているのを認めた。外にいる者も、空中に不思議な光があって、それは牢舎の上まで垂れ下がって入るのを見た。十月四日午前十一時に神父は刑場に連行された。説教ができないように、鋭い釘を植えた鉄板を口の中につめ込まれ、頭の右側を剃られ、左側を紅がらで染められる恥辱を受けた。彼は穴の中でまる四日間逆さに吊されていたが、不思議にも彼の体からは血が下りなかった。かつてこういうことはなかった。奉行はこのことをきかされ、斬首を命じた。第一撃ではかすり傷さえつかず、第二撃で漸く微かな傷がついた。刑吏はすっかり恐ろしくなって太刀を投げ出した。神父は彼に「我が子よ、命令を果たしなされ」と言った。刑吏は再び太刀を取り直して今度こそ一撃の下にばっさり首を刎ねた。時に全国で、地面がしばらくの間震えた。そして太陽は奉行の屋敷の上で暗くなった。この赫々たる殉教は、マカオ、マニラ、リスボン、マドリッド等諸方至る所で真に厳かなる祭典をもって祝された。
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 現代エキュメニズムの第三の考え方は「匿名のキリスト教」というカール・ラーナーの考え方を取り入れている。何かあることを真摯に信じている人々、あるいは何らかのよい行いをしている人は、その人がそのこと[匿名のキリスト者であるということ]を理解していないとしても、事実としてキリスト教徒であるという極めて鷹揚な考え方である。つまり彼は、ユダヤ教徒であれ、イスラム教徒であれ、仏教徒であれ、ヒンズー教徒であれ、とにかく宗教の名のつくものを信仰していれば、匿名のキリスト教徒であるというわけである。あるいは第二の「キリストの教会」という概念をさらに拡大したものとしての「神の教会」の概念を導入し、人類はすべての神の子であるから「神の教会」に属するものであるとする。こうなると、宗教を信じる者だけでなく、無神論者もすべて「神の教会」に属する者ということになってしまう。このようにしてエキュメニズムは教会を教会の敵であるすべてのものに適合させ、そこに偽りの対話や平和を求めるようになる。ここにはもう敵はいないのであり、悪と戦う教会という地上の教会の使命はもはやない。平和という名目の下に共産主義者とも共闘している司教様たちはこの最も広い意味でのエキュメニズムの信奉者なのであろう。しかしこれはカトリックのドグマとは正面から衝突する考え方であると思う。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(41)
Weblog / 2006-11-27 20:54:10
 1638-1639年(寛永15-16年) - 1638年十二月十七日、有馬に大乱が勃発した。島原地方のキリシタンたちが暴動を起こし、代官とその部下若干名を殺したというので、ために全国挙って、武器を執ったものであった。誰も、この反乱を宗教的理由に帰するのであった。しかし、これは真の理由ではなかった。久しい前から有馬の領主松倉長門守重治は収入を増やすために家臣の物資や生命を脅かした。普通の税に加えて九分の一税その他の重税を課した。支払いのできない百姓は酷い虐殺を受け、人質としてその女房を連れ去られ、氷ついた水に浸けられ、中には妊娠している女が死ぬこともあった。ある名だたる百姓の娘が連れて行かれ、裸にされて燃えさかる薪で全身を焼かれた。父親はそのことを聞いて怒り狂い、仲間の者を語らって代官とその家来を襲った。虐殺された家来は三十人に及んだ。これが反乱の導火線であった。三万五千人が原ノ城に籠城し、これに対して諸侯連合の軍隊二十万が包囲した。四月十五日原ノ城は陥落し一人の生存者もなかった。

 七月江戸でイエズス会の日本人ペトロ・カスイ神父が物凄い拷問を受けた後、穴に吊されて死んだ。白州で彼はフェレイラに引き合わされ、彼に向かって堂々と非難した。面食らったフェレイラはその場を外した。カスイ神父はそのとき五十一歳でイエズス会にあること十九年であった。この年イエズス会のヨハネ・バプチスタ・ポルロ神父が火炙りになって殉教した。

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 現代のエキュメニズムはカトリック教会を同心円の中心には据えるものの、異端的なプロテスタント諸教派やローマから分離した東方教会もより広い円の中に含まれ、さらに他の宗教、あるいは無神論者たちをもその外側の円の中に含まれて、すべて救いに与ると考える同心円の考え方に立っている。諸宗教、諸宗派、無宗教をその多様性をそのままにして包含する世界的な団体としての「神の教会」においてはもはや宣教の使命はない。それを「多様性における一致」” Unity in Diversity”という。「汝ら、全世界に行きて、すべての被造物に福音を述べよ。信じ、かつ洗せらるる人は救われ、信ぜざる人は罪に定められん」(マルコ16:15-16)というキリストの命令は消滅したと宣言される。”We Resist You To The Face”の著者たちはこのようなエキュメニズムの実践的な結果は「戦う教会」Church Militant という考え方の消滅、教会の宣教的性格の喪失であると言っている。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(42)
Weblog / 2006-11-29 21:40:31
 1640-1641年(寛永17-18年) - 1639年八月四日将軍家光はマカオのポルトガル人に対して日本との通商を厳禁する勅令を二隻のポルトガル船に通告していたのであった。マカオの元老院は最後の努力を試みようとして、ルイス・パエス・パシェコ、ロドリゴ・サンチョ・デ・パレデス、ゴンサロ・デ・モンテイロ・デ・カルバリオ、シモン・バス・デ・パイバの四人を大使として江戸の政庁に行かせ、ポルトガル人の町であるマカオが有馬の反乱に何ら関与しなかったこと、数年来マカオから宣教師が日本には潜入しなかったことを説明させるようにした。この使命を担った者は大使を入れて全部で七十四人、水夫や従者もこの危険な命令を受け、秘蹟の拝領によって、この使命を果たす覚悟を決めた。公の祈祷が宣教師や全市によって挙げられ、御聖体の公顕示が全部の天主堂で行われた。大使の一行は1640年六月二十二日マカオを出帆し、七月六日長崎の手前の殉教者の島の前に到着した。奉行所の役人が来て奉行宛の大使の書簡を受け取り、商品のないことを確かめた上で船の舵を外し、船を港の置くに導いた。翌日には大砲が取り外され大使とその一行は上陸させられ、囚徒としてポルトガルの商館に監禁された。長崎奉行は大使の書いた長い覚書と、自らの報告とを将軍に送りその裁決を待った。嘆願書の形式を備えた大使の覚書は来朝の理由、マカオの町の利益と将軍自らの利益から見た種々の動機を述べ、貿易の復興を要求していた。しかし将軍はヨーロッパ人に対してもはや決して赦さないことを誓っていた。キリシタンの信仰がヨーロッパの商品に取り紛れ、商品と共に日本に入って害毒を流すという評判であった。僅か十一日後に将軍の回答が来た。八月一日、大目付加々爪民部輔忠澄、野々山新兵衛兼綱が長崎に着き、翌日将軍の裁決を通告した。彼らはヨーロッパ人と同数の死刑執行人とを連れて来ていた。将軍の命令あるにかかわらず、なぜ日本に入ったのか、との問いに大使たちは、命令は通商に関係はあるが、使節には関係がないと答え、自然法と国際法とを引証した。判決は大使は一行と共に死刑、ただし生き残ってマカオに帰るべき者十三人を除く、というものであった。八月三日十七ヶ国の老人から八歳の子どもまであらゆる年齢のキリシタン六十一人がイエズス・キリストのために殉教者となり、十三人の水夫は八月三十一日、脆弱な船で出帆し、九月二十日マカオに着いた。マカオ全市はその使者を最大の歓びをもって迎え、地上の大使から、天への大使となさしめ給うたことにつき、天主に対し身を以て厳粛な感謝を行った。殉教者たちの家族はこの祝祭において第一列に並んだ。

 十一月九日平戸のオランダ商館のキリスト紀元の年号の書いてある破風をもった新しい倉庫、その他の家屋を全部破壊せよという幕府の命令が実行された。オランダ人は日曜を祝うことを禁ぜられ、またいかなる場合にもわが主イエズス・キリストの年号月日を用いることを禁ぜられた。1641年五月十一日、オランダ人は平戸から長崎出島への移転の命令を受け、十日後に移転した。

 1641年八月二十日、フェレイラ神父の棄教に関し、また彼の聖なる十字架に対してなした彼の背教に関しての報告が行われた。この棄教者は、足に踏ませてキリシタンを発見するために十字架を偶像の寺の敷居に置いた。

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 エキュメニズムはヨハネ福音書第十七章第二十一節「彼らがことごとく一ならんためなり」(Ut omnes unum sint)を拠り所として教義や秘蹟・典礼などの相違に目をつぶり、一致を求めようとしている。キリストの教えを受け入れない者に関してキリストはこう言っておられる。「すべて汝らを受けず、汝らの言葉を聞かざる人に向かいては、その家または町を出でて、足のちりを払え。われ誠に汝らに告ぐ、審判の日にあたりて、ソドマ人とゴモラ人との地は、この町よりも忍びやすからん」と。カトリック教会に対してその敵が常に持っている憎しみについてキリストは弟子たちに予め警告なさった。「見よ、わが汝らを遣わすは、羊を狼の中に入るるがごとし、ゆえに蛇のごとくさとく、鳩のごとく素直なれ。人に警戒せよ、そは汝らを衆議所に渡し、また、その諸会堂にてむち打つべければなり。またわがために汝ら官吏、帝王の前に引かれて、彼らおよび異邦人に証となることあるべし。...また、わが名のために、汝らすべての人に憎まれん。」(マテオ10:16-18,22

パジェス「日本切支丹宗門史」から(43)
Weblog / 2006-12-04 15:05:08
 1642-1643年(寛永19-20年) - オランダ人は出島で監視を受け、ポルトガル人より、さらにひどい取り扱いを受けていた。島中や船上で宗教的勤行を行うことは禁止された。1642年八月二十一日、アントニオ・ルビノ神父、ディエゴ・モラレス神父、ペトロ・マルケス神父、アントニオ・カペチュー神父、アルベルト・メチンスキー神父、それに神父たちの伴侶である俗人のポルトガル人パスカル・コレア・デ・ソーザ、朝鮮人トマス、パタニの人ヨハネの船がマニラから薩摩海峡の小さな島に来て座礁し、彼らは海岸に上がったが逮捕されて長崎に連行された。背教者フェレイラと対面した巡察使神父はいかにも残酷な言葉でフェレイラに話しかけ、フェレイラは退去するのやむなきに至った。神父は将軍の禁制を知らぬかと訊かれ、知っていると答えた、しかし、何より先に、自分は神の掟に従わなければならず、何千の魂を地獄から救い出すように努力し、イエズス・キリスト様の血によってあがなわれたこれらの魂の救済のために、自分の命を犠牲にするよう努めなければならぬと答えた。尋問の数日後、彼らは拷問を受け、まず水責めにあった。彼らは七ヶ月間これを受け、二日に一回、休みの日と刑の日あり、すなわち計百五回受けた。人々は、たいまつと赤熱した鉄で、肉体を焦がし、彼らが息を引き取ろうとした刹那、薬で元気づけられて新しい刑のため残しておかれることになった。 1643年三月十六日、これまでのものより一層苛酷な水責めが行われた。三月十七日に穴吊しにするという宣告が通告された。彼らは跪いて天主に感謝した。彼らは後ろ手にきつく縛られ、頭の半分を剃られた上に、赤く塗られた。口には鉄板を押し当てられ、駄馬に乗せられ、肩には次のように記したものをつけられた。「日本の皇帝は、この者ども全領域内において、永年禁制のローマ教を説きたるにより、死刑に処するものなり。」彼らは長崎の目抜きの場所を通過して天使や衆人の見物に供された。彼らは数日の間穴の中に吊されたままであった。最初にトマスが三月二十一日息を引き取った。ルビノ神父は二十二日、三日後にメチンスキ神父、パタニのヨハネが息を引き取った。パスカル・コレアは二十四日に死んだ。後に残った三人はまる九日間生きていた。三月二十五日彼らは穴から引き出され縛られたまま斬首された。遺骸は切りきざまれた上、灰にされて俵に詰め込まれ、沖にまき散らされた。殉教の報は十二月八日にマカオに着いた。この機会に大々的の祝祭が行われた。

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 現代エキュメニズムが放棄したカトリック教会の戦闘性とは以上のような殉教者たちの戦闘性であって、この世で武器弾薬によって敵を抹殺する戦闘性ではなかった。同じく現代のエキュメニズムが放棄した宣教精神を400年前の宣教師たちはおのれの生命を犠牲にして発揮したのであった。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(44)
Weblog / 2007-03-25 18:00:08

1644 - 1651年(正保元年 - 慶応四年)- 正保二年(1645年)の四月二十三日将軍世子家綱は正二位大納言に補せられた。この年、日本及び支那の管区長で、マカオの学林の長であるガスパル・デ・ アマラル神父が、マカオから東京(トンキン)に向かう途中、難船に遭って死んだ。アマラル神父は、日本が断然、閉鎖されているのを見て、東京に帰らんとし て、航海中に死んだ。1646年、日本政府は支那人に対し、非常な好条件で、全帝国内で売買の権利を与えた。1649年に、イエズス会のディオゴ・ルイス が死んだ、彼はポルタレグレの司教管区アルバラムに生まれ、元エボラの神学の教授であり博士で、日本のために指名された司教であった。国王ジョアン四世 は、彼の代わりに、エボラの司教管区のビアナに生まれ、この町の大学の哲学の教授であったイエズス会のアンデレレヤ・フェルナンデス神父を選んだ。この任 命は前回同様実現されなかった。 慶応四年(1651年)に父の秀忠が没すると、源家綱が将軍になった。 布教聖省では、1644年に、総長によって承認されたアウグスチノ会のクリストフォロ・デ・アルマンサ神父と同会の修士一人に、日本に向けて出発すること を許した。六月二十一日、同省は、四人の大使とその伴侶の殉教の報告をきいた。 1645年四月二十五日、同省は、ゴアにいたミラの大司教に、世俗と修道会の司祭達を日本に遣わすこと、又彼らに司教の本質的権利を除く他の一切の自分自 身の身の権利を委託することを許した。 最後の頃は、ヨーロッパに対し、日本におけるキリシタンの最後の足跡を絶滅したように思われていた。なお生き残っていた少数の司祭は、死ぬために運命づけ られているように見え、マニラやマカオから遣わされた宣教師達は、爾後帝国内に入ることはできなかった。五十年後にシドッチ唯一人だけが入り込むことがで きたが、忽ち捕らわれて殉教した。 しかし、教えは生きのこる筈であった、而して二世紀後に、これがあらわれた。 棄教したオランダ人はこの事を理解しない為に、日本の教会の無窮の光栄を我々に見せないで、二百年の間出島の商館を守っていた。

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長い間中断していましたこのブログの「パジェス『日本切支丹宗門史』」の最後の章はこれで終わりです。

慶応四年(1651年)に家綱が将軍になった後にも、キリシタン史を繙くと以下のようなことが続きます。 1654(承応3)天草に切支丹宗門禁制の高札が立つ。1657(明暦3)・大村藩でキリシタン608人を召捕(うち牢死78人)。1658(万治1)・ 大村牢の131人、放虎原で獄門。残り280人長崎その他で処刑。 1659(万治2)・豊後でキリシタン召捕開始。1664(寛文1)尾張藩内キリシタン207人を処刑。・諸藩、代官所に宗門改役の設置を命じる。 1667(寛文7)・尾張でキリシタン756人を処刑。1671(寛文11)・宗門人別改帳の作成布達。1674(延宝2)・宣教師訴人褒賞額を銀500 枚とする。

パジェスが上に延べたように、1708(宝永5)年ジョヴァンニ・バプチスタ・シドッチが屋久島に潜入上陸して捕らえられ、長崎より江戸に送られて新井白 石の審問を受けたことは日本史でも有名なことです。その後も1873(明治6)の切支丹宗禁制の高札撤去まで、迫害と殉教の歴史はまだまだ続いています。

 今年の秋日本で初めて執り行われる「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式を機会に日本の無数の殉教者たちが現代の日本の教会に残したメッセージは何であったかを改めて考えてみたいと思っています。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(1)
Weblog / 2007-03-27 21:47:35

188殉教者の殉教は八代の殉教者ヨハネ南五郎左衛門の1603年から江戸の殉教者ペトロ岐部かすいの1639年までの36年間に起こっている。この期間は徳川家康と家光の初代と第二代将軍の時期である。日本カトリック司教協議会 殉教者列福調査特別委員会編の「殉教者を想い、ともに祈る週間 - ペトロ岐部と187殉教者の列福に向けて - 」によれば1.八代の殉教者11人、2,山口の殉教者2人、3.薩摩の殉教者1人、4.生月平戸の殉教者3人、5.有馬の殉教者8人、6.天草の殉教者1人、7.京都の殉教者52人、8.小倉・熊本・大分の殉教者18人、9.江戸の殉教者1人、10.広島の殉教者3人、11.雲仙の殉教者29人、12.米沢の殉教者53人、13.長崎の殉教者3人、14.大阪の殉教者1人、15.長崎の殉教者1人、16.江戸の殉教者1人の計188人が今回の列福者たちである。、岐部ペドロ・カスイ神父と結城ディオゴ神父についてはすでにこのブログの昨年8月20日 - 23日、8月29日 - 30日に触れた。他の殉教者たちについて全員にはとても触れることができないが、片岡弥吉氏の「日本キリシタン殉教史」等を参考にしてたどれるだけの殉教者を取り上げて行きたい。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(2)
Weblog / 2007-03-28 13:23:48

1603年12月8日、ヨハネ(ジョアン)南五郎左衛門が熊本で殉教した。この年加藤清正は肥後八代のキリシタン武士十四名に棄教を迫ったが、最後まで信仰を守り、壮烈な殉教をとげたのは彼とシモン竹田五兵衛であった。五郎左衛門の妻マグダレナは夫が逮捕されて連れて行かれるとき、彼にこう叫んだという。「あなた様、必ず神さまをお捨てなさいませぬように。万一あなた様が信仰を失いなさることがあれば、私は再びお目にはかかりませぬ」と。もちろん彼は妻のこの言葉がなくとも立派な信仰の持ち主だったから、あっぱれな殉教を遂げた。

1603年12月9日シモン竹田五兵衛は八代で斬首され殉教した。首は熊本に送られてさらされたが遺骸は丁寧に埋葬され、後に長崎のトードス・オス・サントス教会に改葬された。彼の殉教の際にこういう話がある:彼の妻はアグネス、母はヨハンナであった。八代の奉行角左衛門は竹田五兵衛の友人でもあり親戚でもあったので、五兵衛に棄教を勧め、生命を助けようとして、彼の母ヨハンナを説得して改宗を勧めてもらうよう頼んだ。母ヨハンナはこう答えた:「御厚意は誠に有難いと存じますが、このことは現世一時のことでなく、永久不滅の後生のことに係わりまする。一時の生命を保つために、永遠の幸福を失うことは、私たちの取らない所でござりまする。私は五兵衛に名誉の死をとげさせようと望んでおりまする...」五兵衛の殉教の後、ヨハンナは、わが子の首に手をおき、その顔を撫でながら「そなたの幸せなこと。そなたは御主のために命をささげたのだもの。私も罪人ながら仕合わせにも、長年何よりも愛しく思って来た独り息子を捧げて殉教者の母となれ申した」と優しく言った。母ヨハンナはその翌日、五兵衛の妻アグネス、先に殉教した南五郎左衛門の妻マグダレナ、養子にしていた甥のルドビコと共に十字架につけられて殉教した。

ヨハンナの殉教の前の言葉はこうである:「神様、私は神様がどうしてこんな大きなお恵みを下さるのかわかりませぬ。御礼の言葉もござりませぬ。昨日、私は独り息子を神様にお献げしましたが、今日、この身をお引き取り下さりませ。私の魂と身体とを、心からの犠牲としてお受け下さいますように。また罪人たちが後悔して御恵みをうけられますように。神さまを知らないゼンチョの人々がキリシタンになりますように。特に加藤清正殿がキリシタンになられまするように。清正殿と、若様方とが息災にて肥後国を安らかに治めなさりますように。国の人々が皆キリシタンとなり、迫害でころんだ人々が立ち上りまするようにお願い申しまする」。ヨハンナが十字架の上で祈ったこの祈りと希望は叶えられて、一旦教えを捨てた人々が相次いでキリシタンに立ち返った。死刑を執行した市河治兵衛も、長崎に来てルイス・セルケイラ司教から洗礼を受けキリシタンになった。

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 ヨハンナのこの祈りをわれわれもまた祈らなければならない:ゼンチョの人々(異教徒たち)がキリシタンになりますように、加藤清正(為政者)がキリシタンになられるように。国の人々が皆キリシタンとなり、迫害(あるいは棄教)でころんだ人々が立ち上りますように、と。彼女はゼンチョがゼンチョのままでいることを祈って殉教したのではない。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(3)
Weblog / 2007-03-29 14:36:11

三人の慈悲役のうちまずジョアン服部甚五郎が捕らえられ、次にミゲル水石彦右衛門が捕らえられて牢に入れられた。ヨアキム渡辺次郎右衛門はそのとき長崎に行っていたので、妻マリアが人質として捕らえられた。それをきいた渡辺は急いで八代に帰り、まず多くの幼児に洗礼を授け、後事をジョアン治右衛門に頼んでから、自ら奉行所に出頭し投獄された。奉行角左衛門は、彼らの信仰が生命に代えても奪われないことを知ると、財産を没収し、子供たちを奴隷の身分に落とした。1606年(慶長11年)ヨアキム渡辺次郎右衛門は熱病におかされた。役人は、形だけでも背教させるように、高熱で意識も定かでないこの病人に転び証文をつきつけて署名させた。渡辺は熱が下がってからそれを知り、「転んだのではない」と取り消し、殉教の覚悟をきめた。1606年、再びルイスにやばら神父が有馬から来て、変装してうまく牢内にしのびこむことができた。病中の渡辺は熱病のとき書いた転び証文が自分の意志でないことを再確認し、告白、堅信の秘蹟をうけ、転ばないとの誓文を書いて神父に渡した。ヨアキム渡辺次郎右衛門は1606年8月16日牢内で息を引き取った。キリシタンになってから十年、八代のキリシタンたちの柱石となっていた。五十五歳。遺体は八代の共同墓地に葬られたが、三日目にキリシタンたちが掘り出して有馬に送った。

残された二人の慈悲役、ジョアン服部甚五郎とミゲル水石彦右衛門は相変わらず、囚人たちや牢外の非キリシタンたちを感化し、キリシタンたちもまたひそかに牢に来て指導を受けた。ナタラ(クリスマス)には、牢内でキリストの降誕をともどもに祈って聖書を読み、牢は聖堂の如くなった。加藤清正はそれを知り斬首しようとしたが、それは、彼らが殉教者として崇められキリシタンたちの信仰をあおる結果となることを知って、牢内で苦しめることにしたので、彼らの牢獄生活はいよいよ残酷なものとなった。1609年、加藤清正は二人の慈悲役とその子供たちに斬首による死刑を命じた。ミゲル水石彦右衛門の首は一撃で落ち、ジョアン服部甚五郎も一刀の下に斬られた。ミゲル水石彦右衛門の子で十二歳のトマスは父の遺体の前で死にたいと、父の血が流れている土の上にひざまずき両手を合わせて天を仰ぎながら刀を受けた。ジョアン服部甚五郎の子ペトロは六歳になったばかりであるが、幼児ながら父から殉教の心得を聞かされていたので立派な覚悟ができていた。役人が来たとき、喜んで起き上がり、一人の男の腕に抱かれて刑場に行った。首切り役人たちは、静かに斬られるのを待っているペトロを斬ることに次々に二人が断り、三人目の役人はペトロを斬りそこねて右肩を傷つけ、ペトロは横ざまに倒れた。役人は役目を断ってしまったので、朝鮮人がその役を引き受けさせられたが、斬りそこねて三太刀でようやく首を落とした。

 以上1603年にジョアン南五郎左衛門が熊本で、シモン竹田五兵衛太他4人、1606年ヨアキム渡辺次郎右衛門、1609年にミカエル水石(三石)彦右衛門田人他3人がいずれも八代で殉教した。この八代の殉教者計11人は今回列福される188人のうち最も早い年代に殉教した人々を含んでいる。列福を予定されている188人のうち司祭は4人だけであとは信徒であり、女性、子供も多数含まれている。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(4)
Weblog / 2007-03-31 13:14:54

2.今回山口の殉教者として挙げられているのはメルキオール(メルキヨール)熊谷豊前守元直と盲人ダミアンの二人である。前者は1605年(慶長10年)8月16日に萩で、後者は同年8月19日に山口で殉教している。メルキオール熊谷豊前守元直は1587年(天正15年)秀吉の九州平定の際に黒田孝高の指導で大友義統、岐部左近などとともに洗礼を受けた。彼は名門の出で安芸国三入の城主として毛利輝元に仕えた高名の武士であった。主君の毛利輝元は反キリシタンであり、元直が死に処せられた理由は、彼がキリシタンの信仰を捨てなかったからだと言われている。洗礼を受けて十八年後、輝元は千人以上の兵をやって萩城下の元直の邸を包囲させ、人を遣わして人質を要求した。元直は三男フランシスコ猪之助十三歳と長男直貞の子エマヌエル二郎三郎十一歳とを人質に出した。人質はとられたが包囲は解けなかった。元直は殉教の覚悟を固めた。毛利輝元は熊谷元直に切腹を命じた。罪状は十三箇条からなっていたがその第八番目にキリシタンのことが述べられていた。萩城の築城工事のとき盗石事件があり、それによって築城が遅延したことも死罪の理由とされていた。ドン・ルイス・セルケイラ司教の報告は彼の死を光栄ある死(殉教)と述べている。五十歳であった。このとき彼の一族十一人が殉教した。萩の岩国屋敷跡にビリオン神父が建てた熊谷元直の顕彰碑がある。

貧しい盲人のダミアンは利発で賢明な人だった。山口で生まれ、琵琶法師として生計を立て結婚もしていた。二十五歳で洗礼を受けた。雄弁で伝道の効果もあげており、神父たちの有力な助手であった。毛利輝元が領内から神父たちを追放した後を引き受けてキリシタンたちの頭になり、説教をし、非常のときは幼児に洗礼をさずけていた。ダミアンのことが毛利輝元の耳に入り、彼を居なくすれば領内のキリシタンたちは容易に転ぶだろうと考えて、彼はダミアンを呼び出し背教を勧め、従えば楽な生活ができるだけの扶持と立派な屋敷、高い身分を保証すると言った。このことは奉行の下役たちの口からもれ、山口の町の評判になった。もちろんダミアンは拒否し、奉行たちと居合わせた人々に説教しキリシタンの信仰を受け容れるよう勧めた。奉行たちは彼を背教させることはできないと知り死刑に処することにした。そのことが町の人々にわかれば騒動が起こったり、キリシタンたちが他国に逃亡したりするので、死刑の執行は夜まで延ばされた。1605年8月19日ダミアンは町外れの川で祈りの後斬首された。四十五歳であった。彼の死をキリシタンたちに知られたくなかった毛利輝元は、命じて彼の遺体を切り刻ませて川や森に捨てさせた。一キリシタンが丹念に探し回って、ダミアンの首と左腕を見つけ、死の噂は山口にひろまった。彼の首と左腕は長崎に送られ相応しい尊敬が献げられているとセルケイラ司教は報告している。

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主君から、あるいは為政者から背教を勧められあるいは命じられてもそれに従わないことは人よりも神に従う道である。武士であれ、一般人であれ、そのことに違いはない。背教すれば生命、身分、地位が保証され現世の生活を無難に送ることができるという誘惑も彼らには通用しない。それは永遠の生命がそのことにかかっているからである。死を前にしたメルキオール熊谷元直の「キリストの教えこそ永遠の救いの、唯一の道でござる」という言葉をわれわれはもう一度噛みしめるべきであろう。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(5)
Weblog / 2007-04-01 21:25:42

3. 薩摩の殉教者レオ税所七右衛門は川内平佐で1608年11月17日に殉教した。片岡弥吉氏の「日本キリシタン殉教史}に彼についての記述を見つけることはできなかった。

4. 生月平戸の殉教者はガスパル西玄可他2人が挙げられている。西玄可はガスパル様と言われ生月島最初の殉教者である。1558年二歳のときガスパル・ウィレラ神父から洗礼を授けられた。西家は生月の名門であり、籠手田氏の代官の家であった。1599年平戸領主松浦道可隆信が没し、その後を嗣いだ法印鎮信はキリシタン弾圧を始めた。彼はその子久信夫人メンシヤ(大村純忠の女)に背教を迫ったが、メンシヤは毅然たる態度を示した。重臣達にもその家来のキリシタンたちに背教を命じさせ、多くのキリシタンが転んだ。西玄可の主君籠手田家の当主エロニモ安一とその子のトマスなどは家族とも六百人で長崎に亡命した。この事件で玄可は代官を解職されたが、その後も山田に住んで生月キリシタンの中堅となっていた。夫人ウルスラ、幼児洗礼の長男又市、幼少のミゲルはガスパル玄可の家族たるにふさわしい信仰の持ち主であった。その後、山田の代官に井上右馬允が、館ノ浜の代官に近藤きさんが任命された。井上は玄可の親友でキリシタンに寛大だったが、近藤はひどくキリシタンを嫌っていた。玄可の解職から十年後の1609年(慶長14年)近藤は真言宗の主要な地位にあった僧と協議して玄可のことを平戸領主松浦鎮信に訴え出た。玄可は転宗を勧告されたがこれを拒否して捕縛された。夫人のウルスラと長男又市も捕縛された。11月14日玄可夫妻と長男又市は殉教した。玄可は山田に住んでいたから、山田の代官井上右馬允が刑を執行することになった。井上は切腹を勧めたが玄可はそれを断り「十字架にハリツケにしてほしい、キリストにならって殺されたい」と言った。井上は「生月にはハリツケの前例がないし、殿の命令でもない」と言ったので、玄可は「それでは先祖の墓で処刑してほしい。そこには迫害が始まってから倒されたが、大きな十字架があった所だから」と頼み、その願いは聞き入れられ、墓地で処刑されることになった。そこはクルス場と呼ばれた場所であった。代官の井上は一打ちで玄可の首を切り落とした後キリシタンたちに指図して、かつて十字架が立っていた場所に、キリシタンの埋葬式によって葬らせた。玄可の処刑後、夫人ウルスラと長男又市がクルス場に向かう途中で刑吏によって斬られた。玄可と夫人ウルスラ五十四歳、又市二十五歳であった。九歳のミゲルは両親と兄の殉教後、セミナリヨに入り、司祭となってやはり後に殉教したと考えられている。

 なお西玄可については聖母文庫のフーベルト・チースリク師「続・キリストの証し人」九(pp.248-285)に「生月の殉教者 − ガスパル西玄可 」という詳しい記述がある。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(6)
Weblog / 2007-04-02 11:10:17

5. 有馬の殉教者:アンドレア高橋主水他8人が1613年10月7日に有馬で殉教した。これらの人々について詳しい記述を見つけることができなかった。

6. 天草の殉教者:アダム荒川が1614年6月5日富岡で殉教した。アダム荒川は有馬晴信に仕えていたころ、何かのわけで手打ちになるところを、有馬のコレジヨの長である神父のとりなしで助けられ、教会で働いた。1614年1月31日、徳川家康のキリシタン禁令が出たころ、アダムは天草志岐の教会でイエズス会のガルシア・ガルセス神父に仕えていた。七十余歳の老人ながら、教会の雑務や炊事などの仕事に励み、信徒指導の手伝いもしていた。天草は寺沢広高の領地であり、富岡の城で番代川村四郎右衛門が天草を支配していた。1614年2月に「神父や修道士を長崎に引き上げさせよ」という命令が四郎右衛門のところに届き、ガルセス神父は「明日出発せよ」との厳命を受け、翌朝ミサの後船に乗せられた。神父は信徒の世話をアダム荒川に頼んだ。それから一ヶ月アダム荒川は幼児の洗礼、病人に対する善終の勧め、葬式の世話などを熱心に行った。3月になって寺沢広高は「全部のキリシタンの信仰を捨てさせよ」という命令を発した。四郎右衛門はアダム荒川を改宗させれば他のキリシタンも見習うだろうと思い、彼にまず信仰を捨てさせようとした。人がアダム荒川のところへ来て「キリシタンをやめなされ、殿様の仰せに従わなければ殺されますぞ」としつこく改宗を勧めたが、アダム荒川はこう答えた:「神様に背け、と私におっしゃるのか。自分の神様を辱めよと申されるのか。川村様のご命令であろうと、天下の将軍様のご法度であろうと、それだけはご勘弁なされたい。私はキリシタンでござる。真のキリシタンはキリスト様のみ教えを生命よりも大切にしておりまする。どのような責め苦を受けようとも、真の神、キリスト様に背くことはでき申さぬ」と。アダム荒川は枝の主日の前の金曜日に城に連行された。次の週は聖週間である。アダム荒川はこの聖なる時期にキリストとともに苦しむことができることをこの上なく喜んだ。翌朝、四郎右衛門を上座にして富岡城の上役たちの前で尋問が始まり、改宗を勧められたが、アダム荒川はこう答えた:「人間にとって肉体以上に大切なのは魂でござる。魂の救い主なる真の神デウス様に私は従いまする。どなた様の御いいつけでござろうと、私が心から真の神と信じ大切にしているデウス様に背くことはでき申さぬ」と。四郎右衛門はアダム荒川を拷問にかけることにし、裸にして人通りの多い道を引きまわした後、アダムを足の爪先が少し地面につく程度の高さで横木に吊した。アダムは九日間吊されたが、夜通しさらしておけば死んでしまうので、夜は柱からほどかれて家へ帰された。吊された九日間の間に多くの人が改宗を勧めたが彼はこう言った:「私が土や木でこしらえた教会の建物や、将軍様の御命令一つで追放されてしまう神父様だけを頼りにしているとお思いか。天地万物の御作者たるデウス様を私は頼りにしておりまする。このデウス様がどこにもいつも在しまして私の力になり、最後まで私の精神を強めてくださると、私は信頼し、安心しておりまするのじゃ。」川村四郎右衛門はアダム荒川のさらし場を海岸の風の吹きすさぶ所に移させたので、アダムの肉体的な苦しみは増したが、彼は挫けなかった。拷問でも心を変えさせることができないと知って川村四郎右衛門はアダム荒川を柱から解いてあるキリシタンの家に預けた。アダムは友人たちのいろいろな雑音には耳をかさず、離れの一室で「コンテンムツス・ムンジ」を読み耽りながら黙想と祈りに日を送った。業をにやした四郎右衛門は二人の役人をやって言わせた。「信仰を捨てないなら、手と足の指を切り捨てるがどうじゃ。それも一度にでなく、長く苦しむように次々にな。」それに対してアダムは答えた。「どんな苦しみも受ける覚悟ができておりまする。神様はきっと私を力づけて、最後まで辛抱させてくださる、と私は信頼しきっておりますのじゃ。私は次々に責め苦を受け、長く苦しみながら死ぬことになっても、私は罪の償いと、神さまの愛ゆえに、それを受けますのはうれしいことと考えておりまする。私は老人で長くは生きておりますまいから、私を苦しめる思し召しなら、早くなさった方がよろしかろうと存じまする。」こうして六十余日、アダムと役人との根くらべがつづいたが、アダムの心を変えさせることができないことを知ると、唐津へ行って藩の重役たちの指図を受けることになった。唐津の広沢広高は殺さないで信仰を捨てさせることを命じたが、アダムの信仰を捨てさせることはできなかった。そのまますておくわけにもいかないから死罪にすることに決した。四郎右衛門も同じ考えで、急使を富岡へやって、すぐアダムの首を切れと命じた。殉教の時が来たのを知ったアダムは、人を驚かせるほどの喜びようであった。まだ暗い、険しい石ころの道を鹿がとびはねるように行くので、アダムを縛った綱を持っている役人が、引っ張られて転んだという。刑場でアダムは跪いて祈り始めた。それが済むと、アダムは役人に言った。「あなた方の子供さんたちにキリシタンの教えを勉強させなされ。あなた方もなるべく早くキリシタンにおなりなさるがよい。」この言葉は、役人に対するアダムの切なる愛情の表現であった。真の人間の道、永遠の幸福の道と確信し、生命をかけても守ろうとする福音の道に役人たちも導こうとする誠心のあらわれであった。アダムは言葉でそれを勧め、心で役人のために祈りながら、太刀を受けて殉教した。このことを1614年10月25日に報告したマットス神父は「アダムの死は人々を感動させた。人間性の弱さ故にキリシタンをやめた人々は、アダムの勧めと模範とによって信仰を取り戻した。ある村では百五十人以上の村人全部がキリシタンであることを公言し、少なからぬ村々がそれにならった」と述べている。現在天草本渡のキリシタン墓地公園に、ルイス・アルメイダのブロンズ・レリーフと並んで、殉教者アダム荒川の記念碑が建っている。

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現在は為政者による上のような迫害はないが世間から棄教・背教への強力な力が働いている。アダム荒川のようなキリシタンが「天地万物の御作者たるデウス様を私は頼りにしておりまする」という信仰告白をわれわれはしているだろうか?世間の人々に向かって「あなた方の子供さんたちにキリシタンの教えを勉強させなされ。あなた方もなるべく早くキリシタンにおなりなさるがよい」と述べる勇気を持っているだろうか?

ペトロ岐部と187殉教者の列福(7)
Weblog / 2007-04-03 11:45:13

7. 京都の殉教者:ジュアン(ヨハネ)橋本太兵衛他51人1619年10月6日(片岡弥吉氏の「日本キリシタン殉教史」では10月17日となっている)殉教。これは京都の大殉教、あるいは元和の大殉教として知られている。1619年(元和5年)将軍秀忠は厳しいキリシタン禁令を発した。京都所司代板倉勝重はキリシタンに好意を持っていたので、キリシタンに対する人々の告訴も放置していたが、その子重宗が江戸から将軍の厳命を持ち帰り放置できないと訴え、そのままにしておくと将軍の怒りはわが家に及ぶと説き立てたので、さすがの勝重もついに迫害の手をくだすことになる。京都一条油小路と堀川のあたりにあった「だいうす丁」すなわちデウスの町というキリシタンの居住区の人々が捕らえられた。その中心人物がジュアン(ヨハネ)橋本太兵衛である。ジュアンの父は京都布教の開拓者ガスパル・ヴィレラ神父から洗礼を受け、京都のキリシタンたちの元老格として信仰の模範になっていた。ジュアン太兵衛はかつて織田信長の孫である秀信に仕えた老武者で、徳も高く、少年の頃からポルトガル語を学んで、原書をすらすら読めるほどであった。迫害が始まると、神父を自宅にかくまって信徒たちを集めてミサを献げてもらい、それが知られても何ら恐れなかった。家令の一人によって告訴され逮捕された。テクラ夫人と子供たちともども白州にひき出され、背教するように多くの好条件を出して説得されたが、太兵衛は「救いの道なる信仰に入ったことを守り通し、人間よりデウスに従って、人の言葉に迷わされないことこそ真の賢明さというものでござりましょう」と答えた。役人たちはせめて子供たちはおいて行け、信仰も守らせ、官位にもつけるよう世話しようといったが、太兵衛は「子供たちも生まれたときからキリシタンでござる。天国へも拙者の前に立って行くであろう」と答えた。長男のミゲルは外出から帰って一家が捕らえられたことを知り、自分も駆けつけて一応投獄されたが、名簿に記入されていないという理由で父の抗議を無視して釈放された。名門の家をつぶさないための役人の心遣いだったという。

将軍秀忠は京都から江戸へ帰る途中伏見で、牢内にキリシタンがいることを耳にした。将軍たる自分の命令を無視するキリシタンたちに激怒して、老幼男女を問わずことごとく火あぶりにせよ、と厳命を下した。板倉勝重は入牢者を釈放しようと思っていた矢先、この命令を受け、やむなく処刑を実施することにした。加茂川六条河原に二十七本の十字架が建てられ、おびただしい薪が積み上げられた。10月17日五十二人のキリシタンたちは九台の大八車で刑場まで引き回された。将軍秀忠が上洛したため、京都には全国から大名と家臣たちが上洛していたので、刑場にも大名の家臣たちが集まっていた。五十二人の大量処刑が行われるという噂を聞いて刑場には好奇心にかられた武士と市民の大群衆が集まって来た。

人々の涙をさそったのは、五人の子供と捕えられた橋本太兵衛の夫人テクラの姿であった。テクラは臨月の身重の体であった。三歳のルシヤを腕に抱え、十二歳のトマスは右手につるされ、八歳のフランシスコは左の方に一つの十字架に縛られている。十三歳のカタリナと六歳のペトロとはその側の十字架にくくられていた。太兵衛は妻子から離れた十字架に縛られていた。火がつけられたのは夕方であった。猛烈に炎が上がった。殉教者たちは、目を天に挙げてゼズース(イエズス)のみ名をとなえ、祈りをとなえた。テクラの娘カタリナは「母さま、私もう目が見えない」と言った。母は「ゼズースさまとマリアさまにお願いなさい」と答えた。抱かれていたルシヤは死後もしっかりと母の体にくっついていた。こうして橋本太兵衛一家、胎内の子を含めて八人は、いかなる強権政治家にも「精神を奪われることなく」炎の中に肉体の生命を終えた。

この日六条河原での殉教者は京都からは橋本一家の他、フランシスコと同名の子フランシスコ、ジュアン忠作とマグダレナおよび娘レジナ、マンショ忠治郎、ルドビコ又五郎、ガブリエル、マグダレナ、トマス藤右衛門と妻ルシヤ、娘ルフィナと娘マルタ、レオ中助と妻マルタ、他の地域からは、トマス喜庵と娘マリア、ジュアン桜井と嫁のウルスラ(豊後)、トマス池上(北国)、リノ利兵衛と妻マリア(中国地方)、コスメ小島信次郎と妻マリア(山城)、マリアと孫の幼女モニカ(山城)、アントニオ遠見(大和)、ヨアキム小川と妻モニカ(大和)、マルタと二歳の子ベネディクト(河内)、マリア、別のマリアとその子ペトロおよびエンマヌエル九郎三郎、トマス与右衛門と母アンナ(丹波)、モニカ、アガタ、メンシヤと三歳の娘ルシヤ(以上近江)、エロニモ素六と妻ルシヤ(安芸)、辻ディエゴ(生国不明)である。

 1619年、将軍秀忠の厳しい迫害によって全国で多くの殉教者が出た。長崎の村山徳庵(代官等安の子)、小倉の加賀山隼人正輿長、大村のリノ差方藤右衛門などである。

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将軍秀忠は自分の命令に従わないキリシタンたちに激怒して「老幼男女を問わずことごとく火あぶりにせよ、と厳命を下した。」胎内の子や三歳の女児をも火炙りにすることは確かに残酷であるが、現代のわれわれは秀忠を非難しただけでことが済むであろうか。現代人は将軍様の厳命によってではなく、両親のおだやかな同意によって年間数千万人の自分たちの子である胎児を殺しているのである。ジュアン橋本太兵衛が自分の子供たちの生命を助ける機会があったにもかかわらず、信仰のために自分と道連れにしたことは何を意味するのか?それは永遠の生命を信じるか、キリストの約束を信じるか否かにかかっている。肉体の延命ではなく、魂の救いを問題にするかどうか、ということである。そこが橋本夫妻と中絶をする現代の両親との決定的な違いである。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(8)
Weblog / 2007-04-04 18:46:11

8. 小倉・熊本・大分の殉教者:ディエゴ加賀山隼人が小倉で1619年10月15日に、バルタザル加賀山半左衛門他一人が豊後日出で同じ日に、小笠原玄也他14人が1636年熊本で殉教した。

加賀山隼人正輿長は摂州高槻で生まれ、家族全員が熱心なキリシタンであった。彼は十歳の頃、ルイス・フロイス神父から洗礼を受けた。そのときから一生の間、キリスト教的勇士かつ武将の模範となり、感嘆するほど熱心に敬虔と苦行の務めを果たした。

  1587年、高山右近が信仰を選んで領地を失ったとき、右近の後輩、親友であった細川忠輿がもらいうけた。関ヶ原の功により、忠輿が豊前小倉に移封されると小倉に来て六千国を食んでいた。1614年の幕府禁令が発布されたとき、隼人は江戸城修築に細川藩担当部門の指揮者として江戸にいた。忠輿も江戸におり、国許に使者を出して隼人の娘婿小笠原玄也に背教を迫ったが聞かれず、玄也も隼人もそのままになり、隼人は江戸城の修築工事をつづけていた。忠輿の隼人に対する背教命令は厳しかった。忠輿が隼人とその家族に棄教を迫る緊迫した主従関係の中で、隼人は家臣としての忠節を忠輿に対して尽くしながら、信仰問題については一歩も譲らなかった。加賀山隼人は「もし殿が、棄教するという書物を差し出せ、と仰せられることがあったら、その前に拙者夫婦および家族全員の首を斬る者を遣わしなさるようお執り成し願いたい。拙者は信仰を変えないし、拙者の返事で殿の不興を買って忘恩、無礼な奴と思われたくないからである。信仰以外のことについては忠実な臣として殿にお仕えしたいが、キリシタンの信仰だけは、これを捨てて己れを欺くことはでき申さぬ」と忠興側近の上役に頼んでおいた。1619年、加賀山隼人は結局家も財産も没収され、家族もろとも、一軒の田舎家に閉じ込められて、首をはねられるための覚悟をしていた。細川忠興が隼人を棄教させることができないことを悟り死刑を宣告したのである。彼は小舟に乗せられ藩の首都で殿の居城である小倉の町から千歩ばかりも隔てた定めの刑場へ運ばれ、船から上がり、刑場の丘まで詩編と連祷を唱えた。刑場につくと跪いて祈り、ゼズス・マリアの聖名を呼び静かに太刀を受けた。遺体は二人のキリシタンによって丁重に葬られた。時にディエゴ加賀山隼人は五十四歳であった。娘のルシヤがイエズス会の管区長に宛てた書面に次のように述べた:「父がいよいよ死刑の宣告を受けましたその夜、疑いもなくそれが私にも及んで来ると思い、心の中で大いに喜びました。所が案に相違して、生き残らねばならぬことになりましたので、私はどれほど悲しんだものですか、全く言う所を知りません。それこそことわざにいわゆる『宝の山に入りながら手を空しうして帰る人』に似たものでありました。」

ディエゴ加賀山隼人の従弟バルタザル加賀山半左衛門は四歳の息子ディエゴとともに隼人の殉教と同じく1619年10月15日豊後日出で殉教した。彼も隼人と同じ主君細川忠興の臣下であり、豊後に住んでそこで年貢を取立てる役に当たっていた。彼もやはり信仰上の理由によってその地位を退けられ、追放、貧困、監視、その他多くの不自由を勇ましく堪え忍んだ。そして突然、斬首の宣告を受けた。バルタザル加賀山半左衛門には母のジュスタ、妻のルチヤ、娘のテクラそして息子のディエゴがいた。死刑の宣告を受けると彼は家族一同に向かって、労苦を堪え忍び、終りを全うし、身を聖ならしむべしと勧めさとし、デウスに向かい短い死をもって殉教の高い頂きに自分を招き給うたことを感謝した。バルタザルは幼児であるディエゴに死刑を宣告されていたとは知らなかったが、それを聞くとにっこりして、晴れ着に着替えて来ることを許した。バルタザルが刑場に着いて役人等に話した話は長いが引用に値する:

「私が切支丹の教を辱めて、殿様に服し、その思召に従うよりも、むしろ首を差し出して斬られるのを見て、ご一同は変に考え、全く気が狂ったな、と思いなさるだろう、と思います。しかし私がこうしますのは、この信仰によってのみ人は魂の真の救いに達し得ることを承知しているからです。この信仰のみが全世界の造り主なる神(デウス)は唯一であり、すべての人は一人も残らずその最高法廷に立顕れねばならぬのだと教えてくれます。ご一同が敬っておられる釈迦と阿弥陀ですが、後者は全くの架空談で、前者は単なる人間、シャム国(天竺の誤?)の出身で妻子にほだされた身でありました。誰人の生命でも之を保護したり、或は長くながらえさせたりすることは出来ないのです。昔の王公はもちろん、その他の仏信仰者も残らず死んでいます。可愛相に、あれほど沢山礼拝を重ね、数々の献物をしても、己が生命を贖うことすら出来ないのでした。最高且つ真正なる神が一たび定め給うた死の法を誰とても遁れることは出来ないのです。この神が一人も死ぬことに定め、御前に於て、或は罪悪の為に永遠の罰を、或は正しい行為の為に永遠の光栄を受けしめ給うのであります。でございますから、私が再三再四御一同にお願い致したいのは、この無上の造物主の掟と信仰とを心より受けて、永遠の救霊を得られる様にと云ふ、ただこの一事であります。余りの生命と云うは、多くて二十年か、三十年かを数えるに過ぎません。却って魂の救は永遠であり、極めて重要でありますから、是ばかりは他の如何なる歓楽よりも大切にしなければなりません。なお切支丹の教が今日容易ならぬ苦悩に陥っているとはいえ、根絶され終るものと思ってはなりません。やがて平和となって再生し、唯今私が急いで拙いお話で申上げることを、詳しくお聞きになることも出来ましょう。私は何の罪も犯した覚えがないのですから、御一同には、決して私の身の上を憐れがって下さいますな。ただ切支丹の教の為に殺されるのを善しとするのみならず、むしろ光栄であると考えているのでありますから。」

 こういってバルタザルはひざまづき、首をのばして太刀を受けた。つづいて四歳になるディエゴも殿の命に由って斬られた。時に父バルタザルは年四十七歳であった。

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 加賀山隼人も従弟の加賀山半左衛門も現世の主君と全能永遠の神との二者択一を迫られたときどちらを選ぶかについて誤らなかった。地位や名誉や現世の幸福や家族の幸せも信仰を捨ててまで守るほどの価値はないということの見事な実践例である。半左衛門が役人たちに語った言葉の中で、釈迦や阿弥陀について言っていることをエキュメニズムを主張する人々はよく噛みしめるべきだと思う。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(9)
Weblog / 2007-04-05 17:18:23

8. 小倉・熊本・大分の殉教者:1636年小笠原玄也他14人が熊本で殉教。小笠原与三郎玄也秀次は小笠原少斎秀清の三男であり、加賀山隼人正輿長の女婿であった。夫人はみや。小笠原少斎秀清の三人の男子のうち二男長良と玄也がキリシタンになったが、長良は後に背教した。玄也が熱心な信仰をもち、殉教するに至ったほどのまことのキリシタンとなったのは、夫人みやと、夫人の父ディエゴ加賀山隼人正輿長の影響による。小笠原少斎秀清は細川藤孝、忠興父子に仕え、忠興の夫人細川ガラシヤが石田三成の人質にされようとしたとき、夫人の介錯をしたのち、自分も切腹して果てた。夫人の死によって忠興は家康に従って東軍につき、その勝利によって細川家は安泰であった。細川忠興は小笠原少斎秀清への恩義から小笠原一門を「身内の者」として保護し、1619年10月15日(元和五年九月八日)細川家の要職にあったディエゴ加賀山隼人を小倉で斬首したのに、玄也一家はそのまま差しおいた。と言っても、夫婦ともに寂しい片田舎に、百姓たちや、やくざ者たちの中に追放された。かつて富も権勢もあった彼が、いやしい職人や貧しい農民たちの中に混じって、まるで賤民が奴隷ででもあるかのように自分で働き、どんないやしい仕事も厭わなかった。1620年忠興は隠居して忠利が筑前の領主になった。1632年(寛永九年)忠利は肥後豊後五十四万石の領主として熊本城に移った。玄也もまた忠利の命令によって肥後に来た。1633年(寛永十年)幕府のキリシタン改めが非常に厳重になり、十一年十一月には、懸賞訴人の高札が細川藩の町々村々に建てられた。忠利は玄也らが訴人されはしないかと心配した。訴人されて公にならなければ玄也一家を保護したかったであろう。十月四日には、長岡佐渡守、長岡監物らの重臣に手紙をやって玄也に改宗を勧めさせた。玄也夫妻は改宗の勧めに応じなかった。玄也一家は忠利や知人たちの親切には感泣しながらも、信仰という永遠の価値を捨てて、やがては滅びる肉体の生命にかえることはできなかったし、主君や友人の情にほだされて、自分の良心に背くこともできなかった。このように小笠原玄也は1614年から二十一年もの間殿様の命令にも、親戚、友人たちの説得にも屈せず、信仰を守り、生活的にもひどい貧乏にたえて来た。しかし1635年十一月一日、高札の文面が改められ、訴人の賞金額が上がり、「賞金稼ぎ」たちの意欲をあおった。藩庁にではなく、長崎奉行所に玄也を密告する者が出た。忠利も手の施しようがなく、玄也は十一月四日座敷牢に入れられた。玄也らは殉教までの五十日間をこの座敷牢で静かに暮らした。1636年1月30日(寛永十二年十二月二十三日)小笠原玄也、みや夫人、源八郎、まり、くり、佐左衛門、三右衛門、四郎、五郎、つち、権之助という九人の子供、女房、下女四人合計十五名が、禅定院で切られて殉教した。熊本駅の裏にある花岡山の中腹、陸軍墓地の前に玄也一家の墓がある。幕府の弾圧によって教会墓地の徹底的破壊が行われたので、この玄也一家の墓は、墓碑のあるキリシタン時代の墓地として現存する数少ないものであり、しかも埋葬された人々についての殉教が詳しく判明している唯一のものであるという。殉教者の遺体は焼いて灰にし、海に捨てていた当時、遺骨を熊本城の近くの花岡山に葬ったのは藩主忠利の玄也に対する愛情によるものと理解したい、と片岡弥吉氏は言っておられる。

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小笠原玄也一家の殉教は地方藩主の庇護も幕府の厳命の前にはどうにもならなかったことの現れである。玄也は前に細川忠輿から「遠慮しないで、キリシタンを捨て、殿の命令に従うように申せ」と一人の家臣を通じて言われたが「拙者がキリシタンになったのは、人への義理や物好きからではなく、これなくしては、自分の霊魂が救われないことを切実に知ったからでござる。キリシタンを捨てる考えは毛頭ござらぬ」と答えている。細川忠輿は二通の書状を玄也に渡させた。一通には「王(家康)、または将軍(秀忠)、あるいは越中殿が背教を命じなさろうとも、キリシタンを捨てない」と書かれ、一通には「キリシタンを捨て、祖先伝来の宗教にもどる」とあったが、玄也はもちろん前者の書状を差し出した。信仰こそがすべて。日本の殉教者われらのために祈り給え!

ペトロ岐部と187殉教者の列福(10)
Weblog / 2007-04-09 21:18:03

9. 江戸の殉教者:ヨハネ原主水。1623年12月4日江戸芝口札之辻で殉教。1612年4月徳川家康はキリシタン禁令を出し、駿府城内の御徒士組頭ヨハネ(ジョアン)原主水他十四名の武士を追放した。原主水の他に改易された武士の名は榊原加兵衛、小笠原権丞、西郷宗三郎、湯座伝三郎、山下庄三郎、梶十兵衛、梶市之助、横地長五郎、吉田武兵衛、山田次左衛門、小野庄蔵、須賀久兵衛、水野二左衛門である。ジョアン原主水は江戸芝口札之辻刑場で火炙りにされた五十人のうちの一人であった。五十人の殉教者のうち名前が分かっているのは次の三十七人である。ジュアン原主水、ジェロニモ・デ・アンジェリス神父、フランシスコ・ガルペス神父、レオ竹屋権七、カシヤ半三郎、ジュアン長左衛門、シモン遠甫、ペドロ喜三郎、ジュアン又左衛門、ミギル喜左衛門、ロレンソ嘉七、マチヤス彌左衛門、ロレンソ角左衛門、マチヤス喜左衛門、トマス与作、ペドロ三太郎、ペドロ佐左衛門、マチヤス関右衛門、イナシヨ猪右衛門、シモン夢庵、ロレンソ土井、イザアク伴斎、ボナベンツラ久太夫、ジョアン新九郎、ヒラリオ孫左衛門、フランシスコ喜左衛門、新七郎、ジョアン長左衛門、ロマン権右衛門、エマヌエル武右衛門、ペイトロ喜右衛門、喜三郎、ペイトロ長右衛門、アンデレ理助、ラハエル喜左衛門、喜七、アントニオ(高木一雄、東京周辺キリシタン遺跡巡り、pp.105-106)。

大きな板に死刑の理由が次のように書かれていた:「この者どもはキリシタンの徒なるに依り重刑に処せらるるものなり」。五十本の柱が刑場に立ち並び四十七人が先に火あぶりにされて殉教した。

原主水と二人の神父はこれをすべて馬上から眺めていたが、彼らの精神は挫けず、勇気は衰えなかった。皆の生命が絶えたとき、三人は馬からおろされて柱に縛られた。江戸の町に一番近い第一の柱にジョアン原主水、次の柱にジェロニモ・デ・アンジェリス神父、そして三番目の柱にフランシスコ・ガルペス神父がつけられた。三人のうち最初にジェロニモ神父が亡くなり、次にジョアン原主水が、最後にフランシスコ・ガルペス神父が亡くなった。火炎に焼き尽くされた死骸は刑場の広場に置いたまま、その後三日の間兵卒たちが見張りをした。

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188殉教者のうち江戸の殉教者として今回挙げられた人はこのジョアン原主水と1639年7月に殉教したペトロ岐部かすい神父の二人であるが、芝口札之辻で126人の他、鳥越山で56人、浅草山で30人、芝浦で124人、伝馬町牢で60人、山屋敷で13人、四谷で9人が殉教している(高木一雄、江戸キリシタン山屋敷、pp.76-77)。高木氏は現存する資料だけを参考にして推計すれば、日本全国で約100個所の処刑場で処刑されたキリシタンたちは5000人 - 6000人に達すると述べておられる。188殉教者はその中のわずかな人々なのである。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(11)
Weblog / 2007-04-11 13:04:47

10. 広島の殉教者:フランシスコ遠山甚太郎、1624年2月16日、マチアス庄原市左衛門、1624年2月17日、ヨアキム九郎右衛門、1624年3月8日いずれも広島で殉教。この三人については記録を見つけることはできなかった。

11. 雲仙の殉教者:バルタザル内堀他2人、1627年2月21日、パウロ内堀作右衛門他15人、1627年2月28日、ヨアキム峰助太夫他9人、1627年5月17日計29人がいずれも雲仙で殉教した。

雲仙岳の熱湯泉や噴気口にはその一つひとつに地獄の名がつけられている。この雲仙地獄でキリシタンを苦しめるという拷問を発案し実行し始めたのは島原領主松倉重政であった。この重政と勝家の父子二代にわたる重税と悪政によってあの島原の乱という農民一揆が起こった。

バルタザル内堀他2人について記録が見つからなかった。パウロ内堀作右衛門は有家の人で有馬家の家臣だったが、1614年、背教者の領主有馬直純が日向延岡に転封されたとき、録を捨てて留まり、信仰を守った。財産もあり、徳高く藩中の人々に慕われていた。財産は没収され、手足の指を切り落とされ、三人の子どもを目の前で殺された。しかし彼は信仰を守り続けた。1627年(寛永四年)二月二十八日、雲仙地獄の熱湯の中にパウロ内堀作右衛門ら十六人が投げ込まれて殉教した。女と子供もいた。雲仙地獄に着いたとき、「諸人こぞりて神を讃えよ」という讃美歌をみんなで歌った。裸にされ、首に縄をかけられて熱湯の泉の中につけられたり、引き上げられたりした。そして硫黄のたぎる湯壺に投げ込まれた。最後に内堀作右衛門が投げ込まれた。その直前「いとも聖き聖体は讃美せられさせ給え」という祈りを口ずさんだ。

同じ年の五月十七日にヨアキム峰助太夫、ヨハネ松竹庄三郎ら十人が同じ雲仙地獄で殉教した。三人の子供と二人の婦人がその中にいる。助太夫の妻マリアもその一人である。人々は硫黄の熱湯をぶっかけられながら、声を出して祈り、讃美歌を歌った。役人はこの人々に猿ぐつわをはめ、熱湯に押し沈めて殺した。六時間たったころに全員が息絶えていた。

松倉豊後守重政はそれから三年後の1630年(寛永七年)十一月十六日に小浜温泉で狂死した。彼は長崎奉行竹中釆女正の接待をうけ、非常に親切丁重な見送りをうけて長崎を離れ、茂木から口の津まで舟で行き、そこから島原まで陸行帰城する予定であった。ところが茂木で急病にかかり舟をやめて駕籠で島原に帰った。病状は日毎に悪くなり、医師たちも手の施しようがなく、重政は小浜温泉に連れて行くよう命じた。彼はそこで命じて熱湯を自分の身体にかけさせ、次には冷水をかけさせた。そして自分の身体を割竹で存分にたたけと家臣に命じた。家臣たちが逡巡していると、太刀を抜いて命令通りにせよと怒った。家臣たちは命令のままたたきつづけ、ついに死に至らしめた、という。当時、人々はキリシタンに加えた拷問を自ら受けたのだと噂した。

片岡弥吉氏は雲仙の殉教者たちについてこう述べておられる:「雲仙地獄の殉教者たちが”肉体を殺すだけ”で精神を奪い得ないものを恐れず、最高の価値と信じた神への愛に殉じた崇高な精神は、その殉教記[1669年アムステルダムで発行されたモンタヌスの『日本誌』、1689年にパリで発行されたクラッセの『日本教会史』等]の読まれた国々で大きな感動を呼び、それが日本人に対する親近感を深めることになった。」

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 肉体は死んでも霊魂は永遠に生き残るという信仰に殉じた雲仙の殉教者たち、われらのために祈り給え。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(12)
Weblog / 2007-04-12 13:51:11

12. 米沢の殉教者:ルイス甘糟右衛門他52人、1629年1月12日米沢で殉教。

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東北地方で伊達政宗のキリシタン迫害が開始されたのは1620年(元和六年)である。 1623年江戸の大殉教後、十二月七日、江戸参勤中の政宗は徳川家光から江戸二ノ丸に招かれ、将軍手づから茶を振る舞われた。その席で家光は奥州のキリシタン禁圧を直談する。政宗は家光の権威に屈し東北キリシタンに大鉄槌を下すことになる。米沢の53人の殉教者が出る前に1624年2月仙台近くの登米でシモン彦右衛門と妻モニカ、その一子の親子三人が、登米近くの薄衣でガスパル一右衛門が斬首されている。二月八日にはルドビコ太郎次とマテオ七右衛門、モニカおいわが久保田(秋田)で殺された。二月十二日アンドレア市右衛門とルドビコが仙台で斬首、久保田で七月十八日、ヨハネ川合喜右衛門ら33人が火刑、七月二十六日にはシモン伊丹与三衛門ら25人が斬首、同月院内鉱山でルドビコ大津三郎右衛門ら23人が斬首、同日十八人のキリシタンが斬首、等々の殉教があった。更に八月十八日出羽で3人、十一月五日南部で2人、十二月十八日仙台で2人、同日盛岡で3人、津軽高岡で1人が殉教した。1626年一月十日、高岡で播磨のイグナチヨ茂左衛門が火あぶり、同月二十五日会津若松でコスメ林が斬首されている。

このようにして今回188殉教者のうちに挙げられた53人の殉教者たちの血が流される1629年が来る。日本カトリック司教協議会の「188殉教者一覧」では一月十二日米沢でルイス甘糟右衛門他52人となっているが、片岡弥吉氏の『日本キリシタン殉教史』では、「一月十二日北山原で穴沢半右衛門と息子のパウロ栄三郎ら7人が斬首、同日米沢の糠山でアントニオ穴沢の夫人クレセンチヤと二人の息子ら7人の女性と子供たちは斬首、十二日から十三日にかけて北山原でアントニオ穴沢の娘クララとその夫佐藤清助および1人の娘、佐藤の兄弟パウロ孫太郎とマグダレナ夫妻と2人の娘ら10人が斬首され、穴沢の一家眷属が殉教になった。十三日には米沢で7人、十六日にはジョアンとアンナ夫妻ら10人、同日北山原でヨアキム皆川が斬首、翌十七日同地で盲目のヨアキム小市が斬首された」と述べられており、ルイス甘糟右衛門他52人とどのように整合するのか、私には判断できない。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(13)
Weblog / 2007-04-13 21:24:10

13. 長崎の殉教者:ミゲル(ミカエル)薬屋、1633年7月28日、ニコラオ福永ケイアン、同年7月31日、ジュリアン中浦神父、同年10月21日、いずれも長崎西坂で殉教。

ミゲル薬屋はミゼリコルディヤ(キリスト教的慈悲)の組の組頭であったが、1633年7月28日火刑で殉教した。ミゼリコルディヤの事業は1614年に家康が発布したキリシタン禁令によって宣教師の追放と教会破壊が行われた後も1622年まで容認されていたが、その年遂にこの組が経営していた七つの病院もデウスを礼拝するという疑いのために跡かたもなくとりこわされた。こうして貧者や病人はキリシタンたちの家に引き取られた。1626年長崎奉行水野河内守と代官末次平蔵らがキリシタン弾圧を開始したので、多くのキリシタンたちは家を捨てて山に退いた。ミゼリコルディヤの組の人たちは山に退くとき、扶養していた病人や貧者も連れて行って助け続けた。「長崎の町をキリスト教的愛徳の花で飾った」(レオン・パジェス)ミゼリコルディヤの組は創立五十年で解散の止むなきに至った。

ニコラオ福永ケイアンについては記録を見つけることができなかった。「殉教者を想い、ともに祈る週間」(日本カトリック司教協議会殉教者列福調査委員会編)ではカテキスタとして働いたイエズス会の修道士」として紹介されている。

ジュリアン中浦神父は、以前に(2006年8月19日)すでに述べたように、1580年ヴァリニャーノ師の計画によってローマに派遣された四人の少年使節の一人であった。1590年ヨーロッパから帰国し翌1591年河内浦のイエズス会修練院に入り、1593年修練を終えてイエズス会修道士となった。1608年四人の修道士のうち千々石を除く三人が長崎でセルケイラ司教から司祭に叙階された。

ジュリアン中浦神父は1612年以来、ひどい迫害下にあった有馬地方や、肥後、薩摩など九州南部のキリシタンを毎年訪問し、精神的援助を与えていた。1620年度イエズス会年報ではこう述べられている:「日本人神父ジュリアノ中浦は筑後および豊前を訪問し、いたるところで、イエズス会としての通常の務を入念に果した。キリシタンの教えのために追放された信者を、そこに多く見出した。その中に殉教者ディエゴ加賀山の息子(小笠原玄也)もいた。」1624年には、また筑前と豊前に出かけ、博多、秋月、小倉などのキリシタンを訪れて、新たに勃発した迫害に対処するため、秘跡を授け、神の恵みと助けを受けさせた。ジュリアン中浦神父が殉教した1633年にはイエズス会員だけで24人が殉教している。その年十月十八日、イエズス会のジョアン・マテオ・アダミ、アントニオ・デ・ソーザ、クリストファン・フェレイラの三神父と二人の修道士、ドミニコ会のルカス・デ・スピリト・サント神父と一人の修道士がジュリアン中浦神父とともに穴づりの拷問を受けた。フェレイラ神父を除く全員が信仰を堅持して穴の中で息絶えた。中浦神父は十月二十一日、四日間の拷問に耐え抜いて、六十二歳の生涯を終えた。

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「汝ら、全世界に行きて、すべての被造物に福音を述べよ。信じ、かつ洗せらるる人は救われ、信ぜざる人は罪に定められん」(マルコ16:15-16)というキリストの命令と警告を真摯に受け取って殉教者たちはキリストの証人となった。信心会の長、カテキスタ、司祭はそれぞれ役割が違うであろうが、それぞれの立場に応じてこの福音宣教の使命を果たし、最後には生命をもってキリストの証人となった。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(14) Weblog / 2007-04-16 12:01:53 14. 大阪の殉教者:ディオゴ結城了雪神父、1636年2月25日大阪で殉教。  ディオゴ結城了雪神父については昨年8月29日、30日にチースリク神父様の書かれた『キリシタン時代の日本人司祭』キリシタン研究第41輯 高祖敏明監修 教文館 2004 の中の「ラテン文学から殉教へ 結城ディオゴ」(pp.193-219)を参考にして、すでに述べた。  ディオゴ結城了雪神父は、ガスパル・ウィレラ神父から1563年公家の清原枝賢とともに奈良で洗礼を受けた結城忠正の一族である。1617年には京都から津軽まで出かけて、よき牧者のように一匹の子羊を探し求めてキリシタンの家を訪ね告解を聴き、他の秘跡を授けている。京都から往復十七カ国を回って広い奥羽地方のキリシタンたちを励ましたのである。1621年には濃尾地方を巡回した。  キケロにも比肩されるほどのすばらしいラテン語を書いた知識人であるディオゴ結城了雪神父は、しかしそのことに満足することなく、迫害下の北陸、中部地方、東北地方を巡回してキリシタンたちの霊的生活を支援し、最後には穴づるしの刑で殉教した。  * * * * * *  ディオゴ結城了雪神父をはじめ日本の無数の殉教者たちが最も大切にしたのは「救い」ではなかったか。「救い」とは永遠の滅びからの解放である。この世の短い生の中でいかに多くのことが永遠の滅びへとわれわれを招いていることか。キリストが来られたのはそのような状況から人々を「救う」ためであった。そのことを心から信じ、人々の救いのために殉教者たちは最大限の努力をした。そのことをわれわれはよく考えなければならない。 ペトロ岐部と187殉教者の列福(15) Weblog / 2007-04-19 11:21:18 15. 長崎の殉教者:トマス金鍔次兵衛神父、1637年11月6日長崎西坂で殉教。  トマス・デ・サン・アウグスチノ金鍔次兵衛は大村城下の貧しいキリシタンの家に生まれた。1608年六歳の時有馬のセミナリヨに入学した。セミナリヨは1614年徳川家康のキリシタン禁令によって閉鎖され、次兵衛はマカオのコレジヨに入って勉学を続けた。同じ組にペトロ岐部がいた。フィリピンに移り、アウグスチノ会のフィリピン管区の会員として入会を許された。1623年十一月二十六日、二十一歳の時修道服を着た。1624年修練期を終えて誓願を許され、修道名をトマス・デ・サン・アウグスチノとした。セブの司教ペドロ・デ・アルセから司祭に叙階された。1630年セブで長崎奉行竹中釆女正重義がマニラに派遣した使節、長崎のポルトガル商館長シマン・ヴアス・デ・パイアと四人の武士たちとマニラ総督との間に立って通訳を務めた。そのとき故国日本でキリシタン迫害がひどくなって宣教師が殺され、指導的キリシタンたちも殉教して残った信者たちが指導者をなくして困っていることを知った。この使節の要求の中には宣教師派遣の停止が含まれていて、次兵衛神父の帰国の願いは総督から差し止められる。アウグスチノ会の長上の許可も得られなかっ ペトロ岐部と187殉教者の列福(16) Weblog / 2007-04-22 16:31:07 15. 長崎の殉教者:トマス金鍔次兵衛神父、1637年11月6日長崎西坂で殉教。 奉行の目が馬丁の上にも注がれそうになったので、俊敏なトマス次兵衛神父はいち早く姿をくらました。信者の中で働く司祭は今や彼ただ一人であった。多くのキリシタンたちのためにできるだけ長く生きながらえようと山間僻地に隠れ、深山の洞窟で雨露をしのいだ。「長崎港草」によると1635年(寛永十二年)トマス・デ・サン・アウグスチノ金鍔次兵衛神父を捕まえるため、九州に関所を置き、初めて往来手形を検した。絵師をキリシタンだと偽らせて神父に会わせ、指名手配のための似顔絵を描かせ、その写しを沢山作らせて役人たちに町々で、見つけたら訴えるように触れさせた。次兵衛神父はこの厳しい探索に対して、洞穴を出て金鍔の脇差をおびて武士に変装し国内各地を回った。  奉行所は佐賀藩、平戸藩、島原藩、大村藩に命じて兵を集め大山狩りを行ったが、次兵衛神父はこのころ江戸におり、将軍家光の小姓たちに伝道していたので、もちろん捕まらなかった。小姓数人がキリシタンになったことが発覚して斬られた。彼らはアウグスチノ会の帯紐の会、マントの会などの会員になっており、在俗修道者もいた。将軍家光は激怒して次兵衛召捕の厳命をくだした。西彼杵半島の大山狩りで次兵衛の世話をしていた塩焼きが一人捕まった。大村家では領内のキリシタン七十一人(男四十六人、女二十五人)を捕らえて火刑と斬罪にした。次兵衛は山中を転々として隠れたが。1636年十一月一日諸聖人の祝日についに捕らえられた。奉行所のスパイが彼を見つけ、ただ隠れているキリシタンだと思って役所につれて行った。次兵衛神父は名を尋ねられたとき、「トマス・デ・サン・アウグスチノ修道士、名は次兵衛、聖アウグスチノ会の神父である」と応えた。スパイには賞金として銀の棒三百本が与えられた。  トマス次兵衛神父は「魔法で逃げないように」二重に縛られた。彼の捕縛に手を焼いたこと、彼に対するキリシタンたちの信望が厚かったことなどのために、彼は日本の殉教者中、最もひどい拷問を受けることになった。水責め、手桶に満たした水を口に注ぎ、飲めなくなると、漏斗で注入し、樽のように腹が膨れるまで水を飲ませ、それから仰向けに寝かせて腹を焼き固めた割り竹で叩く。気を失うと、牢に運んで手当をし、蘇生させてまた同じ拷問を繰り返す。数日後、奉行は「キリシタンを捨てたら、これまでのことは忘れて、名誉でも何でも褒美として取らせよう」と言ったが、次兵衛神父は挫けず、「私は神を信じ、大切にしています。私が神に背かず、皆さんが私を神から離させないために、神が私に力を恵んで下さるでしょう」と答えた。神父は鉄の針で爪の間を突き刺され、銛先をつけて焼き固めた竹で足と腕の筋肉を突き刺され、引っ張られた。銛先は肉を引き裂き、千切った。神父の肌は鮮血に染まったボロ切れのようになった。神父は役人たちに言った。「救いの教えに目を開きなされ。皆さんが安住している闇から脱け出しなされ。偶像崇拝をやめて、真の神を拝みなされ。皆さんをあざむいている悪魔を捨てなされ。」役人たちは神父を黙らせようとして口を打ち、猿ぐつわをはめて牢に戻した。  1637年(寛永十四年)八月二十一日、次兵衛神父は牢から出され、次兵衛を家に宿した十二人の日本人男女と一緒に刑場に引かれて行った。西坂に吊り台が用意され、穴が掘られていた。次兵衛神父は真っ先に吊られた。他の十二人は長くしないうちに息絶えたが、神父は飲まず食わず穴に吊されたまま三日間生きていた。二十三日午後六時頃神父は穴から出された。失神していたがまだ生きていた。牢に戻され、手当を受け薬を与えられた。1637年十一月六日午前九時再び穴に吊された。神父の宿主とその家族四人と一緒だった。言語に絶する責め苦を凌いで弱り切っていた神父は吊されると誰よりも先に息を引き取った。三十五歳であった。死体は重い石をつけて海に捨てられた。彼の教えを受けたキリシタン六百三十七人が彼と同じく信仰を守ってそれまでに殉教していた。  * * * * * *   幕府によるキリシタン迫害とそれに伴う殉教を、単なる国法を犯す犯罪人に対する処罰とその結果としての当然の死であると今でも主張する人々がいる。キリシタン宗が法度であったことは確かである。国権によるキリシタン宗の禁令はしかし、人間による神の権威の否認である。迫害や弾圧は宗教の禁圧が眼目ではなかったのである、迫害や弾圧は宗教を隠れ蓑にした侵略の意図とその実践に対してなされた幕府の正当防衛策であったと論じる人々もいる。当時カトリックの敵であったイギリス人やオランダ人はスペインやポルトガルに侵略の意図があったかのごとく幕府当局に讒言している。これらの問題について軽々に論じることはできず、厳密に歴史的な研究をしなければならないことはもちろんであるが、日本におけるキリシタンの迫害と殉教を宗教問題として取り上げずに、単なる政治問題に格下げし解消してしまうことは許されない。西洋対アジアあるいは日本の問題として、キリシタン迫害・殉教は西洋人がアジア人あるいは日本人の残酷さを宣伝するための材料にしか過ぎないとする見方もまた皮相浅薄に過ぎる。そういう人間同士・民族間・国家間の軋轢の問題に尽きるものではない。キリシタン殉教者たちが問題にしたことは被造物である人間と創造主である神との間の問題であった。国家の主権も神の全能の権能の前には膝を屈めるべきであるというその一事に関わって殉教が起こっているのであって、人間同士、民族同士の対立・闘争ではなかったということを見失うと上に挙げたようなキリシタン=犯罪者説になるのである。かつてのソ連、現在の中国、北朝鮮その他の共産主義国における迫害や弾圧も基本的には同じ構図のものである。あるいは共産主義ならざる自由主義国と言われる現代西欧諸国の世俗主義もまた同じ構図を持っていることを見逃してはならないと思う。神の権威の否定があるところ、真の宗教であるカトリックに対する迫害やその結果としての殉教は十分に起こり得るのである。 。次兵衛神父はローマの総長に手紙を書いて日本における活動についての意見を具申するためローマに行く許可を求めた。その返事が来る前に、フィリピン管区長から日本に帰国潜入する許可が与えられ、次兵衛神父はローマへは行かず、日本船に乗り、1631年末あるいは1632年の初めに日本に行き、長崎の港に入る前に下船して上陸、数日間隠れて姿を変え、人目をくらました。三十歳の時であった。  長崎ではアウグスチノ会日本管区長グチェレス神父と連絡を取るため、トマス次兵衛神父は奉行所の馬丁に住み込んだ。グチェレス神父が長崎奉行竹中釆女正から雲仙地獄で拷問を受け長崎に連れ戻されて入牢していたその牢を探り出して管区長と連絡を取ることができた。グチェレス神父は十年間日本を離れていたトマス次兵衛神父に詳しく日本の事情を説明し、活動についての注意を与えた。しかしグチェレス神父は1632年九月三日イエズス会のアントニオ石田神父ら六人と西坂で殉教した。トマス次兵衛神父は不眠不休の活動を続けてキリシタンたちの霊的指導をし秘跡を授けた。彼は奉行所の昼間の仕事を終えた後にキリシタンたちの家を秘かに訪れて、奉行所の命令に対決する仕方と勇気とを教えた。キリシタンたちはトマス神父の訓戒 - 奉行所の命令の従わないことは死を意味するかもしれないが、従うことは神に背き魂の生命を失う、神と結ばれ、魂を傷つけないために妥協や順応を許されない一線を守れ - を守った。奉行は長崎市民が「十字架やロザリオ、メダイの代わりに、仏の絵を首にかけよ」という彼の命令に従わないことに不審を抱き、宣教師がキリシタンたちを指導しているに相違ないと考えた。探索を厳しくし、密告者には莫大な賞金を約束したが見つからなかった。トマス次兵衛神父は奉行の膝元で、昼間は忠実に働き、夜になると町に出て、秘かに洗礼を授け、説教をし、多くの背教者を改心させた。長崎だけではなく、近郊の村々にまで活動範囲を広げた。 ペトロ岐部と187殉教者の列福(17) Weblog / 2007-04-24 20:00:55 16. 江戸の殉教者:ペトロ岐部かすい神父、1639年7月江戸で殉教。 1603年十二月八日の八代の南五郎左衛門から始まった188殉教者の一覧もこの16番目のペトロ岐部かすい神父が1939年七月に江戸で殉教したことで締めくくられている。この36年間に殉教した無数の殉教者の中から日本の九つの教区(新潟、東京、京都、大阪、広島、長崎、大分、鹿児島)で殉教した代表的な人々が選び出された、と『殉教者を想い、ともに祈る週間』の中の「ペトロ岐部と187殉教者」に述べられている。  ペトロ岐部かすい神父についてもすでに4回にわたって(2006年8月20日 - 23日)述べたのでここでは繰り返すことはしない。岐部ペドロ・かすい神父について大目付井上筑後守政重の記録「契利斯督記」に次のように述べられている。「キベ・ペイトロころび申さず候て、つるし殺され候。...同宿二人キベと一つ穴につるし申し候故、同宿どもを勧め候故キベを殺し申候由」。彼はころぶどころか、同じ穴に吊された同宿を励まし、そのために穴から引き出されて首を斬られたのである。彼は江戸で殉教したゆえに江戸の殉教者となっているが、出身地は大分県東国東郡国見町岐部であり、現在そこには岐部ペドロ・かすい神父の立派な立像がある。  * * * * * *  日本のこれまでの無数の殉教者たちのごく一部の人々が今秋列福されるペトロ岐部かすい神父と187殉教者である。彼らを含めてすべての日本の殉教者が現代日本のカトリック教徒に、日本人全体に、そして世界の人々に残したメッセージは何であったか?  殉教者たちは神の愛を信じ、それに殉じた人々である。ヨハネによる福音書はこう述べている:「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。神はおん子をこの世にお遣わしになった。この世を裁くためではなく、おん子によって、この世が救われるようになるためである。」(3:16-17)独り子イエズス・キリストのこの愛に応えることがこの世の権力者や世間と衝突するとき迫害・殉教が起こる。イエズス・キリストが御父の愛の証人であられたように、殉教者たちはその御独り子イエズス・キリストの愛の証人であった。御父が御独り子をこの世にお遣わしになったように、御独り子イエズス・キリストは使徒たちを、そして信徒たちをこの世にお遣わしになった。使徒たちの後継者である聖職者もその権威に従う信徒も「この世が救われるため」にイエズス・キリストの証人でなければならない。殉教者たちは皆強い人であった。しかし、この強さは人間の力を誇る傲慢とは何の関係もない。謙遜であるがゆえの強さである。神にすべてを委ねる強さである。  殉教者たちはまた真理の証人であった。真理と虚偽を混同しなかった人々である。その意味で公権力にも、世間にも、偽りの諸宗教にも妥協しなかった。彼らには現今の曖昧なエキュメニズムを容認する「寛容さ」はなかった。真の寛容とは真理に不忠実なことではない。真理に忠実であることは時に頑固、依怙地、偏屈、柔軟性の欠如と間違われる。もちろんどっちでもよいこと、どうでもよいことのどちらか一方、あるいはそのどれか一つに頑固、依怙地、偏屈、柔軟性の欠如によって、固執することは間違いであろう。しかし、白を黒とすることはできない、真理を虚偽と同等に置くことはできない。ただそれだけの話である。幕府はキリスト教を邪教として弾圧・迫害したが、キリシタンたちは仏教やその他の宗教を偽りの宗教として厳しく拒絶した。真の宗教はただ一つ神御自身の建て給うたカトリック教であって、他のすべての宗教は天主の第一戒に反する人間が作った偽の宗教であるという点を彼らは一歩も譲らなかった。だからこそキリシタンは迫害されたのであり、彼らの殉教が続いたのである。われわれはその点をはっきりと認識すべきである。宗教的多元主義を容認するエキュメニズムはカトリックの真理から離れてその他諸々の偽りの宗教と肩を並べるものに自らを貶めるものであると思う。殉教者たちは真理に殉じた人々であった。

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作成日:2007/03/25

最終更新日:2007/06/26

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