第一章
南海の碑/故郷の山河 


海軍中尉

中西 達

神風特攻・常盤忠義隊
大正12年5月25日生。海軍兵学校第72期。
昭和20年4月12日 南西諸島(ケラマ列島)に於いて戦死。


  
出撃の前日、南九州某基地にて私の雑感雑念をしたためて、御両親様へ不孝をお詫びする
  次第であります。生をうけてここに二十有三年、その間を回顧すれば限りなし。誰のため
  にもあらず唯御両親様へ育まれて今日に至りました。
  ああ我その御恩に報ゆること何一つなし、万感交々(こもごも)至り筆進まず。
  大日本帝国の危機愈々(いよいよ)到来しました。この時に当たり私は出撃を望み、
  選ばれて特攻隊員となりました。私の宿願達せられ無上の光栄に思って居ます。

  「南西諸島の戦闘は、我が国の存亡にかかはる戦ひであるが、全力をあげてその目的を
  達成せよ」とのお言葉をいただきました。連合艦隊長官は彼のZ旗をあげられました。
  この時体当たり部隊の一指揮官として出撃する私の本懐、これに過ぐるものはありません。
  父上、母上、泣いて下さい。いくら泣いてもよろしい、泣いて私を弔って下さい。
  しかし父上、母上、私の本懐を察して下さい。その昔姉の云った言葉、私はまだ忘れては
  居ません。姉も墓の下で私を待っていてくれるとと思ひます。

  現在の私には何等心残りはありません。唯父上母上に対する不孝と不忠、父上母上の
  悲しみが気にかかります。父上にも母上にも私の死は最大の悲しみだらうと思ひます。
  悲しんで戴ければ私も安心して出てゆける思ひがします。がしかし、私は決して死にません。
  悠久の大義の道にいつまでも歩を進めています。そうして必ず皈(かえ)って来ます。
  あの靖国神社にあの護国神社に、又父上母上の枕元に。
  山口にも既に桜が咲いていると思ひます。
  明日散る桜が私だと思って下さい。私はかつて「忠花」といふ名前をつけました。
  忠花があす散るのです。或いは未だ開かずに散るかもしれませんが、私の隊は出来れば
  「忠花隊」と名づけたいと思っています。

  山口のあの山、この川、あの道、この家、今眼前に次々と映じて来ます。
  先日こちらに来る際山口の上空を旋回して、皆んなにお別れをしようと思っていましたが、
  エンヂンが少し悪くなったので宇佐に下りて修理したため、時間がなくなって山口まで
  行けなかったのが残念です。しかし大島郡は眼下に見て、方便山もはるか彼方に見、
  たしかに機上で皆にお別れをした気でいます。

  不忠の臣達二は今ここにやうやく忠義の大道に取付かうとしています。しかしまだ忠の道は
  深遠です。不忠の臣達二が不忠の臣で終るのは当然であり、私は満足であります。
  私は教官となって以来、出来るだけの努力をしてご奉公をつづけて来ました。
  私は全力を尽して御奉公し得たと信じて今満足しています。今出撃するに当たり、多くの
  人々から惜しまれる私は実に幸福と思ひます。短かった人生を、私ほど運よく華やかに過した
  ものは少いだらうと感謝しています。多くの人々のおかげです。

  明日私は十一時二十分、魚雷と同じ大きさの爆弾をかかへて、後に予備学生出身の田沢少尉と
  予科練出身の阿部二等飛行兵曹とを乗せて出発します。
  後日新聞社からもしくは大本営からか、三人で一緒にとった写真が届くかもしれませんが、
  その時は一緒に弔ってやってください。又私の隊の中には上羽坂の滝本少尉(恭三と同級の
  滝本君の兄さんで、私よりも附属のときも山中のときも一年上級だった人です)が一緒に
  ゆきます。嘗ての上級生ではありますが、今では私の部下となって喜んでついて来て呉れ
  ます。共に秋枝中佐にまけまいと約束しています。私もあと二十日で大尉に進級するのでは
  ありますが、死んで中佐にならうと、少佐にならうと、階級はどうでもよろしい。
  大義の道にかわりなく敢て進級を望みません。

  私は父上、母上から宗教心を持つ様に言はれましたが、何もこれとて考へませんでした。
  しかし今別に迷ひません。唯後日体当たりをするときに、寸前どんな気持ちになるかが気に
  かかります。これも父上母上のいはれる通りにしなかったためだと後悔しています。
  迷わぬために歌でもうたって体当たりしてやらうと思っています。我に天佑神助あり、必中
  轟沈の確信があります。どうか四月十日前後の戦果をもう一度見て下さい。その中には私が
  沈めた空母が一隻ある筈です。

  先日多数の同級生と教へ子のものが第一陣をうけたまわって、特攻隊として出てゆき大戦果を
  あげましたが、皆んなニッコリと笑って元気に私に挨拶して出てゆきました。
  今度は私がニッコリ笑って元気に出てゆく番です。私達三人がドカンとやれば、何千人かの
  米軍が道づれに地獄まで来てくれるかと思へば実に愉快です。
  人生これ程胸のすくことはないですよ。明日の出発はよくよく考へてみると実に楽しい気が
  します。こんなに嬉しく出てゆける私は又幸福者と思ひます。

  さて最後に一つ、父上様、私はからうじて家門を汚しはしなかったと確信しています。
  寧ろ衰へかけた中西家の誉を、一部分とりかへし得たと思ひます。
  あとは恭三にたのみます。恭三もきっと立派にお国のために働いてくれるものと信じます。

  父上には失礼かもしれませんが、私は中西家の断絶をいとひません。
  「家亡ぶとも国全ければ悔ない」
  といふ考えであります。今国の危機です。我が大日本帝国が亡んだとしたならばどうなる、
  と思ふとき、家はどうでもよいといふ感を深くします。
  
  我が国に於ては家だけでは成り立ちません。わが国に於ては国家あってはじめて成り立ちます。
  我が中西家は父上一代で断絶するとも、どうか父上おゆるし願いたいと思ひます。
  ああ、とりとめもなく唯思ひつくままに書きつらねました。一応これで筆をおきます。

  父上、母上様の莫大なる御恩も、体当たり一事を以てお報ひする覚悟であります。
  どうか御両親様益々御自愛されて御多幸ならむことを地下よりお祈りいたします。


 
  散る桜 残る桜も散る桜
     散って護国の花と惜しまん
  嵐吹けば 蕾桜も惜しからず
     手折りて捧げむ 大君のため
  仇しふね うち沈めてぞ地獄なる
     鬼へあたへむ わが手土産を
  すめろぎの 大和島根よ安かれと
     南海深く 身は沈みつつ


   

海軍少尉
重信 隆丸

神風特攻・琴平水心隊
大正11年9月18日生。竜谷大学文学部哲学科出身。
昭和20年5月28日 南西諸島方面に於いて戦死。


  妹へ
  妙子、全く意地悪許りして申訳ない兄だったね、許して呉れ。
  愈々明日は晴の肉弾行だ。意地悪してむくれられたのは、今から思へばみんな懐かしい
  思ひ出だ。お前も楽しかった思ひ出として笑って呉れ。兄さんが晴の体当たりをしたと
  聞いて、何もしんみりするんぢゃないよ。

  兄さんは笑って征くんだ。凡ね人間とはだねエッヘン!大きな或るものによって動かされて
  いるのだ。小さな私達の考へも及ばない大きな力を持つ或るものだ。それは他でもないお前の
  朝夕礼拝するみ仏様なのだ。

  死ぬといふことはつらいと云ふが「何でもない。み仏様の為されることだ」と思へば、何も
  問題でもなくなるのだ。欲しいと思ふものが自分のものにならなかったり、別れたくない
  もの、例えば兄さんに別れ度くなくったって、明日は兄さんはお前なんかまるで忘れでも
  したかの様に平気であっと云う間に散ってゆくのだ。

  そして丁度お前の様な境遇の人は、今の日本は勿論世界中のどこにでも一杯なのだ。
  又兄さんは特攻隊に入って暫く訓練したが、兄さんの周囲では、特攻隊と関係無い長命すべき
  様に思へる人がぽつりぽつりと椿の花の様に死んで云った。大体わかるだらう。
  この世は「思ふがままにゆかないのが本当の姿なのだ」といふことが。

  簡単に云えば、一寸まずいが、無常が常道の人世とも云へやう。兎に角何も心配すること
  なんか此の世にはないのだ。明るく朗らかに紡績(しごと)に励み勉強し、立派な人間に
  なってくれ。
  それがとりも直さず御国への最も本当の御奉公なのだ。兄さんはそれのみを祈りつつ征く。

  難しさうなことを色々書いたが、兄さんも色々これまで考へた挙句、つひ最近、以上書いた
  やうな心境になったのだ。お前も仲々本当の意味は分り難いと思ふが、折にふれてこんな事を
  考へていたらいつか分かることだ。

  朝夕お礼をすることは忘れないやうに。沁み沁み有難く思ふ時が必ず来る。
  お父さん初めお母さん相当年もとられたことだから、よくお手伝ひをして上げてくれ。
  姉さん、昭を頼む。元気に朗らかにやるんだよ!仏様のことを時々考へろと云ったって、
  仏様とはしんみりしたものとは全く関係無いものだよ。以下取急ぎ断片的に書く。

  一、運動は必ずやるべきだ、精神爽快となる
  一、守神(マスコット)は頼んであったが、手に入らなくとも何の心残りも無し
    雨降れば天気悪しだ ワッハッハハ
  一、よく読書すべし

  幾ら書いても際限なし ではさようなら お元気で




海軍大尉
関 行男

第一神風特攻・敷島隊
大正10年8月29日生。海軍兵学校70期。
昭和19年10月25日 タクロバン沖の米空母に突入し戦死。


  西条の母上には幼時より御苦労ばかりをおかけ致し、不幸の段、お許し下さいませ。

  今回、帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れに
  すぐるものはありません。

  鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に
  報ゆる事も出来ず征く事を、お許し下さいませ。

  本日帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。
  皆様御体大切に
  父上様 母上様                            行男


  教え子へ(第42期飛行学生へ)
  
教え子は 散れ 山桜 此の如くに
  



  (妹注:関大尉は初の下令特攻の隊長でした。戦中は軍神と讃えられましたが、戦後の流れで
   残されたご家族は逆に冷たい扱いを受け、母上のサカエさんは生活に困窮し遂に大尉の墓も
   立てる事が出来ず「せめて行男の墓を…」と言い残し昭和28年に亡くなられています。
   戦後の自称反戦派や左翼勢力の台頭による犠牲になったと言えるでしょうね…。)




  

海軍少尉
植村 真久

神風特攻・大和隊
大正8年生、25歳。立教大学出身。
昭和19年10月26日 比島沖にて戦死。


   (注:妻に託した愛児への便りです)

  素子、素子は私の顔を能く見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に
  入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、
  佳代伯母様に私のことをよくお聞きなさい。私の写真帳もお前のために家に残してあります。
  素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうに
  と思って、お父様が考へたのです。

  私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、しあわせになったのを見届けたいのです
  が、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。

  お前が大きくなって、父に会ひ度いときは九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、
  必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。
  父はお前は幸福ものと思ひます。生れながらにして父に生きうつしだし、他の人達も素子
  ちゃんを見ると真久さんに会っているような気がするとよく申されていた。

  またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって下さるし、
  お母さんも亦、御自身の全生涯をかけて只々素子の幸福のみ念じて生き抜いて下さるのです。
  必ず私に万一のことがあっても、親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を
  護っております。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。
  お前が大きくなって私のことを考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。

  追伸 素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機の
     お守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。
     素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。


 
    

海軍少尉
小泉 宏三

神風特攻・第五昭和隊
大正12年3月26日生。横浜商業専門学校出身。
昭和20年4月29日 沖縄東方海面に於いて戦死。


  お父さん、お母さん、私が特攻隊員と判って随分驚かれたことと思ひます。

  予め私の命は無きものと覚悟されてをられた事と思ひますが、それでも私が戦死することが
  確実となれば、更(あらた)めて私に就いて未練のやうな情も起り、仲々あきらめもつかぬ
  事と思ひます。成程私は小泉の家にとって大切な人間であったに違いありません。
  お父さんやお母さんの希望も多く私に掛ってゐたことでせう。
  さんざんお父さんお母さんの御世話になって大きくして戴いた、私にはそれが良く判ります。

  然しお父さんお母さん。

  今日本は正に存亡の秋(とき)にあります。米国はその兵力の殆んど大部分を集中して、
  沖縄に侵攻して来ました。

  これに対して日本も、その全兵力を傾けてこの撃滅を期しているのです。そして凡ゆる点に
  於て困難な条件の下にこの戦局を打開し、一大攻勢に転ずるには、その方法は唯一つ、
  特攻に依る外はなくなったのです。

  この沖縄決戦に集中して来た敵大機動部隊の大部を屠り得たらその時こそ、日本の勝利は
  疑いありません。要言すれば勝敗の一大神機は正にこの沖縄決戦にあるのです。

  この秋に当り日本を救ふ道が特攻隊以外になかったとしたら、お父さんやお母さんは
  如何なる道を執られますか。言ふまでもなく光栄ある特攻隊員の一員となられて祖国
  日本の為に立たれると思ひます。私の選んだ道が即ち之です。

  何も私がやらなくとも特攻隊員となる搭乗員は幾らもあるだらうに、と考へる人もあるかも
  知れません。だがそう言ふ考へ方は私の心が許しません。
  この戦争遂行に一体何万の尊い人命が失はれた事でせう。
  これら靖国の神々の前にも、そして幾多の困苦を闘ひつつ生産に敢闘しつつある人々に
  対しても、絶対かかる私的な考は許されません。

  俺がやらなくて誰がやるか、各々がこの気持で居なかったら日本は絶対に負けると言って
  決して過言ではありません。

  そして国が敗れて何の忠がありませうか、七生報国の決意を果たすべき時は今、正にこの
  一期に掛ってゐるのです。

  お父さんお母さん、私を失はれる事は悲しいことでせうが、このやうな事情を良くお考へに
  なって下さい。

  そしてこの決戦の一ツの力に、自分の子がなった光栄に思を及ぼして下さい。このやうな事を
  申すのは私の老婆心であるかも知れません。だがいざ本当に息子が死んだとなると、新たな
  悲しみが起きるのではないか、そして又身体の弱いお母さんなぞ御病気になられるのではないか
  (勿論そんな事はないでせうとは思ひますが)と思って敢て筆をとりました。

  親友芹津も、不幸特攻訓練中に戦死しました。然し目的を果たさなかったと言っても、芹津は
  立派に信念の道を真直進みました。その忠節は立派に果たされたと言って良いと思ひます。

  芹津の道は我が道であり、芹津の分も一緒に私が果たす覚悟で居ります。

  富田も中村もやがて私等と同じ道を進んで来ます。

  夜も更けて来ました、この辺で筆を止めませう。敵B29の落した爆弾で屋根に穴があき
  其処から霧雨が降り込んでゐます。

  (待機余禄より)




海軍少尉
久家 稔

回天特攻・轟隊
大正12年4月11日生。大阪商科大学出身。
昭和20年6月28日 マリアナ海域にて戦死。


  多恵子殿
  我が最愛の妹よ、私は今最も大きなことをやらんとしている。
  それはおそらく貴女もわかっていると思う。

  私はかつて幾度か貴女を叱責してきた。それも貴女を愛すればこそであり、叱責が一つの
  愛情表現であったと思ってくれ。

  今更改めて云うことはないが、私が今までに云ってきたことは、ことごとく私の人生観の
  一端である。至らぬ兄の意見ではあったが、私の云ってきたことを思い出して、大和撫子
  として清く美しく生きてくれ。
  蓮の花は泥沼の中にありながらも、あのように清らかな花を咲かせる。

  如何なる汚濁に充ちた世界にあっても信念を堅持しておれば、それに染らずに生きてゆける
  ものである。

  妹よ、清純に生きて行け、心の最も美しいところで貴女を愛しつづけてきた兄の最後の
  言葉を忘れないでくれ                              稔


  清 殿
  愛する弟よ、兄は今永遠に不滅の世界にとびこまんとしている。貴様にはもう今更語る
  こともない。既に貴様の知識、思想は俺を凌駕していることと信じる。

  俺の心には生もなければ死もない。ただあるは空の一字、死生観というは生に、また死に
  拘泥するから起る。死もない、ただあるは空の一字。死生観は生に、また死に拘泥するから
  起こるものである。

  俺は貴様が必ず兄の後を継いでくれることを確信して征く。

  弟よ、堅固なる信念を持って真摯なる学徒として、一日一日を無駄に過すな、これが至らぬ
  兄の最後の言葉だ。                               稔




海軍中尉
都所 静世

回天特攻・金剛隊
大正13年2月23日生。海軍機関学校53期。
昭和20年1月12日 ウルシー海域に於て戦死。


  蒸風呂の中にいるようで、何をやるのもおっくうなのですけれど、やさしい姉上様のお姿を
  偲びつつ最後にもう一度筆をとります。今日が一月も五日目。一日一日とあたかも真冬から
  真夏に変る程の急激な変化で、一日毎に皮をはいでゆく気持ちでした。そして今では、体の
  皮をはいでもまだ足りない位です。今まで九ヶ月も陸上勤務をしていたので、すっかり潮気が
  抜け切って、出撃後最初の数日は半病人みたいでした。しかし闘志満々、御安心下さい。

  三十日の一七〇〇、豊後水道通過、迫り来る暮色に消えゆく故国の山々へ最後の訣別をした
  時真に感無量でした。
  日本の国というものが、これほど神々しく見えたことはありませんでした。

  姉上様の面影がちらっと脳裡をかすめ、もう一度お会いしたかったと心のどこかで思いまし
  たがいやこれも私心、大義の前の小さな私事、必ず思うまいと決心しました。

  人と生まれ、誰が家郷を想わざる。私事私欲にとらわれぬ者がありましょう。しかし、それら
  諸々の私欲、煩悩を越えて、厳然とそびゆるもの、悠久の大義に生きることこそ、最も大い
  なる”私”を顕現することなのです。

  家を忘れよ、親を忘れよ、子を忘れよ、すべての私事から脱却し得るものこそ、真の忠臣で
  ありそれがひっきょう、真に親を想い、子を想う所以です。とこのようなことが艦の中で
  見た書物に書いてありましたが、全くそうだと存じます。

  母親もなく、帰るべき家もなく、もちろん子もない私には、あらためて決心などせずとも、
  大君のためにはよろこんで、真先に死ねる人間ですが、姉上様はこの短い私の生涯に母の
  如く、また真の姉の如く、大きな光明を与えてくださいました。いつも心のどこかうつろな
  心持でいた私、家庭的愛に飢えていた私が、姉上様があると知ったときのよろこび、今にして
  はっきり申します。

  姉上様、それがどんなに嬉しいものであったかご想像もつきますまい。
  恐らく弟も私と同じ気持ちで死んで行ったに相違ありません。

  幸福という青い鳥は、決して他に居るのではありません。自分の家の木の枝にいました。
  真の幸福は他より来らず、自己の心に見ゆるなりとか、今その鳥を見つけました。
  これで姉上様に赤ちゃんがあるのでしたら、もう何も申しあげることはないのですが。

  こんなじじくさいことをいう私の気持ちも、今にお分かりのことと存じます。

  艦内で作戦電報を読むにつけても、この戦はまだまだ容易なことではないように思われます。
  若い者がまだどしどし死ななければ完遂は遠いことでしょう。

  それにつけてもいたいけな子供等を護らねばなりません。私は玲ちゃんや美いちゃんを見る
  度にいつも思いました。こんな可愛い純真無垢な子供を洋鬼から絶対に守らねばならない。
  私は国のためというより、むしろこの可憐な子供たちのために死のうと思いました。

  生意気なようですが、無に近い境地です。攻撃決行の日は日一日と迫って参りますが、別に
  急ぐでもなく日々平常です。太陽に当らないので、だんだんと食欲もなくなり、やせて肌が
  白くなって来ましたが、日々訓練整備のかたわらトランプをやったり、蓄音器に暇をつぶして
  おります

  今、六日の〇二四五なのですが、一体午前の二時四十五分やら、午後の二時四十五分やら
  兎に角時の観念は無くなります。

  姉上様もうお休みのことでしょうね。今総員配置につけがありました。ではさようならします。
  姉上様の末永く御幸福であります様、南海の中よりお祈り申上げます。
   姉上様                         静世



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