臨済宗 大徳寺派
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      『海門山 円福寺』について
 
 当山『海門山 円福寺』は、一般に言われております「禅宗」という宗派になります。
「禅宗」と言いましても「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」の三宗に分かれており、その中でも
「臨済宗」は更に十四派に別れております。


 当山『海門山 円福寺』は『禅宗』三宗の中の「臨済宗」で、本山が京都の大徳寺ですので、
正式には『臨済宗 大徳寺派 海門山 円福寺』と言います。


 現在、紛失しておりますが、寺の由緒書によれば後字多天皇の御字、建治三年(1277年)
田原沓掛城主 田原泰広が絶崖宗卓禅師を請て大檀那となり七堂伽藍を建立、絶崖宗卓禅師は
その師 大應国師を 開祖となし自らは第二世となったとのことです。
この絶崖宗卓禅師による円福寺開創については、『本朝高僧伝』にもあり、かなり信憑性のある
史実ということができます。


 田原泰広は、豊後 大友氏 初代 能直の第十二子で、大友 三代 頼泰の代に豊後に下向、
弘安八年(1285年)の『豊後国図田帳』では田原本郷(現 西国東郡大田村)四十町を領有
しておりました。この間文永年間には元寇の役に出陣したとされ、あるいはこの時、文永七年
(1270年)以来 筑前 崇福寺に住していた大應国師ないしはその高弟 絶崖宗卓禅師との
交渉を得て、円福寺の創建となったとも考えられるようです。

 しかしながら、絶崖宗卓 禅師の没年建武元年(1334年)から勘案して建治三年(1277年)
創建は早すぎるように思われ、おそらく田原泰広の開基というのは誤りで、あるいは第二代 
基直のときだったのではと推察できるそうです。
 弘安年間、基直は大友軍の一武将として元寇の役に参戦しており、絶崖宗卓禅師も徳治元年
(1306年)京都万寿寺に住寺するまで、豊後万寿寺、筑前崇福寺に歴住ており、この弘安年間
から徳治元年にかけて両者の交渉があり、円福寺が創建したとも考えられております。
また、京都に所在した同名の寺院との混同も考えられ、正確なところは明確になっておりません。


 当山 円福寺に安置されております開祖 大應国師像も、この創建時に造立されたかどうかは
不明であり、舎利塔の納入など考えると、やはり大應国師の没した延慶元年(1308年)以後その
遺善のために造立されたとみるのが妥当とさております。

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