キュード・スピーチ について
> キュード・スピーチについて教えて下さい 日本で初めて採用したのは、京都聾学校の幼稚部でした(確か、同時法を採用した栃木校 とそう変わらない時期に)。それで指導を受けた子どもが千葉聾学校に転校したのですが、 彼(彼女?)が話す中身の豊かさと発達の具合に教員が感動し、千葉聾での導入が 始まったときいています。それがあちこちに広がっていったのですが、その理由としては、 次のことがあげられるでしょう。 1)一つの子音と一つの母音で構成される日本語の特性に合う。 2)聴覚口話法の曖昧さを補うことができる。 3)早期から母子間・友人間のコミュニケーションが成立する。 4)聴力の厳しい子でも、一斉指導の保育に参加できる。 5)ひらがなと対応しているので、日本語獲得に有効である。 (音声日本語の細かい言い回し表現にも対応可能) 6)指文字に比べて数が少なく形状が簡単なことから、幼児でも習得が容易である。 家族全員で使える。手話や指文字は、声を出さなくても通じるので、 これを早期から使うことは望ましくない。 7)各聾学校で伝統的に用いていた発音誘導サインがそのまま使える場合があり、 あまり抵抗なく使えた。当然、発音指導にも有効である。 これらは、「キュード導入によって期待されたこと」と言い換えてもいいのですが、 本当にそうだったのかという検証を、実はほとんどの聾学校はやっていないのです。 本校もキュード(正確には、手話→キュード)の学校でした。私が赴任した直後に この疑問を感じて、これは何とかしなきゃいけないと、あれこれ動き始めました。 驚いたことに、多くの教員は、問題意識すら持っていませんでした。 「前からこうなっているから」「ベテランがそう言っているから」などという理由で、 現状を検証することすらしようとしないのです。人間が勝手に決めた「制度」なのに、 まるで天地のように太古の昔からそうなっているとでも言いたげな感じでした。 多くの口話法の聾学校も、たぶんそんな程度ではないでしょうか。 徹底的に現実を直視し、議論を重ねた結果、手話(と指文字)を中心的に用いるように 本校は変わりました。そういう状態からのスタートでしたから、それはそれは、一言で 言えないくらいの苦労はあったのですが。 以前にも書いたかと思いますが、キュードスピーチには問題点がたくさんあります。 以下、本校の現実から導き出した答えを列挙します。 1)手の符牒と母音口形という二種類の異なる素材を組み合わせて表現するので、 習得できない子どもがいた。 2)成人聾者との関係を阻害した。同じ「聾者」なのにコミュニケーションできない。 3)「奈良系」「○○系」という分け方は一応あるが、実際には学校ごと(酷いところ では学部ごと)にサインが異なり、同じ立場の者同士の関係も阻害した。 4)いつまで使うか(サインを取って口話だけにするのか、ずっと使い続けるのか、 手話・指文字に変えていくのか)、どうやって使うか(部分的にか、常に使うのか) という取り決めが曖昧で、教員個々によって対応が異なった。 5)一度習得すると、それを使って生活するようになるため、長じてからも手話・指文字 に切り替えにくい。千葉(だけではなく広島もですが)では卒業後もキュードを 使い続けるためにろう社会に入れない若者がいる。 6)リズムやイントネーションが崩れ、スピーチが不自然になってしまう。 7)読み取りにくい。 8)感情を伴いにくい。 9)ことばの形態面(音韻)はキャッチできても、意味理解につながりにくい。 10)実は、声を伴わなくても通じる。(手話化しているということもある) これの使用により発音明瞭度が向上したという報告はないし、実感もない。 聴覚活用も同様。 11)母親はともかく、家族全員、隣近所、一族郎党全てがキュードを覚えて使った例 などない。(「容易に習得できる」はずなのに) 他にもいろいろありますが、キュードを使って生活する集団なんかありません。 自分が一生使える言語や手段でないものを子どもに強要する、このことだけでも おかしいです。 成人対象のキュード通訳なんてないですからね。 本校では、手話から始めて、幼小部はキュード、中学部に入ったら手話・指文字と いう取り決めでしたが、ある時期までは「A」、次に「B」、そして「C」なんてことを 教員は自分達だけの勝手な価値観で判断し、平気でやってきたわけです。 言語って、そんなもんじゃないはずなのに。 コミュニケーションの早期成立と深化・拡充も謳われていましたが、実際には、使える 者が手話以上に限定されるために、この世の中でコミュニケーションできるのは 同じ聾学校(同じ学部)の友達、教員、そして母親だけということになってしまった 例だって、たくさん知っています。 >先生方は「ここに入ったからにはここのやり方に従ってもらう」とか >「この聾学校がキュードと知って入ったんだから、知ってて入った方が悪い」 >「個人的には良い方法だとは思わないが、学校の方針だから個人では動けない」 >「だって、子供たちはキュードでしか通じないんですよ」 >「キュードがあれば、なにも困らないんだ」などと >高圧的、且つ無知な対応でした 「キュードがあれば、なにも困らない」のは、聴者教員です。サインをつけて普通に 話すだけで良いのですから。手話の文法だとか表現だとか、何も考えなくていいの ですから。本校はそれに四苦八苦しながらやっているわけですが、それでも子ども達の 会話・思考・行動の内容は、キュード時代に比べて格段にレベルアップしています。 「教科指導も生活指導も、本当にやりやすくなってきた」と、多くの教員が異口同音に 言っています。 今からキュード導入を検討している聾学校すらあるんですよ。トホホ。 私どもがやっている勉強会に参加される教員によって、それにストップがかかり始め、 手話の導入もちょっとずつ検討され始めたという学校もあるようですけど。 金澤さんが言われる「聴者によって作られた価値観」の典型的なものではないでしょうか、 キューサインって。 聾児のためによかれと思っているからタチが悪い。 「制度化」してしまっているから疑うことすらしない。 最後に、用語解説を。 サインそのものは「キューサイン」で、 常にそれをつけて話すのを「キュードスピーチ」、 (略してキュード)といいます。 C聾学校からこちらの難聴学級に転校してきた中学生の教育相談を受けているのですが、 「手話は全く聞こえない人が使うもの」 「補聴器と口話でわかる私には必要ない」と、 その子は繰り返し言います(私の判断だと、聴覚口話によるコミュニケーションは全く できていません。人間関係も、学習も、さっぱりという状態です) 親がそう説明してきたからなのですが、親はC聾の教員から、そういう説明を受けて いるんですよ。先週、その子の母親にこれまで述べてきたような話をしたのですが、 目をまんまるくして「騙された、許せない!」とおっしゃいました。 いろいろ話したいということで、来週も来られます。 ========================================= いけとう かずひろ hatsuko@do.enjoy.ne.jp =========================================