○「お月さま」

ある、聞こえない子をもったお母さんの話です。 そのお母さんは、子供とお話を何とかしてしたいという思いから、聾学校の幼児相談で進める聴覚口話を否定し 手話でお話をしようとしたそうです。 その子が3才のある日、家のベランダから、きれいなお月様が見えていました。 当然お母さんは、色んな話し掛けをしました。 「お月さま、きれいだね。 お月さま、丸くなったり、細くなったりするね」 等々、 その時、その子が、「お月さまはたくさんのお服をもっているのかな?」と答えたそうです。 (会話は当然手話です)

その、話を聞いたとき、我が家は“しょうちゃん”が3才のとき、いったい何をしていたのだろう。 とても、悔しい、寂しい思いでした。 同じ場面があったとして、子供が月に興味を示しているならば これぞチャンスと思い、話しことばを入れようとして「月」とか「きれい」を連呼し 発音させようとしていたような気がします。 その時、“しょうちゃん”はきっと子供らしい純粋な気持ちで色んな発想をし 多くの思いを巡らせていたのかもしれないのに。 それを踏みにじったのは、他ならない私達、親だったように思います。

このようなやり方は「母親法」でも禁止しています。 それは十分理解しているつもりですが、発語がない、ことばかけにも反応を示さない子供を前に 必死になっている親に、あらゆる方法を使ってイメージを膨らませ、音声言語を入れていくことが出来たでしょうか? 我が家は無理でした・・・・・
今、思うとそこには心に余裕の無かった私達がいました。
理屈では解っていても、実際に実行出来ない私達がいました。
日本語獲得の目標を目指すあまり、3才の時にすべき大切なことをボロボロと忘れて来た私達がいました。

こんな自分を気付かせてくれたのは、手話でした。“しょうちゃん”が5才の時「バイリンガル教育」を知り 手話を取り入れました。 その途端、
自分から声を出し始めました。
いくら発音訓練をしても中々しゃべらなかった子が。
獲得語彙数が一気に増えました。
いくら教えても理解しなかったことばが。
手話なんてそんなに使っていないのに。 なぜなのでしょう? 簡単なことでした、お母さんの肩の力が抜けたからです。 「聞こえなくてもいい。話せなくてもいい。“しょうちゃん”には手話がある。」 これだけでした。
今、私達の手話は下手です。“しょうちゃん”も下手です。 でもその中で、少しづつ楽しい会話をしています。 少しづつ、会話が深まるのを感じています。きっと、聴覚口話にだけこだわっていたら こんなにはならなかったでしょう。

聞こえなくても、3才なら3才の素直な気持ちを伝える手段、お母さんと楽しくお話できる手段 それが必要ではないでしょうか? それが、やはり手話であったように思っています。

聴覚口話法を否定はしません。 聴覚を利用できるのであれば、日本語獲得のため大いに使うべきです。 現実、手話から日本語の読み書きへの教育法は開発途上にあるのですから。 しかし、聞く事、話す事、のみを与えるのは止めて下さい。 手話も与えて下さい。 少なくとも、手話を否定することだけはしないで下さい。


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