○ 聞こえない子供にとっての「ことば」とは

聞こえない子供と“ことば”の関係を図によって説明してみます。 聞こえない子、特に聴力の悪い子ほど、手話に近い位置にいます。 そして当然、音声日本語からは遠くなります。今のほとんどの教育は これら総ての子供を音声日本語の方へ引っ張って行きます。 そのすぐ後ろに書記日本語があるからです。 しかし、この道はあまりに険しく、遠いため、多くの子供が目的地へ到着する以前に力尽きてしまいます。 そこで、まず近くにある手話へ持って行き、それを使って書記日本語を習得させるのがバイリンガル教育です。
聴覚口話の道で、つまずいたりして時間がかかった場合はどうなるのでしょう? それが、今まで そして 今の 多くの聞こえない子に当てはまるのではないでしょうか? 聞こえる子は、幼児期に言語(音声日本語)の基本は身に付けます。 その“ことば”を用いて、学習し、社会性を身に付けるのです。 それに対し聞こえない子は、同時期に音声日本語を身に付けるるめに その時間の大半を費やしたとしても多くの子には まだ足りません。 そして就学期になり、学力や、社会性を学ばなければならないのに、その時 最も必要な“ことば”をまだ持っていないのです。
この現実を“ことば”と言うキーワードを使って、“しつけ”と“学力”について説明してみます。

聴覚口話とバイリンガル教育の比較図

<“しつけ”について>

よく、聞こえない子(大人も含め)は常識が無い、と聞く事があります。 私も確かにその傾向は、あると思います。 では、なぜそうなったのでしょう。

子供が4〜5才くらいになると段々“我慢”が出来るようになります。 それは“しつけ”の結果出来てくるものです。 ただ、我慢するためには、自分のした何がいけないのか? なぜ、それをしてはいけないのか? などの理由を納得しなければ、中々出来るものではありません。

聞こえる子の場合、3才くらいで言語の基礎は身に付きますから(図では音声日本語の位置)悪い事をした時 分かりやすくことばで説明すれば、何となく理解し、我慢しようかな? という気持ちが出てきます。 その繰り返しで、段々と我慢ができ、しつけが完成してきます。

では、聞こえない子の場合はどうでしょう。 この時期、ほとんどの子が音声日本語への道の途中です。 その子に対して、音声のみで説明していませんか? 音声で叱っていませんか? はたして、子供は、その理由を理解出来ているのでしょうか? 努力する親ならば、子供が理解出来るように工夫を凝らし、何とか納得させるかもしれません。 しかし、段々成長すると、ことばを使わない限り、その理由を理解出来ない事が増えてきます。 この時、聞こえない子は、そのことばを理解できているでしょうか? 理解しないまま、皆から怒られるので恐怖のためその場は何とか、自分の行動を中止し、しのぎますが 理由を理解してないのですから、また同じ事を繰り返すのではないでしょうか?

“しつけ”などは、その年齢のその時期にして置かないと大きくなってから難しいものです。 音声日本語にこだわるあまり、その部分が抜け落ちている子が沢山いるような気がします。 3才なら3才の子と会話できる“ことば”が必要ではないでしょうか? 聞こえない子にとってそれは何なのか、考えてください。

<“学力”について>

ここで、“ことば”と言うものをもう一度考えてみて下さい。人として生きて行く上で「ことば」が 重要であるとは誰もが認めます。 それも、自由に使える「ことば」が必要なのです。それを使って人は、考え、学力を付けて行くのです。

もし、あなたが重要な問題に直面したならば、真剣にその解決策を考えるはずです。 その時、頭の中はどうなっていますか? 真剣に日本語をしゃべりながら考え込んでいる、あなたがいるはずです。 もしその時「日本語で考えるな、英語で考えろ!」と言われたらどうしますか? まったく使えなくはないが、自由にならない英語で真剣に考えられますか? 英語に堪能な人は別ですが、むつかしいはずです。 きっと考える事を、途中でやめてしまうのではないでしょうか? 考えたとしても、浅い考えに終わってしまうのではないでしょうか? もし、運良く考える事ができ答えが出たとします。 それを覚えて置かなければ何もなりません。 これもまた英語で記憶できますか?

この事がそっくりそのまま、現状の聴覚口話法によって十分な言語力が得られていない子供達にあてはまります。 幼稚部から頑張ってはいますが、日本語の力はまだまだです。 それで小学部に入り、授業は丁寧に教えてくれるのですが、考える道具のことばが不完全ですから十分に考えられません。 そこで、さらに説明するのですが、使うことばは十分に理解できない日本語です。 ここで、絵や模型さらに実物を使って見せると、なんとなく解ってきます。 しかしここで理解しかけた知識を頭の中に覚え込む"ことば"を持っていないのです。 結果授業で理解しかけた知識も覚えて置く事が出来ず、次回の授業で質問されても きれいに頭の中から抜け落ちてしまっているのです。

ですから、もし幼児期に手話を身につけていれば、小学校からの教科学習でも、手話を使って説明すると 子供は頭の中で手話を使って考えます。 もし、それで解らなければ手話で先生に質問し、先生が手話で答えてくれる。すべて、獲得したことば “手話”ですから、 聞こえる人の日本語と同じ感覚で知識を吸収 出来るはずです。

ただし教科書は日本語で書いてありますので、先生がまず、書いている日本語を手話で説明する必要があります。 そして、その意味が手話により理解出来れば、それに対応した日本語の文章を覚えて行けばいいのです。 ちょうど、我々が英語を勉強したように。 これが、バイリンガル教育なのです。

聾学校の中学部、高等部位になると、学校では教えなくても友達同士のコミュニケーションにより手話を段々と 獲得していきます。 多くの聾学校では、その頃から授業も手話なくしては成立しなくなりますから、先生も手話で授業を進めたりします。 けれど、ここで説明した状況ですから小学部での知識が欠落しているのです。その上にいくら中学部の知識を 積み上げようとしても土台のない所に家を造る様なもので、ひと風吹けば崩れ去ってしまうのです。 これが聾学校の現状ではないでしょうか。 ですから聞こえない子供に、いかに早くから自由に使えることば“手話”を 与えるかが大切になってくるのです。 聞こえない子供の「ことば」はやはり“手話”なのです。

では、インテした子の“ことば”はどうなるのでしょう。 その子の周りには普通、手話はありません。 特に、音声日本語の長い道のりの途中で挫折すれば、どうなるのか? その子はひとつの言語も獲得していないセミ・リンガルとなってしまうのです。この子達が先に書いた 「サイレント・マジョリティー」です。子供をインテさせようと考えている親はこの危険性を十分認識して下さい。

<聴覚活用の得意な子は?>


また、「うちの子は、聴覚活用が得意だから、手話なんて必要ない」とか「手話は必要な時に憶えれば良い」 などと言う話しを聞くことがあります。 本当にそうなのでしょうか? インテし、周りからは成功したように見られている成人した人の話を聞くと そんなことは言えないように思われます。

「子供の頃、聞こえる人の中で苦労して、日本語を憶えた。 その上、成人してから(言語獲得期後)に手話を獲得する為、また同じ苦労をすることになった。 そして、手話を憶えた時、初めて今までの自分に社会性が無かったことに気付いた。 それまでの自分は聴者の中にいて、入ってくる情報と言うと数少ない私のことばを理解してくれる友達だけであり あまりに情報が不足していたからだ。」

「手話は確かに使えるようになったがネイティブの(日本)手話にはなれない。 だから、本来自分の仲間であるろう者の世界へも入って行こうにも違和感がある。 かと言って、聴者の世界では自分はやはりよそ者であり、自分の居るべき場所が何処にも無い。」

「大人になって手話を憶えたとき、この世の中はなんて楽なんだろう、と思った。 いかに それまでの自分が緊張の連続だったのかに気付いた。」

聞こえる人の中で生活する聞こえない子は、どうしても緊張の連続になってしまいます。 そこで、精神的破綻を起こす場合が少なくないようです。 その時は、問題が無いように見えても、心の傷となって残ることが多いようです。ですからどこかで その緊張を解きほぐす場所と仲間が必要です。 また、大きくなってからの言語獲得が困難なのは、みなさんも英語の勉強で十分承知していると思います。 ですから、たとえインテしても、同じ聞こえない仲間との付き合いを続けることは大切ですし その子の将来像となる様な大人の聞こえない人を常に見ることができる環境も必要ではないでしょうか? あなたの子が大人になった時、壁にぶつかる事が多々あるでしょう。 その時、リラックスして話し合える、友が必要になるでしょう。 それは、やはり、同じ聞こえない仲間であり、手話を使ったコミュニケーションになるのです。 その為にも、手話が必要なのです。

聞こえない子をもった親として、大切な事は、親自身の “障害の受容” ではないでしょうか? 親が「聞こえないことは悪いことだ。」と思っている限り自分の子は “悪”になってしまいます。 聞こえる親は、きっと聞こえない子の本心は理解できないと思います。 けど、成人した聞こえない人の話しを多く聞き、自分の子の将来像として 出来るだけ聞こえない人の視点に立って欲しいと思います。 親なんですから。


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