○ まず勉強しましょう。“聴覚障害児教育の歴史”

どんな所でも、こんな事を最初に教えてくれる学校は無いと思います。 でも、私は今考えると、最初に勉強すべき事だった様な気がします。 ここでは、大まかな歴史を説明しますが、本当は下記の本を読む事をお勧めします。

「わが指のオーケストラ」   山本おさむ 著   秋田書店

これは、マンガですが、実によく、聴覚障害児教育の流れを描いています。 話は戦前が中心ですが、現在に通じるものが沢山あります。 また、かなりショッキングですので、初心者のお母さんには無理かもしれません。 “かかさん”は今でも、直視出来ないと言っています。でも、何かのチャンスに必ず読んで下さい。


<ろう学校の始り>

明治11年、京都盲亞院と言う学校が設立されました。 それまで、教育とほとんど無縁だった 盲者と聾者を集めての教育機関です。 聾者はそれまで手まねのようなもの(ホームサインと言って、その人の周りにしか通じないような手話) を使っていましたが、聾者が一個所に集められた事により、聾者同士のコミュニケーションが始まり 先生方の援助により「手話」が段々出来上がって来ました。

そこでは、まず手話により、世の中に「ことば」が存在する事を子供に教えたのです。 その、手話により、コミュニケーションが出来る様になると、それに対応した文字を教え、読み書きを学んで行きました。 ただし、当時の教育状態ですから、年齢がかなり上がってから聾学校に通い出す子供(ほとんど大人の様な人も含む) もいましたので、その子が自立できる様に、職業訓練が中心にならざるを得ませんでした。 それが現在の聾学校高等部に残る、理容や服飾、木工などですね。


<口話法の登場>

手話による教育が昭和の始め頃まで続くのですが、当時の時代背景として例え、読み書きがちゃんと出来る卒業生を就職させようとしても、雇い主は、ろう者への偏見や、筆談でしかコミュニケーションが取れないような人を中々雇用しようとはしなかったようです。

そんな時代背景を受けて、聾学校の先生の中で、この子達をどうにか出来ないか。 喉に障害は無いはずだから、しゃべらせる事により社会に受け入れられる生徒を育てられないだろうか? と考えた先生がいました。 当時、欧米では、話している人の唇を見る事により、話し言葉を読み取り その口形をまねして、本人にも声を出させる、視話法の研究が盛んでした。 その手法を日本にも取り入れようとしたのです。 これが現在の口話法の始りです。

時を同じくして、西川吉之助の子供、はま子が生まれます。 この子は聴覚障害児で、それを嘆いた吉之助は、海外の文献を取り寄せ (英語、独語は原文のまま読める語学力があったそうです) 勉強し、裕福だった事もあり家業は他の人に任せ、本人は、はま子の専任教師となったのです。 その結果、はま子は口話法をマスターし、唇を見る事により相手の話す内容を読み取り かなり正確にしゃべる事が出来たようです。 この親子が全国を講演してまわり、ラジオに出演し、「聾者がしゃべる」とセンセーションを巻き起こしました。
これ以前にも、中途失調者や、軽い難聴者対象に口話法は存在していましたが、これらの事が重なり 昭和の始め聾学校は一気に口話法が普及して行きました。

そんな中、全国でただ一校、「口話法により効果のある生徒は全体の2〜3割しかいない その他の子供には、手話による教育が必要である」と主張した学校がありました。 大阪市立聾学校、高橋潔校長です。 今の聾学校で良く聞くセリフではありませんか? “それぞれの子供に合った教育”。 それを勧めたのですが、聞き入れてはもらえず 大阪市立聾学校以外、ほとんどの聾学校が口話のみによる教育となったのです。 時代背景から考えると仕方の無い事かもしれません。 世界を見ても同じ様な流れになっています。


<手話の禁止 と 口話法の結果>

口話法の普及により、今までの手話による教育は口話の妨げになるとしてほとんどの聾学校で禁止となりました。 手話を使うと目が手の方に行き、集中して口を見なくなる事を懸念しての処置の様です。 聞こえない人にとっては、自由にコミュニケーション手段が目の前にありながら 使わせてもらえないと言う思いが強かったようです。 では、その口話法の結果どうなったのか? 手話が無くなり、聞こえない人がみんなしゃべる様になったのか? みんな、日本語の読み書きが出来る様になったのか? 否、否、です。 聞こえない人はみんな、禁止され、教えられなかった手話で会話しています。 その上、日本語の読み書きの不自由な人も沢山います。 高橋 潔 校長の主張通り、その効果の恩恵に預かる子供は、ほんのわずかしかいなかったのです。

戦後、その打開策のひとつとして、聴覚を活用する補聴器を使った聴覚口話法が出てきました。 聾学校の片隅にほこりをかぶってまだ残っているかもしれません。 当時の器械は大きく固定され、ヘッドフォンを使って、授業のみで使っていました。 効果のほどは??? 想像できるでしょう。


<母親法の登場>

そんな状況の中、昭和40年頃、トランジスタの普及により、個人が使える補聴器が、出来てきました。 これを、用いて聴覚を最大限に活用し、音声日本語を獲得する現在の聴覚口話法が出てきました。

ここでさらにすぐれた手法が行われました「母親法」です。「母と子の教室」が有名ですね。 簡単に説明すると、今までの聾学校の教育は音声日本語を教えていたのですが、本来 言語は教えるものではなく、小さい頃、母親の話し掛けから育っていくものです。 その獲得ステップに添って、補聴器を付けた聞こえ難い子供に 母親が ことば掛けを丹念に行なうことで、音声日本語を獲得させようとするものです。 そして、この教育の開始時期も、聞こえる子供が言語を獲得するタイミングに合わせようと、早期教育が行われ始めました。 現在多くの聾学校や聴覚障害児通園施設で用いている手法の確立です。

この手法は当初聞こえ難い子供(目安を中度以下60〜70dB)を対象にしていて大きな効果を示しました。 そして、時間とともに、もっと聴力の悪い子にも応用できないかと、適用範囲を広げて行ったのです。


<聾学校の危機>

上記の手法を用いた通園施設も全国に幾つか出来ました。 通園施設では、週1〜2回通い、子供の教育と共に母親の指導も行い、他の日は家庭や普通の幼稚園などで過ごし 少しでも多くの音声日本語の中に子供を置くことで、日本語を獲得しようとしています。 聾学校もこの考えに添って、幼稚部の開始を3才児にしたり、乳幼児相談室を設け0才児からの教育も可能になっています。
この結果、聾学校はどうなったか? 生徒数が激減しているのです。聴覚障害児はただでさえ少ないのに (1000人に1人位と言われています) 生徒がどんどん普通校に行ってしまうのです。 いわゆる「インテグレーション」の増加です。 聴覚口話による早期教育で、それにより音声言語を少しでも獲得した子供は より音声あふれる普通校へ出て行ってしまうのです。


<現状>

これが、現在までの大まかな「聴覚障害児教育」の流れです。
では、ここまで来て、聞こえない子供達は、みんな、
聞こえるようになったのか? 
話せるようになったのか?
日本語の読み書きは出来るようになったのか?
学力はついたのか?
答えは“否”です。 確かに、以前よりは、しゃべれる子や聞く力の付いた子が出てくる様になりましたが やはり、“一部”なのです。 多くの聞こえない子は、話せず、聞こえず、その上、日本語の読み書きが満足に出来ず、学力も低いままです。 これが現実です。 次にそれぞれの問題点を書いてみます。


もどる